[2]メンタルリセット

 ――落ち着け! こういう時こそ冷静になれ。


 至誠は自分に言い聞かせる。

 アドレナリンのおかげで既に思考力は正常の範囲内に戻っている。


 だが周囲にはびこる冒涜的な化け物を見たことでメンタルが現在進行形でゴリゴリと削られている。


 至誠は大きく深呼吸を行い、視線を上げ夜空へと視線を向ける。


 もやの地帯を抜けているため、夜をまたたく星々が視神経ししんけいを伝って脳を刺激しげきする。


 視線を移したのは地上の怨人から目を逸らすためではない。自己流のメンタルをリセットする思考法に集中するためだ。



「……」



 至誠は宇宙が好きだ。


 宇宙の無限大の規模と可能性が好きだ。

 そこにロマンを感じずにはいられない。


 同時に、他の追随ついずいを許さないほどの圧倒的な恐怖を抱かずにはいられない。


 自身の身長は『174cm』だ。

 日本列島の直線距離が約『3,300km』。

 月の直径が『3,474km』。

 地球の直径が『12,742km』。

 太陽の直径が『1,391,000km』。

 太陽系の直径が『4,498,252,900km』。

 1光年は『9,460,800,000,000km』。

 銀河ぎんがの直径がおよそ『100,000光年』。

 銀河が属する局部銀河群きょくぶぎんがぐんの直径がおよそ『5,000,000光年』。

 局部銀河群が属するラニアケア超銀河団ちょうぎんがだんの直径が『520,000,000光年』。

 観測可能だと言われていた宇宙の直径が、確か『93,000,000,000光年』。

 物理学者レオナルド・サスキンドの提唱した宇宙の大きさは10の10乗の10乗の122乗。もはや単位がメートルでも光年こうねんでも誤差の範囲。

 それほどの規模の空間が宇宙だ。



「……」



 その大きさをイメージした後に自分の身長を思い返してみると、あまりのちっぽけさに宇宙的恐怖心で頭がいっぱいになる。


 ――ここが異世界ファンタジーの世界だったとしよう。しかし宇宙の前ではだからなんだという話だ。吸血鬼であろうと魔女であろうと、怨人バケモノでさえも、しょせんちりにも満たない矮小わいしような存在にすぎない。


 至誠はそうやって宇宙という無限むげん畏怖いふと比較し、目の前の恐怖心を宇宙的恐怖心で上書きする。


「『生まれたことに意味はない。生きることに、価値はない』」


 至誠はそう呟きながら目を閉じ、かつて祖父が口にしていた言葉を思い返す。


『生まれてきたことに意味はない。人が生きることに価値などない。どうせあと50億年もすれば地球は太陽の膨張ぼうちょうに飲み込まれ地球上の生物はことごとく死滅しめつする』


 祖父のそんな言葉は、よく周りから偏屈へんくつ暴論ぼうろんだと揶揄やゆされていた。


『富も権力も名声も、死の花道をいろどけに過ぎない。どれほど多くのモノを手に入れようとも、今際いまわきわで己に満足できないやからの人生はむなしいだけだ』


 そもそもの話――と祖父の言葉は続く。


『人と動物の何が違う? 二足歩行か? 言葉か? 文字か? 科学文明か? ――いいや違うな。死を恐れただ長生きをしたがる輩と、生存本能に従う動物のいったい何が違うというのか。富や権力を求める輩と、群れのボスになりたがる動物のどこが違うのか。突き詰めれば人の生涯しょうがいなど、動物とさしたる違いはない』


 実際『人』は哺乳類であり、数多あまたいる動物の一種類でしかない。


『だが人間は『人』と『動物』を区別したがる。ならば『人』が『人』たる所以ゆえんが必要だ。わしはな、人と動物の違いは『無価値のモノに価値を見いだせるか否か』だと信じている』


 至誠はそんな祖父の言葉が好きだった。


 貨幣かへいはただの紙にすぎない。

 硬貨こうかも宝石も、ただの物質だ。

 世界的に有名な美術品だって原材料だけを見ればゴミと大差なく、友情や愛情にいたっては現物すらない。


 しかし『人』は、それらに価値を見いだす。

 動物としてただ生きて行くには不要なものにまで、人は価値を付加ふかする。価値を見出す。


『であるならば――『人』が動物と違う所以ゆえんが『価値のないモノに価値をみいすことができるか否か』だとすれば、だ。『意味も価値のない人生』に『己自身で価値を見いだせた者』こそが『しんに人たり得る生き様』であろう』


 そんな祖父の言葉は、至誠は底なしの宇宙的恐怖を払拭ふっしょくする一家言いっかげんだ。


『人はいずれ必ず死ぬ。その運命からは誰であろうと逃れられん。なればこそ『良き人生だった』と充実を感じながら死ねる以上の幸福があろうか?』


 ――いいや、ない。


『なぜ生まれてきたかなんてのはどうでもいい。大事なのはどう生きるか、生き様だ。矜恃を忘れるなよ、至誠。己に恥ずかしくない生き方をしろ。価値ある人生だったと胸を張れるように生きろ。どれほど苦しくとも、生きている間は諦めるな。諦めず――』


「『――諦めず、最期まで足掻あがき続けろ』」


 至誠はゆっくりと目を開く。同時に全身に鳥肌とりはだが巡り、アドレナリンの分泌ぶんぴつがさらに加速する。闘争とうそう逃走とうそうか。至誠の脳は恐怖を黙殺もくさつし、心肺しんぱいを増大さえ、瞳孔どうこうは開かれ、生き残るために全てのリソースを割り振る。


 ――考えろ。今、生き残るために必要なことは何だ?


 夜空に煌々こうこうと輝く月を凝視ぎょうししながら、至誠は考える。


 ――瞬間移動のような転移をさせられたと仮定して、どこに飛ばされた?


 ――この世界が未来の地球、ないし地球と同じ形状ならば……未だ夜である以上はいきなり地球の裏側にきた訳ではない。


 もし世界の裏側にまで飛ばされているなら、時間帯が昼間でなくてはおかしい。


 ――満月も変わっていない。隣で輝いているのは、おそらく木星。この位置も変わっていない。


 そこから日時も変わっていないことが分かる。つまり、転移のタイムラグはほとんどない。


 ――月は、ほぼ南中なんちゆうだろうか?


 満月の位置は南中なんちゆうと思えるほど高い位置にある。すなわち、この場所においても時刻は0時に近いことが分かる。


 リネーシャたちとの会話が終わったのが0時ごろだった。つまり、経度はほとんど変わっていない。


 至誠は考えを整理しながら再び月を見上げる。


 月の高度は高い。

 転移前の月の位置と比べ、緯度がかなり下がったのが分かる。


 しかし前回の記憶が曖昧だ。

 どれほどの高度だったのか、南中の何分前だったのかが分からない。


 ――いや、緯度を計測けいそくするなら北極星を使うべきだ。


 そう考え、月から視線をらし、星々を注視する。


 すぐに夏の大三角である「ベガ」「アルタイル」「デネブ」を見つける。

 そしてデネブのぞくする「はくちょう座」を確認し、尾羽の方から視線をまっすぐ移し、カシオペア座を見つける。そしてカシオペア座から北極星を確認する。


 ――地平線の下に、もぐってる……?


 北極星の位置をたどっていくと、そのまま地面に潜ってしまった。


 ――ということは、現在地は南半球?


 至誠はすぐに北極星の反対に位置する「天の南極なんきよく」を探すべく視線を移した。


 ――確か南十字座みなみじゆうじざから探すんだっけ?


 だがそれらしき星座は見当たらない。北極星ならまだしも南半球に行ったことのない至誠は、自身の目で天の南極を探したことがなかった。


 ――あとは……アケルナルとカノープス?


 辛うじてエリダヌス座のアケルナルは見つけたが、カノープスはまるで見つからない。


 ――ダメだ。天の南極を見つけられない。……北極星が地平線の奥にどれくらい隠れているか、おおよそで考えるべきだろうか? 精度は悪くてもおおよその進路が分かればまだ状況は変わるはず。


 至誠は考えをまとめ始める。


 ――建物中から手を使って計測したときは概算で10度だった。今は地平線の下……カシオペア座があの位置だから、憶測でマイナス10度くらいだろうか。


 すなわち転移後には緯度が南に20度移動している。1度あたり110㎞なので、2200㎞くらいは南下した計算になる。


 さらに経度はどれほどズレているか分からない。ほとんど同じように思えるが、10度ズレるだけで1100㎞ズレることになる。


 仮に2時間程度ズレていた場合、三平方さんへいほう定理ていりを使えば元の位置からの直線距離は3966㎞になる。


 ――いや……。


 そこまで考えて、至誠はいったん考えを止める。


 ――あまりにも根拠となる数字が曖昧すぎる。仮に緯度や経度が1度違っただけでも110㎞の誤差ごさだ。


 そもそも、と至誠は悩む。


 ――僕の考えは正しいのだろうか? もし間違った提案をして誤った方へ進んでしまえば、全員を死なせることになってしまう。


 もし、他の誰かがより有効な手立てを示せるなら、余計なことを言って出しゃばらない方が良いのではないだろうか?


 そう考えているところに、ミグが『至誠!』と声をかけてくる。


「はい」

『良かった……。大丈夫? しゃべれる?』


 心配そうに呼び掛けるミグに何か緊急事態きんきゅうじたいが起こったのかと思い身構えるが、どうやら至誠の精神状態せいしんじょうたい懸念けねんしているのだと気が付いた。


 こんな状況で「生まれたことに意味がない」なんて小言を口にしていたら、そりゃあ誰だって錯乱さくらんしたと思うだろう。


 誰にも聞こえない程度のつぶやきだったはずだが、体の内に潜り込めるミグには聞こえていたようだ。


「すみません、大丈夫です。少し考えごとを――」


『君には辛い思いをさせてしまって本当にすまないと思ってる。安心してとは言い切れない状況だけど、ウチらが絶対安全なところに連れて帰る。だから、気を強く持って。希望を捨てたらダメだよ!』


 ミグが至誠を案じてくれている。

 自分たちも命の危険にさらされている真っ最中だというのに。


 至誠はそんなミグの姿勢に背中を押された気がした。


「ミグさん、いくつか確認させてください。現時点で生還せいかんできるめどが立っていますか?」


 ミグから返答までにわずかな間が忍び寄る。


 それが全てを物語っている様な気がした。


『大丈夫。必ず連れて帰るから!』


 ミグの声から、至誠を何とか励まそうという意図が伝わってきた。おそらくそれは至誠に対してだけではない。同じく不安と絶望にさいなまれているリッチェもヴァルルーツにも向けられている。


「ミグさん、確認させてください。ミグさんは僕の思考を読み取ることは可能ですか?」


『――? いや、そこまではできないよ。大まかな感情の起伏なら分かるけどね。だから至誠のメンタルが不安定に思えたけど……今は安定してるね』


 ミグは不思議そうに答える。


 おそらくそれは、宇宙的恐怖に上書きする至誠なりのメンタルリセットを試みた際のことだろう――と至誠は推察しつつ、同時に自分の考えを伝えることに会話を介する必要があると理解する。


「では口頭こうとうで――」


 と、これまで考えた情報を伝えようとした、矢先のことだった。


「――あれ?」


 思考の中に何か引っかかりを覚えた。

 大事な何かを見落としている様な、そんな違和感だ。


『……至誠? 大丈夫?』


 急に考え込む至誠に、ミグが再び声をかけてくる。

 だが至誠は考えることに集中し、無意識に「あぁ、いえ……」と生返事なまへんじだけを返す。


 ――そうだ、リネーシャさんとの会話の中で、今日が何月何日だと言っていた?


 2月9日と言っていた。


 ――この2月は、地球にいた頃の2月と同じだろうか?


 時間の概念は地球と同じだった。

 だが暦まで同じとは限らない。


 ――いや、通霊術は同じ概念の言葉をひもけしていると言っていた。なら、こちらの言葉で2月が別の単語だったとしても、僕に2月と聞こえているなら、概念としては同一となる。


 ――なら、なぜ2月の夜空に夏を代表する大三角形がまたたいているのか?


 至誠は改めて夜空を見上げる。冬の星座で、最も有名と言って過言ではない星座を探すためだ。


 ――オリオン座が、ない?


 夜空のどこにも、中心の三連星が有名なオリオン座が見当たらなかった。


 ――やはり暦がズレているということだろうか?


 至誠が覚えている天文知識の多くは、令和時代の物だ。

 もしこの世界が、そこから長い悠久の時を経た世界なら、状況が当時と同じとは限らないのは当然だろう。


 ――リネーシャさんはなんと言っていた? もし僕が暗黒時代という古代人だとすれば、数千、数万年が経過しているかもしれない、と。


「あっ!」


 至誠は一つの大きな見落としをしていることに気が付いた。


歳差さいさ運動うんどうだ」


 歳差運動とは自転している物体の回転軸が円を描くように振れる現象のことで、回っている独楽コマの勢いが落ちてきたときにグラグラと首を振る動きのことだ。


 それが地球でも起こっている。


 北極星とはすなわち、地軸がその回転軸の直線上にちょうど位置する星のことだ。


 至誠の知る現代日本での北極星はこぐま座にあるポラリスという星が北極星だった。だが歴史をたどっていくと、ずっとポラリスが北極星だったわけではない。数百、数千年と歴史を遡っていくと北極星は全く違う星だったとする記録が残っていた。


 ――ならば、もしこの世界が数千年から数万年の未来の地球であった場合、当然、北極星も変わっているはずだ。


 いや、例え異世界や並行世界であろうと同じだ。この世界が現代日本は違って然るべきだ――と、もっと早く気がつくべきだった。


「どなたか『北極星』か『南極星』と呼ばれる天体、もしくは『天の北極』『天の南極』をご存じの方はいますか!?」


 急に声を上げたことで、リッチェとヴァルルーツからの返答はない。

 至誠の問いかけに頭の処理が追いついていないのか、面食らったような表情のままだ。


『突然なにを――』


 真っ先に声を返してきたのはミグだ。


「北極星か南極星が分かれば、僕たちの向かうべき方角が分かるかもしれません」


 至誠の台詞せりふに、すがる付くような声を上げるのはリッチェだ。


「ほ、本当に? 本当に帰れるんですか!?」

「まだ分かりません。ですが、可能性はあると思います」


 至誠の言葉に、再びリッチェのひょうじょうくもる。その知識がなく、自分では役に立てない――そんな表情だ。


『悪い。ウチも天文学に関しては分からない』


 今にも歯ぎしりをしそうな口調で告げるミグの直後、テサロが口を開く。


「至誠様はあそこに見える、ひときわ明るい星が、分かりますか?」


 テサロの指差す方向へ視線を向けると、その先にはベガがあった。


「ベガですか?」


「そちらの固有名詞は分かりかねますが、三角を彩る、三つの明るい星の中で、最も高度が低い星でございます」


 それが夏の大三角を指していることを察し、至誠が「分かります」と答えると、テサロの指先はすぐに右下にあるだいだい色の星へ向けられる。


「すぐ右下に見える赤い星は見えますでしょうか」


「見えます。エルタニンって星……だったかな?」


「至誠様が言われるところの『ベガ』と『エルタニン』を結ぶ直線の、ちょうど中間地点が『天の北極』でございます」


 ――やはり、北極星の位置は現代日本の時から大きくズレている。


 そこから経過年数を調べることもできそうだが、今は生き残ることが最優先だ。

 早急に天の北極の高度を確認し、至誠は声を上げようとする。


 だがこれは言うべきか? もし間違っていたら――一瞬、再びそんな考えが脳裏をかすめる。


 しかしここで間違いを恐れ、ただ死を待つことを選択するような生き様に、価値があるだろうか?


 ――いや、ない。


「ミグさん! 今から僕の考えを伝えます!」


 至誠は覚悟を決めた。

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