第2話

 武庫水門むこのみなとは同じ摂津国内でも淀川とは水系を異にしている武庫川むこがわの河口にある。その水源は向津峰むかつみねを越え、遥か丹波の篠山へと求められるという。

 そもそもが武庫という郡の名前自体が、川の向こう側という意味である。六甲も同じだ。東隣に位置する河辺郡が川の周辺を意味するのとさして変わりはない。安直ともいえる命名ではあるが、それだけに古くからある地名であることは確かで、また難波なにわの地に都があったことの名残ともいえる。

 ここは朝廷でも厚く信奉されている廣田神社ひろたじんじゃ参詣さんけいの人々が利用する船泊りなのだが、記紀にも記されているように元々が軍港なのである。大小様々な船が行儀良く並んでいる様子は他では中々見られぬ光景だ。

 反対に岸では着いたばかりの旅人や船荷を運ぶ荷担ぎ、地元の漁師らや女衆の声などが入り混じり、なんとも言えぬ独特の活気で満ち溢れている。

「あちらの御方、まだ若いのにえらく立派な馬に乗っていなさるな」

 ひと休みとばかりに木陰に腰を下ろし、周囲の喧騒を眺めていた男の言葉に反応したのは、彼の求めに応じて白湯を運んできた宿屋の女だった。

男の視線の先にいる若者達を見て声を上げる。

「おやまあ、渡辺の若さんじゃないかね」

 どうやら有名人らしい。ただし、渡辺党といえば男でも聞き知っている。摂津河尻一帯に根を張る武装勢力で、周辺の海上河川の水運を一手に握る水の武士団だ。

 青年らは着ているものこそ質素だが、それぞれの馬や弓、太刀などはなかなか大したもので、実によく手入れされているようだった。

「久々にお見かけするね」

「てことは、一昨年の大江山の……」

「そうさ、あの渡辺綱わたなべのつなさまだよ」

「思っていたよりも若いので驚いた。確か源頼光みなもとのよりみつどのの郎党だったか」

 同じように白湯をもらっていた初老の男が感心した。

「よくご存知でいらっしゃるね、お客人」

 客人と呼ばれた男は、かなり流暢に言葉を操るが少々訛りがある。近辺の人間でないことは言われずとも知れた。

「博多でも話くらいは聞いてるよ」

「てことは、お客人は筑前ちくぜんあたりから来なすったのか?」

「いんや、もっと遠くだ」

 男は何でもないことのように言うが、彼の地より遠いということは海外ということなる。言われてみれば、男の身なりにはどこか異邦めいたところがあった。

「ふぅん、高麗こまかね?」

「惜しいな、そうから」

「おう、なんと。珍しいのう、大抵は博多止まりなんだが。しかし、お前さん、宋人そうびとにしちゃえらく言葉が達者だね」

「母親が倭国人こっちなんだよ」

「ああ、そういうことかい」

 得心がいったとばりに頷く老人は、懐かしそうに目を細めた。

「儂も若い頃は寧波ニンポーまでいったもんじゃ。あっちではよう茶も飲んだの」

 宋では其処此処そこかしこに茶館というものが存在し、また上は皇帝から庶民にいたるまで茶を嗜まない者はいない。それほどに生活に密着した欠かせないものなのだ。

「こっちにはないのか?」

「無論あることはあるが、寺院てらに行くか貴族でもないとな。大陸あちらのようにはいかぬ。まだちいと庶民には無理じゃ」

「水はこっちのが良いから美味いだろうにな」

「うむ。それはそうと去年は肥前や肥後の辺りで、海賊が随分と暴れまわったと聞いておるが、お前さん何か知っとるかね?」

 どうやら老人はかなりの情報通らしい。寧波にも行ったことがあるというのなら、相当に冒険心や好奇心に富んだ人物なのだろう。

「いいや。ただなぁ、宋も北方が随分とキナ臭いことになっててな。まあ開封かいほうは相変わらずだが」

「おお、開封! この年齢ではもう無理じゃが、一度くらいは行ってみたかったのう」

 老人が目を輝かせて声を上げる。寧波も国際色豊かな大都市だが、宋の首都である開封の賑わいは古今東西を絶するものだという。

「人が多すぎて疲れるけどな。さすが大宋帝国の首都だけはあるよ」

「うーむ、せっかくじゃから、お前さん儂の家に寄っていかんか? もう少し話を聞いてみたいしの」

 老人の誘いに男は気軽に応じた。

「いいよ、さほど先を急ぐってわけでもないしな。それにご老人はこの辺りの事情に詳しそうだ。ただ連れがいるんで、一緒でも構わないか?」

「ああ、そりゃもちろん」

「ご老人なら俺より連れの話の方が面白いかもな」

 そもそも男がこの列島の内部まで足を運んだのも、酔狂な連れに付き合ってのことなのだ。

「ほほう、それは楽しみじゃな。そうそう儂は久々智くくちの真人まひとと申す」

「俺はしゅう史賀しが

 改めて名乗り合った二人は、どちらからともなく立ち上がり、連れだって歩き出したのだった。




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