第4幕「城塞都市ベギンハイト」

[1]身の危険

 玉虫色たまむしいろの髪をした少女は、ゆっくりとまぶたを上げる。


 リッチェ・リドレナの意識は覚醒かくせいするが、混濁こんだくの残った意識と焦点しょうてんの定まらない視界、反響はんきょうする聴覚――それらを振り払うかのように一度強く目を閉じ、そして改めて見開く。


 脳裏のうりには不明瞭ふめいりょうな状況に対する混乱と疑問符がよぎるものの、体の自由がきかないことで意識はそちらに引っ張られる。


 腕はひじけに、足は椅子の脚に、大腿部だいたいぶと腹部もしっかりと椅子に固定され、微塵みじんも動かす余地がない。椅子――いや、それらの拘束具こうそくぐは金属質だが、ただの金属ではない。魔法あるいは鬼道で強化されている。体に力を入れてみてもびくともしない。


 とかれた髪はただひたすら重力に従い垂れ下がり、口には口枷くちかせがすげつけられ唾液がよだれとなってこぼれている。着衣はなく、肌寒い空気がやんわりと素肌をなぞる。首にも拘束具が付いているが頭は固定されておらず、かろうじて周囲を見渡せた。


 状況は薄暗く狭い部屋にひとり。

 部屋は薄暗く、部屋というよりは牢獄ろうごくと言った方が正確だろうといった陰鬱な雰囲気をしている。


 前方には小窓の付いた重厚な金属扉があり、他に扉や窓は見当たらない。


 ふと、ある違和感に気がついた。


 ――空気中に……オドが全くない……?


 オドは透明で無味無臭であり、通常それを認識することは難しい。だが魔法や鬼道への熟練度が高まっていくと、漠然とした感覚として感じ取れるようになる。


 リッチェの技量もその域に達していたが、問題はそこではない。


 体内に取り込まれたオドは有害だが、免疫機能により分解され無害化される。その際に発生するマナやは魔法を行使するために必要不可欠なエネルギー源だ。


 しかし大気中にオドが全くない場合、マナが体内で生成されることはなく、すなわち魔法が使えなくなる。


 事前にマナや魔法術式を埋め込んだ道具を用意していれば、枯渇しても行使できるが、身ぐるみは全て剥がされてしまっている。


 ――体内の残量は……ぜんぜん残っていない……。


 使用されなかったマナは、肉体の許容する範囲で体内に蓄積されていく。だがその残量すらもほとんど残されていなかった。


 魔法が使えればこのような拘束具など容易に破壊し脱せられる自負がある。


 しかし魔法も使えず身体強化もされていない現状では、物理的な拘束から脱するのは不可能に近い。


 ――いったい何が……どうなったの?


 混乱する頭ではすぐに状況を理解できない。


 リッチェは一度深く深呼吸をして、順序立てて記憶を掘り起こしていく。


 ――殿下の許可を得て、陛下へいかのアーティファクト調査に同行させてもらって、至誠の蘇生に成功したけど、そのあと何者かの襲撃を受けて……。そう、不浄ふじょう之地のちに飛ばされたんだった。そこから私たちは命からがら生き延びて――。


 そして何処かの都市上空で飛行術式が破損はそんし、投げ出された。はじめはテサロを心配したリッチェだったが、ヴァルルーツ王子がしっかりと守ってくれていた。


 故にリッチェは彼を信用し、リッチェは自分に託された使命――至誠を守ることに全力を出した。出そうとしていたはずだ。


 空中でバラバラになったあと、怨人えんじんは至誠を狙っていた。正確には、ミグの鬼道の気配に引き寄せられていたのだろう。


 急降下し至誠を猛追する怨人えんじん、差し迫った地面。


 ――その後は確か……。


 リッチェはさらに記憶を手繰る。


 ――そうだ、至誠が地表に到達する直前に怨人えんじんが吹き飛んだんだ。


 横から殴り飛ばされるような挙動で、飛行型の怨人えんじんは吹き飛び建物を何軒も突き破っていた。


 位置的に、それはミグやヴァルルーツではない。おそらくは近隣都市の守備隊によるものだろう。


 とにかく怨人えんじんの脅威が後退した好機に、リッチェは至誠の元に駆け寄ろうとした。


 しかし突然、人影が割って入ってきた。

 直後、鳩尾みぞおちに強い衝撃が走ったのを、リッチェは思い出す。同時に、その痛みはわずかに残っていることに気が付いた。


 ――攻撃を受けた? そのまま、気を失っていた……?


 リッチェの視界からは見えなかったが、鳩尾の下に青いあざが薄らと浮き出ていた。


 ――でも誰? 怨人じゃない。怨人なら今ごろ食べられて死んでいたはず。都市の守備隊……?


 リッチェは知識としてでしか知らないが「神託しんたく之地のち」と「不浄ふじょう之地のち」の境界には対怨人用の城塞都市じようさいとしを築いている国は多い。術式の気配や人類を優先して襲う怨人の習性を利用し、内陸に向かう前に誘導ゆうどう駆除くじよするためだ。


 ――つまり、ここはどこかの城塞都市の……牢獄?


 そう考えるが、ここがどこなのか分からない。


 ――至誠様の推論が正しければ、神託しんたく之地のちの最南西端のどこか……なのかな。たしか……南西端の国家はロゼス王国という国だったはず……。


 うろ覚えだが、リッチェはそんな名前の国があったのを思い出す。

 間違いなく言えるのは、南方一帯なんぼういつたいはラザネラ教の影響が強い地域であることだ。


 リッチェはラザネラ教を信仰していないが、彼らは世の泰平を重んじる比較的穏健おんけんな宗教だ。だが一方で、習った歴史を思い返すと安寧を脅かす相手には容赦がないイメージがある。


 そう考えると、神託しんたく之地のち怨人えんじんを引き込んでしまった自分たちの立場は決して良くない。


 ――どうしよう。どうしたらいい?


 リッチェは脳裏で自分に問いかける。

 しかし答えは明瞭だった。


 ――決まっている。至誠様を託された。なら、そのために行動しなきゃ……。そのためにはまず、ここから出ないと。


 だが拘束から脱する術が思いつかない。


 どうすればいいか今一度考えを巡らせようとした、その直前だった。部屋の外から数人分の足音と、男の声が聞こえてくる。


「おっ、さすが閣下! ぴったりですよ」


 複数の足音をかき消すのは、若く活気のある男性の声だ。

 男は部屋の外にいるようで、その姿はどこにも視認できない。


「状況は?」


 問い返すのは、重低音で渋みのある男性の声だ。


「およそ二分前に目を覚ましてます。閣下待ちだったので、他にはまだ何も」


 目を覚ましているというのが自分のことを指しているのだとリッチェの直感がささやく。


 すぐに扉にすげつけられた小窓がスライドし開く。


「目が覚めたようだな」


 その男に心当たりはない。小窓からみえる目元は細く鋭利だ。人ならば二十歳から三十歳前後といった面持ちに見えるが、目元だけではその判断は難しい。


「何者だ?」


 男は間髪を入れず問いかけてくる。


 だが口枷くちかせくわえさせられていては何も言えない――そう思って居ると、男は指を鳴らす。同時に口枷の拘束だけが緩み、すぐに口から外れ足下に落ちていった。


「ここは――」


怨人えんじんか?」


 リッチェの声を遮り、男は質問を続ける。

 あくまで主導権はこちらにあるのだと主張するかのように。


 口枷だけ取って見せたのも警告の一環だろう。リッチェは拘束され抗う術はないが、男は牢の外から一方的に攻撃することもできるのだと暗に示した形だ。


 威圧的いあつてきで上から目線の口調にリッチェは不快を感じるものの、相手のペースに飲まれては駄目だと自分に言い聞かせ、落ち着いた口調で端的たんてきに答える。


「違う」


 小窓からのぞく目がいっそう細く見据える。


「証拠は?」


 自分が化け物でない証明をしろ――そう男は要求する。


「怨人であれば、このように会話はできない」


「言葉を発する怨人も存在する」


 リッチェは不浄の地に足を踏み入れたのも、怨人を直接見たのもはじめてだ。だが知識として、これまで人類と怨人との間で会話や意思疎通が取れた事例がないことを知っている。


 実際、不浄の地で目にした個体は確かに音を発するが、それは声と呼べる代物ではなかった。


たけびやかなごえが『言葉』に含まれるなら、確かにそう」


「怨人とは人智じんちの及ばぬ存在だ。会話を会得したのやも知れない」


「もしそうであれば、ぜひその存在理由を聞いてみたい」


 小窓から見える男の視線が一瞬だけ外れる。


「全くだな。では怨人ではないとして――」


 ひとまず自分が怨人でないと相手が理解したことは一安心だ。怨人だと思われたなら、それだけで殺す理由には十分なのだから。


 リッチェには状況が分からないが、こうやってわざわざ問いかけてくるということは、向こうも分かっていないのだろうと考えられた。


 そして今の自分にできる最善手は、情報収集に徹することだろう――とリッチェは判断する。


「――ならばお前は、いったい何者だ?」


 リッチェが口を開こうとするが、再度それを遮る。


「種族からだ」


 その口調と言い回しには苛立いらだちのひとつも感じるが、むしろそれが相手の狙いである可能性に気がつく。リッチェを苛立たせて判断力を鈍らせ、情報を引き出そうとしているように感じられた。


「……魔女」


 故に、淡泊かつ単純に言葉を返す。苛立つ様な言動を見せれば、それは相手の思うつぼだからだ。


「ほぅ、魔女か。ならば貴様はマシリティ帝国の魔女か?」


「違――」


「マシリティ帝国の傘下に獣人の国家があるな。レギリシス族長国、だったか? 君の友人はそこの者か?」


 ヴァルルーツ王子のことを言っているのだろうとリッチェは察した。

 彼はヴァルシウル王国の王子だが、不用意に情報を口にするべきではない。だが完全に黙秘となれば、リッチェも何も情報は得られなくなるだろう――そう考え、端的に返答する。


「違う」


 眉一つ動かさず答える態度に、不快感からか、あるいはより詳細に観察するためか男は目を細めリッチェを凝視する。


「では、の種族は?」


 残りのもうひとり――それがリッチェの耳に強く残る。


 男の会話に名前の挙がっていないのはテサロとミグと至誠の三人。そしてミグは至誠の体内にいる。

 一方でテサロは既に意識を失っており、ヴァルルーツ王子がその体を抱えていた。


 ――つまり、ミグは気付かれる逃げ切れたってこと……?


 状況は良くないが、もしミグが至誠をレスティア皇国まで逃がせたなら、最悪の結末は避けられる。


 今自分が懸念すべきは、今ここで下手にミグと至誠の情報を漏洩ろうえいさせ、2人の負担を増やしてしまうことだ――と、そう結論づけ、リッチェは再び端的に答える。


「魔女」


「ほぅ……お前と同じか」


「そう」


「やはりマシリティ帝国の手の者のようだな。異教いきようの魔女が二匹もいるとなると、実に物騒ぶつそうな話だ」


 ――マシリティ帝国を『異教』と呼ぶということは、彼らはラザネラ教の関係者?


 地理的にも、おそらくそれは間違いない。


「違う。私たちは――」


 レスティア皇国という単語を喋って良いものか即断できずリッチェは一度言葉を飲み込む。


 その間に男は極めて冷酷れいこくな口調で問いただす。


「ではなぜ魔女と嘘をついた?」


 ――どっちの意味?


 と、リッチェは目を細める。


 テサロが魔女だと信じられないという意味の言葉か、はたまた至誠がいることを知っていてかけられたのか、判別が難しい。


「私たちは魔女だけどマシリティ帝国の関係者じゃない」


 下手に主張をブレるとそこを追求されかねない。ならばここは、至誠は存在していないという言動の方で統一した方がいいだろうと判断する。


「魔女はマシリティ帝国以外に存在しない。かつてあの国は、自国にきょうじゅんしない魔女を粛清してまわった歴史を知らないのか?」


 男の言うとおり、マシリティ帝国が他国に在籍していた魔女を粛清したとするうわさはある。だがそれはあくまでマシリティ帝国の歴史上の黒い噂話のひとつに過ぎず、確たる証拠はない。


 と、リッチェは理解しているが、事実関係がどうであれ男の中の歴史観がそうなっているのであれば話がこじれる恐れがある。


 少なくとも、マシリティ帝国の間者と間違われる事態は避けなくてはならない。マシリティ帝国の国教である「マギ教」と「ラザネラ教」は仲が悪い。宗教対立に巻き込まれれば、まともに取り合ってもらえず処断される可能性は想像に難くない。


「私たちはマシリティ帝国とは関係ない。ラザネラ帝国やラザネラ教がマシリティ帝国のことをよく思ってないのは知って――」


 男は金属扉を力強く叩きながら言葉を遮り、強い口調で告げる。


「『神聖』ラザネラ帝国だ。二度と間違えるな」


 突然の大きな音にリッチェは体を反射的にビクッと硬直しつつ、目を丸くする。


 宗教的に間違えてはならないポイントなのだろうと理解していると、男は鼻で笑いながら目元を細めて「なるほどな」とつぶやく。


「お前、レスティア皇国か、あるいは聯盟れんめいの手の者だな?」


 聯盟――それはレスティア皇国が主導して作った国際組織『彁依物統轄聯盟』のことを指しているようだ。


 そしてなぜ男がその結論に至ったのか、リッチェも遅まきながら理解する。


 先のやり取りにおいて、ラザネラ教の信徒ならば神聖の文字を忘れるわけがなく、マギ教徒なら驚く以上に不快感の一つでも浮かべていてしかるべきだろう。


 しかしリッチェの反応はそのどちらとも異なった。


 宗教的中立、あるいは無宗教で高度な技術を持っているとなれば、消去法でレスティア皇国か聯盟の手の者である可能性が高い。


 そして男は鎌をかけ、今のリッチェの反応で図星であることもバレたはずだ。


「そう、私たちは――」


 国籍や身分が分からないから捕らわれている――リッチェはそう考えていた。故にレスティア皇国の国民であることが相手に信じてもらうことができれば、一番の問題は解消されると思っていた。


 レスティア皇国とラザネラ教と対立関係にない。特別友好的という訳ではないが、少なくともラザネラ教とマギ教の対立のような溝はない。それがリッチェの知る世界情勢だ。


 故にマギ教ないしマシリティ帝国とは無関係であることが伝われば、今自分が捕らわれている理由の大部分はなくなる。


 そう考えていたが、男の返答はリッチェの想定外のものだった。


「なら存分にたのしめそうだな」


 だが、男の下卑た視線が全身をなめ回すように移ろっていることに気がつく。


 ――まさか……。


 はじめから自分の体が目的だったのかと察したリッチェは体を隠そうとしたが、手足の自由がない現状でそれはかなわなかった。


「安心しろ。何もしてない。さすがに怨人を犯す趣味はない。それに、万が一にでもの関係者だった場合に面倒だからな」


 男は自らラザネラ帝国の頭に神聖の言葉を付けなかった。先ほどの激昂げきこうが演技だったのかとリッチェは考えるが、その場合、男の立場がどこにあるのか全く分からない。


 その間に「それで?」と男は言葉を続ける。


「目的は何だ?」


 どう返すのが最適か分からなかったが、言葉をきゅうするのは男をさらに助長させるだけと考え、リッチェは端的に返す。


「レスティア皇国に、帰ること」

「ほう。自分一人だけ帰ると? 一緒に空から降ってきたお仲間のことなどどうでもいいと?」

「全員で、返して欲しい」

「全員、とは?」


 リッチェはあえて人数を避けた返答をするが、男は追及してきた。


「私とししょ――もう1人の魔女と、人狼の3人」


 師匠と言いかけた。それはわざとだ。

 男の注意が自分と老婆の関係性に気を逸らすために。


 だが男はねっとりと目元を細め、あざけわらいながら「4人だろう?」と口にする。


 しまった、把握されていた――そんな心の声がリッチェの表情にわずかに浮かんでいるのを男は見逃さなかった。


「いいだろう。3が帰国できるように手を回してやろう」


 男の目元は嬉々としている。

 ここまでのやりとりは全て手のひらの上だと言わんばかりの雰囲気だ。


「人狼と老いた魔女と、お前の三人でいいのだろう?」


 至誠についての情報を意図して隠したことが、そこに何かしら重要な意味がある、と男が考えるのも無理はない。


 隠そうとしたことが裏目に出たとリッチェは後悔するが、今できる最大の主張を口にする。


「全員で、返して欲しい」

「3人と言ったのはお前だ」


 男の声に笑いが漏れるほど愉快そうに指摘する。


 どう返答すべきか窮していると、男の方から「だが――」と落ち着き払った口調で提案してくる。


「こういうのはどうだ。帰れるのは人狼と老いた魔女、そして隠しておきたい人物の三人だ。そういうことなら、喜んで協力してやろう」


 ――やはりこの男はの目的は最初から私を……。


 リッチェはそういう男の欲望むき出しの下品な表情や視線が、昔から嫌いだった。


 魔人は魔臓まぞうと呼ばれる独特の臓器を有している。魔女の魔臓は心臓に対となる形で存在し、その結果として他種族よりも胸の発育が促進されやすい。


 リッチェの場合は第二次性徴の時期が周囲の同年代よりも早く来たこともあり、以前から顔と体だけを見て鼻の下を浮かべて近寄ってくる男は多くいた。


 学生の時はたいていリッチェの方が実力が上だったのでにらんでおけば問題なかったが、目の前の男に対しては嗜虐心しぎゃくしんをくすぐるだけの効果しかないようで危機感を抱く。


「あいにくと肉塊を抱くのは飽きててな。だから貴様には選ばせてやろう。俺は従順な女は好きだ。自ら奴隷を望むなら、きちんと壊れない程度に飼ってやろう。だが反抗的な女も好みだ。屈強な心が折れて身も心も壊れていく様は実にそそられる。特にお前は、いい音色で鳴いてくれそうだ」


 男の言葉が本気なのは、目元だけでよく分かった。それほどおぞましい視線をしていたからだ。


 そんな会話を近くで聞いていた別の男性が茶々を入れる。


「もう、閣下ははいつも一人で楽しみ過ぎですよ。たまには壊す前にこっちにも回してくださいよ~」


 男の視線がリッチェからそれ、割って入った人物の方へ向いた。


「こいつはダメだ。手を出したら殺すぞ」

「うっへー、閣下まじこわ」

「代わりに今回の討伐賞与でお前たちに好きな奴隷を買ってやろう。それで存分に楽しむといい」


 男の声に、若い男以外にも複数の男の声が聞こえてくる。


「さすが閣下は話が分かる!」

「やっぱ三英傑の中でも一番懐が広いのが閣下ですわ」

「よっしゃ、一番いい女おさえとこ」

「おう待てや、抜け駆けすんな!」


 扉の向こうで和気藹々わきあいあいとした口調がリッチェの耳にまで入ってくる。だがそれが狂気じみていると感じざるを得なかった。


 さて話を戻そうか――と、男は再度リッチェに語りかける。


「選ぶがいい。仲間のためにお前一人の犠牲ぎせいで済ませるのか。何なら全員処刑してお前を飼ってもいい。だが俺は狂人きょうじんではない。自らり足をめる愛玩あいがん動物のことは、相応に可愛がってやろう」


 男の目は本気だ。狂人の目だ。欲情した獣の目だ。

 少なくともリッチェにはそう見えた。


 ――どうする?


 リッチェは考える。


 自分が犠牲になり皆が助かる――それはやぶさかではない。そう思えるのはテサロに似たからだろう。しかしそんなリッチェの脳裏に過ぎるのは、不浄ふじょう之地のちで至誠とヴァルルーツがテサロの自己犠牲を阻止した記憶だ。


 そもそもひざまずいて乞うたところで、この男がまともに約束を履行りこうするとは思えない。自分への脅し道具として確保しつつ、必要になくなれば殺してしまうだろう。躊躇ちゅうちょなくそれを実行するような男に見える。


 だが、だからといってここで明確に拒否した場合、何をしてくるか分からない。他の人に矛先ほこさきが向く可能性も高い。



「――閣下かっか! バラギアじゅんしょう閣下!」


 返答にきゆうしていると、扉の向こうから慌ただしい足音共に声が響く。


「今し方、教会から――」

「待て」


 バラギアと呼ばれた男は報告をさえぎると、リッチェに宣告せんこくする。


「戻ってくるまでに返答を用意しておけ」


 バラギアは愉悦ゆえつひたるような笑みを浮かべながら小窓を閉めた。


「報告は向こうで聞く。情報を大声でらすなバカが。ぶち殺すぞ」

「し、失礼しました――ッ!」

「ビルケンジドッグ、それとメルクイナは残れ。他はついてこい」


 了ぉ解――と複数の声が聞こえてきたかと思うと、十人程度の足音が遠ざかっていき、リッチェの囚われた部屋には静寂せいじゃくだけが残された。

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