4.中東戦線異状なし

 日射しは殺人的に照りつけておりました。光は、白っぽい砂の海に垂直に反射して、暑さと眩しさで生き物たちをサンドイッチした具合でした。

 馬に乗った少女と、その隣に男が一人、それから一匹の狼犬が歩いていました。男は背筋を丸めて、陽に焼けた鼻をこすりながら、

「あー……喉が渇いた。それに、腹も減った」

「唾でも飲んでろ」

髪の長い髭面の男がぼやいて、それよりも髪の長い凛々しい表情の少女が答えました。

 全身から汗の噴き出している男は、鞄から水筒を取り出して蓋を開けました。その中に残った水滴を、舌を出してぴちょぴちょと未練がましく舐めました。

「アノニマ、お前の水、ちょっと分けてくんねぇ?」

「植物というものには少なからず水分があるものだぞ?」

 アノニマと呼ばれた少女は馬の歩みを止めることなく、ブーツの中から折り畳み式のツールナイフを取り出して男に渡しました。男は、これ、どうやって開くんだ? と聞いて、アノニマは、刃の峰を少し押せば展開される。と答えました。男はその通りにしました。

「ホントだ。キツツキもサボテンの実、啄ばんでら」

男は首に吊ったカメラを取り出して、鳥の写真をいちまい撮りました。アノニマは振り返って、少し呆れた様子で言いました。

「ヨーイチ。死んでしまったら写真も撮れなくなるんだぞ」

「けど、シャッターチャンスも待ってくれないんだぜ」

ヨーイチと呼ばれた男がふいに少女にレンズを向けて、そしてシャッターを切りました。けれどフィルムには結局何も映っていなくて、それはのところで彼女が避けていたからでした。

「ヨーイチ! だから私の写真を撮るな、と何度も言ったはずだろ! ――しまいにはそのカメラを撃つぞ」

アノニマがものすごい剣幕で怒鳴るので、ヨーイチと呼ばれた男は少したじろいで、あるいは呆れながら、

「別にいーじゃんかよ、減るもんじゃないし……」

「減るんだ私は! 写真に映ると、魂を取られると言うだろ!」

仕方が無いのでヨーイチは、砂漠に生えるつるつるとしたサボテンの実をいくつか採集しました。そうするとつるつるに見えた実にも、細かい棘がいくつもあり、いて、いてて、と彼が慌てると、アノニマはフン、と顔を背けて馬を歩かせました。

「あっこれ、結構甘くて柔らかくて、美味いぞ。お前も食うか?」

「私はいらない」

強がんなよ、なー。とヨーイチは言って、ナイフで剥いた実を馬に食べさせてやりました。アノニマはがさりと紙の地図を取り出して、方位磁石と共にしばらく眺めました。

「あと二キロも行けば川と街が見えてくるはずだ」

「まだそんなにあるのかよ。おれ、もう、歩けねぇ」

ヨーイチがどたん、と熱い砂の上に座り込むと、やはり熱かったのでばたばたと飛び跳ねました。アノニマは静かに馬を止めて、ふうと溜息を吐いて言いました。

「あんまりうるさいと、置いてくぞ」

「乗せてってくれよ」

アノニマは眉を互い違いさせて、それから舌を出して走りまわりたそうにしている狼犬のカマルを見て、言いました。

「――そうだな。お前が歩いていると、進度が遅くなっていけない」

「お前はいちいち嫌味を言わないといけないのか」

ほら、と言ってアノニマは左手を差し出してやりました。ヨーイチがそれに引っ張られると、彼女の後ろに座りました。それから狼犬に、クルドの言葉で〈行くぞ〉と言いました。

「飛ばすぞ。落ちないように、掴まってろ」

葦毛の馬の横っ腹を少女が足で蹴ると、馬は怯えたように走り出しました。それを追いかけるように、狼犬も駆けてきました。

風を切って、二人の長髪が踊るようになびきました。ヨーイチは骨と筋肉で出来た少女の背中から抱き着きました。少女は身体を窮屈そうにさせて言いました。

「掴まれとは言ったが、くっつくな。鬱陶しい」

「あー。お前、体温低くて気持ちいいな……」

「一分ごとに二百リラだ」

「金を取るのか……」

当然だ、と少女が答えて、男が思い付いたふうに言いました。

「馬の乗り方、教えてくれよ。そしたら馬でもラクダでも、一緒に走っていけんだろ?」

「……お前なんかには、ロバで充分だ」

ぱからっぱからっと三拍子のリズムを奏でながら、馬と狼犬は一緒になって駆けて行きました。空があんまり青いので、男は目まいがしてきましたが、それは単純にお腹が空いていたから、かもしれません。

 雲は白くてもこもこと重たそうにしているのに、砂漠に落ちてくる気配はありませんでした。


 * * * * * *


 川のせせらぎは涼やかでした。少女は馬の手綱を近くのナツメヤシの木に括りつけると、草の生い茂っている少し奥まった所で、ひとつひとつ衣服を脱ぎ始めました。赤いバンダナを取り、毛先をまとめた髪飾りを外し、緑の軍用ポンチョを脱いで、腰のベルトごと装備一式を外しました。そのベルトから空になっていた水筒を取ると、綺麗なところからこぽこぽと音を立てながら水を汲みました。

 少女は膝をついて、ブーツを脱ぎ、腿に括りつけられた回転式拳銃『ピースメイカー』のガンベルトを外すと、カミースを仕立て直したワンピースを脱ぎました。その下の浅黒い肌にはたくさんの傷痕があり、下着代わりにサラシを巻いていました。それから少女は下着ごとゆっくりと水に浸かりました。

〈おいで、カマル〉

少女は狼犬を呼んで、一緒になって身体を洗ってやりました。少女もその長い髪を水に濡らして、砂や垢、返り血などを洗い流し清めました。少女は手で水をすくって口元を潤しました。砂の上では、狼犬が濡れた身体をぶるぶると振るって水しぶきをあげ、陽の光が屈折して小さな虹を作りました。葦毛の馬も草を食んでいました。

「おーぅい、アノニマーぁ、」

呼ばれた少女は顔を上げました。髪から何滴か滴が零れて、川に少し波紋を作りました。遠くに目をやると、髭を生やした作務衣の男がロバを連れて駆けてきて、その手には麻袋が握られていました。

 少女は川に浸かりながら男に聞きました。

「そのロバはどうした」

「近くにベドウィン(注:アラブの遊牧民族を指す)が居てよ。買っちゃった。あと、食いもんも一緒に」

男は麻袋を投げて寄越しました。少女は袋を開くと、中には、何匹かのティラピアという魚、ナツメヤシの実を干したもの、レタス、干した羊肉と羊乳のチーズ、林檎、などが入っていました。

「よく金が足りたな」

「ふふん、おれだって写真家の端くれだからな。手に職ってやつさ」

「そうか。少しだけ見直したぞ」

さらに袋を漁ると、ん、と呟いて少女がひとつ、食べ物でないものを見つけました。それを取り出して、

「これはなんだ、ヨーイチ」

と、聞きました。それは狼の眼のアンバー色をした宝石でした。

「――ああ、それ、琥珀の首飾り、だってさ。安かったから買ってみたんだ。中に植物の葉なんか入ってて、ロマンチックで綺麗だろ」

少女が宝石を手にとって陽の光に透かしてみると、それはハートの形をしたオリーヴの葉でした。琥珀は触ってみると仄かに温かく、そのものが太陽であるように感じられました。

「……そこらへんで安く買えるって事は、これ、偽物じゃないのか」

「うそっ、ぷ、プラスチックとか?」

「……ま、いいさ。貰っておいてやる。これでさっき馬の上で抱きついた事はチャラだ」

アノニマはその首飾りを付けました。ん、とヨーイチが唸りました。

「やっぱり似合うな。俺の思った通りだ。これでたぶん色彩とコントラストが映える」

「だから、写真は撮るなと言ってるだろ」

少女は水からあがって服を着ました。ごちゃりとした重たい装備を身につけ、ブーツとガンベルトの紐を結ぶと、

「来い。馬の乗り方を教えてやる。その後は飯だな」

と、言いました。ヨーイチは少し口を尖らせて言いました。

「ちゃんと髪を乾かしなさい、アノニマ。風邪を引くわよ」

「お母さんか、お前は。……この暑さなら、すぐ乾くだろ」

「でも俺、料理できねぇんだよなぁ。なんでなのかなぁ」

「いつも誰かに作ってもらってたんじゃないか?」

痩せたコンロンカの花が暑そうに咲いていました。

「ああ、なんか、そんな気がするわ」

「テキトーな記憶だな」

「仕方ねぇじゃん、記憶喪失なんだもん」

ヨーイチは大して気にしていない様子でした。でも、ロバは少し狼犬に怯えている様子でしたので、アノニマはふと振り返って、

「銃の撃ち方も教えてやるか?」

と、聞きました。ヨーイチは手を振って、

「いいよ。俺の武器は写真だからさ」

と、答えました。すると即座にカメラを構えて、少女の写真を撮ろうとシャッターを切りました。が、やはり何も映っておらず、それは少女が銃弾を避けるように砂に転がって回避していたからでした。水からあがったばかりの少女の髪と身体は途端に砂まみれになりました。が、そんなことよりも、

「だから、私の写真を撮るなと言っているだろう!」

と、アノニマは怒ってぷんすかと歩き始めました。

 ヨーイチは慌ててロバを連れて、彼女に付いてゆきました。

 狼犬のカマルはずっとお利口に「おすわり」をしていました。


 * * * * * *


 陽もとっぷりと暮れていました。アノニマは斜陽の方角に向かって指をさして、「見えるか?」と聞きました。

「明日はあの街に向かうぞ」

「お前、目ェいいのな」

ヨーイチはカメラのズームレンズを取り付けて、街の灯を見ました。おそらく砲撃によってコンクリートの建物の多くは崩れ、それでも、街に誰かが居る事は確かのようでした。

 焚火を囲んで二人と一匹は、ティラピアの串焼き、レタスと羊肉を混ぜて炒めたもの、それから甘いナツメヤシの実などを食べていました。アノニマは水筒のカバーから金属製のカップを取り出して、水を沸騰させインスタントのコーヒーを淹れて、干したナツメヤシを茶菓子にして飲んでいました。ときどき串焼きも齧っていました。でも、レタスの炒めものには手を付けていませんでした。……というよりも、それは進んで狼犬のカマルにあげていました。

「なんだ、レタスは嫌いか?」

ヨーイチが炒めものと一緒にピタパンを齧りながら言いました。それからそれを緑色の瓶のビールで流し込みました。アノニマは、う、と言葉に詰まって、顔を少し紅くして、

「…………その、実は、いままで、レタスは食べたことがないんだ。――ほら、あるだろ、戒律ってやつだ」

「レタスを食べちゃいけない、なんて戒律があんのか?」

「キャベツ、カリフラワー、レタスコアスは食べてはいけないと教わった。七大天使コアササに名前が似てるからな」

「言葉遊びかよ」

ヨーイチは煙草に火を点けました。紫煙がぼうっと立ち昇りました。

「……七大天使を統べるのが孔雀天使、マラク=ターウース。彼は神に一度反逆をして地上に堕された。だから地上の人間を救うのだ」

少女は腿の『ピースメイカー』を取り出して、その黒いグリップの、羽根を大きく広げた鳥の意匠を眺めました。彼女はそれを孔雀だと思いました。ヨーイチが口を挟みました。

「ルシファーとかそういう、悪魔崇拝ってやつか。いわゆる」

「……マラク=ターウースは孔雀の王であり、神の光から生まれた存在であり、誰にもこうべを垂れてはならない、と神から命じられていた。――神が大地からアダムを、私たちの祖先を作ったとき、神は七大天使に対して、アダムに頭を下げよと言った。だがマラク=ターウースはそうしなかった。何故だか分かるか?」

……さあ……? とヨーイチは煙草の煙を線香みたいに燻らせて、生返事をしました。それから、どうしてこいつは今、こんなに饒舌なんだろう、とも思いました。

「人間には善悪の両側面がある。その中で彼は、正しい選択をした、という事だ。それを信じるのがヤズィーディーの教えだ。……彼のシンボルカラーは青だ。それこそ、海みたいな、空のような……」

アノニマはきっ、とヨーイチの作務衣を睨んで言いました。

「ヨーイチ、お前は青い服なんか着やがって……彼に対して畏れ多いと思わないのか」

はあ、とぼやいてヨーイチは煙草の灰を砂の上に落としました。すると、アノニマは突然に激昂して、

「灰を落とすな! 大地が穢れる」

と、言いました。ヨーイチは少したじろいで、吸い殻を焚火に放り込みました。すると再び少女は怒鳴るように、

「火の中も駄目だ! 火は神聖なんだ」

と、言いました。あ、はい、すみません……とヨーイチが言って、瓶のビールを一口飲みました。飲まないと付き合いきれん、と思ったからです。

 少女はしばらく怒ったようにしていましたが、あちこちを見まわしながら、ふと狼犬のカマルに目をやると、突然興奮したように

「ヨーイチ! お前は、生まれ変わりを信じるか?」

と、聞きました。

「な、なんだよ突然に……」

「しんじるのかっ?」

少女の深碧色の瞳はエメラルドのように嘆願しているみたいでした。

「……えー、おれは、詳しくないけど。仏教だと輪廻転生、つって、悟って解脱するのがいい事らしいが。永遠の死が、救いとか何とか」

「――うまれかわるのは、わるいことなのか?」

アノニマが火に当たったのか、赤らめた頬で、初めて見せる残念そうな顔をしたので、思わずヨーイチはたじろいで、

「う。……ま、まぁ、俺は生まれ変わった方が楽しいんじゃねぇか、って思うけどな? ずーっと変わらないって、きっと退屈だろ?」

と、答えました。アノニマはどことなくきょとんとして、

「そうか。それならよかった」

そう言ってカマルに炒めものをあげました。ヨーイチはもう一口瓶からビールを飲み込むと、アノニマもいつの間にか瓶から同じように飲んでいる事に気付いて、気付いたら噴き出していました。

「アノニマお前、さっきから何飲んで、――ってそれ、俺のとっときの火酒ウィスキー! ジョニー・ウォーカーの六十年物ブルー・ラベル……」

ぬ? とアノニマが言って、ほとんど焦点の合わない眼で、ふらふらとしながら、そのままぽふりと砂の上に寝転びました。ヨーイチは慌てて少女の傍に駆け寄りましたが、すうすうと寝息を立てていたので、狼犬のカマルは、舌でぺろぺろと少女の顔を舐めてやりました。すると、くすぐったそうに少しだけ微笑んだので、つい、

「……こいつも、寝てるときは普通の女の子みたいだけどな……」

と、呟きました。ヨーイチはふたたび座ると、マルボロ煙草に火を点けて、晩酌の続きをしました。

〈……ヤズィーディーは、他宗教の人間と接触してはならない……それは穢れで、排泄物も、経血も、……女子割礼ハテーナをしない事も……、族内婚を、しない事も…………さもなくば……ハラブジャの……〉

少女は、ぐるぐるする頭を抱えながら、ひとり思いながら眠りに落ちてゆきました。


 * * * * * *


 敬虔なイスラム教徒はみなモスクで地面にひれ伏していました。

 それは礼拝サラートでした。日々の心の安寧は、毎日の規則的な行いによって保障されるものでした。その夏はちょうど断食サウムの月でした。

 少女は馬から降りる事もなくモスクの中を眺めていました。武装した少女は祈りませんでした。祈る神が違うからという訳ではなく、ただ単に、祈るより先にすべき事があっただけの話です。

 女性の金切り声がしました。少女は馬を駆けさせました。西に傾いた陽は眩しく、影は長く伸びていました。街は死んだように静やかで、三拍子の音だけが地面に響いており、どこからか古いフランス語の唄が聞こえてくるようでした。


  戦士、軍人、武装した人ロム・アルメ

  武士もののふよ、武装した人に気を付けろ!

  みなあちこちで叫んでいる

  みな武装せよと、鋼の鎧で

  ――戦士、軍人、武装した人

  武士もののふよ、武装した人に気を付けろ!


 武装した男たちが、暗い路地裏に連れ込んだひとりの女性を犯そうとしていました。女性というよりもそれは少女でした。彼女は白い肌と髪の毛をして、瞳の色は赤く、紺色のジャンパースカートはほとんどはだけていて、頭にはカチューシャを付けていました。

 男たちが足音に気付いて振り返ると同時に、武装した少女は腿のホルスターから回転式拳銃『ピースメイカー』を抜いて、続け様に撃鉄を叩いて乱射しました。ひとりの男が放った銃弾は明後日の方向に飛んでいて、それは彼が死んでから引き金を絞ったからでした。

「あ。ありがとうシュクラン

やや呆然としつつ、白い肌で赤い瞳をした女性が言いました。

浅黒い肌をして深碧色の瞳をした武装少女は、『ピースメイカー』の撃ち殻を排莢して、再び六発の銃弾を装填してホルスターにしまいました。

「姦淫は死罪だ。するほうも、されるほうも」

「そうね。お陰で助かったわ」

雪のような女性は被服の乱れを直しつつ、土を払いつつ立ちあがりました。それは女学生のような出で立ちでした。

「だが、お前はムスリムじゃないな?」

武装した少女が聞きました。

「そういう貴女だって」

「私も異邦人のようなものだ」

白い肌の女性が、そう言った少女の唇を唇で塞ぎました。それは感謝のキスでした。浅黒い肌の少女は目を見開いて、思わず、

「なにをするっ」

と言って、女性を押し退けました。彼女はクスクスと笑って、

「あらあら。もしかして初めてだった?」

「そんなわけあるかっ」

初心うぶなのね」

斜陽は影を伸ばして女性の顔を暗がりに落としました。野生の孔雀が道をとぼとぼと歩いているのを二人は見ました。鴉がカァ、カァと平べったい声で鳴きながら、夕焼ける空を飛んでいました。

リルが来るわね」

路地裏から、灰色の猫がにゃあ、と鳴きながらてくてくと歩いてきました。女性は猫を撫ぜてやって、それから腕に抱きました。

 武装した少女は馬を呼ぶと、去るように背を向けました。女性は少女を「ねぇ」と言って呼びとめて、

「貴女の名前は?」

と、聞きました。少女は背中を向けたまま、

「私は……名前は無いアノニマ

と、答えました。女性は眉を互い違いさせて、こう言いました。

「そうなの? なんか、どっちかっていうと、そういう感じがしないわ。もっと別の名前――そう、例えば、ゾーイ……みたいな、」

少女は振り向きざまに『ピースメイカー』を抜くと、声の主にそれを向けました。けれどそこにはもう猫しか居ませんでした。

南から風が吹いて砂が舞い上がり、その風の音は、


アブラカダブラ、みんな私の言うとおり

アブラカダブラ、この言葉のように居なくなれ


と、嘯いているように聞こえました。

 少女は溜息を吐いて馬に乗ろうとしました。

すると、彼女の左の頬を何かつつくものがありました。


 それは男根でした。


「――あべしっ」

 酔い潰れたアノニマの左の頬を指で突いて遊んでいたヨーイチが、面白い声を上げて背中から倒れました。それはアノニマが彼の額にめがけて思い切り掌底を喰らわせたからでした。

「……なんだ、ヨーイチか。気安く私に触れてくれるな」

「……はい……すいません……」

アノニマは無意識に取り出していた三日月型のナイフを鞘にしまいました。東の空が明るくなってきていて、少女は目をぱちくりさせました。記憶のあるのは昨日の夕方の事だったからです。

「私は昨晩、なにかしたか?」

ヨーイチは額をさすりながら恨めしそうに言いました。

「……お前ぜったい、酒癖の悪い女になるぞ」

「はぁ?」

狼犬のカマルは耳をちらちらさせて、周囲を警戒しつつ眠っていました。アノニマはすこし彼を撫ぜてやりました。

 陽が昇りきるより先に、少女は銃の整備と残弾数の確認を済ませました。軽く体操をして、沸かした湯でコーヒーを飲むと、馬に跨って遠い西の街のほうを見ました。

 その傍らで、ヨーイチが苦労してロバに跨ろうと奮戦していると、アノニマはふうと溜息を吐いて、

「大丈夫だろうな。今日は飛ばすぞ」

と、言いました。ヨーイチはまだくるくるとロバに翻弄されながら、

「わっかんねぇよ。動物に乗るのなんて初めてだからよ」

それからどうにかそれに跨ると、

「けど、やるしかないんだろ」

と、言いました。少女は眉を寄せて、

「……お前も、大概丈夫だな」

と、呟きました。

「何の話だ?」

「頭の話だ。固いと言っている」

 そう言ってアノニマは馬を走らせました。狼犬のカマルもそれに続いて、ヨーイチも慌てて彼らに付いてゆきました。それから彼は、

(本気で殴ってたのか……)

と、まだ陽の昇らない薄暗い砂漠の朝に、ひとり思うのでした。


 * * * * * *


 南から風が吹いて砂を巻き上げました。それはひとつのつむじ風になって、しばらくそこに留まりました。少女と男も、それぞれ馬とロバを歩かせながら、砂嵐が過ぎるのを待っていました。

「いやに風が吹くのな」

男が言いました。少し砂が目に入りそうになって、目をつむっていました。少女は既にゴーグルをしていました。

「この時期は南風が吹くものだ」

「そなの?」

「シュメールの風の女神、ニンリルの怒りだ。彼女は神々の王エンリルに強姦されてから冥界へ降り、男への復讐を誓ったらしい」

「そら、たまらんな」

 ちいさな砂嵐が去ると、少女は防塵用のライダーゴーグルを外し、口元のシュマーグ(注:ストールの一種)も下げました。

「ニンリルはシュメール、つまりメソポタミアの神だが、これがヘブライのリリトと同一視される事もある。リリトとは『夜の魔女』といった意味だが――彼女もまた、セックスの体位において男性が常に上である事に異を唱えたんだ。似たような話だ」

セッ……と言葉に詰まって、男は下手な咳払いをして誤魔化しました。十歳そこそこの女の子が話すにしては、随分と淡白な言い方だったからです。

「……妙に詳しいのな、お前、そういう話」

「……別に私は、たまたま運よく文字が読めただけの事だ」

少女が続けました。

「結果としてリリトはエデンの園を去り、堕天使ルシファーを始めとする悪魔達と関係を持ち、多くの子供リリムを産みそれから、――ふん。アダムの肋骨から、従順な女であるイヴが創られる訳だな。じつに、ユダヤ人的な発想だよ」

「……どゆこと?」

「単純に善悪を分けすぎるという話だ」

「ああ、」

男は生返事をして、頭をぼりぼりと掻くと、それから言いました。

「まぁ、あんま分かんなかったけど、話の種にはいいや。お前と居ると飽きねぇな」

「……一体それはどういう――待て、止まれ」

 少女は突然に馬を止めさせました。何だよ? とヨーイチが聞いて、アノニマは少し遠くの地面を指して、

指向性地雷クレイモアだ。誰かが待ち伏せているかもしれない」

「じ、地雷?」

「ワイヤー起爆かリモコン操作か……どちらにしても近付けない」

「ど、どうするんだよ」

ヨーイチが弱々しい声をあげました。すると突如、崩れた瓦礫の陰からサングラスの男が一人飛び出して、

「動くな!」

フランス製のブルパップ式突撃銃、『トランペット』を向けながら言いました。少女もほとんど同時に『ピースメイカー』を抜いて、撃鉄を起こして彼に向けていました。

「……『飽きない』とは、こういう意味か?」

「あ、いや、すこーし違うかも……」

ヨーイチは青い空に向けて既に両手を突き出していました。

飛び出してきた黒い肌の男は『トランペット』を向けたまま、彼の指揮下にある部下を数名、展開させ二人を包囲しました。少女は小さく舌打ちをしました。狼犬のカマルも唸っていました。

「武器を捨てろ!」

「――撃つな!」

そう命令したのは女性の声でした。彼女もまた砂と日射しから身を守るようにシュマーグとゴーグル、それからミリタリーキャップを着用していて、肩から負い紐でアメリカ製SR556突撃銃『ブラックライフル』を提げ、背中にはベルギー製P90短機関銃を背負っていました。女性はおもむろにシュマーグとゴーグルを外すと、

「久しぶりじゃあないか、カウガール。ちょうど一年ぶりか?」

「……お前は、」

凛とした表情の彼女は、元米軍補給部隊所属であったジェーン・C・サンダース中尉でした。その金色の髪は短く、瞳は空色をしていて、口元には絶えず笑みを浮かべさせていました。

中尉は未だ銃を下ろさない黒い肌の部下に向かって、言いました。

ありがとうメルシー、曹長。だがこいつは私の知り合いなんだ」

「このゲリラがですか?」

「ああ。前に一度、助けられた事がある」

「それは、それは」

「隣の男は知らないが」

「なるほど」

黒人の彼は、ラバに乗った作務衣にポンチョを着た怪しげな東洋人――つまりヨーイチに銃口を向けました。すると彼は慌てに慌てて、

「いや、いやいやいや! 俺は民間人だって、危険性皆無、単細胞生物よりもカーストが下だからぁ!」

と、嘆願しました。アノニマが面倒くさそうに補足しました。

「安心しろ。こいつに別段害はない。利もないが」

「何者だ?」

「だから、おれはただのカメラマンだっての!」

「ジャーナリストか?」

曹長シェフと呼ばれた黒人の男が聞きました。

「いんや……別に誰に雇われてるわけでもねぇけど……たぶん……でも、写真の撮り方だけは覚えてるんだ」

ヨーイチは自信のなさそうに答えました。中尉は笑って、

「うん、確かに害は無さそうだ。だがここでは撮影は禁止だ。――ありがとう曹長、下がってよろしい」

すると曹長は銃を下ろして、部下を連れその場を去ってゆきました。アノニマも『ピースメイカー』の撃鉄を下ろしてホルスターにしまい、中尉が彼の背中を見送って、二人は馬から降りました。

「彼の名前はデヴィッド・マニング曹長。階級はフランス外人部隊時代のものだ。本名は知らない――あそこには、匿名アノニマ制度があるからな。うちもそれを踏襲している」

「うち、とはなんだ?」

「――ああ、私たちは民間軍事警備会社PMSCsマーヴェリック。ここの警備・兵隊の教育・兵站業務全般を依頼されている。――」


泥煉瓦で出来た建物は多くが砲撃で崩れており、家を失くした人々は日射しに病めて影に潜んで居ました。ムスリムはただ地面にひれ伏して祈っておりました。

アノニマが馬を歩かせながら言いました。

「戦争屋という訳か」

「お互い様だろう? 確かに、うちは経歴でなく実力で社員を雇っているから、実際血の気の多い連中も多い。匿名制度もその一つだ。自分自身や、国を棄てたような人間の集まりだからな――それは、私たちの職業病だ」

中尉が言って、アノニマとヨーイチは馬を適当な柵や幹などに結び付けました。アノニマがしゃがんで狼犬のカマルを撫ぜました。

「お前らが守っているのは、誰だ?」

アノニマが中尉に聞きました。中尉は微笑んで答えました。

「契約主との守秘義務があるんでな。それは言えない」

「そいつはCIAアメリカか? それともモサドイスラエル?」

「それも言えない」

「――アポロ・ヒムカイについて何を知っている?」

「それも、言えない」

ふん、とアノニマは鼻を鳴らして言いました。

「テロも内戦も、すべては先進諸国の手の平の上、という事か? すべては制御・管理され理性の下にくだる、とでも? じつに欧米的な発想だな」

「我々PMSCsも単なる駒に過ぎない。私たちは自分の職務を遂行しているだけだ」

張り付いた笑顔を崩さないまま中尉が言いました。

「そして、警告しよう。アポロ・ヒムカイに近付くな」

中尉のライフルはいつでも即座に発砲可能なように思えました。

 狼犬のカマルが少し唸って、少女がそれを制しながら、

「奴は、今や第二のビン=ラディンという所か? 気に入らないな。――まぁ、それも、どうでもいい」

アノニマは首元を掻いて聞きました。遠くで子供たちの遊んでいる声が聞こえてきました。乾いた風が吹きました。

「何か食べ物は無いか。水や、それに茶もあるといい」

「ああ。そのくらいなら携帯糧食レーションを融通しよう。我々は補給の任務も兼ねているからな。ちょうど今は、ギルバート軍曹がその辺りにいるはずだ。手配する」

中尉はそう言って携帯無線機を繋いで、二言三言交わしました。

「奴も同じ会社に?」

「ああ。誘ってもいないのに、ついてきた。物好きな男だよ」

「……お前は少し、鈍い所があるんじゃないか」

「何の話だ?」

「いや……」

「その狼を撫でてもいいか?」

「構わんが」

中尉は砂の上に膝をつくと、カマルをくしゃくしゃに撫で回しました。彼もまんざらでもない様子でした。

「犬は好きだ。利口で従順だ」

「……ヨーイチ。呆けてないで、お前のロバを連れて来い」

 眉間に皺を寄せながら、アノニマが言いました。ヨーイチは目を白黒させて答えました。

「へ? 今しがたつないだばっかのに」

「糧食と水を積むんだ。足が要るだろ」

「ああ。てっきり嫉妬したのかと、」

あいだっ! と腹を殴られてヨーイチはしばらくうずくまりました。


 * * * * * *


 ミル24戦闘ヘリコプター『ハインド』は、輸送の仕事を終えてその回転翼でいたずらに砂を巻き上げていました。元米軍所属ウィリアム・ギルバート・ハント三等軍曹は、ドイツ製突撃銃36コマンドーに擲弾発射器を付けたものを提げ、ヘリコプターから降りました。左腰のホルスターには、オーストリア製18C機関拳銃が収められていました。

彼はガムを噛みながら、サングラスを額にずらしニカリと笑って、

「ようよう。久しぶりだなぁ、ジャンゴ。今度は誰を連れてんだ?」

と、聞きました。アノニマは仏頂面で、

「こいつはオマケだ」

と、答えました。ヨーイチはひきつった顔で会釈をして言いました。

「ああ、ええと、ギルバート軍曹?」

「ギルでいいよ。軍曹だったのは軍隊に居た頃の事だしな」

それから軍曹は、顎に手を当ててしげしげとヨーイチの顔を眺めて、

「んん? あんたの顔、どっかで見たことある気がすんなぁ……」

と、呟きました。ヨーイチは顔をひきつらせたままでした。

「糧食と水を分けてもらえると聞いた」

アノニマが聞いて、軍曹が答えました。

「ああ。中尉から話は聞いてるよ」

「いくらだ?」

「廃棄するものに金は要らねぇよ。どうせ員数外のものだ。俺だって給料、貰ってるんだぜ」

「そう言うな。責任の問題がある」

「じゃあ、金の代わりになんかくれよ。それで良い事にしようぜ」

「――そしたら、これでどうだ」

言いながらアノニマは懐の小さな麻袋から、何本かの紙巻を出しますと、それを軍曹に見せました。

アレッ、とヨーイチが驚いたふうに言いました。

「お前、煙草吸うの? 前に『煙草なんて身体に毒だ』とかなんとか、言ってたじゃんか」

「これは煙草じゃない。ハシーシュだ」

「ハシーシュ? アサシン?」

ヘンプの事だよ」

軍曹が口を挟みました。ヨーイチは頷いて言いました。

「ああ、なるほど、マリワナの事ね。て、感心しねーぞ」

「煙草よりはマシなものだ。感覚が鋭敏になる。酒や煙草は鈍らせるだけだからな。お前も煙草なんかやめて、こっちにしたらどうだ」

「……いやぁ、……おれは、いいわ……」

ヨーイチが引き気味にそう言って、軍曹もガムを噛みながら言いました。

「折角だけど、俺も麻は餓鬼の頃にやめたんだ。わりぃけど、他になんかねーか」

「そうか。それならこれはどうだ」

 アノニマは肩提げ鞄から、革製のホルスターごと一挺の拳銃を取り出しました。それはルガー・パラベラムピストルと呼ばれるドイツ製の骨董銃で、軍曹はそれを受けとるなり目の色を変えて、唾と一緒に噛んでいたガムすら飲み込んでしまうところでした。

「おま、ちょ、これ、一体どこで……」

「スモールボーイ・ユニットの小隊長になったときに渡されたものだ。シリアルナンバーは全てマッチング。コピー品ではなく、正真正銘ドイツ製のオリジナルだ」

軍曹はおもちゃを買い与えてもらった子供のように、尺取虫様に動作するトグル・アクションを動かしたり、耳に当てながら引き金を引いて、ストライカーの落ちる音を聞いたりしました。

「なんでそれ、持ってんのに使ってなかったの?」

ヨーイチが不思議そうに尋ねました。

「砂塵に弱いし、それに弾薬との相性があって、合わない弾だとすぐにジャムる――いや、作動不良が起きるから。要するに、実戦であまり使いものにならない」

「それなのに、なんであいつはあんな喜んでんの?」

「すごく貴重で高価だから。少なくとも一部の人間にとっては、な」

「はぁ、マニア向けのコレクターズアイテムってやつか」

ひとしきり銃で遊んだ軍曹は、やや満足げに言いました。

「ナチスが財宝やら兵器やらを隠してる、つう噂話は聞いた事があったが……いやはや、こういう掘り出しもんがあるもんだな。ちっと感動しちまったよ」

「鞄の中で嵩張って困っていたところだ。処分が出来て丁度いい」

「糧食、いくらでも持ってってくれよ。なんならオマケもつけるぜ」

「そうか。――そのカラシニコフは使えるのか?」

アノニマは、砂の上にうず高く積まれている大量の自動小銃を指しながら尋ねました。

「ああ、ゲリラから鹵獲したやつだよ。――ほとんどがコピー品で、碌に手入れもされてないようなやつだけどな」

必要なら持ってけ、と軍曹が続けて答えました。

アノニマはがちゃがちゃと音を立てながら、小銃の地層を漁りました。まず多かったのがカラシニコフ突撃銃の中国製コピー、56式自動歩槍。それに次いでユーゴスラビア製ツァスタバM70突撃銃のイラク製コピー、通称『タブク』があり、それとその騎兵銃カービン型であるツァスタバM92短機関銃『クリンコフ』もときどき混じっていました。他にも数多の国のカラシニコフ型突撃銃やドラグノフ狙撃銃、デグチャレフ軽機関銃のコピー品がありましたが、ソヴィエト連邦製のオリジナルは見当たりませんでした。

アノニマはそれらの中から、円く穴の空いた垂直グリップと、大きな消炎器とが装着された『クリンコフ』を選びました。ボルトを引いてハンマーを空撃ちすると、動作に問題はないようでしたのでストックを折り畳み、それを肩に提げました。

それから他のカラシニコフ突撃銃のコピー品から、いくつか使えそうな部品や弾倉を拝借すると、部品は鞄の空いたスペースに放り込み、弾倉はすぐに取り出せるよう腰のポーチに二つ三つ差し込みました。携帯糧食のパックをひとつだけ鞄に押し込みながら、

「ヨーイチ、ここは頼んだ。糧食はロバに積めるだけ積んでおけ」

と、アノニマは言いました。

「お前はどこ行くんだよ」

「街の地形の把握だ」

「それって、大事なこと?」

「すごく重要」

アノニマはそう言って街のほうへと消えてゆきました。子供たちがぞろぞろと列を成して彼女に付いて行くのをヨーイチは見ましたが、あまり気にしない事にしてロバに荷物を積み始めました。

 ギルバート軍曹はしばらくぼうっとして荷物の運ばれていく様子を眺めていました。遠くには砲声がして、子供たちの笑い声がし、教会もモスクも平穏に満ちていました。空は押し付けてくるように碧く高くて、ふと、

「よう。あんた、結婚してんのかい?」

と、ヨーイチに問いかけました。それは彼の左手の薬指に瑠璃色の石の付いた指輪が嵌められていたからです。

「あ? え、ああ、これね、うん、指輪。そう結婚してるの、俺」

ヨーイチは言われて自分が指輪をしていた事を思い出しました。なにせその蒼い石がラピスラズリなのかサファイアなのかプラスチックなのかすら、彼にとっては非常に曖昧なのでした。

「結婚って、いいもんかい?」

そんな事を聞かれましてもヨーイチには記憶がありませんから、仕方なく、まぁ、うん、相手によるよ。と答えておきました。すると軍曹は笑って、

「――あっはは! そりゃあそうだ。まぁ、餓鬼の一人でも拵えりゃ、腰も落ち着くんだろうけどな。――あんた、子供は? どんなだ? 可愛いか?」

一応、娘が居たとは思うんだけどなぁ……。と答える訳にもいきませんから、ヨーイチは、次のように答えました。

「あー、あー、生意気盛りだよ。右と言えば左、白と言えば黒と答える。まるで天邪鬼だ。なんつうか、要は素直じゃあないんだよな。こないだだってサボテンの実を、――」

ただ食いてぇかなと思ったのに、まるで食べようとしないんだから。と言いかけて、途中から想像上の娘の事でなく、アノニマの事を話している事に気付きました。

「――食べすぎて、実のちっちゃい棘がいっぱい刺さってんのに、泣きもしねぇでムスッとしてやがんの、あの女。そういうときくらい、誰かに甘えたって良いと俺は思うんだがなぁ」

与太話を続けて、軍曹を笑わせました。

「思うに、あんたの娘は相当な甘えん坊だぜ。これは単なる俺のだが、相当頭でっかちで、加えて半分やけっぱちだ。しかも甘え方を知らないときてる。あんたの言う通り、もっと素直になったらきっと良い子になるぜ」

軍曹が適当な事を言って、ああ、きっと当たってるよ。とヨーイチが答えました。

「……実はさ。俺も、結婚、考えてんだ。真剣にだぜ?」

 ヨーイチは、ギルバート軍曹がこんなにも初対面の人間に自他のプライベートに突っ込んだ話を吹っかけるのが不思議でしたが、ただ積荷の作業をするのも暇なので、付き合ってやることにしました。

「付き合ってる彼女とか?」

「や。そういうんじゃないんだが……」

「ああ。そしたら、あの女隊長だろ?」

軍曹は驚いたふうに目を見開いて言いました。

「おい、おい。まだ話してないだろ。なんで分かるんだよ」

ヨーイチはきょとんとして答えました。

「なんでって……お前、尻に敷かれたそうだもん。年上好き」

「どうしてそんなの分かるんだよ。初対面だろ」

ヨーイチは少し苦笑いして、ニヤリと口角を上げ言いました。

「――似てんだよ。おれもそうだもん。甘えたがりの、年上好き」

だからあいつに嫌われんだな、生意気盛りの、甘え下手の天邪鬼に。と、ヨーイチはニヤニヤと笑いながらひとり思いました。


 * * * * * *


 黒い肌の男は新鮮なチャットの葉を噛んでいました。頬の片側に噛み屑を溜めながらときどき葉の汁を飲み下しつつ、彼は『トランペット』の愛称を持つファマス突撃銃の二脚を広げ、土嚢に託して見張りを続けていました。空は高く、病める日射しを避けるようにサングラスとニット帽をしていました。

 遠くから子供たちの行列が歩いてきて、鬱陶しそうに浅黒い肌の少女が歩いてくるのを彼は見つけました。黒い肌の彼は気さくに笑いかけながら、

「ハーメルンか?」

と、言いました。少女は子供たちを追い払うようにしながら、

「笛を吹いているつもりはないんだが」

と、答えました。子供たちは沢山の銃器を背負う少女を見ながら、きらきらと不思議そうに笑っているばかりでした。

「きっとお前から信号ラッパクレーロンの音がするんだろう、ジャンヌダルク」

 デヴィッド・マニング曹長は部下に見張りを変わってもらうと、アノニマに向かって付いて来い、とだけ言って、小銃を背負っててくてくと歩き出しました。彼女もそれに従いました。

「随分と打ち解けるのが早いんだな?」

沢山の子供たちを引き連れたまま、アノニマが言いました。

「中尉がお前の事を危険だとは言わなかったからな。付き合いは短いが、その点においては彼女を信頼している。人を見る目の事さ」

曹長はまるで後に続く子供たちを引率する先生のようでした。実際子供たちは戦災孤児でしたから、先進国の兵隊は親や先生代わりのようなものでもありました。彼は冗談めかして言いました。

「ハハ、まるでナポレオンの遠征軍コンパーニュ・デジプテ・ド・シーリだ」

「お前が、ハーメルンの笛吹きなんじゃないのか」

「俺がドイツ人だとでも? 冗談だろう? 確かに『トランペット』は持っているがな、無抵抗の子供に悪い事はしないさ」

彼らはやがて屋内に入り、暗い螺旋階段を登りながら、子供たちはアノニマに質問を浴びせかけました。

「どこのひとー?」

「私は、クルドだ」

「なまえ、なんていうの?」

「名前なんてない」

「なにそれ。へんなのー」

「おもたそー。どうしてそんなに銃をもってんの?」

「旅の途中で、自分の身を守る為だ。――どうしてお前たちはそんなに聞きたがるんだ」

「どうして旅をするのー?」

「関係無いだろう」

そうやってやや怒鳴って突っぱねると、子供が今にも泣き出しそうな顔をするので、アノニマは慌てて、

「海、うみだ。分かるか? う、み。私は海を見に行くんだ」

と、なだめるように言いました。

その様子を見ていた曹長は、口角を上げながらこう言いました。

「――創世記の第十六章、第十二節。『イスマーイールは、野生のロバのような人となる。彼はあらゆる人に拳を振りかざすので、みなは彼に拳を振るう。彼は全てのにんげんに敵対して暮らすだろう』……子供は苦手か、武装少女ファム・アルメ?」

「銃口がこちらに向いているなら、殺すだけだ。大人だろうと子供だろうとそれは変わらない」

「ハハ、それは違いない――」

曹長が足を止めると、急に視界が明るくなって、そこはずいぶんと空に近付いた教会の鐘楼でした。

「――そのために、だ。街の地形を確かめに来たんだろう? それなら、ここからの眺めが一番だ」

子供たちは順番になって鐘楼からの眺めを楽しんでいて、アノニマは顔をしかめて、やれやれ、とだけ思いました。


 やがて子供たちが居なくなって、アノニマはようやく一息つく事ができました。懐から麻の紙巻を取り出すと、防水マッチを擦って火を点しました。煙を吐き出しながら少女は、

外人部隊レジオン・エトランゼ出身だそうだな?」

と、聞きました。曹長は素直に答えました。

「ああ。『暗黒の十年』の内戦のときにはもう、おれは兵隊をしていた。ジブチ、イラク、それにアフガンにも行ったよ」

長年使い込まれたであろうファマス突撃銃と、背中のイタリア製ベネリ散弾銃とが、彼の傷だらけの人生そのままのようでした。

「私も異邦人エトランゼのようなものだ。ここではな」

アノニマは鐘楼から街を見下ろしながら答えました。さっきの子供たちが遠い地面の上で一緒になって遊んでいるのが見えました。

「生まれはどこだ?」

「イラクだよ、フランス人。あの頃は韓国兵もよく見かけた」

「生まれはアルジェリアだ。母国の訛りはとっくに忘れてしまった。――しかしその割には、英語もフランス語もずいぶんと流暢だな、クルド人」

「数ヶ国語は叩き込まれた。フランス語、ドイツ語、ロシア語、トルコ語、ベトナム語……『グローバル化』の波というやつだ」

「兵隊の需要は尽きないさ――お前はいつから、兵隊をしている?」

「六歳か、七歳の時から。八歳だったかもしれない。実際のところ、よく覚えていない。随分長い事やっているような気分がする」

「初めて人を殺したのは?」

曹長の質問に、少女は延々と続く砂漠の地平線を眺めながら、

「生まれたときに一人」

とだけ、答えました。そうか、と曹長は言いました。

 子供たちは青空の下で、なにかの授業を受けている様子でした。学校、とアノニマは思いました。

(もしも、に友達や知り合いが居たのなら、)

少女は麻の煙を吐き出しながら言葉を紡ぎました。

(私は今、こんなところには居なかったんだろうな)

指で紙巻の灰を落とすと、その火は重力の法則に従って地面に落ちてゆきました。が、途中で火は消えて、火の粉が誰かに降りかかる事は、ありませんでした。


 鐘楼から降りると、ヨーイチが狼犬のカマルを連れてきていました。――それに加えて、沢山の大人たちも引き連れてもいました。

日本人ヤバーニーはどこに行っても好かれるものだと思っていやがる」

「好かれてねーよ。服装が物珍しいだけだろ。動物園の動物と同じ」

「動物園の動物は金を払う価値があるだろうが、お前はタダで見られる分、損だな」

「どういう理屈だよ」

カマルがアノニマに駆け寄ってきて、少女は膝をついて彼を抱きとめてやりました。それからクルドの言葉で話しかけました。

〈変なものなんか、食べさせられなかったろうな? あの女の近くに居るというだけで、不安で気が変になりそうだ〉

カマルがアノニマに軽くキスしてあげると、少女は少しだけ微笑みました。

 ぱしゃり、と音がしました。見上げると、ヨーイチが呆けた顔でシャッターを切っているのでした。――あ、撮影、禁止だったっけ……。と、今更になって思い出したように彼はひとり呟きました。

 アノニマは顔をひきつらせて、すぐにいつもの仏頂面に戻りましたが、はぁ、と大きな溜息を吐くと、諦めたようにしてカマルと一緒に歩き始めました。

 ヨーイチは周りをきょときょとと見まわして、人々もなんとなく写真を撮っては駄目だという事を言われていたので、不安そうに彼を眺めていました。ヨーイチはというと、まぁ、警備会社の社員は今、周りにいないっぽいし、バレなきゃいいか、と思う事にして、そそくさとアノニマの後を追いかけました。

――せっかく良い表情の写真も撮れたしな。とも、思っていました。


 * * * * * *


 街はにわかに忙しくなっていました。アノニマと狼犬のカマル、それからヨーイチは、脇を通り抜けていく高機動多用途装輪車両ハンヴィーやストライカー装甲車の土煙を被りながら、馬のもとへと歩いていました。ヨーイチが咳き込んだ後に呟きました。

「なんか……ずいぶん忙しそうだな」

「ああ。厄介事なら御免被る」

言いながら少女は肩に提げたカラシニコフ型短機関銃『クリンコフ』の負い紐を固く握っていました。

 馬のところに戻ると、ジェーン・C・サンダース中尉が双眼鏡を覗いており、二人と一匹に気付くと、にこりと張り付いた笑顔で笑って言いました。

「曹長から無線があった。北東の方角より敵影あり、との事だ。もう幾許もなく接敵する」

「それは丁度よかった。私たちは西に行く。このままおさらばさせてもらおう」

「残念だが、そういうわけにはいかない」

なんだと? とアノニマは言いました。カマルは少し姿勢を低く構えて唸り、しかし中尉の表情は凛々しく微笑んだままでした。

「西側にも動きがある。離れた距離だが、戦車が近付いてきているようだ。おそらく敵性勢力だろう。あるいは、私たちにとってはそうでなくとも、は敵と認識されるかもしれないな、カウガール」

少女の蒼褪めた馬が、ぶるるひひん、と恐怖に啼きました。アノニマは黙って中尉を睨みつけました。ふふ、と中尉は笑って、

「だが、ここからなら比較的安全に状況を制圧できる。その為の装備も整っている。――見たところ、充分な対戦車能力は持ち合わせていないようだな?」

と、言いました。中尉はちらと目配せをして、アノニマはその視線の先に用意された対戦車擲弾発射器を見て、ちっ、と舌打ちをし、

「嫌らしい女だ」

と、悪態を吐きました。中尉はいつまでも笑っていました。


「持っとけ」

 銃の弾倉に銃弾を装填しつつ、アノニマは鞄から一挺の拳銃――

イラク製の自動式拳銃『ターリク』を出しながら言いました。それはグリップにイスラムの英雄のレリーフが嵌め込んでありました。ヨーイチは顔を渋らせて言いました。

「銃の使い方なんてわかんねーよ。カメラマンだぞ」

「自殺用」

「縁起でもねぇ」

「ブシノナサケ。……って、自殺させるとき、日本人ヤバーニーは言うんだろ」

「ブシ……いや、いや。御免頂戴、いらねぇよそんなもん」

そうは言うものの、ヨーイチは一応拳銃を受けとって、間違っても引き金を引かないようにしながらズボンに挟んでおきました。

「冗談だ。金をいくらか持っていけ、それで命乞いでも……む」

アノニマは懐を探って、しかしそこには金を入れた麻袋が無い事に気付き、ぽかんとして、

「あ、スられた……」

さっきの子供たちか? と思いました。

「え? ――あ、俺もやられてる!」

ヨーイチは、金が無くなった事よりもむしろカメラをやられてないかを大慌てで調べて、そうでない事が分かると、ほっと胸をなでおろしました。

「まぁ、金はどうでもいい。どうにでもなる」

 しかし、目立つところに琥珀の首飾りをぶら提げているのに、それが手付かずというのは、やはりこの宝石は偽物なんじゃないか? とアノニマは思っていました。同じような事を指輪に対してヨーイチも考えていました。

「ともかく、すぐにここから出られるよう、準備をしとけ」

「あいあいさー」

ヨーイチはロバを連れてどこかに避難することにしました。

 アノニマは、短機関銃『クリンコフ』の初弾を装填して、弾倉を交換し安全装置をかけました。それを負い紐で背中に背負うと、馬から『リー・エンフィールド』小銃を取り出して、

〈行こう、カマル〉

狼犬を連れて東のほうへと走り出しました。


 * * * * * *


 ジェーン・C・サンダース中尉は土嚢の裏に隠れて、双眼鏡を覗き敵の動向を観察しながら、微笑みを浮かべていました。彼女の部下はやや緊張した面持ちでした。

「来たか」

中尉は振り向いて、手を振って屋根の上のギルバート軍曹に合図をしました。軍曹はニカリと笑って了解の合図をして、

交戦エンゲージング!」

設置していたクレイモア地雷を順番に起爆させて、ものすごい轟音と土煙を上げさせ敵兵士を煙に巻きました。

 アノニマが中尉の下へ到着しました。敵のほうは土煙でほとんど見えませんでした。アノニマは『リー・エンフィールド』小銃のボルトを引いて挿弾子ふたつを装填すると、照準器の距離を合わせてそれを構えました。

「随分と旧式の銃を使っているんだな、カウガール」

「自動式は信用できない」

それは小さくて幼い少女にとって、自動式の銃の反動をしっかりと受け止めるのが難しいからでした。中尉はふふ、と笑いかけて、

「そうだな。自分の手マニュアルで動かした方が確実だ。だが、世間の速度は待ってくれない」

「十時方向、敵武装車両テクニカル二台、距離四〇〇!」

中尉の部下が叫びました。土煙の向こうから、日本のトヨタ製、カナダ国旗の描かれたピックアップ・トラックが突撃してきました。それは後部の荷台にPK機関銃を載せ、また兵士たちも便乗する形で乗っていました。テクニカルが止まり、機関銃がずがががが、と音を立てて援護すると、兵士たちも分散して接近してきました。

 こちら側の警備員たちも応戦を始めました。ハンヴィーに搭載したM2重機関銃が、どごごごご、と重たい音を立てて五〇口径の銃弾を飛ばし、伏せていた敵兵士の身体を真っ二つにしたりしました。

 ひときわ大きな銃声がひとつ響いて、五〇口径の銃声が止みました。それは五〇口径の射手が撃たれたからでした。

「狙撃兵だ! ――誰か五〇口径に着け!」

中尉が命令すると、部下がひとり移動しはじめ、そこをまた狙撃されました。少女は照門と照星とをぴたりと合わせて、それから引き金を絞りました。乾いた銃声がして、その反動は少女の長い黒髪をはらりと揺らしました。

「――敵狙撃兵、無力化」

少女はボルトを操作して空になった薬莢を排出すると、返す右手の小指で引き金を引く手動の乱射マッド・ミニットをし、援護射撃に移りました。その間に警備員の一人が五〇口径に着き、死体をどけ、テクニカルに向けて音速の三倍で飛ぶ銃弾を雨あられのように浴びせかけました。ほどなくしてトラックは爆発しました。

 もう一台のトラックは、どんどん距離を近付けておりました。警備員たちの銃撃をうまくかわしているのか射手が下手なのか、――それとも運転手が死んだままアクセルを踏みっぱなしにしているのか、分かりませんが、ともかく猛スピードでこちらに向かってきているのは、確かでした。

「一時方向の敵武装車両、距離二〇〇まで接近!」

「軍曹!」

中尉が叫ぶと、ギルバート軍曹は彼の突撃銃のバレル下に装着された擲弾発射器グレネードランチャーに装填し、狙いを定め引き金を絞りました。ぽん、という音がして榴弾は放物線を描きつつゆるりと着弾し、トラックを爆発させ急ブレーキをかけさせました。軍曹は、へへ、と笑いました。無線越しに中尉が言いました。

「よくやった、軍曹」

「新手だ! 敵BMP装甲車!」

砂煙から現れたのはソ連製歩兵戦闘車、BMPでした。キャタピラで駆動しながら、ハッチから歩兵は顔を出し、七三ミリの滑空砲などを備え、またその後ろには随伴歩兵を連れていました。

 マジかよ、と言って軍曹は頭を低くしました。装甲車の武装は容易く土壁を貫通し、彼の部下が被弾したり机や椅子を真っ二つにしたりしました。空を仰ぐと、爆発した武装車両の燃える黒い煙が立ち上り、曳光弾が飛び交って、ふと、向こう側に飛んでいくひとつの榴弾がありました。それから遠くに大きな爆発音がしました。

「――敵装甲車、無力化」

フン、と無線越しに笑って、二二ミリ小銃擲弾ライフルグレネードを発射したばかりのマニング曹長が言いました。

 曹長が敵装甲車を破壊すると、中尉が「よくやった」といい、ギルバート軍曹はムカッとして無線機に向かって叫びました。

「お前、ちょっとうまくいったからって、中尉と仲良くしてんじゃねーよ!」


 * * * * * *


 それから小規模な小競り合いが続いて、しかし、しばらくすると敵方はほとんど沈黙して、血を流しながら蠢いている芋虫たちの様相になりました。アノニマは彼らに近付くと、死体の懐を漁りながら金を集めたりしました。カマルも手伝ってくれました。

「お前らにはもう必要ないだろう」

 一人の負傷したムスリムの兵士が、ノリンコ製CQ311小銃を構え、ふらふらと照準を合わせようとしていました。アノニマは振り向きざまに即座に発砲して腕ごと銃を弾き飛ばすと、ボルトを操作して彼に銃口を向けました。彼は血の混じった唾を吐きました。

「あ、悪魔……イスラムの教えに反する……異教徒がぁっ」

「それはよかったな。私に殺されれば殉教できるぞ」

アノニマは引き金を絞りました。男は頭を吹き飛ばされて、すぐに物を言わない肉塊になりました。

 遠くから、マニング曹長とサンダース中尉がその様子を眺めていました。ギルバート軍曹は少し離れて、苛々した顔で、二人の小声で会話するのを見ていました。周りでは負傷した人員を輸送したり、また彼らは治療を受けたり、ぬるい水を飲んだりしていました。

「――アレはどうしますか」

「放っておけ。大した脅威じゃない。好きに泳がせておけばいい」

「我々と敵対する可能性は?」

「心配性だな、曹長。たかが小娘一人に何が出来る? 戦争は数だ。数が多く力の強いほうが勝つ」

 警備員の一人の、慌てた声が無線に入ってきました。

「敵勢力! 西の方角、六〇〇メートル!」

 声を聞きつけたか遠くのキャタピラの音に気付いたか、アノニマはぴぃぃぃぃ、と甲高い指笛を吹きました。少女の蒼褪めた馬はぶるひひん、と怯えた顔で、主人の下へと駆けてきました。アノニマはそれに飛び乗ると、カマルを連れて、陽の傾きだした西の方角へと向けて走り出しました。

 馬が走りだしたのを受けて、ヨーイチもロバを駆ってきて途中でアノニマと合流しました。二人と一匹は夕陽に向け駆けていました。

「戦闘、終わったのかよ?」

「いや、まだこれからだ」

「はぁ?! じゃあなんで今俺らは走ってんだよ」

「奴らに飲み込まれるぞ、あの女隊長に。飼い殺しだ。だから今、この戦闘に紛れて脱出する」

「だからって、そんな危険な事」

「忘れたのか? 私は海を見に行くんだ」

 少女は『リー・エンフィールド』小銃を馬にしまうと、RPG7対戦車擲弾発射器ロケットランチャーを取り出して、弾頭を装填しました。ヨーイチは岩場のほうに隠れるようにして、カメラを取り出して構えました。

 民間軍事警備会社の社員たちは、みな一様に銃を構えながら、しかし少女が馬を駆るのを「観戦」していました。

「T‐72! 距離五〇〇!」

丘の上から姿を現した敵戦車は、少女に向けて同軸機銃を撃ちました。が、視界の狭い戦車が少女を捉えるより、馬の駆るスピードのほうが速いのでした。少女は煙幕手榴弾を取り出すと、ピンを歯で引き抜いて片手で投げ付け、戦車を煙で覆うようにしました。それからRPGを構えると、戦車の影に向けて、引き金を引きました。対戦車榴弾が真っ直ぐに噴射して飛んでいき、後方噴射は馬の尻尾を少しだけ焦がしました。

 馬が嘶くと、戦車に着弾した音が聞こえました。でも少女は馬を駆るスピードを緩めませんでした。煙幕に突っ込んで、戦車の車体に横付けすると、そのまま戦車に飛び乗りました。着弾の爆発による損壊はレンガを纏った装甲によって防がれたようでしたが、とかく視界が悪く、戦車長がハッチから出てくるのを少女は見ました。――それはアフリカ人の子供でした。アノニマはその頭をRPGの砲身で殴り抜くと、空いたハッチに手榴弾を投げ込んで、馬に戻り、数秒立って、戦車の内部で爆発が起きました。

 丘の上から叫び声がして、それから、「バンザーイッ!」という日本語が聞こえてきました。先頭の子供は黒旗を持って、それは、英語で『無秩序な武器兵器による愛と平和』、アラビア語で『エゴイストの連合』と書かれ、ハートマークとピースマーク、それから二つのAで構成された、虹色の蝶がデザインされたものでした。

 アノニマは『クリンコフ』を構えました。馬の上からフルオートで薙ぎ払うようにして、彼らに向けて威嚇射撃をしました。が、彼らは怯まず臆せず、歩みを止めないまま、万歳突撃を敢行しました。

 近くに岩や土壁でできた遮蔽物があり、アノニマは馬から転がり落ちるように隠れました。『クリンコフ』の弾倉を交換すると、右手で三日月型の刀身のカランビットナイフを抜いて、銃床を左肩にナイフと共に構えました。

 彼らは日の丸の鉢巻きをして、着剣した八ミリ弾仕様の有坂銃を持ち、また銀の銃弾の装填された、ナチスドイツ製StG44突撃銃などで武装していました。肌の色は白も黒も黄色もなく、男女の区別も境もなく、子供も大人も入り混じって、ただただ灰色でした。

 狼犬のカマルが傍で吠え始め、アノニマは『クリンコフ』を乱射しました。敵の兵士、十三人の影のうち何人かを仕留めると、弾倉を交換しました。銃弾が幾らか飛んできて、遮蔽物から銃だけを出して乱射していると、カマルがワン! と吠えて敵に飛びかかっており、音もなく至近距離まで接近してきているのが分かりました。

 西日から出来る長い影が、視界の隅に映るのをアノニマは見逃しませんでした。敵は七・六二ミリ弾仕様に改修された九九式軽機関銃の銃剣を、少女の横っ腹に向けて突き出しました。アノニマはそれを紙一重で避けると、上部に装着された軽機関銃の弾倉を手刀で外しながら銃を引っ張り、体勢を崩した敵の脇腹をカランビットナイフで掻っ捌きました。体内に空気の入るごぽぽとした音がして、桜色の内臓がでろりと出てきました。少女はその死体を敵に向けながら肉の盾として、弾避けに使いながら脇から『クリンコフ』で盲撃ちをしました。それで何人かを倒すと、味方に撃たれてぼろぼろになった死体を放り出し、転がり込むように遮蔽物に隠れました。

 敵は半分以上殺しました。カマルも噛み殺した敵の手を咥えて戻ってきて、アノニマはそれを彼の牙から外してやりました。

 再び、「バンザーイッ!」と声がして、アノニマは身を乗り出して『クリンコフ』の引き金を引きました。撃鉄の落ちる音だけがしました。少女は銃を再装填するより速く、脇のホルスターからフランス製の自動拳銃『ジャンダルム』を取り出して、初弾を装填し、胸の位置で祈るように構え、そして撃ちました。九発の弾倉から二発ずつ、四人の敵にそれぞれ叩き込みました。そのうち一人が死に際に引き金を固く絞っていたため、StG44から発射された銀の銃弾は、アノニマの腕を少し掠めて血を流させました。

「――かすり傷だ」

アノニマはそう言いましたが、カマルはその血を舐めて綺麗にしてやりました。少女は狼犬の頭を少し荒っぽく撫でてやり、拳銃の弾倉を交換して安全装置をかけ、ホルスターにしまいました。

 銃声が止みました。死体だけがただじっとして黙っていました。アノニマは『クリンコフ』を背負い、指笛を鳴らすと、馬に飛び乗って、「ヨーイチ! 先に行ってるぞ!」と、叫びました。遠くの岩場で隠れながら写真を撮っていたヨーイチは、慌ててカメラをしまうと、ロバに乗って彼女を追いかけました。

 一部始終を双眼鏡で眺めていた中尉に、曹長が聞きました。

「追いますか?」

「いや、やめておけ」

中尉は答えました。その顔はいつものように笑っていました。

「みんな、よくやってくれた。状況終了だ。報告のある者は、あとで私のところに来てくれ。他は、通常の業務に戻るように」

 中尉がそう命令すると、みなはぞろぞろと解散しだしました。それから誰も居なくなった頃、「あれが、死を畏れぬ者ペシュメルガの戦いか……」と呟き、誰にも見せないゾクゾクとさせた恍惚の表情を浮かべて、

「ああ、良い、良いぞカウガール。私はお前のようなやつが本当に好きなんだ」

と、西の光を仰ぎながら、ぶるりと震えて、ひとり言いました。


 * * * * * *


 アノニマとヨーイチ、それからカマルは、夜の砂漠を歩いていました。二人はしばらく黙っていて、ただ馬の蹄の音だけを振動させていましたが、ふと、アノニマが思い出したように言いました。

「そういえば、結局それ、使わなかったのか」

アノニマはヨーイチに渡したイラク製の拳銃『ターリク』の事を指さしました。ヨーイチはズボンの拳銃に触ると、

「え。ああ、そういえば……道理でなんか尻が重いと思ったら……」

と、呆けたことを言いました。拳銃を持つと、それはずっしりと重く、体温が移って少し生ぬるいのでした。

「じゃあ、棄ててくれ」

アノニマが言いました。ヨーイチが怪訝な顔をして聞きました。

「へ? いいの?」

「ああ。いいんだ、それはもう」

ヨーイチは、えいっ、と言って力いっぱい『ターリク』を放り投げました。銃は放物線を描いて岩の上に落下し、分解して、広い砂の上に散り散りになりました。

 アノニマが『ターリク』だったものを遠くに見ながら呟きました。

「私が棄てたものは、きっと知らない誰かが拾って使うんだ」

 息を吐いて、アノニマは急に馬のスピードを上げました。カマルもそれに付いて行きました。ヨーイチは、しばらく不思議そうにぽかん、としていましたが、夜の闇が少女を遠くに溶け込ませようとすると、慌てて、その後を追いかけてゆくのでした。

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