第3話

 雑踏の中、見知った顔を見かけたような気がして、肩越しに振り返った綱だったが、残念ながらすでに相手は姿を消していた。

「どうした、従兄どの」

「いや、何でもない」

 綱らの姿を認めた家人が、待ちかねたとばかりに寄ってくる。その背後には綱らにも馴染み深い軍船いくさぶねが見えた。いつでも出航できるよう立ち働く男達がいる。

「若、お急ぎ下さい」

「ああ、お前は何か聞いているのか?」

「詳しいことは存じませぬ。しかし、ご隠居の家の者が申すには、何でも一度倒れられたとか」

 確かに津守のご隠居は相当な高齢ではある。どれほど健勝そうに見えたとしても、よる年波に勝てはしない。様々な不具合があったところで、珍しくも何ともない話だ。しかし、いきなり倒れたと聞いては落ち着いてはいられないというもの。

 彼らを迎えに来た家人も不安げな面持ちを隠そうともせず、主人に向かって言い募った。

「お目覚めになられて、すぐ若に文をお寄越しに」

 いったい何があったのだろうという疑問は尽きないが、とりあえずは翁が住む庵に向かうのが先決だ。

「……仕方ない、波迅なみはやは置いてゆく。まさき、頼む」

「すまんが、おれの月季げっきもな」

「心得ました」

 武庫庄むこのしょうでゆっくり休ませ、明日には渡辺邸わたなべやしきに連れ帰るよう言いつけ、船に乗り込んでゆく綱の背を柾の声が追った。

「お二人とも、お気をつけて」

「ああ」

 仮にも渡辺に名を連ねる男であれば、水上であれ馬上であれ、自在に動くことができねばならぬ。物心つくかつかぬかの頃から多くの時間を船上で過ごし、同じだけの時間を馬の背に揺られて暮らしてきた。その彼らの足取りに迷いはない。

 水門みなとを出た船は、一路、東を目指して走り出した。

 実際の話、目的地である住吉津すみよしのつまで、さほど距離があるわけではない。何しろここからでも出入りする船の様子が目視できるほどだ。

「ところで、従兄どのよ。京の方はどうだ?」

 早々に座り込んだ茨が縁に背を預けたまま、のんびりとした口調で話しかけてきた。風はあるし、水夫の手も足りている。余計な荷物もないので、彼らを乗せた船は軽快に波を切って突き進んでゆく。

「相変わらずだな。上つ方の考えることは、俺たち下々の者には理解しがたい。頼光さまも苦労なさっているようだ」

「大江山討伐の英雄さまでもかい?」

 従弟いとこ揶揄やゆじみた物言いに、皮肉っぽく綱は応じた。

「あんなもの、お偉方の権力闘争から目をそらすための茶番だ。御所に巣食っている貴族連中に比べれば、鬼だなんぞと騒がれたところで、所詮は盗賊、可愛いものだろう」

「おやおや、世に名高い頼光四天王が筆頭渡辺綱どのとも思えぬお言葉だね」

「そうは思わんか、

 少しばかり意地の悪い笑みを浮かべた従兄を、横目で見やったかやは鼻を鳴らした。

「確かにな。殿上人からすれば、おれたち侍なんぞは殺すしか能のない荒事屋でしかなかろうよ」

「だが、実際、俺たちは上手くやった。いささか上手くやり過ぎたといってもいい」

 そう。

 世に長徳の変と呼ばれることとなる政変の影響は甚大で、おまけに西国や九州沿岸部における不穏な情勢、さらには疫病の流行などが拍車をかけていた。大江山の討伐は都雀みやこすずめを始めとする民衆の目を、不満や不安からそらさせるために仕組まれたものだ。

 英雄譚の裏側など、まぁこんなものである。

「おかげで頼光さまは左大臣さまからの御覚えもめでたい。我らとしても願ったり叶ったりだろうが」

「それはそうだが……少し気になることがある」

「何だ?」

「あまり大きな声では言えんが、先だって内裏だいりの中で官吏が殺された。早朝、出勤した同僚が発見したのだが、じつに凄まじい状態だったらしい。それこそ、鬼に襲われたとでもいうような」

「……鬼、ねえ」

 いかにも胡散臭い話だとかやは嗤った。








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