◆16:拒絶するイデア

「みんな神社に行っちゃったよ」



 倭たち五人が浅岡家を去った後。秀英は叔母のいる店舗側に気配を気取られないよう足を忍ばせながら家の裏へ回る。


 そこには障子を開け放ち畳の縁に腰を下ろす人影があった。人影はスラックスの裾をまくり上げ水を張った桶に足を浸している。



「気付かれなかった?」



 スイカを食す手を止めて彼は秀英にそっと笑いかける。屈託のない優美な笑顔で、秀英は一時彼があまりに凡庸な顔をしていることを忘れる。神々しさすら感じさせるその笑顔の持ち主は、悪戯を成功させた子どもみたいに「やったね」と両手を挙げた。



「あのさ、あなたは誰なの?」


 秀英は何度目になるか分からない問いを繰り返した。


「うん? 見ての通りだよ」


 対し問われた回数だけ答えている事実を彼は伝える。


“彼”は浅岡秀英と瓜二つの相貌をしていた。


 身長も肉付きも嫌になるような肌の白さや優等生じみたセンターパートの髪型も完全に同じ。どう考えてもドッペルゲンガー以外の何者でもないのに、その居住まいは秀英の持つ臆病さや小心さのカケラも感じさせない。


 秀英と呼ぶわけにも、自分と呼ぶわけにも行かないから、秀英は仕方なしに心の中で彼を”彼”と呼んでいる。”彼”は榎水高校の制服を着て、秀英と同じく長袖のシャツに身を包んでいたが、袖はグルグルと折り返し一年以上太陽に焼かれていないため不自然に白い肌を外気に晒していた。



「僕は、君自身だ。君の願いを叶えるためにこの世界に生を受けた」


「それは何度も聞いたよ」


 頭痛を押さえるようにこめかみをもみほぐし秀英は”彼”の隣に座る。


「そうなのかもしれないね。実際あなたがいてくれたおかげで、僕はやらなくちゃ行けないことを一つすることが出来た。でも、信じがたいよ、僕がふたりいるなんて」


「実際君と僕がいるわけだし」

 何を疑う必要があるのかといった調子で”彼”は言い、

「それにしても君は無茶をするなあ。あそこで手を振り返したら君だとばれてしまうじゃないか。結果的に僕がアリバイ作りをしておいたから救われたんだぞ」


「それは、振り返さないと何となく悪いかなと思ったんだよ」

「駄目だよ。君は誰かから無視されたり拒絶されたりする恐さや辛さを知っているから、他人に対してそういうことが出来ないのは分かるけど、それじゃあ生きていけないよ」

「うん。わかるよ」


 ごしごしとパジャマで覆った二の腕をさすって秀英は理解を示した。


 この下には、前の学校で受けた傷が今も茶色い染みや皮膚の引きつれとなって残っている。だから、自分と“彼”の違いはれっきとしていた。“彼”には過去がない。


「だけど、僕はみんな大好きなんだ。大好きな人を傷付けたくないのは、当然じゃないかな」


「かー!」


 “彼”はおかしくてたまらないというように吹き出し庭に西瓜の種を吐いたが、その目は笑っていない。


「甘いね甘いよ甘過ぎる。胸焼け起こして喉かきむしって死んじゃうレベル。でもまあ、いいよいいよ、君がそう望んでそうしたいって言うなら僕もそう望むよ。うん、今からそう望む。ちょっと誤解をしてたみたいだ、君は誰をも拒絶したくないんじゃなくて、みんなをに受け入れて大切にしたいんだね?」


「強いて言うならその通りだと思う。じっとしていたら、何も変えられないんだ。例え、目の前で起きていることをいけないことだと思っていても、黙って何もしなければ、わからないから」



 転校をした後の春休み。秀英のもとへ、連名でクラスメイトから手紙が来た。


 曰く、何もしてあげられなくてごめんなさい。


 クラス全員の名前が連なった手紙ではなくて、極々一部の、秀英すらあまり気にかけていなかったような目立たないクラスメイト達からの言葉だった。だからこそそこに書かれた言葉は本音に基づいた言葉だと理解出来た。


 手紙を読んで、秀英は大声で泣いた。喉が枯れて鼻水を止めどなく流して頭が割れそうになるくらい泣いた。誰にも咎められないこの裏庭で、ひとり泣いた。叔母の育てている盆栽を力任せにひとつ割って、それでも気が収まらなくて手紙をびりびりに破いて燃やした。春の桜に混じって天高くくゆる煙を追いながら考えた。



 もっと早く、ひとりでも良い、この言葉を届けてくれていたら。

 高校一年の学生生活は何か変わっていたかも知れない。

 もっと、救われていたかも知れない。

 どこにも希望なんて無いと諦めなくてもすんだかも知れない。

 彼らを嫌いにならなくてもすんだかも知れない。

 自分の中に潜む黒い感情に気付かずにすんだかも知れない。


 だけど、それはもう、今となってはわからない。



 叔母は割れた鉢と折れてしまった松を見ても怒らなかった。その代わり謝っても何も言わなかった。許されたのか、呆れられたのか、それとも怒っているのか、何もわからないまま何も言葉を交わさないまま今まで来ている。だから、秀英は叔母をおっかないとは思わないが、少し苦手だ。



「あのさ、気になっていることがあるんだけど。あの雨と土砂崩れはあなたの仕業なの?」


 “彼”がまき散らした種を地面に埋めるのを眺めながら問う。


「ああ、あの土砂崩れから君はよく戻って来れたね。直撃を受けたみたいなのに運が良かったのかなあ。あれは僕の仕業じゃないよ。強いて言えば、君、かな。僕は何となくそういうことが起こりそうだなあと思っては居たけど、その直撃を君が受けたのは、きっと垣内君とかに悟られたくなかったからでしょ。遂行すべき事を問題なく遂行したかったからでしょ」



 そうなのだろうかと秀英は思う。まるで僕が妖術師みたいじゃないか、と。”彼”のために持って来ていた麦茶をふたつのグラスに注ぎ、ひとつを”彼”に渡し、ひとつをごくごくと飲んだ。


 二人は同時にグラスの中の麦茶を空にする。高く昇った太陽が彼らを頭上から照らし、蝉の煩い鳴き声や、通りで不規則に吠える犬の声が微かに届いて、息をするのも苦しいくらいの暑さを助長する。



「まあ、君も一番最初に言っていたけど、現象として、ドッペルゲンガーが一番馴染みやすいかな。医学的に言うなら自己像幻視になるし、一昔前は離魂病なんて言ったね。影の病、影の患い、なんて言って出会うと本人が死んでしまうそうだよ。


 ふふ。


 でも正確な呼び方はどれでも良いよね。さて、僕は君の願いを叶えるためにここに来たのだけど、まったく、君という人は僕が居なくても十分やっていけるじゃないか。おかげさまでこうやって僕はのんびり日和見をしている」


「僕はもう決めたんだ、ちゃんとやるべき事はやるよ。そのための土台も作った」



 ポケットから、母のお古で貰った第一世代のスマートフォンを取りだして秀英は送信済みのメール一覧を呼び出す。宛先が分からず送れなかった相手も多いが、大丈夫だろう。


 一年間両親にすら自分の学校生活を打ち明けられなかった事を思い出す。言えば、落胆されるのではないかと思っていた。自分の息子がまさか学校中で虐げられているだなんて思わないだろうし、知ったらなんて軟弱で情けない息子だろう、こんな息子は産むのではなかっと思われるんじゃないかと思っていた。実際は全然違って、両親とも学校に対して怒ってくれて、秀英の提案という形で出した転校を受け入れてくれた。だから、秀英はここにいる。



「君はするべき事がもうひとつある」



 ”彼”は残念そうに、足を浸していた桶の中に手を突っ込み、銀色に光る物を取り出した。木製の柄が付いたそれは太陽の光を滑らかに反射し、秀英の目を焼く。


「はい」


 差し出されて反射的に受け取る。

 手の平しっとりとに馴染む柄は使い古されて赤の染みたものだが、ずっしりと重たい。

 握りしめると怜悧な刃が光の玉を下から上にはじき飛ばした。



「包丁?」



「そう。君はそれで僕を殺さなくてはならない。君が僕の手助けを不要だというのなら、僕を殺さなくてはならない。本当は自然消滅する物なんだけど、君と僕のどちらが早いかと言うことになる。もし僕に寝首を掻かれたくないのなら殺さないと行けない」


「どうして? 例えあなたが僕自身でも、僕は人を刺し殺したくなんかない」


 秀英は包丁を庭の端に投げて拒絶しようとしたが、”彼”がそれを止めた。腕を掴み自分の胸元に切っ先を当てる。中央からほんの少し秀英の利き手寄り。心臓の上。



「自分ひとり殺せなくてどうして何かが為せる?」

「あなたは誰なの? 過去の僕なの?」

「違う。それは違う」

「じゃあ、誰?」


「僕はね、“君がなりたかった僕“だ」



 言われてみればそうなのかも知れない。彼の笑い方はとても自然で人に好かれる明るい物だし、言動だって秀英より遥かにはきはきしている。そしてずっとずっと聡明で、話してもらわなくてはわからないと駄々をこねる秀英よりも物事をわかっているだろう。



「殺せ。この世界に僕は一人で十分だ。予備を作っておくと、ああじゃなかった、本意じゃなかったと言い訳する羽目になる」



 より強く”彼”が包丁を引いたせいで肌を切ったらしい。白いシャツに真っ赤な血が滲む。動転して包丁を手から放せば、”彼”はそれを拾い上げて、秀英の喉元に突きつけた。



「迷うな。僕は君を乗っ取るぞ。君に成り代わって生きていくぞ。選べ。僕が死ぬか君が死ぬか」

「どうして選ばなくちゃならない。ふたりとも生きればいいじゃないか」



 秀英はわけが分からない。なぜどちらか一方しか生きてはいけないのか。なぜ、自分は殺されようとしているのか。


 包丁が皮膚を割いて、痛みが喉に走る。逃れようとする秀英を”彼”押し倒し組み伏せた。



「選べ。どっちがホンモノか。なあ、君は、君の友人を助けたいんだろ?」


「そうだ」


「じゃあ、僕が助けておいてあげる。僕の方がずっと上手くやれる。君は今回も何も出来なかったと怠けて指をくわえていればいい」



「それは、嫌だ!」


 大きな声が出た。



 自分の声の必死さに驚いて秀英は目を見開く。大声を出したせいで自ら包丁に喉を突き刺す形となり、温い血が溢れ出し首をだらだらと流れ落ちていった。



 それは嫌だ。

 自分の手で助けたい。

 助けなくちゃならない。

 大好きな友だちだから、迷惑を掛けてしまった友だちだから、ちゃんと助けないうちに僕の心が死んでしまうのは嫌だ。



「そして、悩みを聞いてあげたいんだろ?」


「うん」


 生きなくちゃ。死にたくない。


 思うと苦しかった。



 僕は”彼”を殺さなくては生きられない。


 どうしてどうして、誰かを犠牲にしなくちゃ生きていけないんだろう。誰かを踏みにじらなくちゃ生きていけないんだろう。僕はただ、すべての人が幸せに生きられたらそれで満足なのに。


 悔しくて涙が出て来た。

 さっき伊比君たちに打ち明けたときに出て来た涙は過去を思って出した情けない自分への悲しみであったけども、これは怒りが源だった。



「君のせいで傷付けてしまった人たちに謝りたい」



 歯を食いしばり、“彼”の言葉に「うん」と答える。いっぱいいっぱい、たくさんの人を傷付けてしまった。



 だから。


 殺さないといけない。



 無力な自分が悔しい。

 自分に無力さを突きつけてくる“彼”が呪わしい。


 理不尽だ。


 理不尽だ。


 どうして“彼”は理不尽な二択を突きつけてくるのだろうか。



「皆に伝えたいことがある」


 ゆっくりと“彼”は言葉を紡ぐ。



 そうだ。伝えなくちゃ。伝えない内には死ねないんだ。やらないと行けないことがある。だから、生きる。




 生きる。





「あ、ああぁああああぁあ!」



 獣のように喚いてがむしゃらに“彼”を押しのけた。包丁を奪い、ここが正解ですよとマーキングされたみたいに鮮血の広がる胸に包丁を突き立てた。


「ごめん、ごめん、ごめん、ごめん」


 謝っても何の意味もないけれど、それはわかっていたけれど、秀英は謝らずには居られない。そうでもしないと自分が酷く利己的な存在に思えてしまう。自分を虐げた奴らと同じに思えてしまう。結果は一緒なのに、口先だけで変えられるのではないかと三文字の呪文を一心に唱える。


「それから何より、この事件を解決したい」


「ごめん、ごめん、ごめん、ごめん」


「贅沢だな、君は。僕は君の肩代わりをして、全てをして上げることが出来るけど、君は自分の手で全てをやりたいんだよね。強いよ。君は、強くなった。強くなるためには、自分を信じることが大事なんだ。自分を信じて、自分を肯定して、君が世界のマスターになった時、君は最強になれる。だろ?」


「わからないよ」


「君は僕より君を肯定しさえすればいい。そしてその選択を一生背負っていくんだ」



 にや。



 “彼”は笑った。


 それは“彼”の優しさだと秀英は感じた。


 記憶のある、見慣れた、大嫌いな、鏡に映った、秀英の、他者へこびへつらい自身を自身で蔑む笑顔。誰よりも情けない自分を否定し、自分自身に落胆していたのは秀英本人だった。



 鏡に八つ当たりをしたときのように、秀英はそれを破壊した。


 包丁で何度も何度も刺した。



「君はもうすぐ世界を作り替えることに成功する。最後に大事な事を確認しよう。事件を解決する方法は、謎を解くだけじゃない、××を、」


 包丁が“彼”の口を潰した。


 同時に“彼”は絶命し、秀英は刺殺を止めた。


 返り血でぬめぬめと赤ずむ手から包丁が落ちる。太陽が血斑の秀英を明るく照らしている。彼は全てを背負い絶望を知った目を上げた。





「君の分もちゃんと、生きるから」


 庭には膝立ちで呆然とする秀英だけが残される。

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