5.荒野のエトランゼ
首を吊られた死体は腐敗を終えて既に白骨化していました。髑髏の大きな二つの窪みは、黒より黒く、吸い込まれるように眩しい地面を眺めていました。
そこは廃墟でした。人の気配はなく、街も死んでいて、ただひたすらに暑く、壊れた水道から水の漏れる音と、風の流れる音だけが響いておりました。
「死体だ」
「そうだな」
二人の旅人が、短い会話を交わしました。それぞれは馬とロバに乗って、並んで狼犬も後を追うように四足歩行していました。
「なんつーか、気味の悪いとこだな。お化けとか出てきそう」
男のほうが情けない声を出して、呆れて少女が言いました。
「幽霊なんて、居る訳ないだろ。だいたい肉体を持たないのだから、そもそも知覚できるはずがない」
「じゃあ、ゾンビとか出てきたら、どうするよ」
「撃ち殺せばいいだけだ」
少女は腿のホルスターに収められた銀色の回転式拳銃『ピースメイカー』のグリップを触りながら答えました。
死体が転がっていました。それもひとつやふたつでなく、街全体の人々が口から泡を吹いて、すべからく尿や便を失禁した様子がありました。うげ、と男が呻いて言いました。
「ちょっと……なんだか異常だぜ。銃で撃たれた、って訳でもなさそうだし……目立った傷口もないし……」
「……毒ガスかなにかかもしれない」
「毒ガスって」
「症状は神経ガスのものに似ているな。今私たちが大丈夫だから、少し前の出来事だろう。――しかし、例えば政府軍が使ったとなれば、ここが制圧されていないのはおかしい……」
「なんでもいいけど。とっととずらかろうぜ」
む、と浅黒い肌の少女が口を尖らせて言いました。
「ヨーイチ。お前は屋根のあるところで寝たくはないのか?」
「それはそれだけど。何もこんな、腐乱死体ばっかのゴーストタウンじゃなくたっていいだろ」
「私はシャワーだって浴びたい。服だって洗いたい。死体しかないという事は、逆に安心できるという事だ」
「毒ガスが水に溶け込んでたらどうするよ」
「多くの神経ガスは加水分解される。それに見ろ、鳥が水道から溢れた水を飲んでいる。いずれにしろ、毒性はないという事だ。私はそのままでは飲みたくないがな」
げー、とヨーイチは言いました。それから、こいつは頑固だから、きっと何言ったって無駄だ、とも思いました。けれど彼のロバは怯えてしまって、暴れ出すのでヨーイチは手綱を持って、
「ああほら、言う事を聞け、ジャック」
と、言いました。
「ジャック?」
と少女が聞きました。ヨーイチが答えました。
「ああ。名前付けたんだ。ロバのこと、
お前にぴったりだな。と少女が呟いて、なに? と聞こえなかったヨーイチが聞き返しました。なんでもない、と少女が言って、
「お前はその馬に、名前付けねぇの」
と、質問されました。少女は左右非対称の表情をさせて、
「馬は馬だろ。名前なんか必要ない」
と、答えると、ヨーイチは眉を互い違いさせて、
「……銃には名前付けて呼ぶのに?」
と、聞きました。
「――その時は、そういう気分だったんだ。元々名前のあるものもあるし……――待て、聞こえたか?」
何が、とヨーイチは言いました。ヘリだ。と少女が言いました。
少女はしばらく音の方向を探って、それからその反対方向に馬を駆けさせました。ヨーイチもそれに付いていって、馬から降りると、家の陰に隠れました。少女は『ピースメイカー』を抜いて、銃弾が装填されている事を確かめました。
やがてヘリコプターがその姿を現しました。アメリカ製UH‐60汎用ヘリ『ブラックホーク』。少女は
「なんだなんだ……毒ガス実験の成果でも確かめに来たのかよ?」
「それは……なるほど、当たっているかもしれないな」
ヘリコプターは、ばらばらと砂を巻き上げながら、死んだ街の広いところに着陸しました。そこから降りてきたのは肉つきのよい、しかし確かに鍛えられた若い女性でした。長い赤毛を三つ編みに束ね、両腿には互い違いにハーフシルバーのブローニング・ハイパワー拳銃を二挺、背中にはH&K社製MP5K『
彼女はしばらく街の様子を眺めていましたが、ふと砂の上に馬の足跡を見つけ、ふむ、と唸り、それから少女たちのほうへ向かって、
「そこに誰かいるな? 隠れてないで出て来い」
と、王室訛りの英語で叫びました。
「ど、ど、どうするよ」
「わからん。だがあいつの育ちが良いのは分かった」
少女たちがいつまでも出てこないので、女性は続けて言いました。
「心配するな、危害は加えない。だがいつまでも出てこないなら、敵性勢力と見做す」
そう言って、両手をふたつの拳銃のグリップの上に置きました。
「危害は加えない、って言ってるけど」
「白人のそういうところがいちばん信用できないが……仕方ない」
少女は両の手のひらを晒しながら、物陰から出てきました。それから二人は女性にゆっくりと近付いて、それから言いました。
「何者だ?」
すると女性が答えました。
「人に名前を尋ねる時には、まず自分から名乗ったらどうだ」
少女はむかっとしました。ヨーイチは小声で、
「あいつ、お前と性格似てんな」
と言って、それが更に少女を苛々させました。
「私は、アノニマ・ビント=プネウマ・アル=クルディスターニ。これで満足か? お前たちは何者だ?」
アノニマが言って、女性は、ふーむ。と唸って答えました。
「名前は沢山あるんだが。私はサマンサ=クラレット=アーニャ=レッド・サンダース、という。考古学者のはしくれだ」
ヨーイチはなんだかしどろもどろになって、数を数えるように指を折りながら、
「えーと……サマンサ、クラレット、アーニャ……?」
「レッドでいい」
レッドが言って、アノニマが手を下ろして言いました。
「それで? 考古学者様がこんな所に何の用だ」
レッドが腕を組んで、すこし考えてから答えました。
「ふむ。私の従姉妹の親が、義肢会社の代表でな。紛争地帯で手足を失った子供たちや被害者たちを探しに来た、というのが名目だ」
「名目?」
「私個人は、単に考古学の研究をしている。――この国には、古代文明の遺産が数多く存在している。ゲリラや
それからレッドは最後、誰に言うでもなくほとんど自分に言い聞かせるように呟きました。
「従姉妹と言っても、種違いで腹違いの双子のようなものだが――たまたま誕生日が全く同じなんだ。名前を、クララベル=アン・ガーネットという。あいつは頭が良いが、どうも内向的でいけない。まさに本の虫だ」
アノニマは、どうでもいいが。と言ってから、続けました。
「道楽で内戦地に来るなど、白人連中の考える事は分からん。命が惜しくないのか?」
「惜しいさ。だからこうして直接見に来ている。それはお互い様だろう?」
二人はしばらく睨みあっていましたが、レッドが溜息を吐いて、それから言いました。
「まぁ、それこそ、どうでもいい。この惨状はお前たちの仕業か?」
「まさか。たかが小娘一人がここまでやると思うか?」
それもそうだな、とレッドはひとり呟きました。
「ともかく、我々は死体を埋葬しようと思う。構わないだろう?」
「好きにしてくれ。私たちは今夜泊まれそうな場所を探す」
そう言って、アノニマは踵を返して歩き出しました。カマルもそれに付いていって、ヨーイチは、しばらくポカンとしていましたが、
「――って、結局ここに泊まんのかよ……!」
と、ややあってから突っ込みを入れました。
* * * * * *
ビジネス・ホテルの一角に響くラジオは、ピアノの音を奏でていました。窓の外には月が出始めていて、少女は狼犬のカマルを優しく撫ぜていました。曲はクロード・ドビュッシー作曲の『
(……アリス・イワノヴナ・ソーンツェワさんによる、『月の光』の演奏でした。ソーンツェワさんはマサチューセッツ州アーカム市の出身で、今年二十歳になります。両親を9・11テロで亡くしてから、弱冠十七歳で国際ピアノコンクールを優勝しており、その後、各種チャリティ・コンサートなどで精力的に活動しています……)
ふん、とアノニマは鼻で笑って呟きました。
「ピアノの演奏だけで食べていけるなんて、思わない事だ。感動的な話の裏にはいつも、地味で過酷で退屈な現実が待っている」
ラジオのボリュームを絞ると、ひぇぇぇ、というヨーイチの叫び声がホテル中に響き渡りました。アノニマはカマルに「待て」の合図をして、フランス製の自動拳銃を持って、彼の下に走りました。
廊下の途中で、彼に会いました。ヨーイチは腰を抜かして、震える指でトイレの中を指さしていました。
「べ、べ、便所に死体が……」
やっとの事で、それだけ言いました。アノニマは溜息を吐いて拳銃を脇のホルスターにしまいました。
「漏らさなかっただけ、偉いな」
「冗談じゃねぇんだよぉ。なんでまた、こんな所に死体があるんだよぉ。お、親子、みてぇだし……」
ふむ。と言ってアノニマは死体を観察しました。母親のほうは脳幹を撃ち抜かれて死んでおり、その手にはマカロフ自動拳銃、また息子のほうは、その細い首に痣が見受けられました。子供は強く母親によって抱きしめられており、それらを引きはがす事は不可能のようでした。
「子供を殺して無理心中、か。よくある話だ」
「よくある、って……」
ヨーイチはそろそろと立ちあがって、死体に触れようとしました。が、アノニマが素早くそれを制しました。
「おい、不用意に触れるな」
「なんでだよ」
「ブービートラップかもしれない。死体の下にピンを抜いた手榴弾なんかを仕込んでおいて、持ち上げたりひっくり返したりすると、レバーが外れて爆発する仕掛けだ」
「……でもさぁ、おれ、早く小便したいんだけど」
「死体に構うな。さっさと済ませろ」
アノニマは死体の下を慎重に調べて、その間にヨーイチはよそよそと便器の前に立って、ちょろちょろと用を足し始めました。む、と言ってアノニマが予想通り手榴弾を見つけると、起爆レバーを外さないように注意しながらそれを握り出して、ヨーイチが用を済ます頃、ヘアピンをレバーの穴に挿し込んで無力化しました。
「……なんでそれ、あるって分かったの?」
「死体は動かされていた。銃で自分を撃ったにしては、血が壁にも床にも飛び散っていない。それに、拳銃を握ってはいるが、空薬莢が見当たらない。お粗末な工作だ」
「……こーゆー、トラップだらけのホテルな訳? 『安心できる』って言ったのは誰だよ」
「さぁな。だが調べた限りではホテルの周辺、廊下、それに部屋は特に問題なかった。充分注意するに越した事はないが」
「このぶんだと洗濯機も臭いな」
「お前の体臭ほどじゃないさ。手を洗え」
ヨーイチは言われた通りに、蛇口を捻ろうと手をかけました。すると、アノニマは蛇口の栓から伸びているコードと、その先の起爆装置にはたと気が付いて、
「――人間爆弾だっ!」
ヨーイチをひっつかんでドアを蹴破り、廊下に伏せました。瞬間、ものすごい轟音がして、親子は霧みたいになってあちこちに飛び散りました。アノニマはもろにその血霧を被って、ほとんど真っ赤になりました。
アノニマは非常に怨めしそうな顔をして、放心状態になっているヨーイチに低い声で言いました。
「……これは、ひとつ、貸しだからな」
ヨーイチは怖ろしくてつい「いひひぃ」と笑ってしまいました。
熱いシャワーの音は雨が降るのにも似ていました。アノニマは裸になって、目を閉じて頭から湯を被ると、ふぅぅぅぅ。と深い溜息を吐きました。被った他人の赤い血が、割れた腹筋を通り、湯に混じって下水に流れてゆきました。それから、石鹸を泡立てたボディスポンジで垢を擦り落とすと、今度は狼犬のカマルも泡だらけにしてやりました。
〈気持ちいいか?〉
泡を流し落としてやると、カマルは全身を震わせてほうぼうに水滴を飛ばしました。それをもろに浴びて、あははっ、とアノニマは少女みたいに、可愛げに笑いました。
「お前もそんなふうに笑うんだな、アノニマ」
ガチャリとシャワールームの戸が開いて、昼間に聞いた王室訛りの英語が聞こえました。ぶっ、とアノニマは噴き出して、振り向くと、そこに居たのはやはり、サマンサ=クラレット=アーニャ=レッド・サンダースでした――そして彼女もまた全裸でした。
「おま、お前、人との距離の詰め方、おかしいんじゃないのかっ」
「そうか? ただ二人とも裸なら、お互い無駄に警戒しなくて済むかと思ってな」
「素手でも人は殺せるっ」
「そういう問題か?」
レッドが言って、そう、そうだ、とアノニマが自分を落ち着かせるように言いました。
「なんでお前もここに居るんだ。いや、ここに滞在するのはまだ分からなくもない。だが人の入ってる個室の風呂に突然入るのは、明らかにネジが飛んでるだろ」
「そうでもない。ロビーでさっきの男――ヨーイチと言ったかな? あいつに会ってな。……ところであの男、どこかで見たような気がするんだが……まぁそれはいい。ホテルのほうで爆発音がしたから、一体なんだと聞いたんだ。そしたらブービートラップがあったそうじゃないか。それは危険だと思って、お前の入るところなら安全だろう、と。そういう判断だ」
「――頭、おかしいんじゃないのか」
「よく言われる。この国に来るときもそうだった」
レッドがそう低い声で呟いて、アノニマは、まぁ、そうだろうな。と答えました。続けてレッドが言いました。
「ひとつ、聞きたい事があってな。シャワーを浴びながらで、構わないんだが」
「なんだ」
アノニマはほとんど気にしない事にしてシャワーを再開しました。レッドはしばらく黙っていましたが、すぅと息を吸って、
「人を撃つときの心得を聞いておきたい」
それから吐いて、聞きました。
アノニマは鏡を見ました。それは湯気で曇っていて、レッドの表情はほとんど見えませんでした。
「人を撃った事は?」
「……いや、……ない。……何度も、訓練は繰り返しているが……」
そうか、とアノニマは振り向きもせず言いました。その浅黒くて小さな背中には、何度も死線を潜ってきた確かな傷痕がたくさんありました。
「躊躇わない事だ。思考は貴重な時間を失わせる。脅威を排除する貴重な時間だ。分かるか? 的を撃つのと、人を撃つこと、それらを区別して考えてはいけない」
アノニマはシャワーを止めました。振り向くと、レッドはまだ考え込んでいるようでしたので、こう言いました。
「狩りをした事はあるだろう、貴族階級のイングランド人」
「生まれはカナダだ。――ああ、狩りなら、何度かある」
「それと同じだ。何も考える事はない。――それよりも銃が回転不良しないよう、常に整備することを心配しておけ」
そう言って、アノニマはカマルを連れてシャワールームを出ました。洗濯かごにレッドの大きなブラジャーがあって、少し首を傾げましたが、あまり気にせずタオルで体を拭いて、替えの下着だけ身に着けると、ヨーイチの居るランドリールームの方へ歩いてゆきました。
「あッ、アノニマさんっ、洗濯機のほう、大丈夫でしたんで、朝方には乾くと思います、ハイッ」
煙草を吹かしていたヨーイチは急いでその火を消して、馬鹿に丁寧にそう言いました。それから、アッ、髪、ちゃんと乾かさないと風邪を引きますよ、と言って、ドライヤーを差し出しました。アノニマは引きつった顔で言いました。
「よせ、気持ち悪い。それよりもお前も風呂に入って来い。いい加減、臭い」
アッ、ハイ、有難うございます、ハイ。とヨーイチが言って、そそくさと部屋を後にしました。アノニマはヨーイチの座っていた灰皿のある椅子にどかっと座ると、麻の葉を取り出して、火を点けました。白い煙を吐き出すと、カマルがくしゅっ、っとくしゃみをして、それから部屋のほうから、ぎゃああああ、という男女の叫び声が響いてきましたが、あまり気にしないことにしました。
アノニマはしばらくぼうっと、煙で輪っかを作ったり、それをただ眺めたり、濡れたカマルを撫ぜてやったりしましたが、ふと小さく溜息を吐いて、
「クレイジーな女だ」
ぼそりと、そのようにだけ呟きました。鏡のなかの自分もそう言っていました。
* * * * * *
薄暗い村でした。空は青いのに陰が長く伸びて、建物や難民キャンプは、密集するように偏在していて、陽や風の通る事を妨げていました。その路地裏で、浅黒い肌をした少女が言いました。
「〓〓〓お姉ちゃん」
呼びかけられた女性は振り返ると、優しくにこりと笑って、
「なあに、〓〓〓?」
と聞きました。名前のところはうまく聞きとれませんでした。
「お姉ちゃん、結婚するの?」
少女がもじもじしながらそう言うと、お姉さんは少し驚いた表情をして、でも少女に笑いかけて、
「そうね。――でも、まだ誰にも言っちゃ駄目よ」
と、しぃぃ、としながら、人差し指を少女の柔らかい唇に当てて言いました。少女は少しだけ目をそらしながら、
「でも、お姉ちゃん、そのう、他の宗教の人と付き合ってる、って聞いて……それは、教義に反するから……ええっと……」
少女はしどろもどろになりながら言いました。お姉さんはニコリとした笑みを崩さないまま、ふと広がる空を見上げて、
「愛に国境も宗教も無いのよ。ほんとうならね」
と、その表情は少しだけ淋しいように少女には思えました。
「〓〓〓は、誰か好きな子は居ないの?」
お姉さんがそう訊くと、少女は少し俯いたふうにして、
「わたし、〓〓〓が好き。すっごく、可愛いんだもん。――そう、大きくなったら〓〓〓と結婚する! だって、私の弟だもの!」
と、言いました。お姉さんは、ふふ、と笑いながら、そうね、それも愛よね。と、呟きました。そんなふうに笑いかける、少し大人のお姉さんを見て、少女はふと淋しくなって、彼女に抱きつきました。お姉さんは、少女が泣いているのが分かりました。それは、お腹のところが少し冷たくなってきたからです。
「あら、あら。〓〓〓は泣き虫さんねぇ」
そう言って頭を撫ぜてやりました。少女は鼻声で、
「だって、お姉ちゃんがどこかに行っちゃうんじゃないか、って思って……それで……」
どこにも行かないわよ、とお姉さんは困ったふうに言いました。
「……ほんと? お姉ちゃん、どこにも行かない?」
「行かないわ、行かないわよ。――正確に言えば、この数日後に、あたしは村の皆に石を投げられて殺される。それは異教徒と恋に落ちたから。――姦淫は死罪なのよ。それに加えて、族内婚のヤズィード教徒にとって、異教徒と駆け落ちなんて言語道断……だから、皆みんな、あたしに石を投げ付けた。それから縄で首を吊られ、晒し者にされ……とどめの一撃はそう、――あんたが投げた石だったわよねぇ? ゾーイ・ビント=イスマーイール・アル=アシナ」
ゾーイと呼ばれた少女はびくっとして、お姉さんだったものを見上げました。それは顔中を蛆虫が這っていて、ふたつの目の窪みは闇より黒く、髪は蛇で出来ていて、頭には確かにゾーイが投げ付けた石の痕があり、少女は離れたくとも、お姉さんだったものがしがみついてくるのを振り払えず、だんだん息が詰まってきて、――
――一気に、息を吸い込みながら肺を膨らませアノニマは目覚めました。酷く汗をかいていました。それは、赤い髪をした女考古学者――レッドがアノニマに抱きつきながら眠っていたからでした。
アノニマは、こいついつの間に、とか、なんで私のベッドに入ってるんだ、とか、一人で眠れないのかこいつは、などとぐるぐる考えていましたが、ふとその豊満な胸を見ると、むしょうにむかっ腹が立ってきて、彼女を蹴り飛ばしてどかんと布団の外に出すと、
「私は抱き枕じゃない」
と呟いて、再び布団にくるまって目をつむりました。床に落とされたレッドも少し寒そうにしながらもまだ寝ぼけていて、手近に居た狼犬のカマルにしがみつくようにして、しばらく経つと、すやすやと寝息を立て始めるのでした。
* * * * * *
明るい窓の外でヘリコプターはばらばらと音を立て、あたりに砂を吹き飛ばしながら死んだ街を離れてゆきました。
アノニマはベッドから起きあがると、窓からヘリコプターが飛んでゆくのを見ました。外は眩しくて少し目を細めて、やがてその影がいなくなると、しん、と辺りは静まり返っていました。
清潔になった衣服を着ると、少女は再び自らを武装しはじめました。腿の回転式拳銃『ピースメイカー』、脇の自動式拳銃『ジャンダルム』、それから左腰の散弾拳銃『ルパラ』を身に着けて、それから左胸の三日月型の刀身を持つカランビットナイフを触りました。そして琥珀の首飾りを提げ、カーキ色の軍用ポンチョを羽織り赤いバンダナを締めると、狼犬のカマルがにわかに目を覚まして、アノニマは微笑んで、〈おはよう、カマル〉と言いました。カマルはワン、と吠えて、アノニマの頬にキスしました。
死んだ街の中で、二人と一匹は馬を歩かせていました。やっぱり人の気配はしなくて、ヘリコプターが飛んできたのもホテルでの一泊もまるで白昼夢の出来事のようでした。ヨーイチがロバの上で身体を捩らせながら言いました。
「あー……なんか、久々にベッドで寝たから身体が痛い……」
「まともに運動しないからだ。見ろ、私なんかすっかり絶好調だ」
そうは見えねぇけどな、とヨーイチは心の中で言いました。アノニマは仏頂面のまま、ふと「ん?」と気が付いてヨーイチに近付き、すんすん、と彼の匂いを嗅いで、
「お前、やっぱりまだ少し臭うぞ。ちゃんと風呂に入ったのか? 服も洗ったか?」
「シツレイな。あれだ、あれ、加齢臭、ってやつだろ」
加齢臭……? とアノニマが首を捻って言いました。ヨーイチは、ヒヒ、と心の中で笑って、
「男ってのはなぁ、年をとればとるほど燻し銀になってくるわけよ。これは、ホルモンってやつなんだぜ。つまり、そういう匂いがするってぇ事は、おれは男として非常に魅力的なわけよ。おわかり?」
「ふーん、そんなもんか。嘘だったら殺す」
「冗談のペナルティが大きすぎる!」
ヨーイチが言って、アノニマが「待て」と言いました。
「え、何さ」
「人が居る」
「人?」
それは行商人でした。荷台のある馬車を引かせ、かたかたと音をさせながら、非常にゆったりと、ウェーブがかった長い赤髪の女が、街を横断しておりました。彼女はとても若々しい青女のようにも、また三千年の時を生きた魔女のようにも見えました。
二人が傍に近付くと、女性はにこにこと笑いながら、少しドイツ語かイディッシュに訛った英語で言いました。
「あ、宝石売りですぅ~。この間はどうもぉ~」
その上ずった喋り方はアノニマの癇に障りました。女性はヨーイチに話しかけたみたいで、ヨーイチは記憶を辿って、はたと思い当たるところがあったようで、
「あっ、あんた、こないだの! ――あんたから買ったこの琥珀、その、みょーに安かったけど」
と、アノニマの首飾りを指しながら言いました。女性は人差し指を唇に当て首を傾げながら、
「あらあらぁ~? 安いことに何かご不満でもぉ~?」
「偽物なんじゃないか、っつう話よ」
すると女性は、うふふふふ、と笑って、
「これはぁ、ほんものですよぉ~? 触ると仄かにあったかいでしょお? それって、ほんものの琥珀、ってゆうことなんですよぉ~」
あっ、そうなの? とヨーイチがとぼけた顔で言って、はいぃ~、と女性が笑顔で答えました。アノニマはだんだん苛々してきました。
「じゃあホントにちょーお買い得なだけだったんだ」
「はいぃ~。お兄さんがカッコいいから、つい、サービスしちゃいましたぁ~」
おやおや、とヨーイチがニヤニヤ笑いながら言いました。アノニマは二人を冷めた目で見ていました。
「そんな事言われると、そういう気になっちゃうな」
ヨーイチが言って、女性が笑いながら、
「うふふぅ。わたしぃ、結婚してるんですよぉ? それでもいいんですかぁ?」
右手の薬指に嵌められた、青い宝石の付いた指輪を見せつけながら言いました。
「いやいや。結婚してるって言っても、旦那さんとはそんなにうまくいってないんでしょ? 長いこと別居してるみたい」
「あららぁ~? どうしてそう思うんですぅ~?」
「旅して歩いてるみたいだけど、装備が一人用。それに、護身用に銃も持ち歩いてる。なーんか、その辺がクサいんだよねぇ」
「あらあら~、意外と鋭いのねぇ~。――でもぉ、私の心は旦那のものなんですぅ~」
そりゃ残念。とヨーイチが言うと、来世で出会いましょお~、と女性が言って、街の外へと消えてゆきました。
女性が見えなくなると、ヨーイチは独り言みたいに言いました。
「やー、いい女だなー。ああいうやつと一緒に蜜月を交わしたい」
アノニマは眉間に皺を寄せながら言いました。
「どこがだ。性根の腐った八方美人にしか見えなかったぞ」
「わかんねーかなー、まだお前には。ああいう悪女みたいなのこそ、こう、むしょうに性欲を掻き立てられる」
「分からないし分かりたくもない。あいつはきっと
ヨーイチはムカッとして言いました。
「良い女に人種も宗教もねーよ」
「お前は性欲しかないのか」
「そんな事ねえじゃん。おれって結構、禁欲してると思わね?」
「知るか。男は嫌いだ。――ああいう媚びた女も、嫌いだ」
アノニマはとことこと足早に馬を歩かせました。カマルもそれについてゆきました。ヨーイチは、しばらくぼうっと、女性の去っていった方向をただ眺めていました。死んだ街の少し湿った片隅に、白い白い
それは彼の初めての恋でした。
* * * * * *
街はなんだか色めきたっていました。道という道は人でごった返し、みな新調したばかりの衣装で着飾り、またどこからか、美味しそうな匂いも漂ってきていました。
「意外と近かったな」
「こっちの街に泊まった方がよかったんじゃね。活気もあるし」
アノニマが呟いて、ヨーイチが未練がましそうに言いました。
二人はしばらくきょろきょろしていましたが、ヨーイチは一通り街の様子を見ながら、
「なんかお祭りみたいだな」
と、感想を漏らしました。アノニマが言いました。
「今日は何日だ?」
「ええっと、八月の、三十一日……」
「今日からシャウワール月だ。ちょうど
「まじで?! じゃあホントに祭りじゃん、酒と肉買ってくる!」
おれの原始の魂の記憶が~。とか言いながら、ヨーイチは街の雑踏へと紛れてゆきました。記憶喪失じゃなかったのか、とアノニマがひとり呟くと、くぅん、とカマルが鳴きました。
ヨーイチは街のいちばん賑わいのあるところで、普段の倍以上する値段の肉やら酒やらを買って、豪遊していました。ヨーイチの珍妙な格好、作務衣にポンチョという出で立ちは、
「みんな生き生きしてる、ってのはいいもんだ。あいつはどうも、辛気臭いとこがあっからな」
ヨーイチはひとり呟きました。すると傍で、イディッシュかドイツ語に訛った女性の声がしました。
「
わあ、とヨーイチが声をあげたのは、それがさっきの宝石売りの女だったからです。うふふ、と女性が笑って、
「
と、誘いました。おあつらえ向きにどこからか音楽も聞こえてきました。二人が手と手を取り合うと、彼女の右手の指輪とヨーイチの左手の指輪とがぴったりと触れ合いました。女性は慣れたふうに踊り、ヨーイチはどこかたどたどしく踊って、彼女を微笑ませました。
「君、普通に話せるんじゃん」
「アレは営業用。とびっきりの笑顔と、馬鹿に丁寧なのが受けるんだから。今は、プライベートよ」
「こっちの方が魅力的。あとで写真撮らせてよ」
「うふふ。私、結婚してるのよ?」
ヨーイチは構わず彼女の唇を塞ぎました。しばらく経って、ぷはっ、と女性が息を吸い込むと、
「いけない人ね」
「君ほどじゃないさ。ずっと尾けてたんでしょ? 知ってんだから」
少し涙目になって頬を赤らめている彼女に、彼はそう言いました。
「よく見て。結婚、指輪。してるの。青い宝石の。これよ、これ」
「だから知ってるって。心は今でも旦那さんのもの、なんでしょ?」
女性は、ヨーイチがあんまり鈍感なので、ちょっと膨れっ面を作ってそっぽを向いてやりました。ヨーイチはふとおろおろと慌てて、
「あれ、おれ、今なんか悪いこと言った?」
と、言いました。女性はそっぽを向いたままでしたが、その視線の先にはたと気付いて表情を強張らせました。
「反シオニズムの原理主義者だわ」
彼女の見ている方向では、黒い山高帽と服とを身に着け、一様に髭をたくわえた集団がこちらを見ていました。女性は、ちっ、と舌打ちをすると、
「また会いましょ。今度は……そうね。きっと、テルアビブで」
「え、ちょ、もう行っちゃうの?」
「情けない声出さないの、ヨーイチ。折角の三枚目が台無しよ?」
そう言って、彼女はヨーイチにキスしました。ヨーイチはそれでしばらくポーッとしてしまいましたが、気付くと彼女は消えていて、空でワタリガラスたちがカァ、カァと平べったい声で鳴いているだけでした。
ヨーイチは、人で溢れ返った雑踏の中で、ひとり叫びました。
「おれはまだ、君の名前も知らないのに!」
* * * * * *
「――だから、この量で八〇〇リラは高すぎる、と言ってるんだ」
「嫌なら買わなくていいよ。どこ行ったって今はこの値段だからね、弾薬も高騰してるんだ」
「戦争特需さまさまだな。二〇〇でどうだ」
裏通りの闇市でアノニマは、足りなくなった銃の弾薬を買おうとしているところでした。店主は首を掻っ切るような仕草をして、
「嬢ちゃん、冗談はいけねぇよ。そんなんじゃ俺だって、食っていけなくなっちまうんだから」
と、言いました。アノニマは「どうでもいいが」とでも言いたげに答えました。
「二五〇」
「……七二五」
「三一七」
「六二〇。……ところで、その首飾りかい? それをくれたら、二〇〇で売ってやったっていいぜ」
「これは売らん。三二六」
「……――わかったよ、五〇〇だ。これ以上負けらんない」
「三二六にしろ。道中で拾った地雷をいくらか付ける」
「……それ、アメリカのやつ?」
「そうだ」
「よし、売った!」
店主が膝を叩くと同時に、遠くで大きな爆発音がしました。それから、やや遅れて地面が揺れました。
「な、なんだ?」
店主が言いました。アノニマは、ヘリでも落ちたか? と思いました。金と地雷を放り投げて、買った弾薬を手に取ると、アノニマはカマルを連れて店を飛び出しました。
店主は慌てて袋に入った金が確かに金額分ある事を確かめると、今度は地雷を手にとって、まじまじと眺めました。そして急に鬼の顔になって地雷を床に叩きつけると、
「――あの餓鬼、この地雷、やっぱり中国製じゃねぇか!」
と、虚空に向かって叫びました。
アノニマは音のした方角へと馬を走らせていました。その途中でヨーイチに会って、どうどう、と馬を止めました。
「落ちたのはヘリか」
アノニマが言いました。
「あ、ああ。しかも、あの赤毛の嬢ちゃんが乗ってたやつ……」
「まぁな。どうせそんな事だろうと思っていた。スティンガー・ミサイルかなにかでも撃たれたんだろう」
行くぞ。とアノニマが言って、ヨーイチが慌てて、
「え? 助けないのかよ」
と、言いました。アノニマは眉間に皺を寄せて、
「どうしてそうなる。たかだか一日知りあったくらいで。私たちは十字軍でも正戦軍でもないんだ」
そう言いました。ヨーイチは少し躊躇ってから、それでも言いづらそうにしながら、
「でも、あの……前に、お前を襲ったやつら。虹色の蝶の黒旗が、なびいてた、って……」
アノニマは眼の色を変えました。カマルが少し心配そうに彼女を見ました。
「……確かなのか?」
ああ、とヨーイチが答えました。アノニマは無言になって、黒煙の立つ方角へと馬を走らせ始めました。ヨーイチも慌てて「ジャック、ジャック!」と叫んで、彼のロバを呼んでそれから彼女についてゆきました。
少女の駆る馬は全速力でした。狼犬のカマルもそうでした。ヨーイチは、やっとの事で彼女らに追い付いて、それから言いました。
「――なぁ、あいつらってやっぱり……」
「……新日本赤軍。今はなんというか、知らんがな。私も昔、所属していた」
新日本赤軍……とヨーイチは呟きました。
「あの、女隊長が言ってた、アポロとかなんとか、いうやつ」
「私の仇だ」
「――それって、やっぱり……」
「殺す。……この間の下っ端と違って、今度はどうやら計画的に動いている。詳しい情報を知る幹部が居るはずだ」
「……お前が日本嫌いなのって、やっぱ、そういう」
「――世界で最初に国際テロや自爆テロを実行したのは、日本人だ。日本赤軍のテルアビブ空港乱射事件……今の日本人はそんな事も気にせず、のほほんと平和ボケしてやがるそうじゃないか」
「そんな事言ったって、アレは過激派の犯行、って事だろ? 皆がみんな責任をとるだなんて、そんな無茶苦茶な」
「そんな事は言っていない。ただ単に、日本人は歴史から学ばない。真珠湾攻撃だって近いものじゃないか。誰が悪い、いや悪くない、そう言って、責任の所在を曖昧にする」
「……」
「――或いは、『異教徒』だの『テロリスト』だの言って、レッテルを貼り思考停止する。そして自分たちとは異質なものだと認識し、徹底的に排斥する。――それはアメリカ人も同じか? 単にそれは、自分たちに心地いい理由を探しているだけだ。碌に学びもせず教えもせず、臭いものに蓋をして、世界が平和になるなら、楽なものだ」
「……」
「――まぁ、いい。お前と平和や政治について議論したいわけじゃない。それにもう着いた」
少女は馬を止めました。その丘からはちょうど落ちたヘリコプターが一望できました。ヨーイチがすごすごと言いました。
「――なぁ、やっぱ、もう皆死んじまったんじゃねぇのかな……?」
「待て」
ヘリコプターから黄色の煙幕が昇ってくるのが見えました。
「スモークだ。まだ誰か生きてる。行くぞ」
アノニマは馬の踵を返して丘を下る道を行きました。ヨーイチも慌ててそれについてゆきました。
ヘリコプターの黄色い煙幕はゆらゆらと青い空に立ち昇っていました。アノニマとヨーイチ、それにカマルは傍まで近付くと、二人とも馬を降りました。
辺りの砂には確かに誰かがトラックなどで乗り付けた痕が残っていました。足跡は数人分あり、戦闘した様子は見られませんでした。
ごほっごほっ、と咳き込む音がして、アノニマはヘリの中を覗きました。そこに居たのはネイビーブルーのバンダナと青い戦闘服を着込んだ白人の男で、肩にはドイツの国旗が刺繍してありました。
「
「ああ……」
男は咳き込みながらも答えました。目立った外傷は少なく、あっても既に治療してあり、見るからにタフ・ガイのようでした。
「レッドはどうした」
「連れて行かれた……気を失っている間に……おれは、パイロットと一緒に死んだと思われたらしい……あんたは?」
「私は、クルドだ」
「ああ、レッドが話していた……英雄サラディンって訳だ」
「別に英雄でもない。――虹色の蝶の黒旗の連中か?」
ああ、と男が再び咳き込みながら言いました。アノニマがちらりとヘリの中を見ると、そこにはドイツ製DSR狙撃銃が鎮座していました。男が少女を見て聞きました。
「なぜ俺を助ける?」
アノニマは答えました。
「別に助けに来たわけじゃない。虹色の蝶には個人的な怨みがある」
男は、ハハ、そいつは良いな、と笑って、ようやく上体を起こして手を差し出し、言いました。
「俺はウェーバー。カール=マクシミリアン・フォン=ウェーバー。あんたに協力するよ、女神アルテミス」
「――すまないが、遠矢射るのはお前に任せる、ハンス」
何かレッドのものは残っていないかと聞いて、ウェーバーは彼女の鞄に香水が入ってるはず、と言いました。アノニマはそれを取り出してカマルに嗅がせると、〈探せ〉と彼に言いました。
カマルはしばらくあちこちをうろうろしていましたが、ふとワン、と吠えて〈いい子だ〉とアノニマは彼を撫ぜてやりました。それから、ヨーイチに「こいつを乗せてやれ」とウェーバーを指して、狙撃銃を背負った彼をヨーイチのロバの後ろに座らせました。大きなロバでしたので大の大人が二人乗ってもへいちゃらなようでした――或いは、男が二人乗っている事にも気付いてないのかもしれませんが。
〈
カマルが先頭を切って、三人は馬に跨ってそれについてゆきました。
陽は傾き始めてくるころでした。
* * * * * *
闇の砂漠のなかの遺跡は、ぽつんと淋しく佇んでいました。その中は電子機器で埋め尽くされており、座らされ後ろ手で手足を縛られたレッドの前には、ビデオカメラが鎮座していました。それはラップトップに接続され、無線でどこかに映像を飛ばしているみたいで、男たちはそれを淡々と準備して、どうやら設置も完了したようでした。録画の赤いランプが点灯しました。
「私をどうする気だ」
レッドが言って、一人の男がぴしゃりとその右の頬を叩きました。女神イシュタイルの石像はただじっとその場を見下ろしていました。
「別に。ただ少しばかり話をしようと思っただけだ」
リーダーらしき男が言いました。髭をたくわえていて、その手にはホルスターごと外されたレッドの二挺拳銃を持っていました。
「なぜ銃を持っている?」
「必要なものだ。お前たちテロリストから身を守るためにな」
再び、ぴしゃりと音がして左の頬が打たれました。
「テロリストだと? それはお前たちの事だろう」
黒旗が風もないのになびいて、虹色の蝶を踊らせました。
「お前たちは、お前たちの基準で世界を量る。そしてそうする事が当然であるように振舞う。そうであるなら、俺たちの価値観を世界に広めることに、なんの違いがある?」
「それは詭弁だ。科学は人類に普遍のものだ。人間には理性がある」
レッドが言うと、男は溜息を吐きました。
「白人はいつもそうだ。数の多い方が正義だ。お前らが、自分たちが正しい、皆そうあるべきと思い込んでいるのと同等に、我々も自分たちの正しさと、皆がそうあるべきという事を信仰するのだ」
「そうやってテロを正当化するのか?」
レッドが強気に言いました。男は少し笑って答えました。
「我々は
「――それが私の権利だ」
「権利――権利か。お前ら白人がずかずかと人の土地にやってきて、俺たちの国を滅茶苦茶にする事。それがお前らの言う『
男はそう言うと、彼女の銃をテーブルに投げ出して命令しました。
「殺せ。お前たちの好きにした後でな。それが『権利』というものらしい」
男が奥に消えると、部下たちがへへ、と笑って言いました。
「隊長の言ってる事は全然わかんねーけど、俺たちとしては、こんなエロい身体したねーちゃんとヤれるってだけで万々歳なんだよな」
「――私に触れるな!」
レッドは動けない体でもがきました。男が一人、レッドを抑えつけながら地面に倒しました。部下たちはズボンのベルトをかちゃかちゃと外そうとしているところでした。
「……やめろ、やめろ! ――いやっ、いやだっ」
だんだん怖くなってきて、レッドが叫びました。でも誰も聞いていませんでした。レッドは両のヘーゼル色の眼を瞑りました。
さて、みんなでソレをするという事に気を取られていたので、三人も居ましたのに誰一人として、闇に紛れていた一人の少女に誰も気付きませんでした。音もなくするりと三日月に光る刀身が現れて、一人の男の腎臓を刺しました。残る二人はズボンを下ろしたまま、テッテメェッと銃床で彼女を殴ろうとしましたが、少女は右手でそれを凌ぐと、首根っこに鎌みたいなナイフの刀身を突き刺して、それを引き抜く時に獣の爪に引き裂かれたような痕を残しました。もう一人の男は、アノニマが二人殺す間に狼犬に噛み殺されておりました。仕上げにビデオカメラを殴り倒して壊しました。
レッドはしばらく呆然としていましたが、アノニマがナイフで彼女を縛っていた縄を切ってやると、目をぱちくりさせて、
「あ。――あ、ありがとう……」
と、言いました。
「ひとつ、貸しだからな」
アノニマはラップトップを閉じると、それをレッドの鞄に入れました。またそこからレッドのMP5K『
「この通信記録から、どこに映像を飛ばしていたか探知できるか?」
「あ、ああ。出来ると思う」
しどろもどろながらレッドが答えました。するとアノニマがテーブルの二挺拳銃をホルスターごと渡して、言いました。
「
レッドは細かく首を縦に振って、そしていつも射撃前にそうするように、呼吸を整えて二挺拳銃に十三発の延長弾倉を叩き込むと、それぞれ遊底を引いて安全装置をかけ、ホルスターにしまいました。また『スキニーポッパーズ』にも同じように弾倉を差し込むと、ボルトを叩いて初弾を装填しました。
二人の武装少女と狼犬は、静かに遺跡の中を歩いていました。遺跡の中にはときどきライトや松明、発炎筒の灯りがあって、暗闇を辿るようにしながら、奥へ奥へと進んでいました。
「どこに向かっているんだ」
レッドが聞きました。その手には機関拳銃が握られていました。
「私にはまだ探し物がある」
アノニマが答えました。背中に『クリンコフ』短機関銃を背負い、手にはカランビットナイフだけを握っていました。
道中に刺殺体があって、また獣の牙や爪で引き裂かれたような姿の死体もたくさん転がっており、レッドがそれをひとつ踏んで、「ひっ」と息を短く吸いました。
「これは……みんな、お前がやったのか」
「杜撰な警備だった。騒がれずに一掃するのも難しくない」
二人と一匹は遺跡の一室に辿り着きました。そこは物置として利用されているようでした。そこにはナチスドイツ軍の銃火器やカラシニコフ突撃銃、手榴弾や弾薬、迫撃砲なども置いてありました。アノニマはそれを幾らか拝借して、それから辺りを見回して、ふとお目当ての物を見つけると、それから言いました。
「化学防護服だ。読みは当たったようだ」
「化学防護服?」
「お前たちが埋葬した、ゴーストタウンの死体があったろう。アレがこいつらの仕業という事だ」
「――なんて奴ら」
「ここにあるのは――アトロピンにジアゼパムか。という事は、奴らの持っているのは、おそらくサリン。ナチスの遺産、か……」
アノニマは言いながら、薬品をいくつか鞄にしまいました。
「化学兵器?」
「クルド民族は八八年にサリンによる攻撃を受けた。ハラブジャ事件というものだ。それがイランによるものか、サダム・フセインの命令によるものか、それは今でも分からない。九四年と九五年には、日本でもテロに使われたらしい。『貧者の核兵器』とも呼ばれる」
そうしていると、遺跡の中がにわかに騒がしくなってきました。アノニマは舌打ちをして、
「ちっ。死体が見つかったようだな」
そう呟いて、レッドを引っ張って物陰に隠れました。話し声と足音が近付いてきたからです。
――探せっ! 必ずどこかにいるはずだ! と、敵が叫びました。フラッシュライトの光から隠れながら、暗闇の中のアノニマはカマルを抑えながら、ひそひそ声でレッドに言いました。
「あそこに、三人固まっている。いちばん手前を、その機関拳銃でやるんだ。私とカマルであとの二人は片付ける」
「な。なんで、私が」
「その銃には抑音器が付いている。できるだけ騒がれたくない」
敵のスリーマンセルがだんだんとこちらに近付いてきました。ライトの光が眩しくなってきました。
「さっきみたいに、一斉にナイフで片づければいいじゃないか」
「あれは、不意を突くから出来るんだ。いま敵はこちらを警戒している。逃げ隠れるのは、常に優位な状況を作り出すためなんだ――だがもうすぐ見つかる。撃つんだ!」
レッドは半分やけくそになって、『スキニーポッパーズ』の安全装置を外しました。それから物陰から半身を出して、そして撃ちました。ぶぼぼぼぼっ、という低い連続音がして、四〇口径の重い銃弾は、いちばん手前の敵を防弾装備の上から殴り殺しました。
後ろの敵がそれに気付いて、ライトの付いた銃をこちらに向けました。レッドは眩しくて思わず目を伏せて、隠れました。が、それも長くは続かず、敵は既に頭からナイフを生やして死んでいました。それはアノニマの投げた銃剣でした。それとほとんど同時に素早くカマルが飛び出していて、いちばん奥の敵を爪で切り裂き、首根っこに噛み付いていました。
「進むぞ!」
アノニマが物陰から飛び出して言いました。刺さった銃剣を抜きながら死体を通り過ぎ、カマルもそれに続きました。レッドは空になっていた『スキニーポッパーズ』の弾倉を交換しボルトストップを叩くと、慌ててそれを追いかけました。
走りながらレッドがぶつぶつと呟きました。
「これは――これは、正当防衛だ」
「人を殺すたび、いちいち考えるつもりか? 好きに名前を付けて呼べばいい。正しさなんてものはどうせ後からついてくる。まず、それよりも先に自分を守る事だけ考えろ」
アノニマがそう言い捨てると、レッドが抵抗するように言いました。
「――だけど、私はここに人を殺しに来ている、結果として」
「甘えたことを抜かすな。お前は西洋人なんだろう? だったら、正しさや倫理観なんかにうつつを抜かしてないで、ただ単純にお前の好きなようにすればいい。お前の道に邪魔な奴は、その理性の光で蹴散らせばいい。――さもなくば死ね。私は大人の子守をしてる余裕なんてないんだ」
――そこに居るな! と足音を聞きつけた敵が叫んで、出し抜けに発砲してきました。アノニマはレッドを巻き込みながら飛び前転をするようにして、通路に積まれた土嚢の後ろに隠れました。
「制圧射撃だ! 撃ちまくれっ」
アノニマが叫んで、レッドが土嚢から銃だけ出して引き金を絞りました。すると相手も同じように遮蔽物に隠れて、短い膠着状態のようになりました。アノニマは散弾拳銃『ルパラ』を抜くと、二つの銃身に散弾を装填しました。そして手榴弾を取り出して、歯でピンを抜くとそのまま投げ付けました。
轟音がして、遺跡内に破片が飛散しました。屋根からは少しぱらぱらと土が崩れてきました。爆風によろけた敵を、アノニマは素早く『ルパラ』で捉えて、そして撃ちました。
「出口まで走るぞ! ついてこい」
土嚢を乗り越えて走り出したアノニマを、曲がり角で敵が待ち構えていましたが、アノニマはナイフで腕の腱を切り裂いて銃を取り落とさせると、その腹に『ルパラ』の散弾を撃ち込んで殺しました。
アノニマは『ルパラ』に再装填しながら、
「後ろからも来てるぞ! そっちは任せるっ」
と、レッドに言いました。レッドは続けて『スキニーポッパーズ』を乱射していましたが、弾倉を交換しようとポーチに手をやると、既に撃ち尽くしていた様子で、
「――弾が切れた!」
「――お前の二挺拳銃は本当に飾りなのかっ」
レッドはほとんど反射的に二挺の拳銃を抜きながら、安全装置を親指で外し、迫ってくる兵士たちに向けて弾幕を張りました。それは射撃場で的を撃つのと変わりませんでした――つまり好成績でした。
アノニマは遺跡の出口を固めている兵士たちに、牽制射撃の意味で『ルパラ』を二連射しました。散弾は拡がって飛んで行き広範囲の敵を負傷させました。中折れ式の銃身を折って再び散弾を装填し、また引き金を絞ると、ばぎん、と破壊音がして『ルパラ』の銃身が明後日の方向に飛んでゆきました。
「――糞ッ!」
一瞬だけ呆気に取られたアノニマは叫んで、そのまま『ルパラ』のグリップ部分を思い切り投げ付けました。それは放物線を描いてゆるやかに飛行し、ごんっ、と良い音を立て、敵の頭を直撃して彼を気絶させました。それに一瞬だけ顔を見合わせた兵士たちを、『クリンコフ』の銃弾が貫きました。
「油断すれば死ぬんだ。お前らが悪い」
アノニマは『クリンコフ』の古い弾倉を新しい弾倉で弾いて、そのまま弾倉を装着すると右手で遊底を操作しました。それから左手でグリップを握ったまま、レッドに「こっちへ来い」の合図をしました。レッドがカマルを連れて遺跡の奥から現れて、
「こいつに助けられた。危ないところだった」
と、すこし興奮した様子で、息を荒くしながら言いました。
「ああ。賢くて、強い子だ。お前も少しは見習ったらどうだ」
アノニマが言って、レッドは少し不満そうに口を尖らせました。
出口の外からは冷たい夜の砂漠の風が吹いてきていました。
* * * * * *
ドイツ製DSR狙撃銃の冷たい銃身は、二脚でぴたりと据えられて微動だにしませんでした。照準眼鏡と一体になった
「二人が遺跡から出てきた」
ウェーバーが言いました。すると、彼女たちから少し離れたところで、何か動きがありました。それを
「機関銃だ。距離九五〇。
ウィーバーは少し息を吸いました。そして少し吐いて止めました。鼓動の振動すらをもコントロールする技術が、少しの照準のブレをも嫌う狙撃手にとっては必要なものでした。
「――伏せろッ!」
アノニマが叫んで、レッドを引っ張りながら柔らかい砂の上に押し倒しました。遮蔽物は見当たらなくて、アノニマは少しスロープになっているところに身を寄せました。頭の上を毎秒二五発の曳光弾が飛び交っており、いくらかは、どふっと重い着弾音をさせて砂を大きく巻き上げました。
「MG42機関銃だ。迂闊に頭を上げると、死ぬぞ」
びぃぃぃぃっ、と布を引き裂くような音が響いていて、それは一続きになった銃声でした。アノニマはカマルとレッドを二人とも抑え込んで、砂をもろに被り口の中に入った砂をぺっ、と吐きました。
急に機関銃の回転が止まりました。それからひとつの銃声が遅れて響いてきました。アノニマは言いました。
「『魔弾の射手』だ。良い狙撃兵を飼っているじゃないか、レッド」
そう言って立ちあがろうとすると、レッドがアノニマにがっしりとしがみついているのが分かりました。
「どうした」
彼女は少し涙目になって、頬を赤くしていました。アノニマがちらを彼女のズボンを見やると、そこに濡れた染みが出来ているのが見えました。アノニマは左右非対称の表情をさせて、
「――あまり、気にするな。私もそうだった。生存本能が働くと、膀胱の筋肉なんてものは後回しになる。それが戦争というものだ」
と、言いました。それを聞いてレッドはようやく、
「……ほんと?」
とだけ、すこしか細い声で言いました。
「ああ。皆には黙っておいてやる。それに走っていればすぐ乾くさ」
そう言って、別の敵が機銃に付く前に、どうにか長く並んだ石の遮蔽物に身を隠す事が出来ました。散発的に敵は発砲してきましたが、闇夜ではほとんど盲撃ちで、アノニマはそのマズルフラッシュにめがけて手榴弾を放ってやりました。それが爆発すると少し静かになりました。
レッドはまだ少し落ち込んでいましたが、身を寄せるその石を触っていると、ふとある事に気付きました。辺りに点在する石々を見渡して、それから落ちている石を拾いながら、呟きました。
「あの石の配列……ひょっとして環状列石? ここ一帯が配石遺跡なのか? それにこの落ちている石。よく見ると磨製石器だ。しかも、新石器時代か青銅器時代のもの……エジプト以前の文明……?」
アノニマは銃口に大きな消炎器が装着された『クリンコフ』を構えながら、
「ふん。オタクはこれだから助かる」
と言って、応戦を始めました。消炎器は銃口からのマズルフラッシュをほとんど軽減し、闇から銃弾が飛んでくるみたいでした。機銃についていた敵も狙撃によって頭を失くして、そしてやがて状況は一旦静かになりました。
遠くから、エンジンの音が聞こえました。それは軍用のジープで、
ライトを消しながらこちらに向かってきているようでした。
「そういえば、あの変態男は」
「ヨーイチの事か? 観測手として付けておいた」
アノニマは敵のMG42機関銃『ヒットラーの電気ノコギリ』に弾倉を取り付け、中から弾帯を引っ張り再装填しながら言いました。
「拳銃じゃ射程が足りん。この機関銃を使わせてもらおう」
そう言って機銃のグリップをレッドに差し出しました。
「機関銃なんて使った事ない」
「引き金を引けば弾が出る。なるたけ敵の左側を撃て。援護だけでいい、一人のほうが速い。――行こう、カマル」
レッドは二脚を石壁に据えて、エンジン音の方向に向けました。アノニマとカマルは素早く闇の中に消えてゆきました。
レッドは照準をジープに合わせてそれを追い、それが止まると、『ヒットラーの電気ノコギリ』に火を吹かせました。ちょこんと引き金に触れただけで、辺りは一瞬だけ昼のように眩しくなりました。レッドはそのじゃじゃ馬を数発ごとに点射するようにしました。
アノニマはもう彼らに近付いていました。闇に溶けるようなその黒旗がなびいていて、その分ひときわ、虹色の蝶が目立っていました。レッドの援護射撃はほとんど彼らの頭上に線を描くばかりでしたが、少なくとも陽動にはなっているようでした。
岩場に隠れると、アノニマは手榴弾を投げ込みました。ぽとりとそれが砂の上に落ちると、子供たちが我先にと手榴弾に覆い被さりました。そして爆発しました。血霧や肉片が辺りに飛散しましたが、別段何もなかったように、子供たちは旗を掲げ銃を撃ってきました。アノニマは身を隠しました。すると、子供達が皆一様に呟いているのが聞こえてきました――それは信仰告白のようでした。
「ぼくらは愛されなかった選ばれなかった望まれなかった子供たち。ぼくらは、愛されなかった選ばれなかった望まれなかった子供たち」
それはほとんど
更にトラックが着いて、レッドの撃つ曳光弾が何人かの増援たちを死傷させました。アノニマはカマルと共に飛び出して一気に近付いて、血を被りながら、『クリンコフ』とナイフとを同時に構え、増援たちを続け様に薙ぎ殺してゆきました。
それは舞踊でした。敵兵士の一人が日本刀を逆袈裟に薙いで、避けた少女が三日月型のナイフで腕を巻き込み武器を取り落とさせると、顎に掌底を喰らわせて首の骨を折りました。二人が同時に銃剣で突いてくるので、片方の皮膚の膜をつまむようにしてもう片方に刺し殺させ、すばやく砂の上の日本刀を拾い上げると小銃ごと両腕を斬りおとし、二人の首を撥ねました。少女はニタリと笑いました。
一人の怯えた兵士が、彼女に銃口を向けられました。
「ひっ! ころ、殺さないで」
それは鬼でした。幼い頃の隠れん坊のように、逃げ隠れる人々を一人残らず見つけ出して殺す、小さな赤い鬼でした。鬼は『クリンコフ』の引き金を絞りました。――かしゃん、と撃鉄が落ちる金属音だけがしました。怯えた兵士は息を吸って、チャンスだとばかりにレンコン銃――S&Wのハンドイジェクターを抜こうと、あたふたしていました。鬼はただぼうっとしていました。狼犬は後ろで人を噛み殺し喰らっていました。
レッドの援護射撃の音が止んでいました。
遠くから、彼女の声が響いてきました。
「再装填は……再装填はどうするんだ、アノニマっ?!」
辺りは水を打ったように静かになりました。アノニマと呼ばれた少女は黒い空を仰ぐようにして、そして、
「――あははっ! あっはっはっはっ! ……」
右腿のホルスターから素早く『ピースメイカー』を抜くと、男を射殺しました。それからまた撃鉄を起こし、引き金を引き、起こし、引き、起こし、引き、起こし、引き、最後にかしゃんと撃鉄が落ち、ちょうど六発を顔面に叩き込むと、男の頭は熟れたザクロみたいになりました。
カマルが駆け寄ってきて、心配そうにアノニマの足元に擦り寄ってきました。少女はしゃがんで彼を撫ぜてやると、
〈――大丈夫だ。もう、取り戻した〉
と、クルドの言葉で言いました。カマルは彼女の浴びた血を舐めてやりました。
アノニマが『ピースメイカー』と『クリンコフ』を再装填している間に、静かになって心配したレッドが駆け寄ってきました。言葉をかける間もなく、アノニマはレッドに敵の使っていた銃を投げて渡しました。それはドイツ製3号小銃のトルコ製コピーで、緑色の強化プラスチックのハンドガードが付いていました。
「……ああ、これならわかる」
レッドはいろいろ飲み込んで『3号小銃』の弾倉をいくつかポーチに放り込みました。
カマルがぴくりと鼻を動かしました。敵が追ってきているようでした。アノニマは溜息を吐いて、
「飽きない奴らだ」
と、言いました。それからジープに飛び乗ると、「乗れ」とだけ短く言って、後部座席に二人を載せると、クラッチを踏みながらギアを3に入れ、がたがたと車体を揺らしながらジープが発進しました。
さっきのリーダーらしき男が、部下たちに指示を飛ばしていました。倉庫から迫撃砲が持ち出されてきて、撃ての命令で一斉に砲が火を吹きました。周りも滅茶苦茶に突撃銃を撃っていました。照準も何もない威嚇でしたが、何もしないよりはいくらかマシでした。
砲撃が始まって、アノニマは軽くクラッチを踏みながらギアを5に入れ、アクセルを思い切り踏み込みました。レッドは大きく照準を揺らしながら、『3号小銃』で後ろに向かって威嚇射撃を続けました。風が二人の髪を揺らしました。
「――運転が荒いんじゃないのかっ」
「車は苦手なんだ」
アノニマは砲撃を避けながら、車をトップスピードで走らせました。すると、突然一瞬目の前に影が出来たかと思うと、遺跡のほうからひときわ大きな爆発音が響いて、振り返ると、土煙があがって、跡形もなく遺跡が崩れ落ちていました。
「な、なんだ……? いったい何が起きてる……」
レッドが言いました。アノニマが答えました。
「分からん。だが向こうからの攻撃が止んだのは確かだ」
アノニマが急ブレーキを踏んで、ふぎゃっ、と叫んでレッドが後ろに倒れました。
「急に、なんだっ!」
「もう着いた」
東の空は明るんでくるころでした。えっ、とレッドがぽかんとすると、遠くでウェーバーが笑って、彼女に言いました。
「レッド。酷い見た目じゃないか、ええ?」
「カール!」
レッドは感極まってウェーバーに駆け寄り、抱きつきました。ヨーイチは、なんだ、女の子らしいとこもあんじゃん、と思って、それから、「お前にはああいうとこがないよなー」と、ぼやきました。「何か言ったか」とアノニマがつっけんどんに言いました。
アノニマはジープから降りると、ヨーイチに馬を連れてこさせました。それからヨーイチが彼女を一瞥して、
「あれ、お前、なんか足りなくね?」
「――ああ、散弾銃が壊れた。いちばん付き合いの長い銃だったからな。ガタが来てたんだろう」
「ふーん、そんなもんか。お前道具に愛着とか無いタイプな」
「銃は銃だろ。別に好きで持ってる訳じゃない、必要だからだ」
と、言いました。ヨーイチはへらへら笑って、
「お前には詩情ってもんがないよな。俺とこのカメラの出会いからの長い付き合いと言ったら、そりゃあ筆舌に尽くしがたく……」
「そりゃ単に、お前が記憶喪失だからだろ」
と、アノニマが言って会話は終わりました。
ウェーバーがアノニマに向き直って言いました。
「借りが出来たな、アルテミス」
「別に貸そうと思ったわけじゃない。結果的にそうはなったがな。借りたものは、返してもらおうか」
ヨーイチがニヤニヤと笑って言いました。
「こいつに貸しを作るのは、こえーぞー」
「そうだな。お前らに二、三頼みたい事がある。まず……」
アノニマが言いかけて、ふとカマルの視線の先に目をやりました。明るんでくる地平線の向こうから、よたよたと歩いてくる人影がありました。アノニマは『ピースメイカー』を抜きました。
「――待て、アノニマ! 民間人だ。彼は武装していない」
レッドがそれを制しました。確かに武器の類は持っておらず、代わりにその震える手には、無線機と白旗が握られていました。
「こ、こっちに来るぜ」
ヨーイチが言いました。白旗は風になびいて、よたよたと、男は近付いてきました。その顔は同じく蒼白で、夜の寒さに凍えたように歯の根をがちがちと鳴らしていました。アノニマはまだ警戒していました。男は近付くなり、ぶるぶると震えながら手の無線機を差し出して、言いました。彼は尿を漏らしていました。
「――ここ、こ、これをあんたに渡せって……ぼ、亡霊が……――」
無線機には白ウサギの可愛い絵が描いてありました。アノニマが黙ってそれを受け取ると、やがて無線越しに声が聞こえてきました。
『もしもし、もしもし……あれ、これ、ちゃんと電波入ってんのかなぁ……あ、大丈夫そう。ごほん。やあやあ、ゾーイ。久しぶりだねぇ。元気にしてたかい?』
「――お前は、」
『そうだよ。僕だよ。アポロだよ。声が聞けて嬉しいなぁ』
アポロ・ヒムカイは言葉通り嬉しそうにそう言いました。
『部下が、君の友達にとんだ失礼をしたようだね。だけど、ちょうど死んでくれたみたいで、良かった。ビデオの中継、見てたんだけど、彼らと僕とでは考えてる事がすこし違ったみたいだし。単なる
「さっきの爆発はお前の仕業か」
まあねー。僕、単なる道具に愛着とか湧かないタイプだから。と、アポロは言いました。
『権利だとか正義だとか、そんなの、どーだっていーじゃんかぁ? ゾーイもそう思わない? 僕は思うなぁ。僕は馬鹿だから単純にみんな平等に死ねばいいって思ってるよ。特にムカつく奴は先に死ね、つうか殺す。って思う。まぁ別にほっといたって人は絶対死ぬから、それが救いっちゃあ救いだよねー』
「…………」
アノニマの反応が無いので、アポロは構わず喋り続けました。
『ムカつくんだよねー。頭の良いように見せたい奴っていうか、インテリっぽいやつ? ちっちゃいプライドの為に、人の揚げ足取って得意げになる奴っていうの? どーせ後から仲違いして殺し合ったりするんだし、めんどいから、そーゆー奴は僕の部隊には要らないんだよなー。――あ、でも、ゾーイ、君は別だよ。君は、決して驕らないから』
「御託はいい。用件はなんだ」
『えー。人と話したい、ってだけのに別に用件とか要らなくない? ちょっと声が聞きたかっただけー。とかあるでしょ?』
「どうでもいい。どこに居る」
『それは君で探しなよ。――あ。なんかゾーイのほうから僕を探しに来てくれるって、ちょっと嬉しいなー。なんちゃって』
「待っていろ。近々殺すために会いに行く」
『それは嬉しいなぁ。楽しみに待ってるからねー』
そう言って無線が切れました。ヨーイチがおどおどして聞きました。
「だ、誰だったんだよ」
「――アポロ・ヒムカイ。私に殺されるのを楽しみにしてるそうだ」
「おっかねぇ奴。――ところで、こいつはどうするよ?」
蒼白の男は心ここにあらずの様子でした。すると、男から、ピコッという電子音がしました。――まさか! とアノニマが言って男のシャツをめくると、その下には、時限爆弾が巻かれていました。タイマーは既にカウントを始め、五分を切るところでした。それにはハートマークと二つのAで出来た蝶のマークが書いてありました。
アポロから無線が入って、アノニマが応答しました。
『もしもし、もしもし? 言い忘れてたんだけど、そいつは、ちょっとしたゲームみたいなもんでさ。こっちでスイッチ入れて、五分したら爆発するようになってるんだ。まぁ暇だろうし、楽しんでみてよ。幸福なにんげんの命乞いはこの世でいちばん面白いよ』
無線が切れると、アノニマは『ピースメイカー』を男に向けました。それと同時にレッドがアノニマに拳銃を向けて、叫びました。
「――何をしている、アノニマ!」
「人間爆弾だ。もう助からない。だから面倒が起きる前に殺す」
蒼白の男の腹の爆弾はしっかりと縫いつけられていて、外す事は不可能なようでした。男は涙を流しながら嘆願しました。
「さ、妻子が人質に取られてんだ。言う通りにしないと、生きたままばらばらにして殺す、って、や、奴が」
爆弾のカウントはどんどん減っていました。爆発の範囲から逃れるには、急いで殺さなくてはなりませんでした。
「お俺には家族も居る、わわ分かるだろ? い生きて帰れば、妻子は殺さないって。ぼぼ、亡霊が言ってたんだ。た、助けてくれよ」
「断る。私が死んだらどうする」
アノニマはゆっくりと『ピースメイカー』の撃鉄を起こしました。そして、ぱんっ、と甲高い音が響いて――それは、レッドがアノニマの頬を叩く音でした。
「人が死のうって言うのに、黙って見ていられるか!」
ウェーバー! とレッドが叫んで、彼が答えました。
「警察時代に、爆弾処理の経験はあります。……この時間で解除できるかは、微妙ですが……」
「やるんだ」
レッドが即答して、ウェーバーはすぐさま作業を始めました。アノニマは渋い顔で打たれた頬を少しさすりながら、
「……じゃあ、私たちはさっさと退散するとしよう」
「えっ、あっ、おい」
戸惑うヨーイチを尻目に、馬に飛び乗って走り出しました。カマルもヨーイチも慌てて彼女についてゆきました。
* * * * * *
離れていく道中で、アノニマはまだ頬を
「…………自分の命を無為に危険に晒して
ヨーイチは、振り返って背中のほうの三人を見て、
「うーん、アノニマ、お前、結構世間ずれしてると思うぞ」
と、言いました。アノニマはむかっとして言いました。
「どこがだ。私ほど人間らしい人間は居ないぞ。むしろあの女の方がズレているんだ。お前だって、あの場に行けと言われて行くか?」
「あー、うーん、いや……そうだなぁ。そう、だなぁ」
「あいつは馬鹿だ。本当の馬鹿だ」
東の空からはもう朝陽が差し始めていました。五分たっても、十分だっても、爆発音はしませんでした。やがて背後から、ぶろろろろ、というジープの音が響いてきました。
乗っていたのはレッドとウェーバーの二人でした。よう、と彼が軽く挨拶をして、ヨーイチが、おっ、と感嘆して、
「解体、成功したのかよ。すげーじゃん」
と、二人に言いました。ああ、とレッドが答えて、
「彼は解放した。私たちは、とりあえず一足先に街のほうに戻る。頼まれ事の用件は、またそこで聞こう」
と、アノニマに言いました。アノニマは、まだちょっと膨れっ面のしかめっ面をしたまま、彼女のほうも見ないで、
「……恩を仇で返しやがって」
とだけ、呟きました。それからレッドは少しだけ笑って、ジープはさっさと走り去っていきました。アノニマはまだ膨れていました。
「……まぁ、ほら、機嫌、なおせよ」
ロバの速度を落としながら、ヨーイチが言いました。
「べつにおこってなんかない。ただちょっと、ムカついただけだ」
馬を歩かせながら、アノニマが言いました。
「違いがわかんねーよ。アレか? アポロとかいうやつと話したから、なんか怒ってんのか?」
「別にお前には関係ない。……ただちょっと、初めて、――」
アノニマが言いかけて、背後から爆発音がしてそれは遮られました。二人は驚いて馬を止めると、ヨーイチが「な、なんだ」と言って振り返りました。遠くの砂の上に、小さな赤い窪みが出来ていました。それとほとんど同時に、再びアポロから無線が来ました。すぐさまアノニマは応答しました。
『あ、解体、失敗しちゃったみたいだね。まぁただ単に身体の中にもうひとつあったんだけど。それはこっちで適当にいつでも爆破できるからさー。結構時間経ったのに、爆発した感じしなかったから、念の為押したら爆発しちゃった。残念、残念。僕としては別に殺すつもりだったからいいんだけど。ムカつくんだよね、そいつ、温かい帰る家庭があったから、あと目が緑色だから』
「…………」
『――ま、いいや。こっちもこっちで解体して楽しむことにするよ。今度は直に会って話そうね。……じゃあ、またね、僕のゾーイ』
アポロがそう言って、無線が切れました。アノニマが無線を投げ棄てると、何秒か経って、無線機がちいさく爆発しました。
ヨーイチはしばらく呆然としていましたが、ふと、アノニマが何か言いかけていた事を思い出して、
「初めて……なんだって?」
と聞きました。アノニマは、ただじっと遠くの赤い窪みを見ながら、
「別に。初めて、赤の他人に叱られた。と、思っただけだ」
と、呟きました。
東の空の太陽はもう上がってくるころでした。ふわあ、と、狼犬のカマルは大きくあくびをしました。ヨーイチもつられてあくびをしました。アノニマは、もう痛みは過ぎたのに、まだその頬をさすっているのでした。
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