第17話 篠田真澄2
「———ッッ!」
それは反射だった。
体を動かすまでに、脳より早く細胞が反応した。
勢いよく立ち上がる際に、擦りむける膝や腿の痛みを忘れるほどに本能が反応したのだ。
———このままじゃマズい
そんな、確信も自身も無いあやふやな心の声にしたがって。
「待て、どこへ行くんだ!」
「決まってるでしょ、彼女のところよ」
「行ってどうする?まさかとは思うが邪魔するつもりか!?」
「まさかはこっちのセリフ。あの顔見たでしょ?明らかに好意で付き合おうとはしてない。なにか企んでる」
般若のように広角が吊り上がり、伏し目がちな暗い微笑みは今まで見せた顔とは全くの別人だった。
可愛らしい、愛らしい表情はどこにも感じられず、言いしえないなにか———人に言えないなにかを心に秘めた顔だった。
「やっぱり……間違ってなかった……」
喫茶店で感じた違和感が、奇しくもここで本物と合致したのだ。
「それはわかるが…少し落ち着かないか……」
涼は立ち上がると、一呼吸挟むように下に広げたコートを畳んだ。
「……君は今から彼女の所に行くのか?」
「そうだって、何回も言わせないで」
涼は畳んだコートを小脇に抱えると、梯子の方へと前進して行く。
「違うそうじゃない、協力すると言ってるんだ。君が彼女のところへ行くというなら僕は今から洋介のところへ行く。洋介の方が先に出たから大丈夫だとは思うが、もしも彼女と一緒だと話がややこしくなりそうだからな」
「……間に入ってくれるの?」
「そんな堅苦しいものじゃないさ。ただ、洋介と一緒に帰るだけだ。彼女自慢を聞きながらな」
子憎たらしいセリフとは裏腹に、器用にも口の端だけで笑って見せる。
私は、その仕草とセリフが妙にツボに入って笑ってしまった。こんな大事な時なのに。
「ハハッ…なにそれ、キザ過ぎでしょ?でも……ありがと、凄い助かる。…って、なにその顔は?」
お礼を聞くやいなや、目を瞬かせていた涼はなぜか顔をそむけて下を向いた。
梯子に手をかけると、なにやらボソッと呟く。
「……これで本日二度目だな」
「えッ?ゴメンなに、聞こえないんだけど」
「……なんでもない」
涼はコートを抱えたまま、何事も無かったように梯子をスルスル降りる。私も、深く問いただすことはせず、涼が降りるのを待った。しかし———
「すまん…先に行ってくれないか」
「先行ってって…アンタがそこにいたら無理じゃん。もう、ふざけてないで早くしてよ!」
「動けなくなったんだ…」
「はあ!?なんで!!?」
「コートが梯子の金具に引っかかって上手く動けんのだ…」
「カッコわる!?」
涼は聞こえていないのか、尚も、すまんすまんと謝りながらコートをバサバサ動かす。それなりにカッコ良かったのに台無しである。しかも、外れそうな気配が全くない。大分時間が掛かりそうだ。
「………ああ、もう!!」
しびれを切らした私は、梯子の近くまで移動すると下を覗き込む。
何故だか驚いたようにこちらを見上げる涼を手で制すると、目をつむり自分自身に問いかけた。
篠田真澄のところに行くなら今すぐが良いに決まってる。時間がない。問題なのは、涼がもたついてる今、急ぐ方法は一つだけということ。でも………
(……イケるか?)
立ってるだけで脚がすくむ。身体が変に引き込まれる。こんな不安定な状態で私に可能なのか?昔ならともかく、今では感覚が鈍ってる。
(………けど)
時間がない今、迷ってる場合じゃない。それに問題なのはイケるかイケないかじゃなく、やるかやらないかだ。結果は後からついてくる。体は二の次。
「……っし………!」
深呼吸をし、静かに気合を入れると私は覚悟を決めた。
「先…行くから。洋介くんのことよろしくね」
「わかってる。ちょっと待っ……!?」
制服が翻る。それはまるで、空中に浮いているかのようなコンマ一秒の出来事だった。
「———ッ!」
悲鳴のように静止する涼の声が聞こえる。でも、止まれない。止めることなんて出来はしなかった。声をかけられる前に私は飛び降りていたから。5メートルはあろう高さから下に。
それはある種、走馬灯のようだった。
落ちる体は無気力に、自重は限りなくゼロになる。着地する恐怖感とともに加速が増す。危険が増す。スローモーションのように地面が近づく。
(恐い……でも、ここでビビったら余計に危ない。自信なんかないけど、あとは昔の感覚を信じるだけ)
「っ!」
着地した瞬間、ズシン!と重力で加速された体重が右脚に襲いかかる。
(ヤバイ…!)
骨折してもおかしくないようなその衝撃に、思わず顔が歪む。骨が軋む。
このままいけば、足首が折れて膝から崩れ落ちることになるのが容易に想像できる。
だから———
(ここから……!)
勝負はここからだった。
それはミリ単位のズレも許されないコンマ数秒の世界。気付いてからじゃ遅い、見てからじゃもっと遅い、感覚だけが頼りの世界。
普段ならやらないだろうこんな利率の悪い賭け、不安以外の何ものもなかったけど、でも、それでも———
「……あっぶなあー。骨折れるかと思った…」
———経験が、細胞が、その未来を妨げてくれていた。
体重が乗った瞬間、危険を察知した瞬間、右脚が地面に付いたと同時に体重を前へと受け流していた。膝を折り、肩と首の付け根の順で地面をなぞるようにして前転を行っていた。それは五点着地にも似た前転前回り受け身。
昔の経験が、ここで生きた。
「……ホント、自分でもビックリするぐらいのできね」
無傷とはいえないが、ほぼ完璧な出来に思わず自画自賛する。
身体に付いたホコリを払いながら立ち上がると、なぜだか手を握ってみせる。久しぶりの、この感覚。やっぱり悪くない。
「なんなんだ…キミは……?」
梯子の上で、ポカンとしている涼の第一声がそれだった。でも、今はそれに付き合ってる場合じゃない。
「どうだっていいでしょ、ほら行くよ!」
私は、屋上の扉を開けると彼女がいつも利用している門、南門へと足を向けた。
存外、篠田真澄は早く見つかった。
南門へ行くこともなく、偶然にも下駄箱で出くわしたからだ。
私は、平静を装って声をかけると、篠田真澄は嫌がることもなく、人がいないだろう中庭へとすんなりついて来てくれた。
ここで何の抵抗も無くついて来てくれたのは助かった。ただ、それだけに不気味だ。まるでこうなることを予想していたかのようで。
彼女は学校の中庭へとつくと、おもむろに中央まで歩いて行く。クルッと綺麗に一回転すると、手を後ろで組んでから私の方に振り返る。
「如月さん、いきなりこんなとこに呼び出してどうしたの?なんか顔怖いし」
前かがみになって私を笑顔で見つめるその仕草は、映画のヒロインでも演じてるかのように、可憐で、可愛くて、そして———どこまでも偽物に見えた。
「その舌っ足らずな喋り方やめてくれる?」
自分の正面に立った彼女は、いつものあどけない、およそ高2に見えない幼い顔つきで自然とこちらの警戒も和らぎそうになる。しかし、依然として外さないその視線にこちらも返さずにはいられない。
私は、直球で要件を告げた。
「洋介くんのこと、なんで振らなかったの?あなた好きな人はいないって言ってたじゃない。いつも適当な発言で濁すような答えしか言ってなかったけど、あれは嘘じゃないでしょ」
ホントの事は言わず、その場のノリや自身のキャラで乗り切っていた彼女だがあの時は違っていた。少なくとも、あの時見せた表情は今まで見せてきた顔とは違う、彼女の内面だったはず。それが真実だから、誰とも付き合ってこなかった。少なくとも恋愛に関しては一貫して頑なだったはずだ。
「そっか、やっぱり二人は繋がってたんだね。おかしいと思ったんだよねー、相談内容もアレだったけど、なにより私にわざわざ相談することでもなかったし」
言って、彼女はまた振り返って背を向けると、周りに視線を向けながら歩いていく。
騙されていたというのに、ふてぶてしさすら感じられるその足取りからは怒りやショックといったものが全く感じられず、一歩一歩、ゆっくりと、ふざけたような足取りだった。
「やっぱり怪しいって思ってたんだ」
「それはそうだよ。その後すぐに洋介君に告白されたんだよ?おかしいと思うのが普通じゃない?」
歩き疲れたのか、その足で私の後ろのベンチまでやってくると、ベンチの背に腰を預ける。
「…………」
こうやって目の前にしても、休んでいるのか、ふざけているのかわからない。本当によくわからない。関われば関わるほどに。
ただ、彼女を取り巻く空気が少しずつ———ほんの少しずつだが、着実に変わっていくのは見えた気がした。
「でさ…私からも一つ質問なんだけど……いいかな?」
「………なに?」
予知…ではなく予感というものだろうか。
なんとなくだが、彼女が次して言うことがわかっていた。
それでも、尚、問い返したのは少しでも彼女に反抗したかったからだろうか。
「如月さん、洋介くんが告白したとき最初から最後まで、あの場所にいた?」
「……いたらなんなの?趣味悪いよとでも言うつもり?そんなのお互い様でしょ」
精一杯の反論だった。いや、正確には精一杯などと意識するのが嫌で、わざと精一杯と意識した。
———風が吹く。やたら強い風が。
「……そっか。やっぱりあの場所にいたんだ………」
髪を押さえ、こちらを見つめる。それは先程見せた、映画のヒロインを演じるようなワンシーンでは決してない。彼女が篠田真澄が、それは篠田真澄のありのままの笑顔だった。
「……じゃあもう……」
偽らない本来の彼女の顔。
私には二回目となる、その笑顔。
彼女はベンチから立ち上がると左手で髪を払い、言った。
「隠しても無駄だね」
片方の広角を皮肉げに上げるその笑顔は紛れもなく、あの時見せた篠田真澄自身の笑顔だった。
「……そう、やっとそのキャラ辞める気になってくれたんだ」
「ハッッ!キャラ?大げさすぎでしょ、こんなのただ猫かぶってるだけじゃん」
広角を上げて笑っていたのも束の間、すぐに怒りの表情を浮かべる。
これが彼女本来の姿なのか、今まで見せてきたどの姿よりもウソがないように思える。そして、おかしな話し彼女に合っていた。
「そうね。でも、あんたの場合その度が過ぎるんだよね。だから、私みたいな奴には始めっから胡散臭く写ったわけだし」
入学当初から彼女の周囲には人ができた。見た目の可愛らしさもあり、それで人が集まってるのかとも考えた。だが、周囲から外れて見てれば彼女の行動が相手を気遣ってるようで、すべて自分に向けた偽りの行動に見えた。
だから確信もなく、毛嫌いしていた。
「あっそ、だから?基本一人で座ってるだけのあんたに言われても別にどうとも思わないし。ていうかさあ、あんたなんなの?いきなりこんなところでケンカふっかけてきて、アイツとどんな関係なわけ?」
アイツ…とは洋介のことだろうか。
わかっていたことだが、吐き捨てるようにアイツという彼女の仕草に恋愛感情など微塵も感じられない。
「どんな関係って言われてもたいした間柄じゃないよ、ただの人助け。告白に協力してるってだけ」
「たいした関係じゃないなら余計に口出さないでくれる?それに、告白なら終わったんだからもうお役御免でしょ、はいさようなら」
手をひらひらさせてあっちいけとやりながら、嫌そうに顔を背ける。彼女なりにここ数日の私の行動はそれなりに鬱陶しかったのかもしれない。だが、お役御免と言われようともここで引き下がるわけにはいかない。
「悪いけど、そういうわけにもいかないのよね」
「なんで?もしかしてアイツに惚れた?趣味悪すぎでしょ」
「確かに趣味悪いかもね、こんなことに首突っ込む羽目になってさ。一緒のクラスだった時ですら関わりのなかったあんたとこうして二人で喋ってるだなんて、はじめは想像もしてなかったわ」
「それは同感。根暗なあんたに始め相談持ちかけられた時は何事かと思った。しまいにはケンカ売ってくるし、もうウザすぎ。はやくどっか行ってくれない?さっきも言ったけど、もう告白は終わってるんだよ。協力出来ることなんてないから」
彼女の言うとおりもう告白は終わっていて私が思い描いた結末とは違っている。
だから、ここからは殆どこちら側の都合。
洋介からしたら邪魔でしかない行動かもしれないが、このまま放置なんてできるわけがない。せめて、なぜ好きでもない洋介と付き合うのか理由を聞かなくては放置なんてできなかった。
「そんなくだらない理由で呼び出したの?」
「くだらないか、そうじゃないかはこっちの判断で決めるから。だから早めに説明して欲しいんだけど」
「アンタ何様なわけ?チッ、まあ良いわ。アンタに本当のこと言っても害なんてなさそうだし、なんでか知らないけどアイツ、私のこと相当好きみたいだから話してあげる」
それはどうも。で、なんで?
「……私のために決まってるでしょ。そうでもないと、私があのゲロ男と付き合う理由が他にある?」
「洋介くんと付き合うのが自分のため?意味わかんないんだけど、どういうこと?」
「最近やりすぎたって後悔してたところなの。アンタも噂で聞いたことあるでしょ?私が男を振りまくってるって。そういうの良くないんだよね…自分を大切にしつつ、周囲に馴染んで守ってもらうには、そういうの…良くないんだ」
彼女の話に耳を傾けながら、私は右手で自分の肩を抱きしめた。
表面からというより、内面から冷やされるような感覚に気持ちが悪くなってきていたのだ。それでも、かろうじて声を振り絞る。
「その噂がなんなの?まさか、もう告白されたくないから洋介くんと付き合うわけ?じゃあ、今までの人はなんでダメなの」
「まあ大雑把に言えばそうかな。でもね、誰でもいいわけじゃないんだ」
私を弄ぶような目つきで笑いかけてくる。
答えがわかるかと問いたいのだろうが、答えなどわかるはずがなかった。こんな奴の考えなど、どれだけ思考を巡らせてもわかるはずがないのだ。
「アンタ、イラつきながら言ってたよね?相手のことを思って振るのが偽善だって、相手のことを何も考えてない自分勝手な行動だって」
「言ったよ…でも、それがなんなの?」
「私から言わせれば、アンタどれだけ人付き合いないのって感じなんだけど、言ってる意味わかる?」
どうせわからないでしょ、と言いたげな表情を浮かべこちらを見る。
人を小馬鹿にしたような、どこか諦めたような表情。事実、私には意味がわからず無言で返すしかない。
彼女はこちらを一瞥してから、苛つきをぶつけるように答えた。
「例えアンタの言うお試しで付き合ったとしても、それはそれでめんどくさいことになるって言ってるのよ」
「どういうことよ?」
彼女はもうウソで誤魔化そうとしてないはずなのにこっちの理解が追いつかない。
ただ付き合うだけで、何故めんどくさいことになるのか。
「まだわからないの?自分の好きな人が自分の友達を好きだったら…アンタならどう思うわけ?本人にその気はなくとも良い気分にならないでしょ?」
「……!そういうこと…でも、そんなことは……」
無い———とは言い切れなかった。
私には、そんな経験はないが、恋愛関係でのいざこざは珍しくない。
男同士ならいざ知らず、こと女同士となれば尚更だろう。
「ここまで言えばボッチのアンタにもわかるでしょ?その気なんかなくても恨まれるのはこっちなんだっつーの」
「なるほどね…でもさ……」
彼女の話を聞いてある程度は納得できた。
だけど、一つだけ腑に落ちない所がある。
経験もなしに、付き合ってもいないのにこんなことにまで気を使って過敏に反応するだろうか。彼女の言う言葉は、もっとも過ぎて、経験則からきてる答えにしか聞こえなかった。
「ホンット相変わらず目ざといなあ…まあでも、別にいっか。これ以上付きまとわれるのも嫌だし話してあげる」
彼女は私から距離をおくと、思い出すように手の平を自分の額へと当てた。
「前にさ……アンタには付き合ったことないって言ったけど、あれはウソ。正確には一度だけ付き合ったことがあるの。告白されて…ホント数週間だけだけどね」
何十年も前の話しのように語る彼女だが、そんなに昔の話ではないだろう。高校じゃないとしても中学かそこらだ。それでも彼女にとってはそれが遠い昔の記憶なのか、懐かしむような、悲しいような朧気な表情だった。
「彼さ、元は友達だったんだ。っていうか男女入り混じったグループで仲良かったから、その中の一人っていうだけなんだけど。一緒に行動している内に好きになったんだって…告白された時、彼が言ってた」
「そう…」
さっきまでとはまるで正反対の関係に曖昧な返事で誤魔化す。
こちらから聞いたはずなのに、聞かされているような、聞かずにはいられないような不思議な感覚。
「始めは断ろうと思ったんだよ。でも、アンタが言ったみたいに付き合ってみてから決めてくれっていうから、じゃあそれならって付き合いだしたんだ。でも———それが大きな間違いだった」
「その男の子に利用されたの?」
「違う…いや最終的にはそうかな。さっきグループで仲良かったって言ったでしょ?やっぱり、みんな仲良いとはいっても中心的な存在の女の子がいてさ…まあ結論から言えばその子が彼のこと好きだったみたいなんだよね」
目をつむり思い越すように記憶を探る彼女は、口では笑っているが思い出に浸るなどという表現では決してありえない苦い表情を必死で押し殺してるかのようだった。
「ホントすごかったんだよ。『私が好きなこと知ってて彼を取った』とか『協力するって言ったのに私を利用した』とかもうずうっと。最初に、グループの仲違いが嫌だから恋愛は禁止とか言ってたのにさ、もうホント散々だった」
「……あなたと彼はどうしたの?」
「別れた。他愛もないよね、私のことが好きって言ったのに、いざ自分の立場まで危うくなると思ったら直ぐに私を切るんだもん。しかも、いつの間にか私から告白したことになってるし。まあ彼からしたら上手く逃げるにはそうするのが一番だったんだろうけど。でも、そうなったらもう……ね?察しの悪いアンタにもさすがにこの先はわかるでしょ」
彼女の見た目から、きっとクラスでも目立つ部類のグループだったに違いない。
そんな彼女がリーダー格の好きな人を奪った。
そうなれば当然グループにはいられないだろうし、クラス内でも居場所は皆無となる。たった一人。
そう、それって————
「アンタみたいだった。実際はアンタよりも全然ひどいけどね。アンタはただ人と関わらないだけだけど、こっちはイジメ…というよりイジメにすらならない感じ。私はいない子のように扱われてたから」
無視をされ、蔑まれ、咎められ。
そういったことは、私もすべて経験済み。
だから、知るだけで良かったのにわかってしまった。彼女の姿が。
きっと、この学校で演じる彼女は自分を守るためのもの。二度とあんな思いをしたくはないというように、経験からきているもの。
経験して、学習して、涙して、どこが悪かったのか反省して出来たのが今の彼女なのだろう。
彼女の気持ちと痛みがわかってしまう分、それを理解した上で同情しないかと言ったらウソになる。
————だが
「…なんで洋介くんなの?」
あなたの事を良く知りもしないで、誤解したのは謝る。反省もする。理解もする。しかし、理解しているからこそ否定しなければいけないところがある。
「アンタには同情する部分もあるけど、それとこれとは話が別よ。関係ない人まで巻き込まないで」
「巻き込むっていうか、そっちが勝手に巻き込まれに来たんでしょ」
「自分のイメージを守りたいなら違う方法を考えなよ。人の好意を都合良く利用するだなんて許さない」
利用されたから利用する。騙せる奴は騙していく。
やり返したい気持ちはわかる。悔しい気持ちもわかる。
しかし、それを関係ない人にやるのは間違い以外の何物でもない。そんなことをしてしまったら、そいつらと何も変わらないから。
「アンタに許してもらおうだなんて思ってないわ。それに彼の事が好きだなんて言う物好きいないんだから丁度いいわけ。これなら誰かに嫉妬されることもないし、ゲロ吐いて倒れた相手と助けた私が付き合うだなんて、また、私の株が上がるじゃない。まさに、ウインウインの関係でしょ」
彼女の言う付き合うは、きっとホントに付き合うだけだろう。
言ってしまえば洋介は擬態に過ぎないのだから当然だ。ホントに都合良く利用されるだけ。
そんなの…どこがウインウインの関係なのか。偽りの、薄っぺらい紙一枚のような関係に意味などあるわけない。
「それは、アナタが決めることではないけどね。試しに言ってみたら?篠田真澄は洋介くんを利用してるだけだって…まっ、信じるか信じないかはわかりきったことだけど」
「ッッ!ふざけない————」
相手に浴びせるはずだった私の声は、不意に流れたチャイムによって掻き消された。それは、最終下校を告げるチャイムだった。
彼女は腕にはめた可愛らしい時計を一瞥して、
「ウワッ!もうこんな時間、最悪。アンタのせいで帰り遅くなったじゃん。この時間、電車混むんだからね」
最終下校のチャイムと一緒にまだ残っていた生徒が校舎から顔を出すと、口調こそさっきとあまり変わらないが唐突に雰囲気が変わる。
「満員電車で立ちっぱって辛いんだよなあ……」
彼女はぶつぶつ文句を口にすると、カバンを片手にその流れでここから去ろうとする。
私は慌てて彼女の手を掴んだ。
「ちょっと待ちなさいよ!話はまだ……」
「放しなさいよ、それにもう終わりでしょ?少なくともアンタの知りたかったことは知れたはず。だから————もう邪魔しないで」
彼女は力強く手を振り払うと、そのまま振り返りもせず生徒の波へと消えていった。
「“邪魔しないで”か……」
彼女の口からでたその何気ない言葉が妙に頭に残る。
一人中庭へと取り残された私は、後を追うこともせず、その場に立ち尽くして、その意味に思いを巡らせた。
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