2.狂犬アノニマ

「いいか? 嬢ちゃん動くなよ……声も出したらいけねぇぜ」

不覚。とだけ少女は思いました。

 少女は銃を向けられていました。視界の開ける砂漠の夜に、少女は独りで眠っていましたから、その隙を突かれてしまったのでした。晴れた空には三日月が輝いていました。

 男は顔中に髭をたくわえて、髪は長く、日射しとアルコールに焼けた鼻をして、垢まみれの服を着ており、明らかに浮浪者スカベンジャーでした。男は下品に笑って言いました。

「へへ……まずその右腿のリヴォルバーを、よこしな。こっちにグリップを向けて、左手で、ゆっくりとだ」

少女は『ピースメイカー』を言われた通り利き腕の左手でゆっくりと抜いて、そして地面に置きました。こっちに蹴るんだ、と言われて、その通りにしました。

 少女の蒼ざめた馬は、狸寝入りをしている様子でした。少女が馬を横目で睨むと、馬は目をそらしました。

「嬢ちゃん、素直だな。やっぱ女はそうでなくちゃあいけねぇぜ。……左胸のナイフと左腰の散弾銃。それもよこしな」

男はわざとらしく銃を振りかざして、少女はそれに従いました。

 それは三日月型のナイフでした。東南アジアでカランビットと呼ばれるもので、ちょうど獣の爪の形をしていました。少女はそれを右手で抜いて、地面に置きました。南風が少し吹いて、背の低い草原を揺らし、舞いあがった砂が男の目に涙を浮かばせました。

 それから、左腰からサーベルのように取りだした散弾銃は、日本製の水平二連猟銃でした。銃身と銃床とを切り詰めて拳銃サイズにしてあり、それはイタリアのマフィアが『狼のためのルパラ』と呼ぶ形式のものでした。それも地面に置いて、蹴ってよこしました。すると少女はすっかり武装解除ディスアームされてしまいました。

 少女は両手を上げました。ケシの花も黙って佇んでいました。

 男は黄色い歯を覗かせて笑い、ゆっくりと少女を押さえ付けるように馬乗りになって、それから、ヤニくさい口で接吻キスをしました。

(……なんだ、が目的か)

少女は冷めた目で思いました。男は少女が無抵抗なのに安心して、銃をしまい穴だらけのジーンズを脱ぎました。

 少女は男の両頬を手で包んで、そのまま口を近付けました。男も興が乗ってきたのか、目をつむって、少女の口内を舌で舐めまわしました。でも少女の碧色の眼はぎろりと男を睨んでいました。

――叫び声が上がりました。

 それは男の声で、既に言語以前のものであり、それは、男の舌が噛み千切られていたからでした。男は拳銃を取り出しました。でも撃ちませんでした。それは、少女の指が頬から滑るように動いて、男の両眼を潰していたからでした。

 少女は既に男の下から抜け出していて、噛み千切った男の舌先を血と一緒に吐き棄てました。盲目になった男から容易く拳銃を奪うと、そのグリップで後頭部を思い切り殴り抜きました。男は言語でない呻きをあげて倒れました。

 少女は血まみれの手で、砂の中から二連発の散弾拳銃『ルパラ』を拾い上げると、ゆっくりと十二番ゲージの散弾を二つ装填して、男の陰部を撃ち抜きました。反動で少女の右腕が跳ね上がり、狸寝入りの馬も飛び起き、男はほとんど虫の息でした。

死ねデガージュ、」

少女が男の頭に狙いを定め、引き金を引こうとした瞬間、その声は響いてきました。


  のをあある

   とをあある

    やわあ


 それはクルトの遠吠えでした。銃声を聞きつけたか血の匂いに誘われたか、少女は舌打ちをして三日月型のナイフを拾い上げ、それで男の腎臓を突いて止めを刺すと、散弾銃と一緒に構えました。

 ざわわあざわわあと周りじゅうの低い草原が騒ぎました。

 三日月は黙って辺りを照らしていました。

 男は失血のショックで暗闇のまま息絶えました。


  のをあある

   とをあある

  のをあある

   やわああ


 声は確実に近付いていました。

 少女は、散弾を再装填しておくべきだった、と思いました。

 葦毛の馬がいななきました。

 草原から、灰色の毛並みをした一匹の狼犬ウルフドッグが飛び出しました。

 少女は引き金を絞りました。

 それは不発でした。

 ほとんど反射的に飛び退いて、砂の上に転がる『ピースメイカー』を拾い上げ、撃鉄を起こし、狼犬に向けて、撃ちませんでした。

 狼犬は既に死体の肉を貪っていたからです。

(……腹が減っていただけ、か)

少女は『ピースメイカー』の撃鉄を戻して、腿のホルスターにしまいました。散弾拳銃『ルパラ』の不発は、故障ではなくやはり弾薬が湿気っていたからのようでした。空薬莢と不発弾を抜くと、サーベルをしまうように腰のホルスターに戻しました。

 死体に近付くと、夢中になってを食べていた狼犬がこちらを見ました。少し警戒するように唸り声をあげましたが、少女は、

〈お前の取り分を奪う気はないよ〉

と、クルドの言葉で話しかけました。狼犬はそれで安心したようで、再び死肉を漁り始めました。彼の咀嚼音だけが響いていました。

 がさり。と、そこに草木の揺れる音がしました。狼犬はぴくりと耳を動かすと、ううううう、と低い唸り声を上げました。すると草むらからも狼たちの声が返ってきました。少女もまた右手にカランビットナイフを持ち替えながら、

(銃声を聞きつけた奴らか)

と、ナイフの握りの輪っかに小指を通して、順手で構えました。それは死神の鎌のようでもありました。

 一人と一匹はちょうど背中合わせのようになって、彼らの飛び出してくるのを待ち構えました。銃を抜かないのは銃声で狼たちをおびき寄せない為でした。少女は見るというよりもむしろ音に反応して動き、すると、土色の毛並みをした狼が爪と牙をむき出しにして、真正面から少女に飛びかかってきました。

 少女は勢いに押し倒されて左腕を噛まれました。が、狼の噛みついたそこは防刃の籠手になっていて、ぐいと腕を押し込んでそれ以上噛めないようにしてやると、少女は右手の鎌のようなナイフを喉元に刺し、そのまま引き裂くようにして殺しました。重たい狼の死体をどけるうちに、灰色の狼犬は二匹の狼を噛み殺していました。

 そうして少女が起き上がると、怯えきった葦毛の馬に、体格のいい土色の狼が襲いかかりました。灰色の狼犬はそれに飛びついて、鋭い爪で互いに引っ掻き合いましたが、致命傷にはなりませんでした。そうやって二匹が睨みあっているうちに、少女はブーツから『リー・エンフィールド』小銃の銃剣を抜くと、刃を持って土色の狼に向けて投げ付けました。銃剣は半回転して刺さり、群れのリーダーを絶命させると、それで一帯は静かになりました。

 少女は死体の服で手とナイフに付いた血を拭うと、狼犬を少し撫ぜてやりました。すると狼犬は少女の唇の周りに付いた男の血を舐めて綺麗にしてくれました。――或いは、単に彼が血に飢えていただけ、かも知れませんが。少女は少しだけ頬を弛めて、

〈くすぐったいよ。カマル、〉

と、言いかけました。そして少女はしばらく呆然としていましたが、……カマル……と、もう一度確かめるように呟きました。すると、狼犬は元気よくワン、と吠えました。

〈カマルというのか、お前の名前は〉

少女は再び狼犬を撫ぜました。彼は嬉しそうに尻尾を振りました。


 * * * * * *


 空は白んで来ていました。少女はほとんど骨になった男から頂戴したフランス製の拳銃――フランス国家憲兵隊ジャンダルムリに長らく愛用された事から、少女はそれを『武装した人ジャンダルム』と呼ぶ事にしました――を、左脇のホルスターにしまいました。

〈一晩中、ここに居て見張ってくれたのか。ありがとうシパース、カマル〉

少女はカマルの頭を撫ぜてやりました。彼は舌を出して嬉しそうにしました。

 寝ていた馬を叩き起こすと、少女はそれに乗りました。やれやれ、これで野蛮な肉食動物とおさらばできる、と馬が思ったかは知りませんが、馬は割と陽気に歩きだしました。しかし、しばらくしないうちにさきほどの狼犬が追いかけてくるので、思わず馬は走りだそうとしました。が、

「どうどう、止まれ、馬。」

手綱を引かれて馬は蒼褪めました。もともと葦毛ではあるのですが。

 少女はしばらく彼を見つめていましたが、ふと思いついたように、

一緒に来るかワラ・ラガルム?〉

と、聞きました。するとカマルがワン、と吠えるので、

〈そうか。じゃあ一緒に行こう。西の果てのガリラヤ海まで〉

そう言って、馬を走らせました。狼犬もそれについてゆきました。馬に乗ったクルドの少女と一匹の狼犬は、朝日に背を向けながら、西の地平線へと歩み始めたのでした。

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