◆5:花の体温

 バコン。靴を取り出しロッカーを閉じる。暗い闇へ今日の役目を終えた上履きが閉じ込められる。倭はローファーへ足をねじ込んだ。スラックスはもしものためにロッカーへ予備としてしまい込んでいたものに履き替えてある。下足室をくぐり抜けると、もわっと煮立った空気が全身をくるみ、適当にタオルドライした頭が干上がっていく。


 暑さを助長するように誰かが倭の腕にしがみついた。


「一緒に帰ろ!」


 制汗剤の清涼な香りが肺へ抜ける。舞夏だ。

 プールでかなり時間を食っていたから、授業が終わってだいぶ時間が立っている。なぜ、帰るタイミングが一緒になったのだろうとふと思ったが、彼女の皮膚と体温が思考力を奪うほど体に毒だった。


「あっつ。離れろって。俺を熱中症で殺す気か」

「あ、ひっどーい」


 舞夏がわざと作った高い声を上げてむくれると、


「そうだぞ、酷いぞ」と鷹来が倭の背後から覆いかぶさった。「ぎぇ」と倭はうめく。


「入川さんが胸を預けてくれてるんだぞ、離れろとは失礼じゃねーか。ついでにおれを負ぶって帰りたまえ」

「重てぇんだよ、筋肉質ノッポ。背負って歩けるか」

「もう、何言ってんのよ」


 舞夏は鷹来の背中をはたく。


「前坂君を背負うにはいびっちの身長足りないよ」

「俺は平均身長あります」

「どのくらい身長あるの」

「一七三」

「いっちょまえに身長あるじゃん」

「お前に言われても嬉しくねぇんだよ。頭をわちゃわちゃ撫でるな頭を」


 頭を押さえつけられて腕を振り回す倭の背後で舞夏と鷹来は互いの隙を探るように視線をにらみ合わせた。舞夏がぎゅっと倭のシャツを握る。炎天下にもかかわらず彼女の額は透き通って青い。


 そんな彼女を見てまで鷹来は自分の気持ちを先行させようとは思えず、にやっと笑みを顔面に浮かべる。


「じゃ、おれ秀英待ってるから、先に帰るわ。二人でラブラブいちゃいちゃしてろよ」

「おー」

「バイバーイ」


 付き合ってもいないのに失礼なやつだよなあ、と笑ってぼやく倭の隣を歩く舞夏の表情は優れずどこか思いつめたふうがあった。ミンミンと鳴き叫ぶせみの声が、上空で幾層にも重なり無形の圧力となってのしかかっているようにすら感じる。


「ねえ」

「何」

「今朝のあれなんだけど」


 あれ、と言われて倭はすぐには思い出せなかった。一拍おいて、今日は遅刻した、と言いかけて鷹来に見せられた動画の事を思い出す。


「黒板に書かれてたメッセージのこと?」

「うん。誰かが殺されるとか殺すだとかの」

「あれ、マジにとってんの? 誰かのつまんないいたずらだろ」


 倭は今日一日その話題が出る度、無造作に胃壁を撫でさすられるような不快感を覚えていたから、彼女の発言にも否定的に応じた。その態度をどう捉えたのかいっそう不安げに声のトーンを落とす。


「本当にそう思ってる? いびっちじゃないの? 何かごまかしてない?」

「ごまかすって何を」


 胃の内容物が食道にあがってきた気がして、倭は吐き気をこらえた。当たり一体がねとつく死臭に満ちているような気がする。黒い服を着た人型が、何人も倭へ視線を注いでいる。

 哀れみと、好奇と、嘲笑と。倭の命を値踏みしている。あの子に生きる価値はあるのか?


「こういう話題自体悪趣味じゃね。俺は嫌い」


 嫌悪感が先走って、舞夏の腕を振り払っていた。


「悪趣味とか!」


 舞夏はかすれた声で叫んで頭を振る。髪が振り回されて空中に弧を描く。


「違うよ。ぜんぜん悪趣味じゃない。あのメッセージが冗談で書かれたのならすごくむかつくけど、あれを真剣に考えるっておかしなこと?」


 いたずらに対する予想以上に本気な姿に、倭は鼻白む。攻撃的だった語気を抑えて前を向いた。


「そういうのって不謹慎だろ。真剣に考えたこともない俺たちが、あんなメッセージひとつでいきなりまじめに考えられるか? 人の死に直面してその死を実感できるか? 人を殺すとか、自殺するとか、命の近い所にかかわったことすらないだろ。それに、どうして俺なんだよ」


 最後の言葉は搾り出すような苦渋に満ちていたけども、駆け抜けた車のクラクションがかき消した。倭は歩道側に舞夏を押しやる。


「そんな言い方、極端じゃん」

「極端だって、死はそのくらい重要なものだろ」


 しばらく二人は押し黙る。のろのろと道を行く二人を日常的な会話で終始する学生が何組も追い越した。ぼんやりとその背を追う舞夏には偽善や思い込みの悲壮感からとは違う、本物の羨望が混じっていた。


「入川?」

「えっ?」

「どうした? ぼーっとして」

「なんでもない。ごめんねヘンなこと言って。カップル見るとね、考えちゃうの。もしそのまま結構して夫婦になったら、どんなお母さんとお父さんになるんだろうって。そんな風に将来のことを想像することない?」

「将来? ないな?」

「ねね、私、お母さんになるかな?」


 母、と聞いて、倭は歩みを緩め瞼を閉じる。太陽光に厚くねぶられる瞼の裏に、自分の母親が映った。鬼のように目をつり上げ、尖った歯を見せつけるように口を開いて何かを言っている。苫田郁美のせいで芋づる式に、封じていた記憶を掘り起こしてしまった。小学生の頃。倭が母親に好かれ、期待を寄せられていた頃。戻りたくても戻れない時。


 倭は、鬼の形相で自分自身を怒鳴り殴りつけ、涙ながらに彼の身体を傷付けた母親を愛している。


「入川が親か。いいお母さんになるんじゃねぇの」

「そう? 嬉しいな」


 軽くスキップする舞夏の横で、倭は震える心臓を抑え込む。自分の母親意外を想像することができなかった。無理矢理舞夏について考えようとすると、自分を殴る親の顔が舞夏になるだけで、舌の根が痺れて呼吸が苦しくなる。それ以上想像できない。額に浮いた脂汗をシャツの袖で拭って取りつくろう。


「あっ、ねぇ、私の家寄って行かない? どうしても会わせたい人がいるの」


 舞夏がくるりとスカートをひるがえして言った。



 ◆



 舞夏の言う会わせたい人というのは犬だった。小さい頃から飼っている雑種の犬が現在危篤なのだという。


 舞夏の家は倭の家よりさらに郊外へ高校から離れた駅にある縮こまったニュータウンといった風情の住宅地の中にある。周囲の家々からは藤や百日紅、つつじ、銀杏などの植木が青々とした葉を覗かせていた。


 彼女は風雨にさらされて地面に近い方から赤茶けたひびの走る白壁を指す。朝顔のつたがひび割れと溶け合うように壁へ張り付いてた。


「あそこ。セコムの代わりに犬注意ってステッカーが貼ってある家」


 門をくぐると、外見にたがわず小さな家だったが、家人にガーデニング趣味があるのか、L字になった庭は驚くほど青々として喉に張り付く過剰な青臭さで充満している。手入れは行き届いているようだが、ガーデニングのセンスはないらしい。小さな鉢植えや植木が陣取り合うようにぎゅうぎゅうと絡まりあっていて、ゴールデンウィーク最終日の高速道路のようにごみごみとよどんだ臭気を漂わせ、自然の清純な空気からは程遠い。ジャワジャワと姦しいクマゼミの庶民的な暑苦しさが、ふたりの肌に汗の粒を誘う。


 庭の一番奥に舞夏のペットは寝そべっていた。暑さにやられたのかだらりと舌を出し、ツバキの木陰にぐってりと身を埋め身じろぎもしない。雑種らしくとがった耳は力なく半端に垂れ、鼻はやや細長すぎ毛並みも美しくはない。だが、一番の特徴は白濁した瞳だった。それでも主の帰宅を察したのかぱたり、と一度尻尾を振る。


 舞夏は髪を掻き上げその脇にしゃがみこみ、茶色く硬そうな毛並みをした犬の腰あたりをぐるぐると撫でる。


「この子ね、糖尿病なの。もうおじいさんだからだって。腎臓に疾患があるらしくてつらそうだからここを撫でてあげるの」

「名前は?」

「花太。最初メスだと思ってたんだって。すぐにオスって気づいたらしいけど。幼稚園のときにこの家に来たの。こんな、小さくてふわふわしててね」


 両手で小さなボールをつかむようなジェスチャーをする。


「室内犬にして欲しかったけど、だめだって言われたから一緒に縁側で寝たりもした」


 倭は庭と建物の間に横たわる薄板に腰を下ろした。倭の体重に押され、泥が付いてカビが生え腐敗した簡素な縁側から、長年の間染み込んだ風雨がにじみ出てじんわりと布越しの臀部を濡らす。すぐに座ることをあきらめて舞夏の隣にしゃがんだ。


「年取った犬だな」

「そうだね」

「花太」


 名前を呼びかけながら手を伸ばすと、老翁は倭の存在をどっしりとした構えで受け止めた。短く硬い毛は苔や泥が付着しさながら泥根のようだったが、飼い主も本人も頓着はしていないらしい。まめにブラッシングはしているのだろう、近くにきれいに手入れされたブラシセットが落ちていた。撫でると真夏の太陽を飲み込んだかのように自家発熱する熱い体温が手のひらに伝わる。プールサイドに描かれた壁画とは違う、むっとする動物のにおいは汗や体臭、排泄物の混じりあった濃密なものだ。倭は自分でも気づかないままどうしてか、この目の不自由な翁が怖かった。硬い毛の上から柔らかな腹へこわばった手を動かすと、花太は恐怖を汲み取って安心させるように湿った大きな鼻先を倭の手にこすりつける。


「花太が誰かを気に入るって珍しいよ」


 うれしそうに舞夏が言うから、倭は「いやな犬だな」とぼやき返した。


「いやじゃないもん。ねー」


 舞夏は花太へ話しかけ、倭を下から覗き込む。渋面の倭がおかしいのか、マスカラを付けた長いまつげに比べ控えめな桜色の唇がはんなりほころんでいる。


「この子もうすぐ死んじゃうかもしれないから、死んじゃう前にいびっちに会って欲しかったの。私の家族だから」


 なんと答えればよいのかわからなかったが、倭はこういうときのテンプレートとしてありがとう、と言った。


 彼女が直面している問題は確かに大きなことなのかもしれないが、倭にはあまり重みを感じられない。空っぽの段ボールを持たされて、重たい荷物を運ぶ演技をしろと言われているような乖離。この世界には迫り来る犬の死より大変な事はいくつも起こっているし、それをもすら大変だとは感じられない人間もいるのだ。誰かに対する愛だのなんだの、寂しいだの辛いだの。それはいったい何なのだろう。


「やっぱり私決めた。言う」


 突然背筋を伸ばした舞夏は倭へ向き直った。やや下方から刺すように見上げる黒目がちな瞳。眼光に込められるのは絶望を前にしたような潤い。ぎゅっと口が引き結ばれる。


 何を、と問いかける暇はなかった。


「好き」


 唇を湿らして続ける。


「いびっちの彼女になりたい」


 倭は信じられない思いで、赤らんでいく舞夏を見つめ返した。


 ムードもへったくれも無い、こんなぐちゃぐちゃな雑草と死にそうでドロドロの犬が居る空間で前触れもなく告白された衝撃なんか微々たるものだった。それよりも倭は、自分がこの後選ぶであろう選択肢に目の前を真っ暗にしていた。

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