第3話 病んでるのかしら、あの子

電車に揺られること数十分。


隣町について駅から出ると、直ぐ目の前には太陽を覆い隠すほどの大きなショッピングモールがある。今日の目的地であるスポーツジムはこの中に併設されていた。


楓と連れ立って中へと入ると、小さなカウンターに健康そうな可愛らしい女性スタッフが二人。シャツから覗く二の腕が引き締まっており、如何にも学生時代スポーツやってましたという感じだ。


私は、タダ券を提示しながら女性スタッフに話しかける。


「すいません、今日が初めての利用になるんですけど…」

「あ、はい、初めてのご利用ですね? かしこまりました。では、こちらがロッカーの鍵となりますので必ず手に持って無くさないように気をつけて下さい」


間髪入れず手渡される鍵二つ。さすがに最近出来ただけあって一日体験するお客が多いのか慣れている。手際が良すぎてちょっと戸惑った。


「使用するマシンについてご不明な点がありましたらフロアスタッフに聞いてもらえれば誰でもお答えしますので、是非お尋ねください。では、いってらっしゃませ」


丁寧にお辞儀をされ、こちらも軽く挨拶を返すと、更衣室の案内板に従いそちらへとなだれ込む。床はタイル張りとなっており更衣室へ入る前に下駄箱があったので、楓の分と一緒に靴を収納してから、中へと入った。


「うわっ! 凄い、結構広いね!」


楓が感嘆の声を上げる。


いつもなら『大きな声を出すな』と注意するところではあるが、今日に至っては気持ちがわかるので、私も何も言わなかった。


二段重ねのロッカーが数多く立ち並ぶ中でも、まったく窮屈さを感じさせないぐらいに広々とした空間。天井にはお金持ちの家で良く見るシーリングファンに、壁際には大きな鏡とドライヤー、果ては大理石で出来た浴場まで完備してある。


筋トレ後のアフターケアも怠らない造りは、まさに至れり尽くせりといった感じで、感嘆の声も上げたくなる。


「日焼けマシンまで置いてあるし…値段が高いのも納得かも」

「早く着替えよ、お姉ちゃん! フロアのマシンにも触ってみたいし」


言うが早いか、こちらが着替えるよりも早く服に手をかける楓。見ればもうすでに、上は下着姿で下はハーフパンツを履いている。


どんだけ筋トレしたいんだと呆れつつ、私もシャツを脱いで下着だけになろうとしたところで、妙な視線に気づく。


「……ちょっと、なに見てんの」


視線の方に顔を向ければ品定めでもするかのようにジロジロと見てくる楓。何やら難しい顔をして考え中のようで、こちらは完全無視。まあ、百歩譲って見るのは良いとして少し離れてくれる? 鼻息が胸元に掛かるんですけど…


「んー、やっぱりそうだ」

「はい?」

「お姉ちゃんさあ……また、おっきくなったでしょ?」

「な、なにが…?」

「おっぱい」

「は、はああ!? もう、なに…バッカじゃないの!? 勘弁してよこんな所で!!」


慌てて胸を隠す。楓の発言は元より、ちらほらと周りの客がこちらを気にしているので余計恥ずかしい。いくら同性しかいないからといっても注目される内容が内容である。まさか、人様の胸元を見てそんなことを考えていたとは……


楓が、自分の胸を擦りながらボヤく。


「いいなあ……全然おっきくならないから、お姉ちゃんが羨ましい」

「羨ましいって…楓だっておっきくなるでしょ。まだ中3じゃない」

「いいや、ならない!」


壁をドンっと叩く勢いで眼前に迫りくる楓。


ヤバい…完全に余計なこと言ったわ。お願いだから許してくれる? 恥ずかしいし、猛烈にうざいんだけど…


楓は、こほんとわざとらしく咳払いすると、指南するように言った。


「良い、お姉ちゃん? 人にはね、得手不得手ってもんがあるの、わかる? お姉ちゃんは基本ダメ人間でぐうたらしてるけど、それでも神様はちゃんと見てる。一つぐらい才能を与えてくれる。施してくれる。誰にでも平等にね。お姉ちゃんにとってはそれがおっぱいなんだよ。それを理解した方が良い。でもね…私は天から荷物を与えられまくってるから、おっぱいに関してはもうどうしようもないんだ。これは仕方がないの。諦めるしかないんだよ…って、ちょっと何着替え終わってんの聞いてんの!?」

「聞いてます聞いてます」


私は、はいはいっと生返事をしてロッカーにカギを掛けた。


こんな下らないやりとりに付き合っていたら身が持たない。大体なんなの、おっぱいの才能って…いらないうえに初めて聞いたんだけど。しかも、私を褒めてるようで貶してるし。最後には自分褒めときたもんだ。ホント良い性格してますね。


「へへー、可愛いでしょ?」

「全然。ほらもう行くよ。ロッカーでの長居はご遠慮下さいって書いてあるんだから」


私は、近くのボードの注意書きを指さして言うと、タオルを片手に出口へと向かう。


「あーもう待ってよ、お姉ちゃん!」


小走りに追いついて来た楓は尚も『走ってるから擦れるのかなあ…』と独り言を言っていたが、あえて突っ込むことはせず、私たちは更衣室からメインフロアであるトレーニングルームへと足を運んだ。





───最初に目に入ったのは圧倒的な黒だった。


これは何だと目を凝らせば、所狭しとフロアを占拠するトレーニング器具が黒一色に染められていたからだった。男女兼用ではあるが、派手な色合いなど不要とばかりに無駄な色合いが一切ないのだ。


黒一色のデザインでは男性はともかく女性には受けないだろうなとは思うが、造り手の内面が見えるようで、私はこのデザインが嫌いじゃなかった。


磨き上げられたマシンから放たれる眩しいくらいの黒光を見るに、新品で値段もそれなりに張りそうだ。現金な奴と自分でも思うが、それだけで元より無かったやる気も湧いてくるというもの。


これだけ設備が良いならやらなきゃ損。せめて2000円分はやりましょうか。


「さっ! お姉ちゃんどうする? 筋トレする? 柔軟する? それとも…筋トレする?」

「……うざい。軽く走りますから」


興奮? を抑えきれない楓を適当に捲きつつ、私は窓際に設置された有酸素マシンの方に足を運ぶ。


窓際に着くと、ざっと数えて20台以上は並んでいる有酸素マシンが半分近くは使用されていた。やはり、これだけ暑いと外で走りたくないうえに熱中症の問題もあるため使用率が高いのだろう。


私は適当な空き台を見つけマシンに着席する。と、楓も走るつもりなのか隣へとやって来ていた。あれ、筋トレはいいの?


「ん? ああ、走ってからでも良いかなって」

「まあ、いきなり筋トレっていうのもね」

「うん、まあそれもあるんだけど…それより、こうやってお姉ちゃんと走るのって久しぶりだなって思ってさ」


間を開けて少し考える。久しぶりっていうか……一緒に走ったことなんかあったっけ?


「あったじゃん! ほら、お姉ちゃんが空手やってた時だよ! 私が小学校低学年頃の話しだけど」

「…………………」


言われ、思い出す。


今となっては懐かしい昔の記憶。子供の頃の記憶。幼い頃、師範である父親に教えて貰った空手の記憶。


そうだ。


私は昔、空手をやっていたのだ。


昔の私は今の私とは正反対で、教えられた事を出来るまで反復して吸収するような真っ直ぐな子だった。頑張れば報われると思い込むような純粋な子で、心は何色にも染められていない純白そのものだった。


そういえば、そんな時もあったな。


まあだからこそ、辞める時はそれなりにひと悶着あったし、辞める理由も理由だったから周りには言ってない。


それを知るのは両親ぐらいで、楓がこうして抵抗なく口に出来るのも知らないからだった。



「……お姉ちゃん?」

「……ん? あ、ゴメンゴメンなに?」


同様を隠しつつ、シャツで顔を拭う。


聞かれたら嫌なので、こうした話題は自分からは避けていた。…ようするに、完全に墓穴を掘った形だ。楓には悪いが詳しく話すつもりはない。


「何じゃないよもう…人が話しかけてるのに……」

「ゴメンって、機嫌治してよ」

「別に怒ってないけど……でも、もういいや」


楓はすとんっと有酸素マシンから足を下ろすと、そのまま場を去ろうとする。さっきまで一緒に走ると言っていたのに…やっぱり怒ってるみたいだ。


「違うって……さっきまでは走ろうと思ってたんだけどさ」

「…なによ? 含みのある言い方しちゃって」

「晒し者にはなりたくないなー、と思って……」

「は? 晒し者?」


意味が分からず訝しんでいると、楓の目線がある一点を集中的に見ていることに気づかされる。


明らかに私の顔を見ていない。顔より下。ちょっと下。


───完全に胸だった。


私は、反射的に胸を隠すと、楓は苦々しく『揺れ落ちれば良いのに…』と、言い残して去って行く。心無しか後ろ姿が寂しかった。


「病んでるのかしら、あの子…」


最近、姉としての扱いが雑過ぎると思うのだが…やはり何も言わない私が悪いのだろうか? それも十二分にあるだろうが、許容してしまってる自分が一番悪いのだろう。なんだかんだで可愛いのだ。


「さてと…じゃあ、気を取り直して…」


有酸素マシンと向き合うと、クイックスタートと書かれたボタンを押す。機械的な作動音が響くやいなや、走るのを諭すようにゆっくりと下のベルトが動き出す。


軽く確かめるように歩いてから、私はスピードを上げた。有酸素マシンは初めて使うが、バネでも仕込んであるかのように蹴れば蹴った以上に前へと進んでくれた。グラウンドを走るより断然走りやすい。


それでも5分もすれば少しずつ額に汗が滲んでくる。息も荒くお腹が苦しい。久しぶりの運動に身体が悲鳴を上げてるみたいだ。昔ならこれぐらいで悲鳴を上げるなどありえない話しだったのに。練習をしてないから当たり前だが、落ちる時は一瞬だ。準備運動のつもりだったのに、これでは普通のトレーニングだ。


「…はあ、はあ……よし、もう少しスピードを……」


───でも、それでも


気付けば何もかもを忘れ、一心不乱に走り続けていた。


純粋に、真っ直ぐに、


横隔膜が吊り上がり、どんなに吐き気を催しても───雑音の消えた空間がモノクロの時を刻み込んだ。


懐かしい感触に心が躍っていたのだ。


苦しくても楽しかった、あの頃を思い出して───

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