6.世界の中心を失くして、アイを叫んだけものども

「我々は今、ここだ」

「結構来てるのな。半分をちょっと過ぎたくらい?」

 街のホテルの一室でアノニマは、レッドに頼んで作ってもらった地図を広げ、各地点を指さしながら言いました。ヨーイチは煙草を吸って、アノニマはハシーシュの葉の煙をもくもくさせていました。

「そして目的地の海はここ。イスラエル国境のガリラヤ海」

ガリラヤ海は一六六平方キロメートルの面積を持つ淡水湖で、その水はヨルダン川を南に流れ、死海へと流れ込んでいました。

「海っていうか、湖だな。こっちの北側を行った、地中海のがいいんじゃね? 広いぜ」

ヨーイチが指摘すると、アノニマはムッとして答えました。

「広さじゃない。それにこの沿岸部は都市部だから、激戦区でもあるんだ。出来る限り近付きたくない。――それに、ガリラヤ海はよく聖書で言及されるところもあるし……ともかくこっちが良いんだ」

アノニマはそう言って、まぁ、こいつ、頑固だしなぁ。とヨーイチは思って、頬を掻きながら、じゅっ、と煙草を灰皿でもみ消して、

「まぁ、おれもイスラエルには用事が出来たし……とりあえず、ガリラヤ海目指して行きますかぁ」

と、答えました。アノニマが意外そうな顔をして言いました。

「お前にも用事があるのか」

「シツレイな。俺だって用事のひとつやふたつやみつよついつ……」

「どうせあの女が絡んでるんだろ」

図星でした。アノニマは、ふん、と鼻で笑って続けました。

「で、だ。レッドに調査してもらった結果、ここから少し南東へ行った所にある地下納骨堂カタコンベ。それが奴らの拠点になっているらしい」

「奴らって、あの虹色の蝶の旗の奴らか」

「そうだ」

「……行くの?」

「お前は来るな」

「へ? なんでだよ」

「これは私の野暮用だ。お前が来る必要はない」

「そんな水くさいこと、言うなよ。ここまでも一緒だったじゃんか」

「――言い方を変えよう。テロ組織の本部に乗り込むのに、非戦闘員まで庇う余裕は私には無い、という事だ。端的に言えば、邪魔だ」

アノニマはハシーシュの煙を吸いました。

「ひでぇ」

「実際役に立たないんだから仕方ない」

「でも、それでも行くよ」

「なんでだ。脳味噌が無いのか」

「もしお前が俺の知らないとこで死んじゃったら、なんかやだもん」

そこまで会話して、アノニマは言葉に詰まりました。口をぽかんと開けて、それは半ば呆れているようにも見えて、しばらくヨーイチの茶色い瞳を覗いていました。煙の粒子はただ光に当てられて漂うばかりでした。それからしばらくして、

「そのだらしなく開いている口を閉じろ」

とだけ、言いました。ヨーイチが眉を互い違いさせて言いました。

「は? なんでだよ」

「いいから」

「むむむ?」

と言って、ヨーイチが口を閉じました。そしてアノニマは、ごっ、と鈍い音をさせながら、その顎に思い切り掌底を喰らわせて、ヨーイチは後ろのベッドに倒れ込み、きゅう、と鳴いて気絶しました。

 アノニマはなんだか呆然としていました。明るい窓の外では父親と娘が一緒になって遊んでおり、ぴぴっ、ぴぴっ、と青翡翠アオショウビンが甲高い声で啼いていました。アノニマはとりあえずハシーシュの紙巻を最後に一吸いして、灰皿で消しました。

 地図を持って部屋を出ると、レッドが狼犬のカマルを連れてやってきました。カマルはくぅんと鳴きました。

「何かあったのか?」

とレッドが言いました。アノニマは、

「別に」

と言って、目をそらしました。それから言いました。

「ヨーイチを起こさないでやってくれ。死ぬほど疲れてる」

そうか? とレッドが答えました。アノニマは目を合わせないで、そのまま通り過ぎていって、カマルは彼女についてゆきました。

 レッドが不思議がって部屋のドアを開けると、そこでは大の大人が白目を向いて気絶しておりました。レッドが慌てて窓の外を見ると、アノニマは既に馬に乗って走り出していました。

「アノニマっ!」

レッドが窓の外へと向かって叫びました。それが聞こえたのか聞こえないのか、アノニマは馬を止めませんでした。


 * * * * * *


 とにかく馬を駆りたい気分でした。カマルも走りたくてうずうずしていましたし、別段走りたくもないのは臆病な葦毛の馬だけのようでした。彼は、ぶるるひひん、といって呼吸を荒くしました。

 九月の空はまだ照って暑いものでした。通り過ぎていく風は心地いいものでした。しばらくずっと、砂を蹴っていました。

〈一人になるのは久しぶりだ〉

クルドの言葉で、アノニマは呟きました。ワン、とカマルが吠えました。そうだな、とアノニマは答えました。

〈腹が空いた。――そういえば、今日はまだ何も食べてなかった〉

そう言って馬を止めると、アノニマは鞄の中を探りました。それから、〈あ、〉と呟きました。携帯糧食は、全部ヨーイチのロバに積んでいた事を思い出したからです。仕方なく腰の水筒キャンティーンを取り出すと、それから水を一口飲みました。

〈……なにか、狩るか……〉

そう呟いて馬から降り、その鞍から『リー・エンフィールド』小銃を取り出すと、ボルトを操作して初弾を装填しました。ナツメヤシの木陰に馬を留めると、辺りを見回しました。ヤシの実は誰かに採集されていたようでした。馬は草を食んでいました。

 二匹の兎が並んで歩いているのが見えました。アノニマは狙いを定めました。と、奥からラクダが一匹のろのろと歩いてくるのが見えて、あっ、と呟いて引き金を引いてしまいました。弾は当たらずに動物たちを驚かせただけで、兎もラクダも皆逃げていってしまいました。アノニマは、

「……」

とだけ言って、ボルトを操作し空薬莢を排出しました。カマルは舌を出してはっはっはっと呼吸していました。

 もう一度、『リー・エンフィールド』を構えました。大柄な蛇が砂の上を這っていて、アノニマはそれに狙いを定めました。そして引き金を絞りました。ぱん、と蛇の頭が弾けて消えて、アノニマは素早くボルトを操作すると、音に驚いて飛び出した雁を捉え、再び引き金を絞りました。落ちてゆく鳥を見ながらアノニマは、フン、とだけ鼻を鳴らしました。

 火を起こしながら、カマルが蛇と雁とを咥えて持ってきました。それを軽く捌いて串刺しにすると、適当に砂の上に挿してまんべんなく焼けるようにしました。肉が焼けるのを待つ間、アノニマは衣嚢からハシーシュの紙巻を取り出して、白い煙をもくもくとさせて吐き出しました。それから水を一口飲みました。

 一帯はなんだか穏やかでした。低い草が生えて、空の青と砂の黄色とが映えるステップ気候帯のなかで、少女は、ただひとりでした。アノニマは、なんとはなしに、カマルの毛並みを撫ぜてやりました。

 肉が焼けたと見えて、焼けた雁の肉と残った内臓なんかをカマルにいくつかやりました。少し生臭くて味気ないそれらを面白みもなく胃に送り込むと、今度は蛇の丸焼きの串を手に取りました。それを齧ると、焦げや肉自体の苦みを感じ、アノニマは〈なんだこれ〉と呟きました。まずくて逆に食が進みました。

 不意に、視線を感じました。アノニマは少し身構えました。辺りをきょときょと見廻すと、丘の上の、こちらを見下ろしている存在にすぐに気が付きました。

 それは孔雀でした。青い頭をしているからすぐに分かりました。孔雀は、しばらくじっとこちらを見ていましたが、ふと目が合うと、ばさりと沢山の青い目玉のついた羽根を大きく広げ、ふわりと丘の上から飛び出し、不死鳥フェニックスかロック鳥のように空を滑空しました。

〈――綺麗だ〉

と、アノニマは呟いていました。彼はやがて空の光と混じり合って見えなくなって、ひらひらと、一枚の飾り羽が舞い降りてきました。アノニマはそれを手に取ると、耳の上あたりに髪飾りとして挿してみました。が、なんとなく気恥ずかしくなって、ヨーイチから貰った琥珀の首飾りの紐にそれを括りつけました。その青い目の飾り羽はまるでファーティマの目やナザール・ボンジュウのようでした。

〈御守りみたいなものだ〉

アノニマはそう呟きました。それは、孔雀の飾り羽について言っているのか、琥珀の首飾りについてそう言っているのか、それとも、銃に対してそうなのか、彼女にも、よく分からないのでした。


 * * * * * *


 ハンヴィーは連なって、荒涼とした砂漠を渡っていました。アノニマはただ座ってカマルを撫ぜながら、砂埃をもくもくと巻き上げながらそれらが近付いているのを眺めていました。

 速度が落ちて、ハンヴィーの列が止まりました。ばるるるる、とエンジン音をさせたまま、窓を開けて中尉が手を振りました。アノニマは彼女にとぼとぼと近付きました。

「ヘリコプターが落ちてな。我々としては、機密保持の為に破壊しなくてはならない」

「そういう仕事もあるわけか」

「まぁな。尻拭いという訳だ。ケジメってやつだよ」

「どうせ自分達の為だろう」

「具合が悪いだろう、尻も拭かないで用を足すのは」

「その点は賛成だ」

アノニマがぼそりと言って、孔雀の飾り羽のついた琥珀の首飾りを触りました。それは太陽のように仄かに温かいのでした。

「――ああ、カウガール。曹長からこれを預かった。受けとれ」

 中尉が思い出したように、車内から散弾銃を取り出して言いました。それはレバーアクション式のM1887散弾銃で、取り回しやすいよう銃身と銃床とが切り詰めてあり、大型のループレバーに交換されていました。

「中国製のコピー品だが、充分使用に耐えうる。――見たところ、散弾銃を失くしたようだな?」

ああ、とアノニマが答えて銃を受けとると、奥から軍曹が、

「『ターミネーター2』でよ、シュワルツェネッガーが使ってたよな、それ。あとは『ロイ・ビーン』で判事ジャッジが使ってたかな。状態のいいやつを探すのに苦労したぜ」

と、茶々を入れました。どうでもいいが。とアノニマは言いながら、心の中でそれを『雌ロバの片脚エンプーサ』と呼ぶ事にしました。アノニマは散弾銃の本体ごとループレバーを軸にがしゃりと回転させると、左腰のホルスターにサーベルを差すようにしまいました。

 それから中尉は「これも預かった」と言って、フランス製拳銃『武装した人ジャンダルム』の抑音器サプレッサーとその装着用のネジが刻まれた延長バレルとを渡しました。アノニマは黙って脇のホルスターから『武装した人』を抜くと、弾倉を外してあっという間に分解して、延長バレルに交換すると組み立て直し、銃口の先端に抑音器をきゅるきゅると取り付けました。それから初弾を装填して、ばすっばすっ、と低い音をさせながら砂地に試し撃ちをしてみると、動作に問題はないようでしたので、新しい弾倉に入れ替えてホルスターにしまいました。

 それからアノニマが中尉に向き直って、言いました。

「アポロは少なくとも神経ガスを所有している。おそらくサリンだ。そしてそれは実用段階にある」

中尉は少し眉を上げて、楽しそうに答えました。

「ほう? それは面白い情報だな。証拠はあるのか?」

アノニマは鞄をまさぐりながら続けました。

「ここから東に少し行ったところにあるゴーストタウン。その変死体の写真だ。それに加え、奴らの拠点に化学防護服が何着かあった。それとラップトップから取り出した詳細な実験記録」

アノニマはレッドから預かったフラッシュディスクを投げ渡すと、中尉は軍曹に言って、タブレット端末PDAを出させました。それから興味深そうな顔でデータファイルを検めると、ふむ、と唸ってその情報をどこかに送信しました。それから言いました。

「まぁ、しばらくすれば本国から特殊部隊か何かに暗殺命令が出るだろうが。ともかく、アポロは私たちの子飼いの羊ではなくなり、奴は今や既に、狼になった」

狼、ね……とアノニマは呟きました。焚火の傍では狼犬のカマルがお利口に「おすわり」をしていました。

 向き直ってアノニマが言いました。

「用意してもらいたいものがある」

意外そうな顔をして、中尉が答えました。

「ほう? なぜ私がお前に協力する必要がある?」

アノニマが何でもないといった表情をして言いました。

「お前の姪を助けた」

「……私に姪なんて居たかな」

中尉は顎に手を当てて思案し始めました。とぼけているふうではなく、割と真剣に思い出そうといるようでした。

「レッドの事だ。S・C・A・R・サンダース。苗字が同じで、しかも二人とも育ちのよさそうなカナダ人。血縁じゃないのか」

アノニマにそう言われて、中尉は合点がいったように手を打って、

「――ああ。ひょっとして、赤毛レッドのサマンサの事か」

「そうだ」

アノニマが答えると、うんうんと頷きながら中尉は、

「あー……なるほど、なるほど。いやそうだ、確かに血縁だ。が、少しややこしい事に、私の方が姪なんだ。めんどくさい家系でな。サマンサは六つか七つほど年下なんだが、私の叔母に当たる」

と、答えました。アノニマは、どうでもいいが。と再び言って、

「で、だ。協力するのか、しないのか」

「意外と恩着せがましいんだな」

中尉は笑いながらそう言って、まぁ、出来る範囲でなら別に構わないが。と答えました。アノニマは中尉に耳打ちして、中尉は首を傾げながら、

「そんなものを?」

と、聞きました。奥でハンドルを握っている軍曹にも聞こえなかったみたいで、二人の間を覗きこむようにしました。するとアノニマは彼とちらりと視線を合わせるようにしながら、

「いいから用意しろ、元補給部隊長殿。……それから、――軍曹が、お前に話したい事があるそうだ」

と、言いました。ほう? と中尉が言うと、軍曹は慌ててアクセルを踏み込んで車を発進させました。それから彼は「あいつ、変な気ぃ遣いやがって」と思いました。

 車内は二人きりでした。しばらく二人は黙っていましたが、

「――それで。なんだい、軍曹」

と、中尉が切り出しました。軍曹はばつの悪そうにしながら、

「ああ、ええと、そのう……き、今日もいい天気ですね」

と、言いました。中尉は目を細めて、ニヤニヤ笑うようにして、

「ハッキリしない男は嫌われるぞ。少なくとも、私個人は昔、女性群からそういう話を聞いた事がある」

と、言いました。軍曹は言われて背筋が伸びるようで、息をすぅ、と吸い込んで、

「――す。ず、ずっと、好きだったんですよ! 上司としてでなく、異性として! だから俺と付き合って――いや結婚してください!」

と、一息に叫びました。それからずっと車の進行方向に視線を落としました。誘導車と後続車に挟まれて、ブレーキをかけることはできませんでした。しばらく沈黙がありました。

 中尉は意外とびっくりした様子でしたが、ややあって、しばらくうんうん、と頷きながら、

「――あー……そういうことか。なるほど、なるほど。君と曹長の不仲も、そういう……」

と、ひとり呟いていました。それから、うん。とひとりごちて、

「すまないな軍曹、私はレズビアンなんだ。つまるところ、男に興味がない。はじめに言っておけばよかったんだな」

と、割合あっさりと言いました。いっぽう軍曹は、

「……はぁ?」

と、今にも泣きそうな顔で言いましたが、アクセルを緩めるわけにはいきませんでした。でもタイヤはただごろごろと転がっていて、軍曹が半分呆けたような顔つきをしているので、中尉は間を埋めるように続けました。

「ついでに言うと曹長はゲイだ。――ああ、安心しなさい、彼が言うには『あいつは全然好みじゃない』という話だ。そもそもノンケは食わない主義らしくてな。――そう、同性愛者どうし、分かりあえる点も多くてな。親密そうに見えたなら、それが原因だと思う」

「――で、でも、俺は何年もあんたに付き従っていて、それで、割と好意を持たれていると思っていて」

「うーん。どちらかというと、飼い犬への好意に似てるんだなぁ。私は、犬が好きでなぁ。うちではサモエドとレトリバーを飼ってるんだが……かわいいぞぉ。弟みたいで可愛い、みたいなところもあるが……ええと、ほら、私は昔から弟が欲しくてなぁ。親戚のヘンリーは弟みたいなもんだが、あいつは偏屈でよくない。物書きはインドア派だからきっと猫が好きなんだな――じゃなくて。つまり、私も動揺してるわけなんだ。まさか男に好意を持たれるなんて、想像もしてなかったからな。……わかるかな?」

「あ、はい、それはなんとなく伝わります。じゃなくて。それでも、好きなんです。駄目ですか」

軍曹が答えて、中尉は唸りました。なんとなく軍曹が、自分の家の飼い犬に見えてきたからです。中尉はしばらく困っていましたが、

「うーん、困ったな……ああ、そうだ、軍曹、いいよ。結婚しよう」

と、再び割合あっさりと言いました。軍曹は面喰らいながら、

「……はぁ?」

と、再び言いました。中尉が「あ、」と言って補足しました。

「――ああ、ほら、私の住んでいる州ではまだ、同性婚が認められていないんだ。それに私の親族には保守的な人間が多いから、体面的な問題もある。つまりは偽装結婚という形だが。それで、君の目的である『結婚』は果たせるだろう? ――ああ、それとも、子供が欲しいのかな? そしたら、君の精子を提供してくれれば、君の子供を出産したっていいよ。代理父とでも言うのかな。それで君のDNAを後世に残す事だって出来る。フェアな取引じゃないか?」

中尉の説明を聞いて、軍曹は、

「…………」

とだけ、言いました。中尉はちょっとだけ拗ねたようにして、

「……私はそんなに、変な事を言っているか?」

と、不満そうに言いました。軍曹は泣いていいのか喜んでいいのかよく分からない気持ちでした。なので言いました。

「――キスさせてください。いえ、しましょう、今、ここで」

「はあ? ――いや、こら、ちょっと、やめなさい、ギルバート!」

軍曹が運転をほとんど放棄しながら中尉に迫ってくるので、彼女は、思わず彼の頬をひっぱたきました。それで彼は気付きました。彼は、誰かに叱ってもらえるのが、嬉しかったのです。


 アノニマは、遠くにハンヴィーの列が離れていくのを見て、カマルを撫ぜながら呟きました。

〈……らしくない事をした〉

カマルも、ワン、と言って答えました。アノニマが続けました。

〈わからないな。愛の使者クピドにでもなれると思ったのか。私は亡霊プネウマじゃないか。持っているのは恋の弓矢でなく、木と鉄の銃じゃないか。それで親しい誰かを愛すのでなく、知らない誰かを殺しながら、邪魔者を蹴散らしながら、自分の為に生きてきたじゃないか。――それなのに、どうして今、私はここに立ち止まっているんだ〉

アノニマが呟いて、狼犬のカマルも、彼女の名前の無い葦毛の馬も、心配するように彼女に身を寄せました。ざわわあざわあと風が吹いて、砂を巻き上げながら、いちめんに広がる低い草とときどき生える椰子とを揺らしました。

 その光景は葦原によく似ていました。遠くから海の音が聞こえてくればよかったのですが、響いてくるのは、砲火と銃声の和音ハーモニーでしかないのでした。


 * * * * * *


 木陰の下でハシーシュの紙巻を吸っていると、遠くから商人の馬車がカポカポと音をさせながら近付いてきました。アノニマはあんまり興味なさそうに、狼犬を撫ぜながら、消えかかった焚き木をときどき弄んでいました。煙が空に向かって立ち昇っていて、ワタリガラスが咽せたように、平べったくカァ、カァとわめいてました。やがて宝石売りの馬車がその前で止まって、馬車曳きのユダヤ女は、

「魔法使いですよぉ。みんなにいじめられた灰娘シンデレラの下に、馳せ参じて参りましたぁ。――ま、単に、狼煙が上がってたからね」

と、ドイツ語訛りの英語で、冗談めかして言いました。アノニマは笑わないで眉をしかめて黙っていました。宝石が太陽に当てられてキラキラしているのが、眩しかったからです。

 少女が黙っていると見て、宝石売りの女は言いました。

「移動中だから一緒に行きましょ。南の方にちょうど小さい街があるのよ。そこに出店を借りてるの」

 アノニマは口を噤んだまま出る支度を始めました。まるで誰かに連れていかれるのを待っていたみたいに、準備はすぐに終わって、ぱっと馬に飛び乗りました。すこしだけ砂が舞いました。

 ふたりはしばらく馬を歩かせていましたが、女はふと、アノニマの提げている琥珀の首飾りの、蒼い眼の模様の付いた羽根を指しながら尋ねました。

「それは? 妬みの眼差しアイン・ハー=ラーアのつもり?」

「ただの孔雀の羽根だ」

「あなたの緑色の瞳と同じで、なんとなく不吉ね。嫉妬深い碧の眼」

「姉の眼の色は青かった。家族の中で――いや村の中で、瞳の色が明るかったのは、姉と私だけだ」

「あなたにも家族が居るのね?」

「居るとは言っていない。もうみんな死んだ、村の連中も含めて」

「ヤズディ教徒?」

「今は違う。もう太陽に向かって祈る事もない。私は、朝日に背を向けて歩くんだ」

「聖地ラリシュには?」

「ザムザムの泉も汲んだ。イラクに居た頃は、年に一度は訪ねる決まりだったんだ。――でも、あんなものは、まやかしだ」

「孔雀天使なんてものが、ただの悪魔シャイターンだって気付いたって事?」

「それは違う。悪魔は罪を赦される。彼の悔恨の涙が、地獄の業火をも消してしまったんだ」

「――まるで、アリス・リデルみたいね。あ、読んだことある? イングランドの数学者ルイス・キャロルの小説で……」

「知らん。小説は読まない」

「そお? 面白いのに……私の友達なんか、それで娘にアリスって名前付けたんだから」

「テキトーな奴だな。それで? アリスがどうした」

「なんだっけ……そうそう、アリスは小さくなるインキを飲んで、小さな扉から外に出ようと思ったんだけど。鍵が机の上にあってね。それで、大きくなるケーキを食べたんだけど、今度は鍵があるのに扉を通れなくなっちゃった。それでアリスは大泣きして、涙の池を作っちゃうのよ。なんか似てない?」

「……言うほど、似てるか?」

似てると思うけどなぁ、と女は呟いて、アノニマの事を見ていました。それから視線を少女のカラシニコフ短機関銃『クリンコフ』、それから足元の狼犬へと落としていって、

「『右手には薔薇を、左手にはカラシニコフを』……赤いバンダナを付けて、それに狼なんか連れちゃって。あなた、勇猛果敢な『クルディスタンの狼』――バルザーニ族かなにか?」

と、聞きました。アノニマはぶっきらぼうに「知らん」とだけ答えました。二人はしばらく黙っていましたが、アノニマがふと、

「お前がペニナだろう」

と、言いました。ペニナと呼ばれた女は少し意外そうにして、

「あら。よく分かったわね」

「その結婚指輪のデザインはヨーイチのものと同じだ」

アノニマがそう指摘すると、ふぅ、とペニナは溜息を吐いて、

「なーんかあいつ、鈍いとこあんのよねぇ」

と、ぼやきました。二人はしばらくかぽかぽと馬の蹄を鳴らしていましたが、

「なぜ別れた?」

と、アノニマが切り出しました。ペニナは答えました。

「民族の違い、ってやつかしら。日本人というのはヤズディ教徒と同じで、なろうと思ってなれるものじゃない。なのよ。改宗は出来ない。身分カーストが違えば、人種が違えば、結婚だって難しい。それは個人の意思がどうこう、なんて問題じゃなくて。そもそも彼らには個人という概念がなく、すべての意思は、集団の空気によって決定される。それは、あなたにもよく分からないでしょうけど。彼らには『明文化された戒律』や『法』なんてものが、そもそも肌に合わない」

「ヨーイチも、輪廻転生は信じると言っていたが……」

「なんとなく、でしょうね。彼らが宗教と呼ぶすべてのものは、みんなそれらしい『借り物』でしかなくて、都合のいいときにはあっちを、また別のときにはこっちを、着替えるように、継ぎ接ぎして作っているだけ。その感覚がユダヤの私にはあまり、合わなかった。――いえ、正直なところ、憧れていた」

「どういう意味だ」

「気楽に見えるってことよ。向こうからしたら、こっちみたいに明確なルールのあることが、気楽に見える人も居るでしょうけど……私も真面目な信徒じゃないけど。それでもルールはルールよ」

「だが、それはヨーイチの問題じゃないだろう。日本人というの体質の問題だ。……私もむかし、そんな集団に属していた」

「『新日本赤軍』、だっけ? 話は聞いてるわよぉ」

誰から、とはペニナは言いませんでした。アノニマも「いや……」と呟いただけで、深くは考えませんでした。

「いずれにしても、今あいつは記憶喪失で……」

「知ってる」

ペニナは即座に答えました。

「それなのにお前の事を好いていると……」

「それも、知ってる。でも私、思い出の無い男は、好きじゃないの。――陽一の事は、愛してるけれど。これって勝手かしら」

アノニマは、しばらく黙っていましたが、足元についてくる狼犬のカマルに視線を落としながら、ふとペニナに向き直って、

「失ったなら、また作りなおせばいい」

と、言いました。「案外、前向きね」と彼女は答えました。

 地平線の向こうに遠い街の影が見えて、ペニナは「あ、そうだ」と呟いて、籠から色とりどりに塗られた卵を取り出しました。

「食べる? 固ゆで卵ハードボイルドよ。お菓子もあるわよぉ」

「いらん。四月セル・サラでもあるまいに。だいたいユダヤ教徒は、復活祭イースターは祝わないんじゃないのか」

「用心深いのねぇ。いいじゃない、毎日どこかの誰かは生まれてて、そして死んでるんだから。だいたい生まれる前の卵を、こうやって装飾するのが単純にカワイイんだから」

ペニナはその細い指で卵の殻をぺりぺりと剥きだして、それから食べました。すると、狼犬のカマルが物欲しそうに彼女を見るので、ペニナはもうひとつ殻を剥いてそれを狼犬にほうってやりました。カマルはそれに嬉しそうに飛びついて、いっぽうアノニマは渋い顔をして二人を見ていました。

「ほーら。やっぱりお腹空いてたんじゃない。その子くらい素直なほうが、人生うまく生きていけるわよ」

ペニナは茹で卵をもぐもぐさせながら、続けました。

「たんぱく質は一度変質すればもう元には戻らない。――分かる? 男たちは頑固なのよ。大きな銃こそが強い、それさえあれば何物をも屈服させられると、かわいく信じ込んでいるの」

「…………」

アノニマは黙り込んでいましたが、ペニナが肩からぶら提げているC96拳銃『魔女の箒の柄ブルーム・ハンドル』をちらと盗み見て、

「本当に護身用か?」

と、言いました。二人は馬を歩かせ続けました。狼犬もそれについていきました。ふふ、とペニナは笑って答えました。

「女の武器は化粧と涙よ、ペシュメルガさん。つまり、上手に嘘を吐くってこと」

「お前がいつも嫌味ったらしく笑っているのも、そうか」

「笑顔は防具。そして人間の武器はアルファとオメガ。英語で言えばAからZの二十六文字……その組み合わせでしかない」

「小説でも書くのか?」

「――まさか。私に文才は無かったの」

と、ペニナは自分では細密に描いたつもりの、茹で卵の殻を剥き続けながら、苦笑いして答えました。

 空では家を失くしたワタリガラスが、引き続きカァ、カァと平べったい声で、鳴き続けているのでした。


「はーい、いらっしゃいませー……ちょっと埃っぽいわね。まぁ、あがってあがって」

 薄暗い室内のカーテンをペニナが開けると、陽が差して埃が漂うのが分かりました。アノニマはシュマーグで口を覆うようにして、カマルはくしゅんとくしゃみをしました。

 アノニマは壁にかけられている沢山の小銃を眺めました。アメリカ製AR15、中国製56式半自動歩槍、イギリス製スターリング短機関銃、イスラエル製タボールAR21、ウジ短機関銃……パキスタン製のコピー品も多く見受けられました。

「武器も売っているわけか」

「需要があるところに店を出すのは商売の基本よぉ」

それからペニナはカウンターの椅子に座って、ふぅ、と溜息を吐いて言いました。

「もともとは弓師だったんだけどね。すっかり売れなくなっちゃった。みんな銃の方が好みみたい」

「弓?」

「トルコ弓の一種よ。いわゆる複合弓コンポジット・ボウ。動物の腱を糸状にほぐして、それを弓の伸びる外側に、縮む内側に骨を張り付けて作るの。それを貼り付けるにかわも動物のゼラチン質を取り出して作るんだけど……私が作ると、そうね、射程は六〇〇メートルくらいになるかしら。もちろん、射手にもよるけどね」

「弓はむかし使った事がある」

「騎馬民族さまさまね」

「だが、本業は宝石屋だろう?」

ペニナは懐からキューバ産のロメオ・イ・フリエータの葉巻を取り出すと、長いシガーマッチを擦って先端を炙りながら言いました。

「もともとは動物の毛皮とか、歯とかを使って装飾品を作ってたんだけど……その派生? 脳は脂肪だから皮をなめすのに使えるし、毛皮や骨はもとより、筋肉や腱は弓作りに使える。捨てるところなし、って奴ね」

葉巻にようやく火が点ると、ペニナはすぱすぱとそれを吹かし紫色の濃い煙を漂わせながら、言いました。

「防弾チョッキも売ってるわよ。ライフル弾も喰い止める凄いやつ。命の保険にどう?」

「いらん。動きが鈍くなる」

 アノニマはそう言い捨てて、店の中をぐるりと見回しました。銃や宝石のほかにも、ブーツやヘルメット、チェストリグにカミースといった服飾から、ファーティマの目といった御守り、ガスマスク、タブレット端末や赤外線ゴーグルといった電子機器、それに加えて小瓶に入った不思議なキノコや薬草、モルヒネ、抽出された狼の毒トリカブトなども置いてありました。

「もう何屋か分からんな」

「うふふ。すごい品揃えでしょ?」

「別に褒めてない」

アノニマはそう言って、それから、む、と言ってペニナの座るカウンターのガラスケースのピストルを見て言いました。それはブローニングの三二口径で、酷く古いヴィンテージものに見えました。

「なんだ、この銃は」

「ああ、これ? これはすごいわよぉ。百年前にオーストリア大公を暗殺した拳銃。もちろんホンモノよ」

ペニナは葉巻を灰皿に置いて、ガラスケースからピストルを取り出して見せました。アノニマは眉をしかめて言いました。

「サライェヴォ事件のことか? その銃なら、ウィーンの博物館に展示してあると何かで読んだことがあるが」

「実際は二挺あったのよ。犯人は複数居た、って説もあるわ。まぁいずれにしろ、そのうちの一挺ね」

「胡散臭いな。いくらだ」

アノニマがそう言うと、ペニナは少し呆れたふうにして、

「買うの? 三つも四つも銃をぶら提げていて。まだ不発が怖い?」

「こんな中型拳銃くらい、御守りみたいなものだ。お前よりも筋肉だって随分ある」

「やせ我慢じゃなければいいけど。――弾薬とか予備弾倉込みで、五〇ドルでいいわ」

「……そんな金はない」

「あらそう? シリア・ポンドでもいいわよ。キリよく、三〇〇〇リラってとこかしら。――これ、言っとくけど、ちょー安いわよ。なにせ歴史的な価値があるから」

言われてアノニマは懐からカウンターの上にあぶく銭を全部出して数えましたが、それでも足りないようでした。するとペニナは、仕方ないわね、と呟いて、

「じゃあ私は寛大だから、有り金全部置いていったら譲ってあげる」

アノニマは急に騙されている気がしましたが、「ホンモノ」や「価値」という言葉がなんだかとっても気になったので、それを買ってしまいました。ペニナは毎度あり、と言って、そそくさと小銭をしまいました。アノニマは銃の作動を確認すると、とりあえずバッグにピストルをしまいました。

 外ではワタリガラスたちが、ニンリルの吹かす風と遊びながら啼いていました。ペニナはぷかぷかと葉巻を吹かしていましたが、ふと灰色の迷い猫が店に中に入ってくると、彼女を抱いてやって、それから親しげに撫ぜてやりました。

「行くんでしょ?」

ペニナが言いました。アノニマがぶっきらぼうに答えました。

「どこにだ」

「アポロのところに」

「――詳しそうだな」

「全然。ときどき、銃や弾薬を売ってあげたりしたわ。でも、精々そのくらいよ」

「……ユダヤ人というのは、本当に金に汚いな」

「そんなふうに見える? そうだとしても、私みたいに自覚しながら悪事に手を染める方が、有象無象の連中よりマシだと思わない?」

「それは、――それは、分からないが……」

でしょうね。とペニナは言いました。狼犬のカマルはただ舌を出して呼吸をしていました。――あ、そうだ。とペニナが言いました。

「タロット占いしてあげよっか」

「――いらん。占いを信用するほど、神秘主義者じゃない」

アノニマは〈行くぞ〉とカマルに言って、狼犬を連れて店の扉を開けました。すると、ペニナが彼女に袋を投げ付けて、アノニマはそれをキャッチしました。その中身はいくつかの酒瓶のようでした。

「それ、おまけに、あげるわ。私特製のカクテル。上手に使ってね。また見かけたら御贔屓によろしく~」

フン、と言いながら背を向ける少女の奥では、猫を抱いたユダヤ女が暗い室内でちいさく手を振っているのでした。


 少女が狼を連れて店を出ていったのち、ペニナはタロット・カードの大アルカナ二十二枚を切りました。それからそれらを、フォーチュン・オラクル法に則って、一枚いちまい順番に並べ始めました。


 原因の、十五番『悪魔』は宿命を示し、

 周りの影響の、九番『隠者』の逆位置は閉鎖性を示し、

 過去の行動の、八番『力』の逆位置は甘えと権勢を示し、

 現状の、十二番『吊るされた男』の逆位置は自暴自棄を示し、

 希望の、十八番『月』は幻想と現実逃避と霊界とを示し、

 進転の、七番『戦車』の逆位置は暴走と傍若無人さを示し、

 未来の、二番『女教皇』の逆位置は不安定さとヒステリーを示し、

 ふたつの対策の、十九番『太陽』は双子と成功と幸福とを示し、

         二十番『審判』は復活と発展と怒りの日を示し、

そして結果オラクルの十三番『死』は、終末と離散とを示していました。


「…………」

ペニナはそう言って猫を撫ぜていました。それから、ふと結果のカード『死』を回転させて、逆位置にしてやりました。すると灰色の猫がにゃあ、とペニナに語りかけるように鳴きました。

「ええ? そんなの、単なるお呪いに過ぎないって?」

ペニナは笑いながら、猫の髭をちろちろと触ってやりました。猫は不機嫌そうにペニナをじとっ、と睨みました。

「まぁ、でも、なんかほっとけないのよね。同じ離散の民ディアスポラだからかしら。こんなもの、幻想の言葉尻に過ぎないけれど……アブラカダブラ、みんなわたしのいうとおり……アブラカダブラ、このことばのようにいなくなれ……」

ペニナがぶつぶつとそう呟いて、猫は、退屈そうにふわあとあくびをひとつしました。


 * * * * * *


 陽も傾いてきたころ、薄暗い路地の陰から、か細いリュートのような音が響いていました。アノニマはカマルを連れて、音の振動にだんだん近付いてゆきました。道行く誰も彼もは、自分達の事で忙しく、その音に気付いた様子もありませんでした。角を曲がって演奏者の顔を見つけたとき、アノニマは思わずぎょっとしました。それはちょうど鏡を見るように、少女が自分に瓜二つだったからです。

 少女はめくらのようでした。少女は誰かが近付いてきたのを感じ、ぱたりと演奏をやめると、光を通さない大きな瞳でアノニマを見て、そして言いました。

「わたし孤児なの。目も見えないのよ。かわいそうでしょ? ねぇ、あなたはどう思う?」

アノニマはついムカッとして答えました。

「――知るか。他人に甘えるな」

盲の少女は怒ったふうにして言いました。

「なによ、アイスクリームみたいに冷たいのね――食べたことないけど! いいわよいいわよ、そしたら、泣いてやるんだからっ!」

ァァァ――――ン……と、サイレンが響いたみたいな音がしました。その音に、アノニマは珍しく焦った顔をして、

「ああ、こら、泣くな、泣くな……」

と、少女をなだめました。子供とどう接していいのか、分からなかったからです。アノニマはふと周囲を見回しましたが、誰も二人に気付く人たちは居ませんでした。そしてアノニマが優しくしてくれるとみると、少女はケロリとして、

「わたし、ぱふぇっていうのを食べてみたいの。完璧パルフェという名前の菓子よ。あすこの西洋喫茶店にあるの」

と、向かいのカフェを指差しながらすばやく言いました。アノニマが、はぁ? と言う間もなく少女は、

「だいたいタダ聞きはご遠慮願います。ねぇ、お金ちょうだいよバクシーシ、お姉ちゃん!」

「べつにお前の姉ではないし、イスラム教徒でもない」

「奇遇なのね。わたしもよ」

と、会話をしました。アノニマは溜息を吐きました。カマルは蝶がひらひらと飛んでいるのをただ眺めていました。

 アノニマはぼりぼりと頭を掻いていましたが、一度深呼吸をすると、少女に聞きました。

「金はあるのか」

「もちろん無いよ」

アノニマは衣嚢をまさぐって、懐に何もない事を思い出しました。

「私だってない」

「じゃあ、どうするの?」

「……その、ウードを弾いて稼げばいいだろう」

「誰も聞いてる人なんて居ないよ。今日もすっから、カン」

少女が空き缶を叩くと、中身の無い「カン」と良い音がしました。アノニマが苛々してきたと見て、少女が笑いながら言いました。

「そのお姉ちゃんの銃で、善良な人たちを脅して奪うってのは? 別に、殺したっていいんだけど。むしろそのほうが楽かな?」

「銃なんか、持ってない」

「わたしの目が見えないと思って馬鹿にして。下手な嘘吐いたって駄目だよ。匂いで分かるもん」

「……いずれにしても、そんなの、いけないに決まってる」

「そうかしら? わたしたちって、被害者じゃない? だったら、その怨みを世間の人間に晴らさせるってのは、言ってみれば当然の、悪くないアイディアなんじゃないかしら」

「彼らにだって家族がいるかもしれない。無抵抗の人間に手をかければ、それはきっと面倒事の種になる。――もちろん、向こうに敵意や殺意があるなら、話は別だが」

「わたしたちだって家族が居たわ。でもみんな戦争で死んじゃった。そうしたら、誰を怨めばいいの? 戦争を始めた、政治家? それとも、それを選んだ民主的で善良な人たち? ――それとも……」

「一方的に暴力を振るえば、後からその報復の連鎖に巻き込まれる」

「――じゃあ、後がないなら?」

「何の話だ。お前はパフェが食べたいんだろ? だったら、ここで騒ぎを起こすのは得策じゃないんじゃないのか」

アノニマがそう言って、少女はきょとんとして言いました。

「それもそうね。お姉ちゃんってば、あったまいー」

アノニマは顔をしかめましたが、少女は、えへへと笑っていました。

「他に出来る事はないのか」

「目が見えないんだもん。障害ってのはそういう意味でストレスよ」

「たとえば特技だとか」

「手先が器用かしら。楽器弾いてるからね。パズルとかも同じ理由で得意かな。でも、工場なんか、みんな砲撃で壊れちゃった。それに盲はきっと雇われないよ」

それじゃ金にならないな、とアノニマは言って、

「じゃあ、もう単に、好きな事とか」

と、半分投げやりに提案しました。すると少女は見えない目を輝かせて、

「わたし、うたが好き! 唄うほうじゃなくて、弾くほうだけど。それに合わせて、伴奏するの! ――そうだわ、そうしましょう!」

少女は急に勢いづいて、アノニマの裾を引っ張って、明るい通りのほうに出ました。背の高い人々は通り過ぎていくばかりで、狼犬のカマルも、くぅん、と淋しそうに啼きました。

「あら、わんちゃんも居たのね! お姉ちゃんと同じ匂いがするから、分からなかった!」

少女は何の気なしにそう言って、アノニマは渋い顔をしました。

「――さて、騒ぎを起こしましょ!」

「人の話を聞いてなかったのか」

「そうじゃなくて、良い騒ぎ。人を集めるの。あんな路地裏でひっそりと、染みったれた曲を弾いてたって誰も聞きやしないわ」

少女はすうと息を吸い込んで、そして大声で、そして珍妙な声色で囃し立てはじめました。人々もすこし驚いて少女を見ましたが、盲の少女からは他人の目線は見えないので気楽なものでした――アノニマは人々の視線の集まることに、苛々とさせられましたが。

「さあさ、さあさあ、通りがかりの御方様へ。右も左も寄っといで。旦那御新造、紳士や淑女、お年寄り方お若いお方。お立ち合い衆の皆さん諸君。トントその後は御無沙汰ばっかり。なんて言うからビックリなさる。なさるはずだよ三千世界が。出来ない前から御無沙汰続き。今日が初めてこの道傍に。まかり出でたるキチガイ娘……」

そう言って少女はチャカポコとウードの胴を叩き、またスチャラカとその弦を弾き始めました。にわかに人も多からず寄ってきました。ざわつきが聞こえて、少女はフフン、と自嘲気味に笑いました。

「エー、エー。今から歌をば唄います。盲のあたしにゃあんたらの顔は見えやしないけど。キット不可思議な顔をなさってる事でせう。でも音があれば盲もどうとでもなるのです。神は「光あれ」と言った、すなわちそれは、光より早く音があった、言葉があった、と、聖書でも申すところであります。音は空気の振動です。言葉は力です。論理は武装です。それではお聞き下さい」

少女は充分に囃し立てると、くるりとアノニマに振り返って言いました。

「ほら、お姉ちゃん、なんでもいいから、唄って! 伴奏は合わせるから!」

「――は? 私が唄うのか?」

「当然よ! ――だってわたし、音痴だもん!」

人々の視線がアノニマに集まったように感じました。アノニマは少し視線をそらしながら、はにかんだようにして、それを抑えながら誤魔化すように咳払いをしました。それから気息を吸いこんで肺を膨らませ、そして、半ばどうにでもなれ、と自棄を起こしながら、唄い始めました。


 ながいときがすぎて、花はどこへ行ったの?

 もうずっとむかしに、花はどこかへ行っちゃったの?

 花は女の子がみんな摘んで行ってしまったよ

 いつになったら分かるんだろう

 いつになったら分かるんだろう


 ながいときがすぎて、女の子はどこへ行ったの?

 もうずっとむかしに、女の子はどこかへ行っちゃったの?

 女の子はみんな男の子のところに行ってしまったよ

 いつになったら分かるんだろう

 いつになったら分かるんだろう


 ながいときがすぎて、男の子はどこへ行ったの?

 もうずっとむかしに、男の子はどこかへ行っちゃったの?

 男の子はみんな兵隊さんに行ってしまったよ

 いつになったら分かるんだろう

 いつになったら分かるんだろう


 ながいときがすぎて、兵隊さんはどこへ行ったの?

 もうずっとむかしに、兵隊さんはどこかへ行っちゃったの?

 兵隊さんはみんな墓場に行ってしまったよ

 いつになったら分かるんだろう

 いつになったら分かるんだろう


 ながいときがすぎて、それから墓場はどうなったの?

 もうずっとむかしに、墓場はなくなってしまったの?

 墓場はいちめんのお花畑

 いつになったら分かるんだろう

 いつになったら分かるんだろう


 ながいときがすぎて、花はどこへ行ったの?

 もうずっとむかしに、花はどこかへ行っちゃったの?

 花は女の子がみんな摘んで行ってしまったよ

 いつになったら分かるんだろう

 いつになったら分かるんだろう


「――あは! お姉ちゃんってば、負けず劣らずの音痴なのね!」

伴奏を終えて、少女が茶化すように言いました。周りからは割と温かい拍手がぱちぱちと鳴りました。少女はすかさず、サアサ、タダ聞きは遠慮願いますよ! と言って、すっからの缶をカンと鳴らし、それを振りかざして歩きました。アノニマは顔を隠すように押さえていましたが、カマルがくぅん、と鳴いて慰めてくれました。

 ほどほどにお金も貰えたようで、少女は満足げな顔をしながらアノニマに言いました。

「――じゃあ今度は明るめの曲でひとつよろしく。――」


 * * * * * *


 西洋喫茶店の一角で、少女は生まれて初めてのパフェを目の前にしていました。でも彼女には見えませんでした、何故なら彼女は盲目だからです。だからその匂いを嗅ぎました、次にそのグラスの手触りを確かめました。バニラの匂いはむせかえる程で、グラスはよく冷えていて指先は血が勢いよく通いなんだか温かいのでした。

 それから銀のスプーンでひと匙アイスクリームをすくって、一気に口に入れました。いっぽうでアノニマは冷めた目で少女の笑顔を眺めていました。それからぼそりと尋ねました。

「……うまいか。それ……」

「うん! これ、すごいよ! だって全部が全部、どこ食べても甘いんだもん! 甘いものでしか出来てないんだもん!」

チョコレートソース! と少女がはんぶん狂乱して叫びました。それからパフェをもうひと匙食べて、笑顔になって言いました。

「バニラってね、お姉ちゃん知ってる? 奴隷の子供が効率的な受粉の方法を見つけたのよ。花の寿命は四時間とかそこら。それを手作業で受粉させるんだけど。それはもともと昆虫の仕事だったわけね。花のあまぁい蜜を吸わせる代わりに、花粉を運ばせるっていう……花は、狡猾な生き物よね。他者を利用して自らの子孫を殖やす――そして愛される術を、生まれつき知っているの」

アノニマが黙っていると、狼犬のカマルが少女の唇に残った、チョコレートのかかったアイスを舐め取りました。ひゃん、と少女が驚いたふうに鳴いて言いました。

「あら、あら。チョコレートの味を覚えちゃうわよ、悪いわんちゃんだこと! いつか中毒になっても知らないんだから!」

それから、「ファーストキス、奪われちゃった」と少女は続けて、アノニマは渋い顔でそんな様子を眺めていました。彼女が黙っているので、少女はパフェを片付けながら、ふと質問をしました。

「お姉ちゃんって、兵隊さん?」

「……別に。政府側の軍人でもないし、反政府のゲリラでもない」

「ふーん。どっち付かずの流れ者ワンダラーってヤツね。それとも英雄願望の自警団ビジランテ気取り? 人殺したことある?」

「…………」

「別に、責めてるわけじゃないのよ。ただ興味があっただけ。――撃たれた事ある? それってどんな感じ?」

「……撃たれた数よりは、撃った奴の数のほうが多い。戦闘中はアドレナリンが出るから、痛みはむしろ後々からやってくる」

「『闘争か逃走かファイト・オア・フライト』ってやつ? でもそういう感覚があるってのは、きっと生きてる証拠よね。ところでお姉ちゃんって、年いくつ?」

「質問ばかりだな。十だ」

「ウッソー、見えない。……見えない? ってか、わたしとだいたい同い年じゃん」

「お前も随分ませた餓鬼ではある」

「ここではみんなそうよ。誕生日いつ?」

「一四二二年、第六の月ジュマーダー・アルアーヒラの二十二日」

「……それって、西暦で言うと、いつ?」

「二〇〇一年の九月十一日」

「うっそ、信じらんない、誕生日まで一緒? でも、そしたらまだ九さい? まだ十一日、なってないよね? でもお姉ちゃんの方がお姉ちゃんっぽいからやっぱりお姉ちゃんはお姉ちゃんでいいです」

「……お前と話してると、もうじき百歳になるような気がしてくる」

「お姉ちゃんってなんかしっかりしてそうだもんねー。声で分かっちゃうもん。誕生日に死ぬのは、なんかやだよねー。お姉ちゃんは気を付けてね。ところでパフェをお代わりお願いします」

会話をしながらいつの間に食べ終えたのか、それとも口が二つあるのか、少女は冷たいグラスを見せつけながら言いました。アノニマはやや溜め息混じりに答えました。

「……お前の稼いだ金だ、好きに使えばいい」

「いいよ、お姉ちゃんも唄ったし、残りはお姉ちゃんにあげる」

少女は空き缶いっぱいになったお金からパフェの分だけを取ると、残りはみんなアノニマに差し出しました。アノニマは懐から麻の葉の紙巻を取り出して火を点けながら、「お前のほうが必要なんじゃないのか」と聞きましたが、少女がばつの悪そうに「うーん、でも、これがお礼ってやつ?」と答えました。

 やがて給仕がパフェを届けにきました。彼はややもすると訝しげな表情をしていましたが、チップを含めた代金を出すとそそくさと帰ってゆきました。少女は再びパフェを片付け始めました。それと一緒にやっぱり話し始めました。

「お姉ちゃん、名前なんていうの?」

アノニマは、鼻や口から麻の白い煙を吐き出しながら答えました。

「……アノニマ。亡霊の娘たるクルド族の名無しアノニマ・ビント=プネウマ・アル=クルディスターニ

「ふーん。そこは違うんだ。――わたしは、ゾーイ、っていうの。ちょっとギリシアふうで、お洒落な名前でしょ? ゾーイってヘブル語のイヴの翻訳なんだけど、もともとはほら、どっちも『呼気ハウア』みたいな意味なんだって! わたし、自分が知りたくて調べたの! ――あっでも、そしたらお姉ちゃんの『気息プネウマ』もそれに似てるね! 亡霊プネウマさんのビントだなんて、変な名前のお父さんだけど!」

「…………」

アノニマは黙って麻の紙巻を灰皿で揉み消しました。少女が充分に話しているからです。それからゾーイは一心不乱にパフェを食べていましたが、それを終える頃、ふとした表情で言いました。

砂漠デザートの語源って、知ってる? 『見棄てられた』って意味なのよ。だからこの完璧な菓子パルフェも、孤児オルフェ片付けてデザート終わり」

ごちそうさまでしたボナペティ、とゾーイがうやうやしく言いました。

「……うまかったか。それ……」

「うん、とっても。――あっ、お姉ちゃんも食べたかった?」

別に……とアノニマが言いました。それからゾーイは、「良い思い出ができました」と嬉しそうに笑って言いました。


 陽は沈みだした頃でした。二人と一匹は店を後にすると、あかい夕陽に照らされて、影は長く伸びているのでした。盲のゾーイは衣嚢をごそごそとして、そして中のものを取り出しながら言いました。

「これ、お姉ちゃんにあげるね。わたしの、本当のお姉ちゃんが持ってたハーモニカ。大事にしてよね」

それはA=四四〇ヘルツのC調に調律された純正律のハーモニカでした。アノニマは眉を互い違いさせながら、手も差し出さないで、

「荷物が増える。それにそんなもの吹けやしない」

と、つめたく言いました。するとゾーイはぷんぷんに怒って、

「じゃあそのぶん、銃を棄てたらいいでしょ!」

と、半分むりやりそれを押し付けました。アノニマはそのハーモニカをしぶしぶ受け取りました。木と金属とで出来たそれはなんだかずしりと重く、小型拳銃か手榴弾ひとつ、もしくは戦闘ナイフ一本ぶんの重さがあると感じました。

 ぐううーゥ、と胃袋の縮む音が鳴りました。それは狼犬のカマルのものでも、アノニマのものでもなく、パフェを平らげたゾーイの身体から発せられた音でした。アノニマは皮肉めいて言いました。

「腹が鳴ってるじゃないか。まだ食い足りないのか?」

「ううん。いいの。私は満足したわ」

きっとこれはアーの音ね、とゾーイは呟いて、そして続けました。

「――わたし、お姉ちゃんみたいなお姉ちゃんがいたら、今までもっと楽しかったんだろうなー。……ううん、強くなくてもいいの。明るくなくても、優しくなくたってもいい。ただ、身近な誰かと、一緒に、楽しければ、それで」

「別に私は強くもないし、明るくもないし、優しくもない」

「別にわたしだって褒めてないのよ。お腹の虫は単音楽器だって話。ハーモニカや弦楽器、それにピアノなんかはその点いいわよ。一つだって和音が奏でられるんだから」

遠くに、銃声と砲声の音が響きました。それは音の振動となって、二人の間を通り抜け、髪の毛を微細に揺らしました。それから少女が言いました。

「砲火を戦争とするならば、きっと静寂が平和なのかしら?」

少女はアノニマに静かにキスをしました。それは確かに甘い味がするのでした。アノニマは黙っていましたが、盲の少女は、じゃあね、お姉ちゃん、と小さく手を振って、暗い路地裏に消えてゆきました。

 アノニマは、ハーモニカを握り締めている事に気付きました。それをふと口にすると、まずツェーの完全五度の和音を吹きました。それは自然でありまた完璧な調和でした。それからデーの和音、それは随分外れているようにうねりが起きました。エーの和音、それは少し低いように感じ、また長三度の比もずれていました。エフの和音、その長三度は合っており、ゲーアーハーと続いて、再びツェーの完全五度に戻ろうとしたとき、タンッ、といった乾いた銃声が響きました。

 アノニマは反射的に姿勢を低くしました。でも銃声はそれ一発きりで、続きませんでした。音は近かったように思いました。アノニマは右腿から回転式拳銃『ピースメイカー』を抜くと、それを腰だめに構えたまま暗い路地裏を進んでゆきました。それからカマルがワン、と吠えて、アノニマは黙って拳銃をホルスターにしまいました。そこにあったのは、ゾーイと名乗った盲の少女の死体で、彼女はイラク製の自動拳銃『ターリク』を握ったまま、脳幹を撃ち抜かれて死んでいました。土壁には彼女の血と脳漿、それから脂肪で出来た脳味噌の一部が飛散して、べたりとひっついておりました。

――彼女の弦楽器はバラバラに破壊されていて、二度とその旋律を奏でることは不可能のように思えました。

「…………」

アノニマは、祈りませんでした。自殺者は天国に行けないからです。


 * * * * * *


 夕陽の沈んだ頃、青い時間の黄昏時に、佇むヘリコプターの残骸を中心に、小規模な銃撃戦が展開されていました。発射炎の閃光マズルフラッシュは眩しく目に焼き付いて、スプリングフィールド銃の銃声はその鼓膜を一時的に破壊しました。

 アノニマは夕陽に背を向けて、馬を止めました。影は長く伸びて夜の闇に溶けてゆきました。それからただ、ぢっと銃火の方角を眺めていました。それは蒼くて暗い東の空でした。

 不意に、流れ弾が彼女を掠めました。臆病な馬は嘶いて、前足を上げましたが、少女は素早く飛び降りて、『リー・エンフィールド』小銃を馬の鞍から抜くと、何も言わずに狼犬を顎で呼びました。彼も彼女に息を合わせて、それに付いてゆきました。蒼ざめた馬は既に逃げ出していました。

 黒い旗の連中が、アノニマに気が付きました。民間軍事警備会社PMSCsの社員たちも、彼女に気付いたようでした。そのときにはもう、小銃から勢いよく射出された手榴弾が、ころんと砂の上に転がって、黒い旗を吹き飛ばしました。少女は乾いた砂の上に伏せていて、素早くボルトを操作しながら、半自動式の銃のように一分と経たないうちに十発の弾倉を空にしました。それはほとんど盲撃ちでしたが、後ろを取られた黒旗は、ちょうど挟み撃ちの形になって、広い砂漠の上を右往左往しており単なる良い的になりました。

 アノニマは五発の挿弾子をふたつ弾倉に装填すると、目測の距離に照準器を合わせ、その的を狙って引き金を絞りました。ずごかかん、と重く乾いた銃声が地平線に響いて、風を切りながら飛ぶ尖頭弾は、恐怖主義者テロリストの頭を熟れたトマトみたいにしました。

〈――ひとつヤーク

数を、かぞえていました。少女は遊底を操作して薬莢を排出し、弾丸を薬室に装填すると、再び照準を覗き込んで引き金を絞りました。

ふたつドゥー

銃の反動で、その長く黒い髪が揺れました。それは幼い少女には強すぎる火薬の運動エネルギーでした。右肩が痛いのをほとんど無視しながら、少女は照準を合わせ続け様に連射しました。

みっつセーよっつチュワールいつつペーンヂ……〉

恐怖主義者たちは、砂漠の上に寝そべって、十字砲火クロスファイアの弾幕を辛うじて避けていました。PMSCsの社員達も応戦していました。

むっつシェシ

排莢された撃ち殻が、か細く煙を吐きながら砂の上に落ちました。暗い砂漠に曳光弾が飛び交いだして、少女は立ち上がって走り出しました。あとから狼犬も駆けていました。恐怖主義者の一人が駆ける少女に狙いを定めましたが、PMSCsの銃弾がそれを阻止しました。そいつの胴体を撃ち抜いたという意味で、ですが。

ななつヘウトやっつヘシト

少女は遮蔽物を唯一の頼りにしながら、的確に狙撃を続けていました。PMSCsの社員たちも銃を撃ってはいましたが、は、確かのようでした。

ここのつ

お互いの銃弾が飛び交うなか、少女の放った弾丸が、逸れたようにPMSCsの一人を殺しました。意図的なものではありませんでしたし、それに、少女を含めて誰も気付く人は居ませんでした。――張り付いた笑みを湛えたままの女中尉を除いては。

とお

弾倉が空になって、少女は再び挿弾子を二つ装填しました。それは機械的な作業のようでした。辺りには砂煙と硝煙とが漂っていて、すこし息が詰まるようでした。恐怖主義者はそれにも関わらず、自陣に煙幕を展開しました。銃声がすこしの間だけ止むと、日本語で「バンザーイッ」と大きな声が響いて、煙の中から――それこそ亡霊のように――着剣した小銃を携えて、こちら側に万歳突撃を敢行してくるのが見えました。少女もブーツの中から銃剣を取り出して『リー・エンフィールド』小銃に着剣しました。そして撃ちました。

じゅういちヤーズデじゅうにドゥワーズデじゅうさんセーズデじゅうしチュワールデ……〉

近いものから順番に、少女は何かのあそびゲームみたいだと思いました。それでも彼らの足は速く、――亡霊なら足のあるはずはないのですが――少女は腰の散弾銃『雌ロバの片脚エンプーサ』を抜いて、それを両手で構え初弾を装填しました。そして撃ちました。

じゅうごパーズデじゅうろくシャーズデ、――じゅうひちハーヴデじゅうはちハーヂデ

敵は固まって突撃してくるので、散弾は非常に効果的なものでした。それでも何人かは居るもので、銃弾の雨をかいくぐってきたうちのひとりの刺突を、少女はすんでの所でかわして『エンプーサ』の銃床で殴り付け、相棒の狼犬に喰らわせ、もう一人は銃剣で刺突し地面と縫い付けてやりました。少女は再び『エンプーサ』を構え、そして引き金を絞りましたが、弾倉はどうやら空だったようで、撃鉄の音が響くのと同時に、右腿の『平和製造機ピースメイカー』を抜きました。それは銀色に鈍く輝く回転式拳銃で、5・5インチの銃身にはおよそ9ミリの小さな銃口が空いており、銃身下部には半月型のイジェクター・ロッドを備え、黒のグリップには大きく羽根を広げた鳥の意匠がされていて――少女はそれを孔雀だと思いました。

じゅうくノズデ。――にじゅうビースト

最後の銃声が響くと、事もなげに、一帯は静寂に包まれました。少女は返り血を浴びたのかそれとも出血していたのか、定かではありませんでしたが、、というのは確かでした。少女はそれから残心を解いて深く長く白い息を吐きました。死体と地面を縫い付けていた、銃剣付きの小銃を抜き取りました。

 やがて静かになったヘリコプターの地点から、遠巻きに眺めていたギルバート軍曹が呟きました。

「なんだ、あれは……?」

サンダース中尉が答えました。

「亡霊だよ。あれは私達の中にも住んでいる、畏ろしき亡霊だ」

それは赤いバンダナを付けて、軍用のカーキのポンチョを羽織り、遠くから見れば赤い一輪の薔薇のようでした。そのカミースを仕立て直したワンピースの白は、暗い砂漠にぼうっと浮かんでいて、銃剣は、月の光に当てられて、鈍く輝いているのでした。


 * * * * * *


「――三度、お前に助けられたわけだな」

 とうに陽も沈み、遠くからヘリの残骸を眺めながら、中尉が少女に言いました。ナツメヤシの木の下で、蒼褪めた馬は低い草を食んでいて、灰色の狼犬は死んだ兵隊の肉を食べていました。

「別に助けようとしたわけじゃない。あいつらも私を撃ってきた」

「ハハハ。そのくらいで丁度いいんじゃないか」

周りの警備社員たちが帰り支度をする中で、それから少女がふと尋ねました。

「軍曹はどうしてる」

「――ああ、とりあえず決着はついたよ。全く、余裕のあることだ」

それから中尉は、少女に布で包まれた荷物を渡しました。

「言われたものは持ってきた。これが目的だろう、カウガール?」

渋い顔をしながら少女がそれを受け取ると、それから言いました。

「その、カウガールというのはやめてもらえないか。別に牛飼いでもない。こないだはアルテミスなんて呼ばれた」

すると中尉は乾いた笑いと一緒に言いました。

「――はは。アルテミスはアポローンの双生児ふたご……つまりお前は、兄弟殺しをする訳か」

「そんな大それたもんじゃない。ただ尻を拭きに行くだけだ」

「復讐の念があるのか?」

「……分からない。ただ、私は、答えが欲しいだけだ」

「その答えの問題文は?」

「……それも、分からない……」

少女はしばらく黙っていました。九月の風が砂と一緒に吹いていて、タンブルウィードもどこからかカラコロと転がっていました。

「奴は独立したスタンドアロンで動いている。今そこを叩いた方が、お前たちとしても都合が良いだろう」

「私たちからすれば、お前はローンウルフのテロリストだがな」

中尉が言って、少女が「笑えないな」と呟きました。

 空には十三夜の黄色い月が浮かんでいて、少女はそれを見ながら、ふと中尉に尋ねました。

「お前のミドルネームのC、あれは何の頭文字なんだ?」

「それは今答えなくてはならない事か?」

いや、と少女がばつの悪そうにしながら、

「ただ、少し気になっただけだ」

と、言いました。すると中尉は少し笑って言いました。

「お前も名前を気にする事があるんだな、カウガール」

お前に何が分かる、と名前の無い少女は悪態を吐きました。中尉は静かに話し始めました。

「クローディアだよ。ジェーン=クローディア・サンダース。大戦の英雄だった曾祖父が付けてくれた、私などには似つかわしくない立派な名前だ」

「クローディア。端的に言って、お前は酷く恵まれている。名前があり、家は裕福で、きっと他の仕事での才能もある。違うか?」

「そうだな」

「それなのに、なぜ戦う? お前は何と戦っている?」

クローディアはちらりと、肉を喰らっている狼犬を見ながら、(彼も彼女をちらりと覗き見しました)そして答えました。

「それは私たちの職業病だ。これをしている間しか、私は私でないのだ」

それから、クローディアは微笑んで、冗談めかして言いました。

「カウガール。お前は、恋をしないのか?」

「お前にはきっと帰る家があるんだろう」

少女はそう言って、それから、単に、他人の人生に構っている余裕がないだけだ。……他人の人生に介入すると、いざというとき自分を守れなくなる……と、誰にいうでもなく呟きました。狼犬だけが聞き耳を立てていました。

「カウガール。お前の名前は、なんというんだ?」

クローディアが聞きました。すると武装した少女は答えました。

「私は……私は、ゾーイだ。イシュメルの娘たる雌狼のいのちゾーイ・ビント=イスマーイール・アル=アシナ

なるほど、とクローディアが言いました。ゾーイはマッチを点して紙巻に火を点けました。それは暗い砂漠に浮かぶ一つの星屑のようでもありました。

「海が見れるといいな、ゾーイ」

「ああ、」

中尉は部下を連れてぞろぞろと帰ってゆきました。ゾーイはしばらく紙巻の白い煙を吐いていましたが、足元に狼犬のカマルが来るのが分かると、しゃごんで彼を撫ぜながらそして、クルトの言葉で呟きました。

〈――血の海にしてやる〉

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