◆4:ギロチンプール

 入り組んだコンクリート造りの部室棟、その隙間から西日が細く長く差して地面に何本も伸びている。

 夕方ごろになってようやく微かな陽が射す高い塀のプールと校舎の間は、風通しも悪く、一度水たまりが出来るとなかなか消えない。


 コンクリート塀の裾は苔やカビで縁取られてしまっている。


おまけに朝日が差す東側は、サカキ、ソヨゴ、ハナミズキなどと書かれたプレートの添えられた植え込みがあって昼を回るまでずっと日陰になるという立地条件だ。



 倭はなるべく放課後は近付くまいと決めていたプール場の扉の前で開けようかどうか迷っていた。


 授業が終わった直後は、運動服に着替え終えた学生が集まってくるまでのつかの間、この辺りは無人になる。


 そっと扉を握り締めると錆びた鉄扉のヒヤリとした温度、ざらりと風化した感触が手の平に優しく吸い付いて、彼はぐい、と扉を持ち上げていた。

 足下の風化したコンクリートがぼろりと崩れて、形ばかりの鍵が外れる。



『ここ、鍵が掛けられないことは、他の部員には絶対言うなよ』


 オリエンテーションの時、もう卒業した三年生の先輩が人差し指を立てて説明していた。


 形式上、毎回鍵を開け閉めしているが、いつでも進入可能な状態になっているのは、一度でも水泳部員になったものなら誰でも知っている。

 というか、教えられる。

 なぜなら不用意に部外者に鍵のことを話されてはセキュリティーに関わるからだ。


 勝手に開けた扉をくぐると、さっきとは一転してギロチンのように日差しが顔面へ突き刺さった。


 まぶしさに目を眇め手でひさしを作りながら熱されたコンクリートの階段を上がる。


 一歩ごとにプールのにおいが強くなる。


 肺が酸素で満たされて、停滞していた全身の血液が流れ出す。


 古びたプールサイドは所々陥没し、慣れていなければ躓きかねないが、きちんと整備されているため、砂利や赤さび、泥の類は見当たらない。


 泳ぐものを待つ水面は静かで、ひび割れた水底はその亀裂の数を数えられそうなくらい透き通っている。時折吹き寄せる微細な風が水を撹拌し太陽を乱反射させた。



 彼はおもむろにワイシャツを脱ぎ、インナーも頭から抜き去る。革製のベルトを外し、スラックスを下に引っ張って、それだけで外れ落ちないことを確認した。


 背中を太陽が焼き、心臓の鼓動が一拍ごとに強く、けどもゆっくりと整っていく。


 靴を脱ぎ、靴下もシャツの上に丸めておいて、準備体操もそこそこに飛び込んだ。


 頭から沈み、程なくして前髪から水を這わせて顔を大気へ戻す。



 ちょっとだけ。

 水泳部員が来るまでの間だけ。

 ここを借りよう。



 泳ぎたいのか、と考えれば、答えはたぶん、否だった。


 長らく離れていた学校のプールに、中毒患者ジャンキーみたいに戻ってきたのは、今朝のインタビューのせいか、それとも黒板の落書きのせいか。


 人はいずれ死ぬ。


 それを思い出してしまったからか。


 今心の中を支配しているのは、無我になりたい、それだけだ。


 難しいことは考えず、今、この瞬間だけをやり過ごしてつつがなく死にたい。

 楽しみも幸せも全て返上するから、その分苦しいことも辛いことも味わわせないでくれと神に願う。

 事勿れ主義で刹那主義な考え方は、そんなに昔からではない。体が男性的に成長して、引き締まって、理想とうまく折り合いがつかなくなった頃からだ。


 水を掻くと、全身に抵抗が来る。

 腕、脇、お腹、足、背中、肺。

 自分には泳ぐ意味なんて無いのに、だけど、泳ぐことでしかこの高揚した気持ちを落ち着かせることが出来ない。


 プールの壁を蹴って、全身を槍のようにとがらせ水を突き進む。


 一掻きごとに、足を一度上下させるごとに、体が眠っていた細胞を湧き立たせ躍動させるのを感じる。

 一度酸素を肺に食べさせては、フォームを調整し、徐々に自分の体を泳ぐためのそれに最適化していく。

 全身を巡る水の重力と抵抗が比例して増加する。


 空気の粒がない純度の濃いねっとりとした水。


 背中から水を拾い、追い風に換え、腹筋を割って足下へ抜けて行く水をいなす。


 耳元で聴く水温のリズムをよりリズミカルに、より加速度的に。


 再度足で壁を蹴ってターン、地面を流れるひび割れの勢いが増していく。


 自分を泳ぎに特化した生き物へ変え、頭からそれ以外の思考を閉め出していく。


 泳ぐための機械に、泳ぐためだけの体に。


 少しでも近づけようと全身の筋肉ひとつひとつに指令を出していく。

 脳が焼き切れるような感覚。



 何度ターンを繰り返した時か、突然水の激しくも滑らかなリズムが寸断され、ザブン、という不愉快なノイズが泳ぐ倭のすぐ隣に落ちた。


 ぐい、と髪をわしづかみされ、倭は渋々足を地面に付ける。


「なに調子こいてオレ達のプールつかってんだよ。あ?」


 睫に絡んだ水滴を瞬きでふるい落として、闖入者の顔を見ると現三年の部長森下もりした清保きよやすだった。心底不愉快でたまらないというように日に焼けた顔を赤黒く変色させ、目をかっぴらいている。


 水泳帽をかぶりゴーグルを首から提げ、唾を飛ばしながら怒鳴る彼は、それでも倭よりこの場にふさわしい。



「水泳をバカにするようなやつは出ていけ! 真面目に泳ぐ態度を見せない者はこの部には害悪なんだよ。部に顔見せ無くなってちょっとは身の程を知るようになったかと思えば、勝手に入ってちゃらちゃら制服で泳ぎやがって。伊比、てめぇ、何考えてんだ、ああ!?」


 真剣な調子で怒声と正論を投げつけられて、倭は思わず吹き出してしまった。こんな、反抗的な態度を取ってしまうのは、この空間が悪い。


 プールサイドから他の部員がふたりを見下ろしているが、誰も止めようとはしない。汚物を見るように不愉快げな視線を倭に送りつけている。


「なにって、何も考えてませんよ、部長」


 何も考えたくないから泳いでいたのに、あまりにも的外れだ。


「それより、全国大会、まだ目指してるんですか? 五十メートル三十秒もろくに切れない奴らで?」

「目指して何が悪い」


 倭の頭を突き飛ばし、部員を背後にかばうように清保は背筋を伸ばした。


「目指したってスタートラインにも立てやしないのに、馬鹿ですかって、止めて差し上げてるんですよ」


 清保の背後にかばわれる他の部員が憎たらしくて、倭は挑発する。


 自分の顔がどんどん歪んでいくのを感じる。さっきまであんなに重たく頼りがいのあった水の感触は今や温くスラックスにまとわりついて気持ちが悪い。


「お前は、そうだろうさ!」


 清保が彼に比べて白い倭の肩を鷲づかんだ。爪の先が食い込んで、彼の皮膚を割く。


「お前は、余裕で県大会にも進める力があるからな! それでも全力で泳ぐことから逃げたお前には、泳げもしないのに泳ぎ続けるオレ達は滑稽だろうよ。出来る奴に、出来ない奴の気持ちなんかわからないよな。わかるだけ無駄だよな? お前、前にこう言ったもんな、遊びならともかく本気で部活やってる奴の気が知れないって」

「そうですよ」


 食い込む爪と指の力が痛くて、眉をひそめ逃げだそうとするが叶わず、倭は長々とため息をついた。


 落ち着け。落ち着くんだ。喧嘩は売るだけ無駄だ。喧嘩を売っても良い事なんて何もない。


 わかっているのに、一度やらかして反省したはずなのに、口の先がムズムズして胸の中が熱く煮えたぎって止められなかった。


「才能のない奴が頑張ったって、時間の無駄なんですよ」


 何でそれがわからねぇんだよ。

 何で理解しねぇんだよ。

 漫画やドラマのスポ根じゃねぇぞ。努力したって奇跡は起きるわけないんだ。

 何でこいつらヘラヘラ泳いでいられるんだ。

どうせ死にものぐるいで目指してるわけでもないくせに。

 白々しく全国全国と唱えやがって。


「お前はっ」


 プールのレーンへ倭を押しつけて清保は激高した。下り行く西日が怒りに引きつる清保の顔に深い影を落とす。鬼のような形相だがその温度感は倭から遥か遠い。


「じゃあ、何か変わったんですか? 先輩じゃなくてもいいですよ。誰か、結果を出せるようになった部員はいるんですか?」


 この水泳部の練習メニューが変わっていないのなら、彼らの能力を劇的に向上させるなんてことは有り得ないだろう。身の丈に合わない夢を掲げる彼らへの怒りと憎悪を沸騰させた反動で、けだるい虚脱症状に見舞われながら倭は淡々と問うた。


 清保は一瞬喉に何かを詰まらせたような顔をして、ぐい、と顎をしゃくった。


「オレと勝負してみろ。その怠けた根性、たたき直してやる」


 勝負は一本。二百メートル自由形。審判はマネージャーが行う。マネージャーも男子だ。水着は仕方なく部の備品を借りた。


 ホイッスルと同時。倭と清保は飛び込み台を離れ水中へ身を投げ入れた。


 勝負して勝てるかどうか。清保の背中しか見えていなかった部員達にはわからないだろうが、宣戦布告したとき、唇をしきりに舐め、泳ぎそうになる目を必死に押さえ込もうとしていた清保が、倭に勝てるような実力を持っているとは、到底想像できなかった。



 負け戦だ、これは。


 右腕の筋肉を捻って水をつかみ、体の下を通して背後へいなす。自分の作る水のうねりに体を乗せながら、倭は目を閉じる代わりに息を継いだ。


 徐々に、だが確実に、清保の頭部が後方へずれていく。戦さ場で散りゆく戦死を弔うような心地で泳ぐ。


 彼は必死で泳いでいるのだろう。それこそ死にものぐるいで倭へ追いつこうとしているのだろう。その必死さを見せつけて倭が改心すればいいだとか考えているのかも知れない。清保が、倭の実力を一番買っていた人物だったから。


 努力は、結果につながらなければ何も意味がないというのに。勝負はいつも淡々と才無き敗者を断頭台へ送る。


 二度目のターンで勝負の行く末は確定していた。


 先輩を待つ気力もなくなって、倭はさらに速度を上げる。簡単に勝てる勝負をしても虚しいだけだったから、さっさと終わらせたかった。こんな惨めな勝負、悲しくてつらくて逃げ出したくてたまらないだろうに。


 三度目の壁の接近を確認して、上半身を捻り頭部を方向転換、勢いのまま壁を蹴る。


 そのままラストを泳ぎ切ろうとしたその体を、何かが押さえつけた。

 次々に四肢へまとわりついて水中へ彼を貼り付ける。

 呼吸する機会を奪われて倭は酸素を求めて暴れた。


 他の部員達が、思いあまって反則手段に出たのだ。

 部長に守られるだけの甘えた奴ら。

 先ほどの、汚物を見るようににやけた視線を思い出し、倭はかっと怒りに背中を振るわせる。


「やめろ! なにしてるんだよ、やめなよ!」


 絡んできた部員はほんの三、四人。突然の事態に反応が遅れたものの、残りの二年や三年が反則者を引きはがし、倭は素面へ浮かび上がることが出来た。

 むせながら周囲を見渡す。


 ふてくされたようにこちらを見下ろす部員、「大丈夫か?」と尋ねながら疫病神を見るように眉をしかめる同級生。あからさまに敵意を剥き出しにしてくる羽交い締めにされた奴ら。レーンを隔てて部長が呆然と倭を見ていた。


「わかったでしょう。必死になっても、無駄なものは無駄なんですよ」


 枯れた声で吐き捨てて、倭はプールサイドへ上がった。


「ドライヤー使え」


 荷物をまとめて立ち去ろうとした倭へ、感情を押し殺した声が届いた。意外に思って足を止め、首だけ振り返る。


 清保はまだプールの中だった。背中をこちらに向け、小刻みに肩を震わせていた。


 ため息をつく。期待を裏切った部員達への情けなさでも感じているのだろう。


「ありがとうございます」


 借りる気は毛頭無かったが形だけ、礼を言った。

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