第8話

 元は相当に良い品だったろう狩衣かりぎぬは、ひどく薄汚れて色褪せ、あちこち破れ放題である。挙句、烏帽子えぼしも被らず、もとどりも結わえぬという男の風体は、かなり異様なものとして綱の目にも映った。

 無頼揃いの放免ほうめんでもここまでひどくはあるまい。道端に倒れていれば、死体と間違えそうなほどだ。

「貸しだぜ、旦那」

 一閃。

 翠鳥に絡みついていた生きた紐を、男はいとも容易く斬って捨てる。男が手にしている太刀は、拵えこそひどく粗末なものだったが、刀身そのものは綱ですら瞠目するほどの業物だ。その落差は使い手である主人同様で、ひどくちぐはぐな印象を与える。けれども、綱が驚いたのは、それだけが理由ではなかった。

「その、太刀は……」

 男の口角が上がる。

「いい太刀だろう、旦那。なんせあんたが手にしてる太刀の兄弟だからな」

 言いながら男が悪夢めいた異形の怪物を斬る。確固とした形のない、朧めいた異界よりの襲撃者は、まるでその辺りにうろつく野犬のように雑作なく屠られた。

「要は位相が違うだけさ。幽界かくりよ現世うつしよとの狭間はざまを奴らは往き来する。だから、。しかし、この太刀ならば、

 黒々とした刀身が陽光を反射して、いやにギラついた輝きを放つ。

「まったく、宝の持ち腐れもいいトコだ。鬼切丸おにきりまるが泣くぜ」

 言い返そうにもできないのは、綱自身、己の力不足を痛感しているからだ。見知らぬ男の言い草に、返す言葉もない。

「綱さま」

 このまま不安定な体勢でいるよりはと翠鳥の手を離し、自らも下馬した綱は彼女の無事を確認した。

「すまぬ、翠鳥どの」

「はい。あの御仁は?」

 訝しげに男の背を見やる翠鳥の顔色は紙のように白い。

「存じませぬ。あちらは知っているようだが」

 大江山以降、それなりに名も顔も売れている自覚はあるので、都人であれば見知っていてもおかしくはない。渡辺家伝来の太刀の銘も。しかし、男が持っているのは、鬼切丸の対である双子の刀なのである。その独特の刃紋を見間違うはずもない。

 男が太刀を振り下ろす都度、異界よりの襲撃者が斬り捨てられる。

 更に一頭、男が屠った時だった。

「来たか」

 ひらり。

 天から真白い雪が舞い降りた。

 かのように見えた瞬間、雪片が膨れ、弾け飛び、異形のモノらを覆い尽くしていった。まるで、そこだけ時間の速度が異なるかのごとく、それこそ猛然と降り積もる様に瞠目する。

 怪物たちの音なき咆哮。

 いまや苦悶に満ちた悲鳴にも似ていた。

「騒がしい」

 振り向くと、老人が一人、蝙蝠扇かわほりおうぎを手に立っている。

「静かにせんか」

 表裏とも極めてごく薄いはなだに純白の生絹すずし、夏に相応しい水色の襲の直衣姿の老人は、不機嫌そうに口元を歪め、じろりと三白眼で周囲を見渡した。

「趣味が悪い。いったい何者の仕業やら」

 ぱちん、と音を立てて扇を閉じる。

 驚いたことに、一瞬で、怪物の群れが搔き消えた。

「あ、貴方様は……」

「見たところ、原因は娘御、其方か」

 陽光の下、ほとんど金色のようにも見える薄茶の双眸が、じっと翠鳥を見下ろした。目に見えぬ何かを微細に探るような視線に晒され、いささか居心地の悪い思いをする。よく祖父も興味を惹かれた対象には、このような視線を向けていた。

「それはいったいどのような意味でございまするか?」

「其方……確か前備前守さきのびぜんのかみの家人であったな」

 綱は膝をついて、頭を垂れた。

「は、渡辺綱と申しまする。恐れながら播磨権介さまとお見受けいたします。此度はお助けいただき、誠にありがたく……しかし、翠鳥どのが原因とはいったい?」

「言葉通りの意味よ」

 播磨権介はりまのごんのすけ賀茂光栄かものみつよしは蔵人所陰陽師として主上の信任も厚く、やや狷介な性分ながらその実力は折り紙つきである。

「なあ、そこな盗賊。お主もそう思うておろうが」

「さぁね。俺は単に運悪く居合わせただけさ」

「ほざきおる」

 男の太々しい言いぐさに冷笑を返した光栄翁は、用は済んだとばかりに踵を返し、背後に待たせていた牛車へと戻っていった。

「詳しいことが知りたければ、奴に訊け。その娘に関しては、奴の担当だ」

 言外に関わるつもりはないと宣言しながら、賀茂家の当主は振り向きざまに男の正体を綱らに告げた。

袴垂はかまだれ、お主もな」

 目を剥いて注視する綱に、袴垂と呼ばれた男は軽く肩を竦めてみせたのだった。




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極東平安邪神譚 しーの @fujimineizm

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