◆14:始まりの記憶と謎解きランチ
舞夏が指定したのは家電量販店の近くにあるカフェを隣接したブーランジェリー、もとい、伊比君に言わせればパン売り場の奥に喫茶スペースを設けたログハウスのような店だった。
木のぬくもりを活かす橙色の照明が甘いパンのにおいを温めるように膨らます。果物があしらわれたパンが多く並んでいるためか、酸味のある甘酸っぱい香りが鼻孔に絡む。高い天井ではプロペラのようなシーリングファンがくるくると回転していて、飾り物らしき階段が売り場と喫茶スペースを隔てて螺旋を描いていた。
テーブルは小さな二人掛けテーブルと、少人数グループで囲めそうな大きめの切り株タイプのものがあり、椅子の形も落ち着いた赤味の木という共通点以外形がバラバラだ。調和した個性が快い。
店内は昼時を過ぎているにもかかわらず混み合っていて、ふたりは六人掛けテーブルの端に向かい合って席を取る。計算され尽くしたデザイナーズチェアを採用しているのか、見た目のちぐはぐさを裏切って座り心地が良かった。
「ねぇ、去年の台風、覚えてる?」
今ではすっかり晴れて白熱の光を店内に振りまく日光を眩しげに眺めて、舞夏は切り出した。
「台風?」
「うん。九月頃にあった台風。あの後川が暴れたじゃない?」
「ああ、あったな」
それが? と伊比君は表情だけで訊ねる。太陽光を吸った瞳が舞夏を見つめる。
「いびっちダサかったなーって」
「それを今さら持ち出すか?」
決まり悪さを誤魔化すために彼は黒く濁ったアイスコーヒーを口へ運んだ。
「だってそれがいびっちとちゃんと話した最初の時だもん。覚えてるよ」
「まあ、前坂がすごい事んなってたからな。結構インパクトはあった」
舞夏は伊比君の顔が薄く苦笑するのを確かめて、こっそり下唇を噛む。
もっとちゃんと思い出して。
他人事のようなフリをしないで。
そう念じるが、切なる思いはきらめく日差しに遮られて届かない。
去年の台風、二五号が訪れた秋の始め。
西暦にして二〇一五年九月二十八日金曜日。
舞夏は脳内のカレンダーをパラパラと巻き戻して、何度も繰り返し脳内で上映した雨上がりの空を再び投影機に掛ける。
学校から駅までの通学路には一本、幅二十メートル程の川が流れている。強い雨の後になると上流で降った雨で増水した川の表面は低い橋の底ぎりぎりまで達することがあり、当然流れも恐ろしく速い。
大きな台風の後だった。
川の水は今までになく膨れ上がり、橋の上まで溢れて渡る者の足を濡らした。非日常的な姿を見せるミルクコーヒー色の不透明な川。いつもは見晴るかすくらい下方にある水面が、たやすく手の届く距離まで近付き、土砂混じりの水が橋の上にまで及んで所々川の一部として流れていた。
橋の上で川遊びを出来る機会なんて滅多にない。橋の下では上流からの圧力で暴れ狂っており、勢い良く流れる川は危険と分かりつつも、好奇心が危険認識能力を上回る高校生たちの何人かが靴を脱いで水遊びを始める。遊びに熱中してしまい、何かの弾みで手放してしまった女子生徒の靴が橋の外へこぼれ下流へ流された。流された靴の持ち主は小寺亜樹で、流された靴を川に飛び込んで拾ってくれたのが確か、前坂鷹来だ。その時はクラスが違ったからまだ誰とも知らない人だった。
亜樹と舞夏は前坂君に礼を言う。「いいっていいって」と濡れた全身から水を滴らせながら手を降った前坂君が帰って行く先に待っていた男子生徒が伊比君だ。犬のように水を振り払う前坂君に伊比君は「ジャージ、学校に取りに帰る?」と心配げに尋ねていたが思いやりの気持ちよりも濃く顔に表れていたのは苛立ちだった。
片方だけ持ち上がった唇は笑いの形になろうとして奇妙につぶれ、目尻は血管を映して赤い。
声にはわずかながら苛立ちが含まれていて、どうして彼は怒っているのだろうかと舞夏は前坂君を追いかけハンドタオルを差し出しつつ不思議に思った。
「無茶するよな」
「人助け人助け。流れて行っちゃたら、どんなに頑張っても拾えないじゃん。今行かなきゃ。後悔したくないし。ねー」
前坂君の、最後の「ねー」は舞夏たちへ向けたもので、舞夏は助かりました、と礼を言う。
「こいつ、すごいよな。普通、飛び込めねぇよ。悩むより行動の鏡だ」
「きひひ。オレだってなー飛び込み損ねることくらいあるぜ。それで毎日ぐちぐち悩んでるんだからな」
背後から前坂君の首締め攻撃を受けつつ、伊比君は心から感心したように彼を褒め称えて舞夏を見た。その瞳にはうっすらと涙の膜が張っていて、感情の決壊を必死に押さえるように痙攣している。
それを見た瞬間、舞夏の中で何かが弾けた。
恋。違う。
恋じゃない。
恋なんて純粋な物じゃない。
もっと、本能的で扇情的で攻撃的で支配的な欲望だ。
最初、伊比君に出会った時の感想は、なんだか陰気臭い奴。
彼とは高校一年生の時から同じクラスだった。
特別際立って根暗と言うわけではない。根暗度なら浅岡秀英の方が遥かに高いし、他人と馴染めない度で言えば近原スナオに及ぶ者はいない。取り立てて特筆する必要のない普通の男子生徒だ。ふざけて冗談も言うし、友達を思いやることも出来る。けどもなぜか彼の笑い方は歪んでいた。
斜に構えているというのか、一歩引いていると言うのか、本心はその場の空気に納得していないのに、機械的に肯定する捻れた態度がそのまま笑い方として現れているのだと舞夏は思った。気に食わないことを気に食わないと口にせず空気を読む態度は臆病に思えたけども、他の誰も彼の内面までは気にしていないようなのが焦れったくもあり馬鹿らしくもあった。
人は表面に見えることだけを全部と捕らえるくせがある。見えていないことに想像を巡らせれば必ずしもリスクを回避出来るわけでもないのに、想像するだけで処理すべき命題と案件が増えコストパフォーマンスが下がると言うなら、それは負け取引だ。不確定なリスクを行動の選択肢から除外するのは生存本能である。
だから、本心を隠す人間の不自然さに取り立てて切り入ることはない。それを知っているから舞夏はあえて自分を美しく飾るという手段で己を大きく見せる。孔雀ですら美しい羽で自らの力を誇示する。外見に気を配らない人を不愉快に思う。
しかし一年の二学期に入る頃には、陰気臭いと感じた伊比君の笑い方を、彼なりの自分の飾り方ではないのかと思うようになった。
彼は誰に対しても慎重に鏡写しの距離を取るのだ。
例えば、スナオに対して小寺亜樹は不快と嫌悪を露わにする。
前坂君は親しさを施すし、浅岡秀英は少量の共感を持って接する。
しかし、伊比君の場合、そこに個人的な感情は一切見られない。
スナオが伊比君を遠ざけるから彼も同じだけ彼女を遠ざける。
これは、他の誰に対しても距離の多少はあれど定規で計ったみたいにきっちりと同じで、そこには人間らしさと言うものが欠落しているようにも見えた。
その、陰気くさくて他人に心を見せようとしない奴、という評価を覆したのが、台風が川をひっくり返した去年のことだったのだ。
彼の目に滲んだ涙を見た時、初めて伊比君の体温に触れた気がした。それは燃えるように熱くて崩れそうに柔らかくて、けどもしっかり脈動する、本人ですら持て余した劣等感、自分への蔑み、屈辱への羞恥。
違う、初めて触れたのではない。
舞夏は記憶のアルバムをめくった。ひとつだけ、合致するフィルムがあった。そうだ、あの少年は、夏の水泳競技大会の時も同じような顔をしていた。一番にゴールしたはずなのに、その場にいた誰よりも悔しそうに顔を歪めていた。中学生の頃の記憶で、その時は泳いでいたのが伊比君だと言うことすら知らなかったのだけど。
人間らしいところ、あるじゃん。
突然こぼれ落ちてきた伊比君の心の内側へ無造作に手を伸ばし、その先に何があるのかと舞夏は糸をたぐり寄せた。
「泳ぎ上手いの?」
「泳ぐだけなら伊比君の方が上手いよな。止められたのにオレ無茶したわーホント」
ブルブルと身を震わせ水をはじき飛ばす前坂から飛沫をかわすように腕を顔面に掲げ身を離しつつ「止めろ、冷てぇ」と伊比君は叫ぶ。その彼を前坂君は追いかけ回す。
そういうことかと、舞夏は逃げ惑う伊比君の歪んで引きちぎれそうな笑い顔を見つめた。
彼は自分こそが飛び込んで靴を拾うべきだったと感じている。
きっと自分ならもっと上手くできたという自負とともに。
それは自分への過剰な信頼ではなく確信に近いものであっただろう。だからこそ、飛び込めず無力に無能に前坂のすることを眺めるしかなかった自分を責め、悔い、恥じているのだ。
彼が飛び込めなかった理由は何となく想像が付いた。人と距離を合わせて生きる癖のある彼は歩調すら周囲に合わせてしまう。誰かより先に新しいことが出来ない。だから、前坂が飛び込むまで行動を起こせなかったのだろう。
それ以降再び彼の内側に触れることはなかった。片鱗すら伺うことはなかった。彼は相変わらず周囲と同調するための歪んだ仮面を付けていて、それは鋼のように冷たく硬かった。
もう一度触れたいと思ってしまったのは、自然な好奇心だったと思う。近づこうとすれば近づこうとしただけ”近付いて見せる”彼に相変わらず苛立っていたのも事実だ。そんな嘘の付き合いは要らない。
いつの間にか意地になっていた。
気付け、気付け。私の気持ちに気付け。
私の気持ちに本音で応えて。
これは、勝負なのだ。
彼に近づけるのか。
どこまで近づけるのか。
舞夏が折れるか、伊比君が折れるか。
けども全く近づける気配はなかった。
陽炎のように逃げて行く伊比君に痺れを切らした舞夏は奥の手を打った。それが告白だった。
「ねぇ、いびっち」
パンとセットになったサラダをフォークでもてあそびながら舞夏は呼びかける。鮮やかなこっくりとしたグリーンのベビーリーフと甘そうなレタスや何かの苗が重たげなドレッシングと混ざる。
告白したことを後悔はしていない。嘘でも欺瞞でもない。ドロドロと凝ったヘドロじみた興味から時間をかけて少しずつ蒸溜された、唯一透明な感情だ。
希少価値の高いフルーツや宝石を手に入れるような感覚から始まった気持ちだが、だからこそ特別だし、すでに回り始めてしまった恋心はいろいろな事象と愛情の歯車がかっちり絡みあって加速し止まらない。
たぶん、この一件がなければ歯牙にもかけなかっただろうと考えるとお高くとまった己の自分に対する評価の高さや、運命の不思議さで頭が混乱するけども、伊比君にもう一度触れたい、強固な仮面の内側に招かれたいという気持ちが叶えられればきっとすごく幸せなのだということを分かっている。
きっとどれほどうまく化粧が出来たときよりも、どれほど優良な成績をとったときよりも、どれほど周囲から賞賛をもらった時よりも。
もちろん、そのような幸せとは別種のものかもしれないが、彼の心に触れられればこの世に生をもらったことに感謝し生きているという実感を抱けるという確信がある。
舞夏はそれを大げさだとは感じない。誰かを愛し、愛されるとは、心の奥底から相手と接するということで、だからこそ重要で大切なものだと思っている。
「うん?」
舞夏の薦めたクロワッサンではなくチキンの乗った総菜パンをかじっていた伊比君は、口の中身を飲み込んでから答えた。
「何? 前坂かっこよかったよな」
「違うっつー」
舞夏は口を尖らせる。
「私はあの日からね、いびっちが気になったのよ」
伊比君がアイスコーヒーを一気にあおった。
いらだたしげに上下する喉仏を上目遣いで追いつつ、舞夏は夏みかんとピンクグレープフルーツの挟まったクロワッサンをほおばる。
果物の弾ける酸味、ヨーグルトとパン生地に仕込まれた甘さ。嚥下するときに熟したピーチの香りが鼻へ抜ける。
「でも、どこが好きなのかは教えない」
「教えてくれなくていいよ、どうせろくな理由じゃないだろ」
伊比君はどうやら本心から嫌がって話題を解散させるように手を振ったが、ろくな理由でないというのは的を射ていた。確かに彼にとって快い理由にはならないだろう。
「おや? おやおやおや?」
派手に弾ける声がして、ふたりの座るテーブルに誰かがトレーを置いた。クロワッサンオザマンド、ブルーベリーのヨーグルトドリンク、アボガドチキンサラダ。ハイカロリーメニュー。
「高校生のくせに洒落た所で食べてるわねー。おまけに男女カップルで。爆ぜればいいのに」
ズカズカと踏み込む闖入者に舞夏は眉をしかめて見上げた。伊比君もかじりかけたパンを置いてそちらを見る。だが彼は迷惑そうにせず、にや、と独特の笑い方をした。愉快そうな、期待を浴びせかけるような顔だ。舞夏は嫌な顔だなと思い、突然現れたドレッドヘアーの女性へ警戒対象のステッカーを貼った。
「こんにちは、苫田さんもクロワッサン?」
「そうよ、ここに来てクロワッサンがあるのにクロワッサンを食べないなんてありえないわ」
「へえ。そんなに人気なのか?」
「人気人気。ウチでも今度紹介させてもらうのよ」
「苫田さんって何をしてる人なんですか?」
二人の間、誕生日席の位置に座ろうとする彼女の荷物を無理やり預かって、伊比君から離れた位置に座るよう誘導する。店内は混んでいて相席も辞さなければ座る場所がない。端の座りづらそうなスツールに腰を下ろしかけた郁美は広々した椅子に座れると、存外嬉しそうに顔を輝かせて舞夏の隣に座りなおした。
「ありがとう。気が利くのね。やっぱ年寄りには背もたれないとね。ふふ、私に興味を持ってくれて嬉しいじゃない。私はしがない雇われウーマンよ。街頭インタビューしたり、番組の構成会議に参加したり、芸能人に意見されたりしたりされたりね。そうね、足で稼いで商品を拾って回るのがメインかな」
「昼間の番組、パロットってのあるだろ? あれのレポーター」
「それだけじゃないけどね」
「今日も仕事終わったところですか?」
「んなわけないじゃない、お昼ごはんを食べによっただけよ。時間なんてゼロ。ダッシュで食べなきゃ。一緒に行動してた子はまた、牛丼がいいなんて言うから別れちゃったわけ。美味しいけど毎日毎日牛丼は女子力下がるわー」
「そんな肩ボキボキ鳴らしながら言われても、説得力ゼロだって」
舞夏はじりじりとした気持ちで二人の会話を聞いていた。伊比君に知らない女性を紹介されたことよりも彼が苫田という女性に対して薄い壁一枚しか用意していないように感じられたのが不安だった。
「こっち、入川舞夏。俺のクラスメイトで、彼女」
「初めまして、入川さん。私は苫田郁美。入川さんってきれいな子ね。女優のあの子に似てるわ。えーと」
せわしげにブルーベリーのヨーグルトドリンクをあおって郁美は考え、諦めた。
「思い出せない。ここまで来てるんだけどね。黒髪の正統派美少女よ。それで、こんなひねくれた男のどこが良いの?」
もったいない、とその目は語っていて、舞夏は「そうなんですけどね」と”ひねくれた”を肯定されて若干睨む目線を送る伊比君へ向き直った。
さっき彼女と紹介してもらえたことは、たとえ形式的なものだったとしても郁美を前に落ち込んでいただけに嬉しかったし、郁美に伊比君を”ひねくれた”と評価されて何を知っているのかと悔しくもある。
なぜ彼に惚れたかと言われればひねくれているからだし、どこを一番直してほしいかと言えばそのひねくれている部分だった。学生ならまだしも、この先大人になってまでひねくれていられないことを舞夏は本能的に知っている。
「あっ。もしかして彼から告白された?」
「いえ、まさか、そんな」
「ええ、じゃあ、あなたから告白したの。この子にあなたみたいな彼女がいることからしておかしいのに幸せ者過ぎるんじゃない。爆ぜなさい」
喋りながらも器用にクロワッサンを千切り口に詰めて嚥下して行く。唇に引かれたルージュは大方剥げていて、ひとつひとつの動作に明確さがある彼女に唯一ぽつんと残された気の緩みに見えた。
「それで、あの事件はどうなったの? 進展した? 解決した?」
「事件?」
「お宅の学校で起こっている怪事件よ。デキはお粗末だけどネタが美味しそうなやつよね。――ふうん、その顔はまだ継続中ね。悩める少年少女、お友達が犯人だったらどうしよう。ふふふ、さあどうする、気付かないふり、責め立てる、こっそり友だち契約解消しちゃう? うーん、猜疑と保身と友情の物語やいかに」
未使用のフォークをくるりと回して郁美は謳う。ザク、とクレームダマンドを砕き口に含む。
「茶化さないで下さいよー」
舞夏は口元を手で覆い脱力した声音で非難したが、郁美はかまうことなく皿の中身を片づけた。皿の上のドレッシングをかき集めたレタスをきれいに折りたたんで口にしまう。喉から胸、お腹を脈打たせ、ごくりと飲み込むのがわかった。
「あー、おいし。おいしい食生活って大事よね。クロワッサン最高。茶化しているわけじゃないのよ。アオリを考えてみただけ。気を悪くさせたらごめんなさい。どうやらまた何かあったみたいね」
カタン、とフォークを皿の端において彼女は舞夏の瞳を覗き込む。全てを見透かすように真っ直ぐなそれは、対する者の居心地を奪う。
「それであなたは友達、近しい人を疑ってる。でも、信じてあげたい、あるいはそうでなければいいと思ってる。もしそうであるなら守ってあげたい、とも。だから誰かがそれに言及しようとすると怖くなっちゃうのね。疑わしきものは罰せず。解明されない事件ほど関係者にとって甘いものはない、というわけね、フム」
「ちょっと、私はそんな」
「待って」
紙ナプキンを持った手を舞夏のほうに突き出して彼女はさえぎる。
「たまには私にも喋らせてちょうだい。インタビューでも会議でもおとなしく聞き役ばかりよ。発言したとしてもコテンパンにやられるしね。ストレス溜まるったら」
「いつも喋ってるように見えるけどね」
「伊比君、あなたは黙らっしゃい。君はこの事件に対して第三者としてのポジションを貫いているようだけど、彼女を安心させてあげなくちゃいけないわ。私から何かしてあげられることがあるといいけど、現段階では出来そうにないの。代わりに次の謎を教えてちょうだい。力になれるかもしれないわよ」
「うまいこと持って来ますねえ」
と伊比君は片肘をついて口元を歪める。珍しく積極的な態度だ。いや、この苫田郁美という女性がぐいぐいる来るタイプだから、それに対応しているだけ。
「今度はタイトルをつけるなら神隠し、かな。時系列的にはどうだっけ? 入川、結城が登校したのはいつごろかわかる?」
「七時半過ぎ……遅くても四十分までには登校してると思う。それより遅くなるとほかの誰かが先に見てもおかしくないし。近原さんほどじゃないにしても、浅岡君と同じくらい早く登校してる子のはずよ」
「見る? 黒板のメッセージのことかな?」
郁美はめざとく自身がキャッチしていない情報にまつわるキーワードを拾った。
「そうです」
「見せてくれる?」
舞夏はかばんの中からスマートフォンを取り出す。ビーズやシリコンでかたどったアイスクリームが付いたケース。
「これですけど。記念に撮っとこう程度なので、役に立つか」
髪をかき上げつつ覗き込んだ郁美は容赦なく「これは意味不明ね」と評価する。「拡大してもぼやけてるわ」
「君は?」
彼女に望まれて伊比君はスマートフォンを出した。
「どれ。あぁ、これはわかんないわね。ただ今までのものと同一犯って感じはしない。解くにはデータが少なすぎる。黒板だけじゃないでしょ、何かあったでしょ?」
「まあ、そこそこのことが」
「ねねね、教えて教えて」
郁美は子どものように目をきらめかす。それでもぶりっこに見えないのだから、舞夏はずるい大人だと内心で唇を尖らせた。しっかりと年齢を重ねた大人に高校生である自分は、若さと無知以外で太刀打ちできない。
「この前はこんなに大事になると思わなかったんでべらべら話しちゃったんですけど、ここから先詳しく話すなら、ひとつ約束してくれません?」
伊比君は顔の前で右人差し指を立てた。
「何?」
「これに関することは全部他言無用でお願いします」
「ええ。もちろん。もし何かメディアに出すことがあればちゃんと事前に許可を頂くわ」
伊比君は頭を掻いて腕を組む。
「絶対ですか? 本当に本当に先に私たちに確認してくれますか? 確認して頂いても、私は首を振りますよ?」
渋面を作った伊比君の代わりに舞夏が割り込んだ。伊比君の気安い態度に流されてうっかり見せてしまったが、この人はテレビ会社の人なのだ。いつ何時ネタとして流布されるかわかったものではない。もし、実名と共に、いや、伏せられていたとしても、公共電波に乗ったこの事件を耳にすればクラスメイトは大小なりとも傷付く。
「絶対守るわ」
郁美は自分の胸を叩いて誓う。
「自分以外の誰かに話すときは、その前に先ず、あなたたちに連絡を取る。この仕事、情報を取り扱う分、信用が大事なの」
食い入るように彼女はふたりの目を交互に見た。自分は危なくないから胸を貸しなさい、と言わんばかりの笑顔だ。うさんくさくもあったが、少しもぶれない彼女の目線に舞夏も伊比君も根負けしてどちらからともなく顔を見合わせた。伊比君が姿勢を正して上体を前傾させる。
「いまさら待ったと言っても俺が迂闊だったんですよね。あああ。いいですよ、俺は信じます」
「いびっちが信じるなら私も。でも、名刺は下さい」
「もちろん」
にっこり勝利の笑みを浮かべて郁美は名刺を取り出した。舞夏は名刺をトレーの脇に置く。勤め先、電話番号、メールアドレス。最低限の連絡先と個人情報はつかんだ。“話してもいいよ”の合図代わりに、テーブルの下で伊比君のシャツを引っ張る。
「それが神隠しなんですよね」
伊比君が朝からあったことを時系列に沿って説明し始めた。舞夏はそれを補足したり、彼が知らない部分を埋めたりする形で口を挟んでいったが、伊比君が巧妙に黒板の予告が現実となりスナオや秀英に危害が及んだ部分から焦点をぼやかしていることに気付いた。
むしろ、言葉の端にすらにおわせない。
彼の興味がある部分は黒板の予告の意味にあるようで、それにまつわる被害については関心がないようだった。舞夏はその事に安堵すると同時、不安を覚える。彼女には黒板のメッセージが伊比君の死を示唆していたように思えてならない。これは第六感の独りよがりな主張であればまだ気は楽なのに、舞夏の中には確たる論拠がある。彼は山道から消えた浅岡秀英らしき人影の話題は、黒板の予告とは別件として紹介していた。
ふむふむと頷いて聞いていた郁美だったが、話が結びに差し掛かったあたりで腕時計を見た。顔から血の気が引いて、縮まった瞳孔が見開かれた目の中で動揺のダンスを踊り出した。
「ぎゃーヤバイ、後二分で昼休みが終わっちゃう」
「えっ、もうそんな時間が?」
「そうなのよ、ごめんね、私もう行かなきゃ。謎解きをする暇はなさそうね」
「ヒントでいいから何か下さい」
「手がかりくれてもいいんじゃないですか? 道に何か仕掛けてたかもしれないと思うんです。あの通学路使う子結構いるし、もしそうなら、危険だと思います」
「忙しい雇われ人間捕まえて無茶言うわね。はいじゃあ、特別にヒント。ヒントあげるからよく見てなさい」
郁美はテーブルの上を見まわして、「これ借りるわね」とコーヒーを飲み終え解けた氷だけになっている伊比君のグラスを奪い、自分のヨーグルトドリンクをその中へ勢いよく注いだ。
やわい青紫の液体が、小さくなった氷と水を押しのけグラスの底にたまる。
透明な水は混じることなくヨーグルトドリンクを飲み込み上部に膜を張る形となった。
「これよ」
グラスを二人の目の前で小さく回すように振る。集中したふたりの怪訝な目線を浴びて、にっこりと笑いヨーグルトドリンクをあおった。
「水っぽ!」
「それだけじゃ、まったくわからないんですけど」
「高校生なのに? しんじらんない。前時代的どころじゃ済まないわよ。江戸時代とか平安とかそんな感じよ」
「平安と江戸じゃ千年近くタイムラグがあるぞ」
「君たちと私は知識量が違うのかな。ま、妖怪変化や安倍晴明とか軽ーく調べてみたらどうかしら。手がかりになるかもね」
せわしなく言い置いて荷物を肩に担ぎ、「あ」と郁美は記憶のリールを巻いた。
「ねぇ、捜索願いは出してるのよね?」
「捜索願い? 野球部が一応出したらしいけど……つまり、あれはちゃんと実在する人間ってこと?」
彼女は表情をやや深刻な方ににシフトして頷く。
「ええ、そうよ。野球部員の子たちが見間違えたのでなく私の推理が正しければ、妖怪変化でも何でもないわ。それは間違いなく人間よ。でも、捜索願を出してるのね。なら安心、とは言えないのが苦しいけど、これ以上出来ることもないわね。じゃあ、私はこれで失礼するわね。ごゆっくり爆ぜなさい」
捨て台詞を残して空になったトレーを手にし慌ただしげに出て行った。
「遅刻だな」
その背中に向け伊比君はぽつりと呟く。
カラン、と取り残された氷が鳴って、
「ああー!!」
舞夏は叫び声を上げた。
「どうした?」
「あの女、いびっちの飲み残し飲んでった!」
「飲み残し言うな」
「私が紅茶飲みきっておくんだった」
へたりと机に突っ伏す。
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