[2]はじめての魔法体験

 リネーシャは会話に一区切りを付けると、視線を上げて「さて――」と別の誰かに話しかける。


「テサロ、現時点での所見しょけんはどうだ?」


 テサロと呼ばれた人物は至誠の左手にいることが分かる。

 だが視界の外にいるためにその姿は見てとれない。


「今のところ報告すべき事象じしょう観測かんそくされておりません。施術の方も順調じゅんちょうで、完了まで10分ほどを見込んでおります」


 テサロは年老いたおばあさんといった声で、おだやかで物腰ものごしやわらかな口調だ。


「ならば予定通りに進めよ。ミグの方はどうだ?」

『こちらも特に問題ないっすね。施術の方も、あと10分かからないかと』


 リネーシャはさらにミグという別人に声をかける。それは明瞭めいりょうかっぱつな若い女性の声だったが、不思議とどこから聞こえているかが分からなかった。


消化器官しょうかきかんの具合はどうだ?」

『今のところ全て正常っすね。念のために軽めのものから試してみて下さい』


 リネーシャは相づちだけを返し、さらに別の人物に言葉を向ける。


「スワヴェルディ、観測かんそくに問題がなければ食事の支度したくに移れ」


かしこまりました」


 スワヴェルディと呼ばれた人物は若く落ち着いた男性の声をしている。


 部屋にいるのはそれで全員らしく、リネーシャは「では――」と再び至誠へ視線を向け再び話しかけてくる。


「君の置かれた状況や事情について、我々としても何も分かっていない。個人的に、実に興味深い」


 リネーシャの表情は嬉々としている。かすかに紅潮している様にも見えた。あるいは、獲物を前に舌なめずりをする肉食獣とでも例えるべきか――少なくとも至誠は、純粋な善意だけではない気がした。


「しかし急いては事をし損ずる。まずは治療の完遂かんすいが最優先だ。そして次に腹ごしらえを済ませよう。情報と状況の整理、そこから導かれるであろう考察こうさつは、それからじっくりと考えれば良い」


 リネーシャは一方的にそう告げきびすを返すと、視界の外へと消えていった。


「私はあちら側を見てくる。テサロは治療を終え次第、迎賓室げいひんしつまで案内してやれ」


承知しょうちいたしました」


 リネーシャはそう告げ、2人か3人かの足音と共に気配がフェードアウトしていった。


 至誠にはまるで状況が分からない。状況を整理し理解しようと試みるが、相変わらず「何も分からない」以外の結論は出てこなかった。



  *



 そのまま何の進展も至誠には感じられず、ただ仰向けになって時間が流れていく。人の声は全く聞こえない。かすかな物音から、近くに誰かが立っている気配はある。だがその人物は口を開かず、静寂が辺りを支配していた。


 至誠はそわそわとした感情が脳裏で渦巻き落ち着かない。不安や杞憂、放っておくとすぐネガティブな思考に陥りそうになるため、今は意図して何も考えないように努めた。


 リネーシャたちの話によると後10分ほどで治療は終わると言っていた。たかが10分だが、体が動かない状態でただただ待っていると、時間の流れは極限まで遅く感じられた。


「……。……!」


 しばらくして、ふと、指先が動くことに気がついた。

 指先が動いたのを皮切りに、全身の自由が戻ってくる。


 至誠はおそるおそる上体を起こし、素手で自分の体に触れてみる。痛みや違和感はない。少しばかり倦怠感けんたいかんはあるが、しばらく寝込んでいたとすればうなずける程度のものだ。


 むしろ気になるのは服装の方で、少なくとも至誠持っていたはずの私服とは異なる。


 今着ているのは、黒いタートルネックインナーのような服だ。なめらかで着心地は非常に良いが、触れてみると凹凸感が強い。よく見てみると幾何学模様のような図柄の刺繍ががびっしりと描かれている。刺繍は同じ黒をしており、至誠は手で触れるまでは刺繍の存在に気がつかなかった。


「どこか、お体に痛みや違和感はございませんか?」


 状況を飲み込んでいると、横から老年女性の声が聞こえてくる。先ほど、リネーシャから「テサロ」と呼ばれていた老婆だ。


 至誠が振り返ると声の印象通りの老婆がいた。


 背丈は至誠と同じくらいで背筋は伸びてスラッとしている。丸い顔には年月を感じさせるシワが多く入っているが、柔和で優しそうな印象を受ける。髪の毛はウェーブがかったくせっ毛で、明度の低い緑色だが光沢が強く、ときおり青や赤い色味に見える時がある。


 しかし何より目を引くのは、手に持つ杖だ。杖と言っても老人が歩行補助に使うような杖ではない。身の丈ほどもあり、宝石らしき装飾が鏤められた厳かな杖だ。それはまるで、マンガやゲームに出てくる魔法の杖だ。


 至誠はその杖に視線と思考が奪われるが、すぐに我に返る。


「あっ……は、はい。今のところ、大丈夫そうです。……えっと――」


 しかし言葉が続かない。

 分からないことが多すぎて、何から聞いていいか考えがまとまらなかったからだ。


「ゆっくりで大丈夫ですよ」


 そんな様子にテサロは優しそうな笑みを浮かべ、おだやかでおしとやかに言葉を紡ぐ。


 至誠は一度深呼吸を行い、そして改めて口を開く。


「ここはいったい、どこでしょうか?」


「ヴァルシウル王国北部に位置する鉱山都市ザミエラフ近郊きんこう。あるいはザマーゾエロギ山脈のふもと。――と言って伝わりますでしょうか?」


「……?」


 至誠の知る限り、それらの固有名詞に全く心当たりがない。もちろん世界中の国名や山脈を覚えているわけではないが、それにしても全く記憶の片鱗にも引っかからず、疑問を解消するどころか疑問符が増えることになった。


 ――結局ここはどこで、なぜこんなところに……?


 増大する不安をせき止めるようにくちびるんでいると、テサロは優しく言葉をかけつつ一歩踏み出してくる。


「心当たりがないようでございますね」


 至誠はテサロへと視線を向ける。彼女の声音、仕草、表情からは至誠のことを心配している――といった雰囲気が感じられる。だまそうとしている素振りは見当たらない。


「は……はい。その国の名前も、地名も、はじめて聞きました」


 テサロの言葉をどこまで信じていいか分からない。いや、言葉だけではない。彼女らの存在その全てがが、現時点ではどこまで信用できるのか判断できない。


 しかし、だからと言って他にできることはない。


 現状、日本語は通じている。そして相手には対話する意志がある。そこにある善意と悪意の割合は分からないが、考えても分からないことを嘆き続けても思考は堂々巡りから抜け出せない。


 ――落ち着け。


 そう、至誠は何度も自分に言い聞かせる。


 確かに現状では何が何だか分からない。

 しかし、さしあたって目の前に危険らしい危険はない。


 もし彼女らが何らかの加害者であれば話は別だ。だが今のところそれらしき証拠しょうこはなく、自身の不安をかき消すために短絡的な癇癪かんしゃくを起こしたり、誰彼だれかれかまわず嫌疑けんぎをかけたりすれば、最終的に自分の立場を危うくするだけなのは想像にかたくない。


 そう自分に言い聞かせている間に、テサロの方が先に口を開く。


「聞きたいこと、気になることは多々あるでしょうが、今は後に回しましょう。我々としても、あなた様がなぜ地下深くにいたのかについて有益な情報は持ち合わせておりません」


 リネーシャと名乗った少女も同じようなことを言っていた。そのことを至誠は思い出し、相づちを返す。


「……。……そう、なんですね。……そうでしたね」


「私はテサロ・リドレナと申します。主に医療研究にたずさわっており、レスティアこうこくより派遣はけんされ参りました」


 ヴァルシウル王国、レスティア皇国――いずれも至誠には聞き覚えのない国名だ。


 だが彼女の言うとおり、その疑問はいったん脇に置いておく。その点だけを深く追求しり下げたところで疑問は減るどころか、むしろ増えるばかりだ。


 今後のことを考えれば、第一印象をよくしておくに越したことはない。

 ならば優先すべきは、冷静かつ理性的に円滑なコミュニケーションをはかることだろう――と、至誠は意を決する。


「……。分かりました。えっと……リドレナさん、ですね。助けていただいたみたいでありがとうございます。僕は、加々良かがら至誠しせいと言います」


 向こうが名乗ったのにこちらは名乗らないのでは印象が悪いだろう――と至誠は名乗る。


 彼女の名前のどちらが苗字みょうじか分からないが、欧米おうべいと同様であれば苗字は後ろだと予測しながら。


「カガラシセイ様ですね。かしこまりました。――さて、もし問題なければ一度立ち上がっていただいてもよろしいでしょうか? 治療の方に問題がないか、確認させていただけますと幸いでございます」


 至誠は分かりました――と相づちを返し、ベッドから体を降ろす。床のひんやりとした温度が足の裏に伝わりつつ、ベッドから腰を離し立ち上がる。


 特にこれと言って痛みや違和感はない。

 その事をテサロに告げると、次に触診を受けた。

 しかし、どうやら問題はなかったようだ。


「それでは迎賓室げいひんしつの方へご案内いたします。どうぞこちらへ」


 笑顔でそう告げ、テサロは至誠を扉の方へと誘導する。


 ――これ、このままついていって大丈夫なのかな……。


 至誠はそんな猜疑心さいぎしんを抱く。

 しかし、だからと言って他に選択肢は見当たらない。


 周囲を見渡すと――医療ドラマなどで見る病院の手術室とは一線を画すものの――ここが彼女らにとって手術室か治療室であろう雰囲気は感じた。


 部屋の中央には至誠が先ほどまで仰向けになっていた台座が1つと、天井には――今は消えているが――強力な照明器具らしきもの、そして周囲には医療関連器具やそれらを収納している棚が所狭しと並んでいる。


 そして、この部屋には扉が1つしかない。天井の端に換気用ダクトらしきものはあるが、少なくともゲームのようにダクトを通って移動するのは無理そうだ。


 すなわち、選択肢はここに残るか、着いていくかの二択しかない。


 ――よし。


 至誠は腹をくくる。鬼が出るか蛇が出るか分からないが、ひとまずは彼女たちのことを信じて行ってみよう――と。



  *



 部屋にある唯一の扉が開かれると、短い廊下の後、上り階段にさしかかる。


 階段の長さは結構ある。1階から3階への直通のような段数だ。だが途中の階は見当たらず、ただ長い階段がまっすぐ伸びている。


 とはいえ、決して登れない段数ではない。

 特に至誠のような若者にとっては。


「はぁ――はぁ――」


 だが階段は3割も登っていないうちに大きく肩で呼吸をしていた。

 思わず壁に手をつく至誠を見て、テサロは足を止めて心配そうに問いかける。


「お体の方はいかがでしょうか。痛みや違和感など、何か問題がございますか?」


「あ、いえ。大丈夫だと、思います。ただちょっと……息が上がってみたいで。……すみません」


 至誠が足を止めながら答えると、テサロは納得したような表情を浮かべて優しく教えてくれる。


「カガラシセイ様の治療にはおおよそひと月を要しました。筋肉の衰えを鑑みれば致し方ないことでございましょう」


 と言いつつ、テサロは手にしている杖を軽く掲げ、そしてトンと杖先で小さく突いた。


「――ッ!?」


 と同時に、至誠の足が階段から離れる。

 あたかも重力に反しているように体が空中へと浮き上がり、そして制止した。


「急激な負荷は体に良くありませんので、後はわたくしめにお任せ下さい」


 テサロは柔和な笑顔で告げる。が、至誠の身に起きている超常現象のせいで冷静に受け止められないでいた。


 ついでとばかりにテサロは再度杖で階段を突くと、今度はテサロ本人の体が階段から離れ宙に浮く。


「――ッ」


 かと思えば、まるでエスカレーターに乗っているかのように宙に浮いた体が進む。


 そして至誠が戸惑いの言葉を口にするより早く登り終え、上階の扉の先で床に優しく降ろされる。が、床に足が着いた直後、至誠は崩れ落ちるように両手と両膝をついた。


「い、今のはいったい――」


「失礼いたしました。きちんと説明してからの方がよろしかったですね」


 そう言ってテサロは屈み、至誠に手を差し伸べる。


「今のは飛翔魔法の一種でございます。移動に便利なのですが、無重力のような感覚に慣れるまで酔いやすいことを失念しておりました」


 誠に申し訳ございません――と告げるテサロの手を取り、至誠は立ち上がる。


「魔法、ですか……?」


「はい、魔法でございます。ところで迎賓室へは歩いて行かれますか? もしお辛いようでしたら同じように飛翔魔法で移動することも可能です」


「それは――」


 ――魔法? 無重力?


 至誠には何が起こったかよく分からなかった。

 人はよく分からないもの、理解できないものを目の当たりにすると、警戒心や猜疑心が生まれやすい。


 ――本当に、彼女たちを信じてもいいのだろうか?


 至誠にもそんな疑念が脳裏をよぎる。

 いや、それは元々あった疑念だ。だが今の一件で急速に肥大化してしまった。


 ただ、はっきりしたことが2つある。


 自身の体力の著しい低下と、そんな状態で飛翔魔法なるもので追いかけられれば逃げ切ることは不可能だという2点だ。


 ――いや、信用できないと決まった訳じゃない。


 彼女らと出会ってからの時間が短すぎる。判断材料が少なすぎる。つまり信用できるかなんて現時点では分からない。


 考えなしに信用するのも良くないが、だからと言って信用できないと思考を止めるのは良くないだろう――至誠は自分にそう言い聞かせ、至誠はテサロの手を取って立ち上がった。


「ありがとうございます、リドレナさん。えっと――ひとまず、できる限り自分の足で歩こうと思います」


「承知しました。それではこちらへどうぞ」


 そう言って、テサロは杖を持っていない方の腕で進行方向を指し示す。


 至誠が目をやると、長い廊下が続いている。


 足元には深紅しんく絨毯じゅうたんがひかれ、やや高い天井にはごうなシャンデリアらしき照明が等間隔とうかんかくで並んでいる。柱は細かく装飾そうしょくり込まれ、窓を隠すように並ぶカーテンも細かい刺繍ししゅうからは高級さをひしひしと感じられる。窓と反対側の壁にはエンブレムのようなデザインがほどこされたタペストリーがかざられ威厳を見せつけられているかのようだ。


「迎賓室はすぐそこでございます。無理のないペースで進んでいただいて大丈夫ですので、慌てずゆっくりと参りましょう」


 そう言ってテサロは横に並び、歩調を合わせて案内してくれる。


 ――これは配慮だろうか? それとも監視だったり?


 と疑念を抱きつつも、確かめる術はない。

 そんな至誠の心境を知ってか知らずか、テサロは「ところで――」と口を開く。


不躾ぶしつけな確認で恐縮ですが、カガラシセイ様のお名前には、家名の文化はございますか?」


「あ、はい。加々良が苗字で、至誠が名前です」


「であれば、差し支えなければシセイ様とお呼びしてもよろしいでしょうか?」


「――? はい、それは構いませんが――」


 至誠が疑問符を浮かべている間に、テサロはすぐにその理由について教えてくれる。


「レスティア皇国では、初対面の相手であっても『家名』や『家名を含めて名を呼ぶこと』はまれでございます。よろしければシセイ様も『テサロ』とお呼びいただけますと幸いです」


「分かりました……テサロさん、ですね?」


 ――家名が重要視されないような文化って、どこかあったっけ?


 そう至誠は疑問を抱くが、地球上に存在する全ての文化を網羅しているわけではない。少なくとも、日本の価値観とは異なるようだ。


 いや、それよりも――と、至誠はワンテンポ遅れて非現実的な要素に思考が追いついてくる。


 ――いや、そもそも……なんだ? 「魔法」って……。


 非科学的な代表格、ファンタジーにおける定番、それが魔法だ。それが現実に、目の前に合ったという。いや、あまつさえそれを体験したという。


 とてもじゃないが信じられない――というのが至誠の本心だ。


 ――トリックか何かではないか? 高度な科学は魔法と区別が付かないなんて定番のフレーズではないか?


 至誠の脳裏では、現実逃避気味にバイアスがかかった感想がよぎる。


 ――だが人体を軽々しく浮かせて移動するなど、一体どのような科学技術があれば可能なのだろうか?


 少なくとも現代日本では再現できないだろう。


 そして脳裏で無数に枝分かれし続ける疑問符は、次第に1つの疑問に集約される。


 ――ここは一体どこで、僕の身に……いったい何が起こったんだ?


 と。

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