3.地雷を踏みつつコンニチワ
うううううう、と狼犬のカマルが唸りました。少女は彼にクルドの言葉で〈
それは点でした。もっと厳密に言うと、地雷を踏んだまま天を仰いでいる、
「なんだ、あいつは……」
少女が鬱陶しそうに呟きました。それから、ぴゅうと指笛を鳴らしますと、どこからともなく葦毛色の馬がぶるるひひんと下品に息を荒くしながら駆けてきました。馬は明らかに狼犬に怯えていました。
少女は馬の鞍に差していた大英帝国製リー・エンフィールド小銃を取り出すと、それを背中に負うようにしました。
〈
少女は馬に飛び乗ると、カマルはワン、と吠えました。
* * * * * *
「おっ、……おーうい! たーぁすけてくれぇーっ!」
遠くに少女の姿を見た男が叫びました。少女は馬で近付きながら、右腿のリヴォルバー拳銃『ピースメイカー』に手を置いたまま、
「そこで何をしてる」
と、聞きました。男の話していたのは英語でした。
「地雷を踏んじまったんだよ! 分かるだろ、きっと足を離したらドカン、ってやつだ!」
「映画の見すぎだ。ほとんどの対人地雷は、踏んだら即座に爆発するように出来ている。遅延があっても数秒だ」
「え、そうなの?」
数十メートルの距離を保ったまま(それは想定される爆発の範囲外でした)、少女は言いました。
「たまたま運よくまだ不発なのか……あるいは対戦車地雷かもしれない。そうだったら、変に斜めに力が加わると爆発するぞ」
「どっどどどどうど、どうすりゃいいんだよ」
「ゆっくりと足を離せ。それから、走れ。また別の地雷を踏まないようにしながらな」
男は蒼ざめた顔をして、短い無精ひげを蓄えた口で言いました。
「こっちに来て、手を繋いでいてくれよ。震えっちまって、喉も渇いて、身体が動かないんだ。不安でたまらねぇよ」
「断る。私が死んだらどうする」
「そんな殺生な……」
「死ぬよりマシだろ。それよりそこで干乾びて砂の一部になるか?」
男の着ている赤茶けたメキシカン・ポンチョが風に揺れました。その下には日本という国の民族衣装である青い作務衣がのぞいていて、少女は、少し目を見開きました。が、まだ黙っていました。
男は、えーいっ、と仰々しく叫んで、そっと地雷から足を離しました。それは中国製の七二式対戦車地雷でした。
「ホントだ。爆発しないでやんの」
「油断するな。さっさと逃げろ。処理する能力が無いのならな」
はいはい、と男が呟いて、少女のほうに近寄ってきました。ですので少女は思わず『ピースメイカー』を抜いて、
「待て。どうして私のほうに来る」
と言いました。男がそれでも近付いてくるので、少女は銃口を向けました。すると男は立ち止りました。
「えっ、えっ? だって離れないと危ないんだろ?」
二人ともお互いに理解できない、といった表情をしながら、
「だから、お前が安全だと言う保障が無いだろ。銃を捨てろ」
少女は『ピースメイカー』の撃鉄を起こしました。
「銃なんか持ってねーよ! 俺はカメラマンだぞ」
「カメラマンだと?」
すると、遅れたように地雷が爆発しました。男は吹き飛ばされたように、地面に倒れました。少女は眉を互い違いにさせて、
「……これで、ともかく危険は無くなった訳だ」
と、呟きました。男は、うう、と唸って、
「ま、待てって。まだ死んでねぇって」
咳き込みながらか細い声で言いました。
「無傷とはな。運がいいのか悪いのか」
少女は馬から降りました。男は突然思い出したように、
「はっ。カメラ、カメラ……」
彼は首から吊っていたカメラを取り出すと、正しく動作するかを確かめました。ずいぶん砂を被っていたようですが、不具合はないようでした。それから鞄を開けると、各種のレンズや大量のフィルム、予備のデジタル・カメラの安否も確認していました。
「本当にカメラマンとはな」
少女は呆れて言いました。それからカマルを撫ぜて、もう安心していいことを伝えました。男は水筒を取り出して一口飲んで、
「だからそう言ってるだろ。ジャーナリスト、てやつだ。たぶん」
「たぶん?」
あー……と、濁すように男が言いました。それから、にやにやと薄気味悪く笑って(ひょっとすると、はにかんだつもりだったのかもしれません)、言い始めました。
「実は、記憶喪失、てやつでさ。目が覚めたときに覚えてたのは、このカメラの使い方だけでよ。もう何年もこの辺を放浪してんだ。ここらの人間は優しいから、喰うには困らなくてな」
「悪運の強い事だ。それで内戦に巻き込まれたわけか」
ああ、と男がにやついて言いました。少女にはどうして男が笑っていられるのか、分かりませんでした。男が続けました。
「パスポートにゃ、『ヨーイチ・ハルノ=ホセア』って書いてあったけどよ、それも盗まれて失くしちまった。その名前を聞いてもピンと来ないんだけどな。昔見た映画やら音楽やら本なんかの事は、なんとなくは覚えてるんだが……」
男はふと、少女が腿に吊っている『ピースメイカー』を指して言いました。
「それ、クリント・イーストウッドの銃だろ? 西部劇とか、マカロニ・ウエスタンで『
「遊びの道具じゃない」
楽しそうに話しかけたヨーイチの話題を、少女は眉をひそめて切り捨てました。
「ホセア、といったな。ユダヤ人なのか?」
少女が聞きました。男は首を横に振って、
「いんや。それはたぶん俺の奥さんの苗字。ペニナって言ったかな」
「結婚してるのか?」
少女の横では、赤いシクラメンの花が炎のように揺れていました。男はもう一口ぬるい水を飲んで答えました。
「ああ、どうも、俺は雑誌社かなんかの仕事中で、たまたまイェルサレムに来てたそいつと合流したらしくてな。起きた時に病院で、開業医か誰かが教えてくれたんだが……俺はアメリカから来た日本人で、日系一世なんだそうだ。ハルノ、って苗字がそれだろ?」
「日本人だと?」
少女は、ずい、と肩をいからせて言いました。少女は随分背が小さいはずなのに、ヨーイチはすこしだけおののきました。
「私は、
「……じゃあ俺、パーフェクトじゃん……」
「アポロ・ヒムカイという人物に心当たりは?」
「誰だそれ。ていうか記憶喪失の人間に物を尋ねるか普通?」
ヨーイチはすっかり参ってしまって、少女に、煙草吸っていいか? と聞きますと、許可が出たので、赤いマルボロの箱を取り出して、ようやく一息ついたのでした。
「……アメリカの煙草なんぞ吸いやがって……だいたいその格好はなんだ、ヒッピーかぶれの多文化主義者のつもりか。訳がわからん……」
少女はぶつぶつ独り言を呟いていました。ヨーイチは聞こえなかった事にしました。狼犬のカマルは舌を出して呼吸していました。
「俺の事はこんなもんだよ。お前の嫌いな日本人で、アメリカ人で。ユダヤ人が奥さんで。カメラマンさ。お前は、名前なんてーんだ?」
ヨーイチが尋ねました。少女は少し考えたふうにしましたが、
「
と、答えました。するとヨーイチが何を思い違ったのか、
「アノニマ? アノニマってのがお前の名前なのか?」
と、聞きました。少女はそれですっかり呆れてしまって、
「……もう、それでいい。
と、答えました。ヨーイチは「へ?」と聞き返しましたが、どうやら勘違いしたことも分かっていないようでした。
少女は名前をでっちあげて答えました。
「
ヨーイチは頷いて、
「アノニマ、アノニマかぁ……なんか、しっくりくるな」
と、呟きました。意味が分からん。とアノニマは思いました。
「この狼犬はカマル。私の道連れだ。利口で、素早くて、強い奴だ」
「カマルって、アラビア語で月、って意味だっけか?」
そうだ、とアノニマが答えました。ヨーイチは笑って、
「そうか。じゃあ俺とは逆だな。俺の字はこう、
「なるほど。お前は馬鹿でノロマで弱い奴、という事だな」
「――タハ。そうなるわな」
彼が笑うので、アノニマはどんどん不機嫌になってきました。構わずヨーイチは聞きました。
「クルディスターニってえ事は……クルド人なのか? 生まれは、どこだ? トルコか?」
「イラクだよ。
「その、
「わかった、馬鹿でノロマで弱くて空気の読めないヨーイチ。もう帰ってくれないか? 日本にでもアメリカにでも……」
突然に、ワン、とカマルが吠えました。アノニマが彼の視線の先を見ると、砂丘の向こうの
〈
超音速の銃弾が頭を掠めて、遅れて銃声が響いてきました。アノニマは伏せるときにヨーイチも押し倒していました。どうしてかは分かりませんでした。アノニマは舌打ちをして、
〈
走り出したときには既に二発目が飛んで来ていました。半自動式か、とアノニマは思いました。怯えた馬はそのままどこかに逃げだしてしまいました。
どうにかして、廃車と岩が組み合わさった遮蔽物まで辿り着きました。するとアノニマはヨーイチの胸ぐらを掴んで、
「お前……奴らが来るのを待っていたのか? 始めから囮のつもりか? 話の内容も出鱈目か? 返答次第では殺す」
と、散弾拳銃の『ルパラ』を向けながら言いました。ヨーイチは汗だくになって慌てふためき、
「ち、ち、違うって! あいつが襲ってきたのはたまたまだって! 俺は民間人だ、誓って……誓う神もいねぇけど――、銃なんか持った事もねーよ!」
「くそッ」
アノニマは彼の事は放っておいて、背中の『リー・エンフィールド』小銃を取ると、安全装置を外し、初弾の装填されているのを確認しました。それからマガジン・カットオフを入れ、ボルトを操作し初弾を抜くと、その弾頭を歯で抜き取って空包を作りました。
「手鏡はあるか」
「は、はひっ」
ヨーイチは慌てて鞄から手鏡を取り出して渡しました。
「どうして手鏡なんか持ってるんだ」
「さ、砂漠にはいちばん必要だってなにかで読んだんだよ……」
「確かにそのようだな」
アノニマはあまり追求しないようにしました。そうしているうちに弾丸が空気を切り裂いて飛んできて、少女は、『リー・エンフィールド』の銃口に金属製のカップを取り付けると、そこに手榴弾を嵌め込み、空包を装填しました。
小銃を腰だめに構え手榴弾のピンを抜くと、アノニマは引き金を絞りました。ぽん、という愉快な音をして、榴弾は山なりになって飛翔し、狙撃兵のいる窓のはるか上、泥煉瓦製の壁にぶつかって落ち、そして爆発しました。
「くそ、駄目か」
アノニマは手鏡でその様子を覗いていました。小銃のボルトを操作して排莢すると、衣嚢から弾薬を取り出して同じように空包を作り、手榴弾を嵌め込んで、今度はやや下を狙って榴弾を飛ばしました。すると今度は飛距離が足りず、建物のやや手前で爆発しました。
アノニマは小銃のマガジン・カットオフを引き出して、素早くボルトを操作し、弾倉の実弾を装填しました。
「手持ちの手榴弾が切れた。あとは狙撃だ」
「もう無いのかよ?」
「残りは馬に積んであった。逃げ出したのだから仕方ない」
カマルが昂ぶるように唸り続けるので、アノニマはその毛並みを撫ぜてなだめるようにしました。白いケシの花が群生していました。
「敵はおそらく二人。狙撃手と観測手だ。距離はおおよそ二百メートルと少し。風はほとんどない」
「道理で暑いわけだ」
頭上の太陽を仰ぎながら、ヨーイチは水筒を取り出し水をひとくち飲みました。それも足りないくらいに汗は噴き出してきました。
「陽炎のせいで、視界も歪んでいる。それが一応の幸運か」
「ああ、写真映りは最悪だろうな」
ヨーイチが呟くと、ふとアノニマが思いついたふうに、
「望遠レンズは持っているか?」
と、聞きました。
「ああ、あるぜ、バズーカみたいなやつがな。それがどうかしたのか?」
ヨーイチは鞄から望遠レンズを取り出して見せました。
「それでいい。ヨーイチ、お前は観測手をやれ」
「は?! なんだその、観測手ってのは」
「敵を基準に、私の弾がどこに着弾したかを言えばいい。それで照準を調整する。すると、生き残れる確率が、少し上がる」
「少し、かよ……」
ぶつくさ言うな、とアノニマが言いました。
「お前が殺すわけじゃないんだ、構わないだろ。それともこのままここで殺されるのを待つか?」
「……それは、敵に、だよな?」
銃弾が岩場を掠めて、いくつかの花を引き裂いてゆきました。
「さあな。だが結果的に死ぬのなら、誰に殺されても同じ事だろ」
* * * * * *
「……敵が見えるか?」
「ああ、ばっちしだ」
アノニマが小さく聞いて、ヨーイチが答えました。
バズーカみたいな望遠レンズの付いたカメラをヨーイチは構え、アノニマはライフル銃の
「そうか。レンズの反射に気を付けろ。位置が悟られるかもしれん」
「だいじょぶだって、これは反射防止レンズ――」
するとヨーイチのすぐ横を、超音速の弾丸が通り過ぎてゆきました。
「――じゃなかった、かも……」
アノニマは照門の距離を合わせました。少しだけ身を乗り出して、銃を岩に預けるようにして安定させ、陽炎に揺れる島のような銃眼に向けて、引き金を絞りました。毛先で束ねた黒く長い髪が揺れて、少女はすばやくボルトを操作して、次の弾丸を装填しました。
「えー、と……たぶん、随分上だぞ。それに右に逸れてる」
ヨーイチが言って、アノニマが照準をやや左下に定めました。そして撃ちました。
「――惜しい! 穴ん中に行ったんだがな、当たった感じじゃない」
すると向こうから三倍返しの銃弾が飛んできて、二人はしばらく頭を下げていました。アノニマはその間にボルトを操作して、次の弾丸を装填しました。
「あ」
向こう側を望遠レンズで覗いていたヨーイチが呟きました。
「なんだ」
「――誰か家から走って出てきた。銃は持ってない。子供だ。……あ。撃たれて、倒れた」
「…………」
アノニマは無言で銃を構え直しました。倒れた子供の事はとりあえず無視して、銃眼の中の反射に狙いを定めると、呼吸を安定させ、そしてゆっくりと引き金を絞りました。
銃弾はゆるりと放物線を描いて狙撃手の脳幹を破壊しました。ヨーイチにはそれがよく見えました。アノニマにも、あがる血飛沫は確認できました。
「殺った」
「…………」
アノニマが呟いて、ほとんど機械的にボルトを操作しました。
それからしばらく二人は黙ったまま、家であったものにレンズとライフルを向けていました。元から居なかったのか逃げ出したのか、観測手の居る気配はしませんでした。狼犬のカマルはずっと退屈そうに「伏せ」をしていましたが、陽が西に傾いた頃、ふとヨーイチが渇いたまぶたで言いました。
「……もう、そろそろ、いいんじゃねぇか?」
「……ああ……」
砂に塗れたアノニマが答えました。長い睫毛でまばたきをすると、少しだけ涙が出て目を潤しました。
* * * * * *
ぴゅう、と指笛が鳴りました。すると逃げ出した馬が主人の下に駆けてきました。その顔はやはり怯えていました。
「生きてたんだな、この馬」
「この馬は特別に臆病だ。だから生き残る」
言いながら少女は鞍に小銃を差し、馬に跨りました。
「――じゃあな、馬鹿でノロマなカメラマン。もう地雷は踏むな」
とだけ言って少女が背を向けるので、ヨーイチは慌てて引き止めました。
「あ、おい、待てって、アノニマ」
「――まだなにかあるのか?」
心底鬱陶しそうに少女が言いました。
「お前、これからどこに行くんだよ」
「お前の知った事じゃない」
「俺も一緒に行くよ」
「何故だ? 行き先も知らない癖に」
「行き先を知ったら何か違うってのかよ?」
「私は海を見に行くんだ」
海を見に行く? とヨーイチは繰り返して、そして思わず笑ってしまいました。それは彼の覚えている中でいちばん笑ったときでした。
アノニマはムッとして言いました。
「悪いか。今まで一度も見たことが無いんだ」
「いや、そうかそうか、悪い悪い、タハ、そうか、海を見たことがない、か……」
ヨーイチは少し目をつむって想像してみました。
「……うん、いいね、写真のイメージが湧いたわ。今日みたいな夕陽をバックに、海に入ったお前が笑顔でピースだ」
「……私は、写真は嫌いだ」
はいはい、とヨーイチがニヤニヤしながら言いました。アノニマは訝しげな表情をしながら、ふと、
「……お前はなんで、そうやってニヤニヤ笑っていられるんだ?」
と、聞きました。するとヨーイチはあからさまに左右非対称に顔を歪めて、――ひょっとすると、ウインクをしたつもりだったのかもしれません――言いました。
「や。全然覚えてないけどよ、なんか俺、お前みたいな可愛い娘が居たような気がすんだわ。だからかな」
「……訳がわからん」
アノニマは呟いて、夕陽に向かって馬を歩かせ始めました。その後を追うようにカマルとヨーイチも付いてゆきました。
影はもう随分長く伸びていました。砂漠に咲いたローズマリーの花が、少しだけ滴を零して咲いていて、月も、地平線から顔を出し始めているのでした。
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