◆3:恋と酵素

「乱暴に触っちゃだめですよー。取り扱いには注意してね。特にプレパラートは割れやすいし、器具も慣れないものだから引っ掛けてけがしないようにね。


 玉ねぎの染色は先生がやって、どれも細胞が見れることもチェック済みなので、各班はピントを合わせるだけで大丈夫ですよ。出来た班から前の黒板をよく見てちょうだいねー」


 男女混合五人ずつで半をつくり、六つの実験台に別れて座る。


 黒板に一番近い席に座っていた鷹来が貰ってきたプレパラートを、偶然同じ班になった学級委員の橋本はしもと萌々ももが手早く顕微鏡にセットした。

 反射鏡と鏡筒を流れるように確認し、レボルバーを二三くるくると回しただけで「はいどーぞ。できたよ」と息を切らせて皆の中央へ差し出す。


 額には汗の粒が浮いている。


 彼女もスナオと同じく、必死過ぎるタイプの人間。違うのは思いに見合うだけの能力がギリギリ備わっているという点。


 そのあがきは見ないふりで肘をつきながら倭は「ありがと、さすが」と言った。


 ホッとしたように萌々は胸をなでおろす。


 理科室は酢酸カーミン溶液のお酢臭い刺激臭と、一つ前のクラスが実験で発生させたらしい何か金属の焦げ臭いにおいやヨウ素当たりだろうハロゲン系の塩素臭が入り交じって、息をするのをためらうくらい空気が濁っている。


 というか、まだ煙が漂っていて視界も悪い。ある程度換気はしているのだろうが、呼吸困難より暑さを選んだ教室は冷房のために閉め切られていた。



 生物教師である室井むろい真理まり、通称マリ先は肩甲骨の下辺りまである一本の三つ編みを、こちらに勢いよく振り向きざま黒板にぶつけて、アルミフレームメガネの右下をちょいと人差し指で押し上げた。


 においに対して鼻が麻痺しているのか、げんなりした顔ぶれの学生に反して実に涼しげである。あばたやニキビの全く見られない童顔のせいで、頰や額は陶器のようにさらりと白く、白衣を着ていなければ大学生と言っても通用しそうなほど風貌が幼い。


「ごめんなさいねー。本当は学期はじめにやりたかったのですけど、教室の順番取りに負けちゃって。試験前はみんな勉強したいかと思って、試験後の今まで待って貰ってたの。試験が終わった後いきなり真面目に勉強したくないでしょう?」


 にこやかに小首を傾げてマリ先は柏手を打った。


 そこかしこからそれもそうだと賛同の声が上がり、一方で実験中に内職したかったと怨み節がささやかれる。


「はいじゃあ、注目! あまりかっこいい実験ではありませんけど、今日は玉ねぎの細胞と、ミカヅキモの細胞を観察します。まず今配ったのは玉ねぎの根っこです。

 四月、もっと言えば、一年生の復習になりますが、玉ねぎの細胞には細胞壁と細胞膜、それから細胞質があるのは覚えていますね? 今日は復習のようなものだから気楽に聞いてちょうだいね」



 あらかじめ黒板に書いてあった巨大な細胞の図を、指示棒でパチパチと彼女は叩いた。


 今日は細胞分裂の観察をしろと言うことらしい。


 説明を聞きながら、酢酸カーミン溶液で赤紫に染まった染色体を接眼レンズから覗き込む。


 自己を無限増殖させる不思議な生命構造だ。細胞分裂の様子がまるでコマ送り写真をばらまいたみたいに散らばっている。


 たくさんの細胞の死体。


 大きく肥大した染色体の球や、バラバラに細胞内を散らばる糸状のものを見て、倭は思う。自分と全く同じ自分を作ろうだなんて、生き物は頭がおかしい。


「細胞分裂のエネルギーはアデノシン三リン酸、ATPです。私たちの体もこのATPがあるから、活動できるんです。生き物にはみんな、ATPが必要です。エネルギーの通貨と言われるくらい、大事なものよ。


 テストでも回答率がとても高かったから、今更説明しなくてもみんなちゃんと知ってるわね。玉ねぎの根にはグルコースがたくさん含まれているけれど、これはたくさんエネルギーを溜め込むためです。独立栄養生物の植物は、無機物からエネルギーを作ることができますが、私たちはできません。


 有機物を食べてエネルギーに変えてるの。炭水化物もタンパク質も私たちの体内でアミラーゼやペプチターゼなどの酵素によってグルコースやアミノ酸に分解されます。脂肪は炭素原子が偶数なので、グルコースには変換できません。


 でも軽いのにエネルギーは倍もあるから、エネルギー保存にはとても重宝します。細かくは化学の分野になりますが、」


 言いながらカツカツとチョークの粉末を散らし黒板に丸っこいアルファベットで化学式を書いていく。


 授業が脱線気味なのは、この授業が試験のためのものではないからだろう。


 眠たい復習を聞かされながら倭は四月の授業を思い出す。


 その時もこう思ったのだ。



 なぜ、わざわざエネルギーを溜めたり使ったりして生き物は生きているんだろう、自分の体内に一定のエネルギーがあるのなら、排泄などせずにそれを無限に使い続ければいいのに、それが出来ないから生き物は他の生き物を補食しないといけなくなるのではないだろうか。


 自分一人で生きられない、自分という生き物をとても頼りなく弱くて下らない存在に思う。



「なあなあ、倭、見ろよこれ」


 鷹来が授業の冒頭で返却された答案用紙をにやけた笑顔で見せてきた。首を伸ばして指をさす箇所を見る。


『よくできました!』


 丸みを帯びた走り書きでそう書かれていた。点数は百点。


「すごくねぇ?」

「おう。すげぇな」


 恋とは。


 こんな些細な言葉でも一人の男を幸福にし、期末試験で百点を取らせる程の力を持っているから、非常に能力の高い酵素だなと考える。


 同時に、その肉体と同じように人の心も、誰かに期待して期待されてエネルギーを得ると言う意味では、弱い存在だと落胆してしまうのだ。

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