◆6:ギブミー

 倭が電車から降り地下道をくぐると、上空から嗅ぎ慣れたパン屋の香りとともにギターと大音量の歌声が降ってきた。


 素人によるものとすぐにわかる無加工の肉声。甘く小鳥のように愛らしい声。フレッシュでキュートな曲調は流行りのアイドルグループを彷彿とさせる。だけど、洗練されたプロの歌とは違って、そこにはノイズとも言うべきひたむきさがあった。


 暑苦しい上昇志向だ。


 ラジオやショップのBGMで流れていれば気にも留めず意識を素通りする音が、鼓膜でうるさく震える。



  秘密はとてもビター。

  誰が決めたの?

  甘くとろける快感。

  等価交換、弱さをちょうだい。

  舌を絡めて花園の中、僕は誓った。

  君は僕を幸福にしてくれた。

  守ってあげるね。

  強く笑う君が好きだよ。

  恋する女の子は誰よりも可愛くて無敵。



 かき鳴らされるギター、鼓膜に叩きつけるような歌声、時に予想外の旋律を拾うメロディ。


 あぁ、これは、と倭は考え、空白の思考を経て、上手くないなと結論を出した。


 音楽には詳しくないから、感覚的なものだ。


 ギターの音色は弦と指がただぶつかっているだけのような痛々しさだし、コンポーネントの音量設定はでたらめで音割れだらけだし、歌声は人の耳に心地よく届ける、と言うことにまったく持って気を払っていない。


 自分の声よ届けとばかり、カラオケボックスで自由三昧歌っているかのようだ。音もしょっちゅう外れているのか作曲力がないのか、非常に不安定な気持ちになる。それでも、一刀に下手くそと断じることができなかった理由は、ぐらぐらと聞き苦しいその歌を危ういバランスで支えている歌い手の熱だ。


 聞いている者に楽しんでもらいたいと、前を向いて欲しいと、調子っぱずれに辺りを盛り上げる歌声は願っている。精一杯誰かの幸せを祈り、自分の気持ちを叫んでいる。その熱は、鼓膜からドロドロと入ってきて心臓を素手でかき回す。自分に正直になっていいよと、歌は喚き散らす。


 でも、耳を傾けるまでもないな。


 圧倒的に音がでたらめなのだ。歌詞が良かろうが何が良かろうが、パフォーマンスに集中できなければ意味がない。 倭の評価を裏付けるように、階段を抜けた地上に広がるロータリーには歌い手のために足を止めている者はいなかった。


 この駅の利用客は団塊世代の主婦やサラリーマンが多く、若者は少ない。夕暮れ時とあって、興味本位で付き合えるような暇人もいないのだろう。


 ギターをかき鳴らしているのはピンク髪のツインテールをした少女だった。ファッションは古着なのか一周回って前衛的なのか奇妙なアレンジを効かせた学生服で、カジュアルスタイルが多いストリートミュージシャンとの差別化なのか何なのか、自分は特別なんだ、個性があるんだ、というアピールがうざいくらいうるさい。まるで一人歩行者天国のようなごちゃごちゃした雰囲気を放っている。


 うつむいて熱心にギターを鳴らす横顔になんとなく見覚えがある気がして立ち止まった。


 誰だろうか。


 丸みのある頬、つんと不機嫌そうな唇。倭の気配を察知して、少女がこちらを向く。


 向いたかと思ったら、空気を大きく飲み込んで、ギター片手にズカズカと彼の方へ近寄ってきた。


 さっきまで無我夢中の状態で歌っていた少女が一直線にわき目も振らず近づいてくる。 何が理由かはわからないが、奇人に目を付けられてしまった。異様な状況に倭は思わず逃げ出す。


「ちょっと待って。待ってってば」


 しんと涼やかな声ながら明瞭に耳へ届くのは発声練習の賜物か。


 倭はちらりと一度だけ振り返り、歩く速度を速めた。コスプレ少女なんかにかかわったら面倒くさいに決まっている。気が付けば鬼ごっこのようになっていた。


 冷や汗がだらだら流れた。


 なぜ、この女は俺に近付いてくるのか。何を企んでいるのか。


「俺にピンク髪ツインテールの知り合いはいません!」

「いいから。待ってよ」

「くっそ、こっち来ないでくださいっ近」


 少女はダン、と一歩を踏み込み、自身の跳躍力を駆使して倭の口につかみかかった。何事か叫ぶ少年のSOSを押さえ込み、とりあえず黙らせようと考えたのかニュートン力学に則って増量した体重を肋へ叩きつけ、耳にがぷりと噛み付く。


 野蛮人かこいつは。


 地面に押し倒された倭は黙るどころか意味を成さない断末魔を上げたが、少女は自分の耳に両手をあてがってやり過ごした。


「待ってって言ったのに」

「得体の知れないやつの言うことなんか聞けるわけないだろ!」


 本当は誰だか見当がついていた。見当がついてしまったから関わりたくなかった。


「ふぅん」


 少女は信じていない風に腕を組んであごをつい、と上げた。


 誰だコイツはと心中で怨嗟するも、こんなむちゃくちゃを平気でやってのけるやつは一人しかいない。


 第一さっき至近距離で見たときぞっとするくらいその顔に見覚えがあった。中身に覚えがなかっただけだ。


「近原……」


 絶望的な気分で彼女の正体を口にする。


「この格好のときはその名前で呼ばないで欲しいわね」

「めんどくせぇな」


 ピンクのツインテールの鬘をかぶり、学生服と呼ぶにはレースやエポレットの飾りが多すぎる衣装に身を包んだスナオはいつもに比べて大胆に露出した素足に短い透け素材のソックスを履いている。ローファーだけは学校指定のものだった。


「ついて来て」


 倭の腕を掴み上げ、強引に引きずる。観念した倭が連れて来られたのはコンビニだった。



「この中から好きなの選んでちょうだい。いくつでも良いわよ」


 親指で豪快に示すのはソフトドリンクが並ぶ冷蔵庫だ。


「お昼休み助けてもらったお礼」

「近原、お前案外律儀なんだな」

「ナオ」

「え?」

「源氏名。この格好の時はこう呼んでちょうだい」


 芸名の聞き間違いかととらえた倭は突っ込む事なく質問を重ねる。


「まさかあそこで俺を待ってたのか?」

「うん?」


 スナオは唇をぐりり、とUの字に曲げ、意外としっかり作り込まれたアイメイクの奥に悪戯っぽくきらめく瞳を隠した。にかっと無邪気に笑う。あ、こいつ可愛い、と初めて倭は思う。


「金あんの?」

「お金くらいあるわよ。でなければ貢げないわ。破産してしまう」


 芝居がかった口調。彼女は冷蔵庫を開いて中を物色する。開いた冷蔵庫のガラス戸から流れ出す冷気が倭の腕に絡みついた。


 不穏なものを覚えて、彼は彼女をまじまじと見つめる。砂糖菓子のようなピンク髪の下、うなじの人形じみた白さは体温のない硬いセルロイドだ。ブラウスの襟は今さっきもみあったせいだろう大きく開いていて、首の下、細い肩とどこまでも続く白さを強調している。


「なあ」


 声を押し殺し、倭はスナオを店の外に追いやった。


「彼氏とか、いるのか?」

「ん? 彼氏? いらないよ?」

「じゃあ、ウリ、してるのか?」

「どうして?」


 喉の奥から絞り出して問うた彼を、スナオは挑戦的に睨め上げた。


「襟閉じろ。見えてる」


 背中に肩に、そして正面から見える旨の谷間に、赤い斑が散っている。


 すん、と鼻を鳴らす彼女にキスマークをしまう気配がないので、倭は舌打ちして襟元を正してやった。


「やめろよな」


 無感情に、定型文を言った。他に何を言えばいいのかわからなかった。コイツは頭がおかしい。関わらない方がいい。


「それ、本気で言ってるの? 伊比君に優しさなんてあるの? あなたの目はあたしをいつも、今も、惨めな奴だって見下してるじゃない。そんな傲慢な人間が誰かを思いやれるの?


 凡人はそうやって弱者を作って周囲に上手く同調して、ヘラヘラ笑って、かわいそうぶるけど、結局何もする気がないでしょう。そのくせ、伊比君はあたしから大事なものを奪うのよ」



 唐突で脈絡のない敵意がスナオの顔を燃え上がらせる。叩き付けられた倭の瞳は対照的に何の感情も映さない。


 罵倒をブラックホールのように吸い込んだ闇のような彼の表情を前に、彼女は投げた石の波紋が一輪でも浮かばないかとじっと待った。


 つまらなさそうにまた鼻を鳴らす。それから両腕を背後に引き、勢いよく正面へ持ち上げた。


「ファックユー!」


 両手の中指が天を突く。


「は?」


 古典的で制圧的な感情表現に倭は目を丸くする。


「しねしねしーね! この自分かわいこちゃんが! あんたなんかだいだいだいだいっ嫌い!」


 舌を出し、左目の下瞼を引き下げ、右手は顔の脇でひらひらさせる。典型的なあっかんべえ。ストレートにしても稚拙すぎる。


 そこまでしてかまって欲しいかと、倭は額に手をあてた。


「やってる自分を理解して欲しいってんならどっちの意味でも相手間違ってるぞ」

「そうかもしれないわね。あたしにとって伊比君はどうでも良いし、あなたは正しいもの」

「ま、そう言う行為で得た金で返して欲しくはねぇかな」

「オーケー、オーケイ」


 スナオはだだっ子をあやすように笑って敬礼してみせる。


「あのね、あたしが伊比君を待っていたのはもう一つ理由があるのよ。教室の落書きは、あたしじゃないって言っておきたかったの。一番に登校するからってみんな直接言っては来ないけどあたしを疑ってるわ。


 誤解されることは気にならないけど、あなたの友だちに言っておいて。犯人捜しは慎重にやりなさいって。朝からあたしにまで聞き込みに来てウザかったもの。いつか夜道で襲ってやろうかしら」


 彼女が言うと冗談に聞こえない。


「前坂か? 言っとくよ。俺はお前が犯人だとも考えてないけどな」

「ありがとっ」


 にかっと歯を出し無邪気に笑う。本当は開けっぴろげな性格なのかも知れない。


 一仕事終えたとばかりおじさん臭いため息を長々とついて、キャンディカラーの鬘をかきむしった。まとめたられた毛髪がぐちゃぐちゃと乱れる。


「それだけだから。貸しひとつ、いつか返すわ。さよなら」



 スナオが犯人かどうかは、審議にかける必要はなかった。


 翌日、彼女は学校に来ず、近原は不審者に襲われた、と教師が沈痛な面持ちで伝えた。

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