7/22(金)

◆15:2-Bの転校生

 20××年7月22日(金)



 鷹来は暑さにやられてすでに意識を放逐気味の班員に喝を入れるため両手で柏手を打った。


「へばってんじゃねーぞーしまってくぞー」


「もっと声出せー」

 倭は両手でメガホンを作って適当に野次を返す。


「皆さん、一日始まったばかりでこのテンションはよろしくありません」


 そういう鷹来自身暑さでさっきからガブガブとお茶を飲み続けている。


 もちろん現役高校生の体力が何もしないうちから暑さで一網打尽にされるなどということはなく、ただ勉学と暑さの相乗攻撃にげんなりしているだけだ。


 夏休み最初の土曜、駅前、朝というTPOもあり、大声で騒ぐのはマナー違反であるだろうし、音量控えめになってしまうのも仕方がない。ただ、倭だけは相変わらず夢見が悪く寝不足で、頭上から突き刺す焼きごてのような日光に足下がふらついていた。前坂に寄りかかってめまいを誤魔化す。


「ほお、倭きゅん、今日は懐きモードですね。オレじゃなくてもっと他にいるんじゃない?」

「その呼び方寒気がするんだけど。お前骨っぽくてもたれ心地悪いんだけど」

「どうしたの? また具合悪いの倭きゅん? 悩みがあるならいつでもきくぞ、ホラホラ」

「ぎええやめろそれ、鳥肌たった」

「うーん、失敗」

「おはよう」


 小声で二人の間を割るように背後からスナオが現れた。起床後から今までグロッキー気味だった倭は、その声が石清水か酔い覚ましニスキャップのように体調を回復させてみせた。スナオによる軽蔑の視線が痛い。彼女の到着と同時、駅の時計が十二の位置に長針を受け止め、鐘を模したオルゴールが鳴り響く。


「おっはよう! 近原さん来てくれたー。ありがたや」


 もしかしたら来ないのではないかと最悪の想定もしていたと言う鷹来が本心から感謝の言葉を発したのに対し、スナオは不思議そうに彼を見つめ返した。


「だって、来なくちゃいけないんでしょ?」


 その物言いに数メートル離れた位置から亜樹が犬のように歯をむき出して抗議したが、スナオは気付かないのかあえてか、やや不思議そうに小首を傾げた真顔のまま小声で鷹来の服装に駄目出しをした。

 曰く「足を出すな」。

 聞こえる距離にいたのは倭だけで、スナオの徹底した裏表性格を素直に恐ろしいと頭痛を覚える。そばにいるだけでしち面倒くさい。


 知らぬ間に駄目出しを受けた鷹来は今日、セルフレームの眼鏡に、どこぞの山道かサイクリングロードにでもいそうな服装をしていた。口が広いタートルネックのビビッドイエローシャツに、膝丈のパンツ。やや筋肉質で細身な長身が強調されているものの、似合ってはいる。と思う。



「はいじゃあ、点呼! いち!」


 ぐい、と眼鏡ポジションを正し鷹来は右手を高々と上げた。



 点呼に答えたのは一から五までの数字。集まった面子は伊比倭、前坂鷹来、入川舞夏、小寺亜紀、近原スナオ。浅岡秀英は体調不良でこの夏空の下を歩くのは自粛することにしたらしいと鷹来が伝達する。



 倭は腕を組み、改めてメンバーを見渡した。今日は皆制服ではなく私服だから眺めが新鮮だ。自分を含め男子が二人ふたり、女子が三人。スナオ、舞夏、亜樹。


 スナオはいつも通り短く切った髪をヘアピンで留めていたが、今日はいつものアメリカピンではなくビーズの飾りがついたカラーピンを付けている。キャミソールにミリタリー風シャツ、クロップドパンツという出で立ちで、露出も色気も控えめだが、小学生っぽい髪型とスッピンに甘さのないファッションだからか、足し引きして年相応の雰囲気がある。彼女が履いているのは運動靴だ。


 舞夏はふんわりとした柔らかな白のブラウスにコバルトブルーのハイウェストスカート。プリーツがやたら細かく、風にあおられる度膨らんでいる。肩からは鞄をふたつ下げている。薄い縦長のトートバッグとチェーンストラップの小ぶりなポシェットだ。木目調にネオンカラーの混じったサンダルから除く足の指には、丁寧にネイルアートまでしている。対して、舞夏のファッションを真似してくるかと思った亜紀はノースリーブのサマーニットにホワイトデニムのタイトスカートで、太めのベルトをウェスト位置に締めていた。野性味のある彫りの深い顔に可愛い系は似合わないことを理解しているのだろう。彼女の私服を期待していなかった倭は少し見直す。


 倭自身は胴回りが大きめの白いシャツに手近にあったデニムとスポーツサンダルという適当な格好だ。夜寝付けないため明け方に寝入ってしまい、ご飯を食べる時間もなかった。背中には黒のリュック。全員筆記用具とノートを運搬しているため鞄が大きい。



「上水八社には一時の約束なんだろ。いくら何でも早過ぎないか」

「早めに集合して、先に出来る事やっとこうぜ。オレまだ全員の連絡先把握してねーしさ。近原さんとか。ねえ、近原さん、ラインやってる?」

「やってない、けど」

「じゃあ、アプリ入れてくれるかな。後電話番号とメルアド、オレ達に教えてもらってオーケイ?」


 こくり、とスナオは頷く。衆目の前では拒否できないらしい。


「ありがとうな。嫌だったら伊比には教えなくて良いからね。はい、じゃあ、各自この辺りのこととかちゃんと調べてきたかー?」


「もちろん、調べてきたよ」

 亜樹がいつもスクールバッグにしているリュックを担ぎ直した。ちらり、とスナオに一瞥をくれる。


「近原さんはどう?」

「あ、あたしは……」


 手ぶらで集合したスナオはあからさまに資料を持っていない。右手はギプスで固定されているから、調べてこいと言うのも酷な話であろう。


「ごめんなさい。忙しくて」

「謝らなくていいけど」


 じろじろとスナオを上から下まで眺め回す。


「頭の具合はどう? 足は大丈夫なの? 怪我でやりづらいことがあったら言ってよ。こっちは近原さんの状態までわかんないんだから。変に我慢したり、我慢しなくても出来ないことそのままにされたりしたら困るからね」

「ありがとう。大丈夫です」


 口をへの字に曲げたまま、気遣う言葉をかける亜紀に、その場にいた全員が驚いて動きを止めた。スナオもいつもの調子で応えたものの衝撃が隠せない様子で、じっと亜樹を見つめている。


「な、なによ。わたしだって怪我人に気遣いくらいするし」


 彼女の態度の軟化に舞夏すら思い当たる節がないらしくそれぞれが互いの関係図を再構築するための奇妙な無言が流れたが、悪いことにはならなさそうだった。




 ◆




 狭い、六畳ほどの部屋に人間が五人押し込められていた。カチカチカチと連続して不気味な音を出す小型のエアコンが必死になって空気を冷し、ファンの唸る音が蝉の音割れしたみたいに耳に痛いほどの鳴き声とユニゾンしている。お茶の甘い香りが人数分配られたシンプルな湯呑からドライアイスのように香り立つ。


「これは、うちにあったものですけど」


 目尻を吊り上げるように髪をひっつめた細面の女性が、折りたたみ机の上に切り分けたスイカの皿を並べる。赤い実に黒い種が散らばり、甘そうな水が水滴となって光っている。


「ごゆっくり」


 旅館の女中のような所作なのに、剣士の居合切りがごとき気迫を感じさせる女性が去ると、部屋の奥、折りたたんだ布団の隣でまだパジャマ姿の浅岡秀英が「来るなら先に言ってくれればよかったのに」と詰めていた息を吐き出した。


 ここは川見不商店街の南端にある、磁器や陶器から琉球ガラスなどを使った和食器を販売している商店の住居部分だ。風情ある、だがしかし構造的に大丈夫なのかと足を踏み入れた者を不安にさせるほど年季が入った木造建築の二階。イグサの飛び出た畳が敷かれた部屋は少々かび臭く、家屋同士の密集地でもあるからか部屋の空気もじめりとして湿度が高い。


「おっ、おいしそうなスイカじゃーん」

 トイレから戻ってきた鷹来が折りたたみ机を見下ろして歓喜の声を出した。


「私たちが持って来たお菓子も出してもらっちゃったよ」

「へぇ。なんか悪いな。なあ、あのおっかないおばさん、秀英のお母さん?」

「おっかないかなあ。頭の後ろで髪を丸めている人? あの人はお母さんのお姉さんだよ。僕だけこっちに越して来たんだ」

「あー。なーる」


 その説明ですべてを理解したのか鷹来はそれ以上掘り下げずに鞄をひっくり返すようにして荷物を広げる。



 調べてきたことを事前に共有してまとめられるだけまとめてしまおう、と提案した彼が会議場所に選んだのは浅岡秀英の家。重厚な時間と同じくらい風雨を吸い込んだ濃く深い色合いのどっしりした木材の門構えにひんやりと整えられた気品あふれる雰囲気の店内とは裏腹に、居住空間は庶民臭くかび臭くひたすら古臭い。入り口の威風堂々としたたたずまいに圧倒された五人は内側の狭さに不服もなくむしろ気安さを感じている。


「僕が引っ越してきたのは、大した理由じゃないよ。うん、隠すつもりもないんだ」


 小柄な秀英が膝を立てて体を丸めると、本当に小さく見えてしまう。視線を切れた畳の目にあわせて、彼は何事か口にしようとした。わなわなと唇が震えて、肺に何かとてつもなく大きな熱が詰まっているように身を絞る。



「いじめられてたんだ。前の学校で」



 吐き出された過去がごとん、と畳の上に落ちた。


 倭は膝元まで転がってきたそれを受け止めることも触れることもなく折りたたみ机に起きそびれた湯飲みの軽さを指でなぞる。



「ごめん。知らなくて」


 話の流れが自分にとって不都合だからか、それともヘビーなものであったら秀英に悪いと配慮したのか、話題を断ち切るように亜樹が発した謝罪は一音一音が硬い。



「いいよ。ううん、僕こそいきなりごめん。でも、いい機会だから。話をさせてもらってもいいかな。違うくて、話さなくちゃ行けないんだ。明らかにして、何か解決するって訳じゃないことも、みんなに重荷を背負わせることになるかも知れないことも分かってる。だけど、そうしなきゃ僕は、いつまでもあったことの正確な重さが分からない。家族はみんな僕に優しいし、前の学校では友達は一人もいなかったから」



 上目遣いに皆を見渡す秀英の瞳は曇りなく透き通っていて、何かを乗り越えたように真っ直ぐだ。倭は居心地の悪い気分になる。


 その話題に興味があるのか無いのか、部屋の隅にいたスナオは彼へ向けて軽く身を乗り出しており、キャラクター上皆のアクションを最後尾で追随する彼女が聞く姿勢を示しているということはつまり倭以外の人間はこの話題に少なからず興味と関心を示しているのだろう。倭自身、己が意識しないうちに居住まいを正していたから、この話題を無かったことにする機会を逸してしまっていた。


 膝にぶつかった硬く重たいいじめという異界の存在を、彼はどう受け止めればよいのか分からない。巨大な鉛玉のようなのに、手にした薄っぺらい茶器よりも脆く不確かなものに感じる。


 それは、倭が誰とでも等しく接することで他者の抱える問題を深く考えず無視し続けてきたからこそ覚える戸惑いと居心地の悪さだと言うことに彼は思い至れない。


 今まで経験したことがない話を聞く恐怖に耐える。倭はスナオに対してさえ、ただの癖がきつい女子として扱い接していたから、いじめという問題に否が応でも向き合うことになったのはこれが初めてだった。予防注射を打たずに育った子どもがいざ病気にかかれば死に瀕するのと同じく、神経質な観点からとらえなおせばいじめの加害者ともされかねない亜紀や舞夏以上に倭はじっとりとした息苦しさを覚えている。



「僕は、前の学校で、あるグループに目を付けられてた、そのグループは校内でもワルで有名な先輩と卒業生と繋がりがあって、みんな触らぬ神にたたり無し、みたいに目線すら合わせようとしなかった。高校に入った最初の日、僕は選び間違えたんだ。そこは――初めての人ばかりがいる教室だった」



 言葉をひとつひとつ選択しながら話す秀英は普段やりなれないことに挑んでいるためか、額から徐々に血の気を失って行く。卒倒しないように荒れた畳を掴む手はもはや蒼白だった。



「そのグループの子に話しかけてしまったんだ。僕は体格も小さいし、言動もとろくさかったから、コントロールしやすいって思われたんだと思う」


 おまけに秀英は適度に図太くて鈍かったから、ナイーブな他の学生よりも遊び甲斐があったのかも知れないと彼は述懐する。


「たとえば、僕の姿を見て嗤うんだ。ちゃんと話しかけてくるし、一緒に遊ぼうと誘っても来る。だけど、それは僕を貶めて蔑んで、どこまで人間としての形を保っておけるかって言うゲームなんだ。穴ぼこにされるジェンガみたいに、僕が僕である理由をスカスカにしていった。毎日登校する朝プライドなんて持ってたら負けだと唱えてた。何か話すとすぐ嗤われたし、おもしろおかしく吹聴されたから、何も言わないでいたんだけど、そうしたら、殴ったり蹴ったりつねったりされて、何か面白いことを言えって、言えないならやれって、誰も何も言わないのに聞こえてくるんだ。もっとそれ以上僕を踏みにじられるのは本当に我慢出来なかったから、」


「もういいよ。今の秀英はそんなことされないだろ?」


 鷹来が耐えられないと言う風に、だけど優しく遮った。秀英は俯いて頭を左右に振るう。彼の目から涙が散り飛ぶのを、倭は微動だにせず観察する。だから、それだからなんだと言うんだと、腹に鈍く溜まる不快感を押し殺していた。それで、そういう不幸話をぶちまけて何がしたいのかと。


 所詮他人の人間がその痛みを背負えるわけもなければ、感じることも出来ない。神妙な顔を作って慰めることは出来るだろう。けれども、吐露された経験や気持ちは整理されないまま聞いた者の主観によって歪められ、都合良く改変される。そして、ああ、他人の不幸を受け入れた背負えた慰安したと自己満足に浸り、大切なリアルを踏みにじる。結局、不十分な共感しかない同情は誰も幸せにはしない。

 そしてきっと、間違いなく倭はそうする。


「だから? だから、浅岡はどうしたんだ? 何かやり返したのか?」


 倭は膝元に重石のようにのさばり頑として動きそうにない鉛玉をそっとすくい上げた。重たくて心が二つにちぎれそうになる。だけれど、この場にいる大多数の人間が話の先を望むのであれば倭は促してしまう。それは空気に異臭が混じっていれば不快でも吸わずにいられないように自然なことだ。


 少なくともさっきからやや前傾した姿勢を崩さないスナオ、まっすぐに秀英と向き合っている舞夏、そして言葉の接ぎ穂を探して口を開け閉じしている秀英本人はこの話題の継続に票を投じている。さっき止めて見せた鷹来でさえも、「ゆっくりな。ゆっくりでも聴くから」と耳を傾けなおした。



「なにもしなかった。とりあえず不愉快そうなつらそうな顔を見せちゃいけないと思って、愛想笑いを浮かべてた。顔の筋肉がひきつって痛くて、どんなに不快なことをされても笑っていなくちゃいけなくて、暴力をふるわれることよりも嫌だった。鏡の前で笑い方の練習をしたりして。どうしても上手く笑えなくて苛々して他の人はちゃんと出来るのに僕は本当にクズだなと思えてどうしようもなくて、八つ当たりで鏡をマジックで真っ黒に塗りつぶしたりして、気づいたときには教室の窓ガラスを割ってて、それで、ああ、もう限界なんだなって気付いたんだ。高校二年生になったのを機会に、こっちに転校することにした。特に助けてくれる友達もいなかったし、つらいだけのところにいるのは生きるのに良くないと思ったから」



 ずっとうつむいていた秀英は、意を決したように顔を上げた。


 目が充血して真っ赤で、泣かないよう喰いしばった口は波打っていて、しわの寄った鼻はひしゃげている。


 彼はその場にいるクラスメイトへ一人ひとり焦点を合わせていった。

 倭の位置でその目線が止まった時、倭は全身に突き刺さるような、責める気配を感じた。それはむき出しで無防備な感情で、倭の後ろめたくどこか冷めて他人事のように感じているずるく甘く弱い部分を敏感につきとめ断罪してさえいる。


 ややあって、彼は安心したように肩の力を抜いて顔面を弛緩させた。それは極めてシンプルな言葉で形容するなら笑顔と呼べるもので、腹部をさらして転がる猫のように柔らかい。



「思い出したんだ。笑うって無理やりする事じゃなくて、楽しくて笑ってしまうとか、嬉しくて笑ってしまうとか、勝手にでてくるものだってこと、笑わないでいるより笑ったほうがずっと楽な時があるってこと。無理やり笑うことがどれだけ不自然だったかってこと。僕は自分自身が大嫌いだった。大嫌いだったから、ちゃんと笑えなかったんだと思う。引っ越してよかったと思ってる。前の学校ではみんなが敵みたいな感じで、何か言ったらすぐ報告されたから」


「信じてくれたの?」


 恐る恐るといった風に亜樹が尋ね、舞夏もその質問を頷きで支持する。


「うん。ごめんね。まだ話していないことがあるけど、それは勇気が出たら近いうちに必ず言うから」


「無理しなくていいよ」

 舞夏の言い方はまるであやすようだった。

「でも、話したいことがあったら遠慮せず必ず言ってね。言ったら変えられることってきっとあるから、諦めないでよ。待ってるから」


「ごめん。ありがとう」


 舞夏の言葉には過剰なところがあった。皆で資料とノートを広げながら思う。何も持たずに来たスナオは秀英に筆記用具を借りていた。倭は感じた違和について思い返す。秀英に対してだけ向けられた言葉だとしたら、彼女にしてはやや世話焼きな台詞にも感じられる。そもそも重たい過去を告白してくれたばかりの相手に、話すことを諦めるなとたたみかけること自体論理がおかしいのではないか。


 こうして引っかかってしまうのは、彼自身誰かに打ち明けること、話すことを恐れている事柄があるからだ。秀英と立場は全く違うが、何かを誰にも言えず抱え込んでいると言うことは同じだった。しかしそれは強固な意志でもって封じ込め、なだめ続けている、例えるならば殺人罪のような、世に知られたら身の破滅を招く秘密。石牢に入れ強固に何重もの扉でふさいで隠したのに、連続する奇妙な出来事が、まるで墓を暴くように掘り起こそうとしていた。


 舞夏と倭の関係は既に周知のものとなっているらしく、自然と隣同士に座ることになった。特別くっついてきたりカップルらしいアクションを求めたりはしてこなかったが、倭は彼女をいつも以上に大切に丁寧に扱うよう心を砕いた。舞夏に対して友情以上の愛情を持ち合わせていないとしても、彼女の気持ちを一旦受け止めてしまったならばするべき事はしようと決めている。彼女は今、真剣な面持ちで和食器屋浅岡の生い立ちを記した和紙をめくっていた。


 諦めないでよ。


 助けを求めるような舞夏の声が耳から離れない。考えるのはよそう、何かを疑うことは、秀英の言う通り生きづらさを生む。そう思考に収拾を付け、首を回して凝りをほぐす。


「ここ、明治初期までは油問屋だったんだって」

「そうなの?」


 首を回す動きを延長して、持ち寄った資料、和綴じで製本された本墨で書かれた文字覗き込んだが、のたくったような文字でにわかに内容を把握するのは難しい。


「明治になってから油が石油になって、照明がランプになって、一気に油の需要が減ったんだって。でも懇意にして下さっているお客様の中に油皿をすごくこだわりを持って揃えている人がいて、その油皿の良さやエピソードについて、油を売りに行くたびに語られてたらしいの。その話は毎回長いから必ず一時は余裕を見ておくようにって書かれてるんだけど、ちょっと面白いよね。


 その油皿の話を聞いているときに、文明開化で皆新しいもの、新しい習慣を求めているから、じゃあ、庶民でも楽しんで使える手頃な食器を売ったらどうだろうって思いついて、店舗の隅に少しだけ並べてみた所それが大ヒットしてそれから食器の扱いがだんだん増えて行ったって言う流れらしいよ。だから今でも取り扱ってる食器は日常使いできるものを意識した商品が多いみたい」


 この解読が面倒くさそうな文献はどうやら顧客管理帳のような物らしきものらしいが、それを彼女はちゃんと読み込んだらしい。舞夏は要所々々、参照箇所を指でなぞりつつ説明してくれた。だがその説明は、倭の脳みそにあるのひだに触れず滑り抜けて行く。


「へえ」


 感心したように相づちを返しながら、倭はもしかしたら、と思った。六代目主人のコメント付き文献を夢中になって読み進める舞夏の一本一本丁寧に作られた睫の奥を覗き込む。


 もしかしたら、「諦めないでよ」と言う言葉は彼女自身に向けた言葉だったのかも知れない。何のために。告白しづらい何かを抱える彼女自身を鼓舞するためだったとしたら。


 たとえば、そう、彼女があの黒板にメッセージを書いた犯人なのだとしたら。


 秀英に見せた優しさが、スナオへの贖罪だったのだとしたら。

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