第7話

「綱さま、いま……」

 確かに何者かの哄笑を耳にした。

 幼い童子の、力強い青年の、嗄れた老人の──笑い声。


 辻占という言葉がある。

 夕刻、辻に立って行き交う人々から零れ落ちた言葉で、事の正否や吉凶を占うものだ。夕占ともいわれる。

 そもそも道と道とが交叉する辻という箇所は、人だけではなく神も行き交う場であり、たそがれ時かはたれ時は、その境界が最も曖昧になる時である。その時その場でもたらされる言の葉は、これすなわち神の託宣に他ならない。

「──翠鳥みどりどの?」

 凄まじい腐臭にも似た臭気が鼻を掠めた。

 ほとんど物理的な刺激さえ伴うソレに、綱はとっさに袖で鼻を庇う。大人しく引かれていた波迅なみはやが、怯えたようにたたらを踏んだ。

「……っ⁉︎」

 毒々しい玉虫色めいた煌めきを帯びた鈍色の煙が、何処からか立ち昇るのが見える。いやに色鮮やかな青い粘液が、ぼたりと落ちた。

 粘ついた質感がうみを連想させるソレが、土を溶かして泡立つ様に総毛立つ。

 ケガレ。

 不浄ともいう。死や疫病、罪といった諸々の負の概念を凝縮したものである。

 最も忌避きひすべきモノだ。

 しかし、コレはそういったものとは明らかに一線を画していた。綱や翠鳥が知っているモノを超えている。三千世界におけるありとあらゆる穢れそのものが、いま彼らの前に不可視ならざる実体をもって顕現けんげんしようとしていた。

「ヒィ……ッ」

 その煙の中から曲がりくねった長い紐のようなものが飛び出してきたかと思うと、近くにいた雑色らしき男を一瞬のうちに絡め取った。足掻く男の胴体に巻きついた赤黒い紐の先端は、恐ろしいほど鋭く尖った針と化しており、いとも簡単に逃げ遅れた獲物の背中に突き刺さる。

 男が絶叫した。

 同時に獣じみた咆哮が轟く。

 しかし、音は

 無音の咆哮。

「まさか……」

 何処からか応えるように咆哮が続く。。だが、それはまるで輪唱のように、次々と大気を震わせ重なり合い響き合う。

「翠鳥どのッ」

 かたまっている彼女の身体を鞍の上に抱え上げ、そのまま自分も波迅の背に飛び乗った。手綱を引くまでもなく、猛然と駆け出す愛馬の背に揺られながら綱は背後を振り返った。

 これといって明確な形はない。ただ黒いもやのような塊が見えるだけだ。影よりも尚黒く闇よりも尚虚ろな存在は、恐るべき永劫の飢餓状態にあり、解き放たれたいま、手当たり次第に獲物に向かって襲いかかってゆく。その様は飢えた野犬の群れによる襲撃にも似て、逃げ惑う人々を容赦なく屠る様はおぞましいの一言につきる。

 傾いているとはいえど、いまだ陽は彼らの頭上にあり、本来であれば決して現われるはずのない怪異。

 現世うつしよであれ幽界かくりよであれ、これほどまでに不浄なるモノがあろうか。

 二条大路を東に駆ける。駆ける。駆ける。

 敵に背を向けるは武士の名折れだというが、それもこれも命あっての物種であり、合戦における人間相手の話である。これほどの圧倒的な妖異に対し、真正面から相対するなど無謀以外の何者でもない。

 彼はまだ死にたくはなかったし、ましてやあのような死に様など絶対に嫌だ。

 北側左手に続く築地は四町もの広大な敷地を有する冷泉院を囲む壁であり、ようやく途切れたかと思えば南側に堀河院、閑院と何れ劣らぬ貴顕の邸が現われる。左京二条北辺といえば、京の都において最も高級な住宅地であり、普段ならば決して馬上で通り過ぎるなどしない通りだ。

 もっとも今現在この状況において、そのような事情など瑣末事にしかすぎないし、知ったことではない。

 西洞院大路まで、あと少し。

 そう。あともうほんの少しだけ、だった。

「……ッ…!」

 ずるりと翠鳥の身体が馬上から落ちかけた。とっさに抱え直した綱が視線を落とした先に、獲物を引き摺り落とそうと袿の裾に噛み付いているモノがいる。

「い、嫌……っ」

「しっかりつかまって下さい、翠鳥どのっ」

 引き剥がそうと試みるものの、さすがにそう上手くはいかない。翠鳥は必死で腰紐を解き、袖を通していた袿を脱ぎ捨てた。邪魔でしかない笠も払い落として身軽になる。

 さすがは蘆屋の法師の孫娘。並みの女性ではないと、その気丈さと判断力に舌を巻く思いで綱が、そのまま姿勢を安定させようとした矢先、彼女の足首を赤黒い何かが絡め取った。

 たまらず翠鳥が悲鳴を上げる。

「化物めっ!」

 太刀を抜いた綱が斬りかかるも、どういうわけか刃がすり抜けた。

 確かに実体はあるはず。

 なのに、斬ることはおろか触れることもできない。

 

 

 と、その時である。

 ひどくのんびりとした声がしたのは。

「なあ、旦那。あんた、その太刀をつかいこなせてないね?」

 崩れかけた築地を背に胡座をかく蓬髪の男。

 この凄惨極まる怪異を前に、男の態度は場違いなほど暢気極まりないものだった。


 


 





 

 




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