第18話 2月10日0時56分

 もちろん、まったく恐怖がないかと言えば、嘘になるだろう。



 至誠は夜空を見上げていた。



 端から見れば、それはまるで目の前の化け物から目をそらしている、現実から目を背けるように見えるだろう。



 だがこの状況になってなお、ある事に気がついた。

 至誠にとってはその光景は、唯一の自分の知る光景だということに。



 吸血鬼も魔女も、魔法も不浄の地も日本にはなかった。

 そして争いに巻き込まれ、化け物に追われる。

 そんな日常は日本にはなかった。



 しかし夜空にまたたく星々は、日本で見ていた頃と相違ない。



 もともと至誠は天文に興味があった。


 宇宙が好きだった。

 だからこそ見上げた夜空が日本とさして変わらない事に、強い安堵をもたらしてくれた。


 同時に、夜空へ、宇宙へと吸い込まれそうな感覚を覚える。

 肉体から魂が解脱しそうになっているかのような、不思議な感覚だ。


 人が目の前で死ぬ。惨殺される。人の部位を持つ化け物に襲われる。

 なんと痛ましくおぞましいことか。



 だが無限に広がる宇宙の広大さは、まさしく天文学的で、それに比べて自分の存在は何とちっぽけな存在かを教えてくれる。



 ――そんな宇宙的恐怖と比較すれば、人の生死も、化け物に至ってもちっぽけな存在に過ぎない。



 それが特異な思想である事は自覚していた。

 だが現に、宇宙的恐怖は脳内に鮮明さをもたらす。


 分泌されていたアドレナリンが加速度的に増す事による生理現象だ。



 そして心身はある事に特化し始める。


 すなわち、「闘争か逃走」か。


 至誠の心肺を増大させ、瞳孔は開かれる。

 脳は恐怖を黙殺し、晴れ晴れとした脳裏に思考が冴え渡る。





 至誠は考える。


 襲撃された時――化け物怨人ではなく、魔女と呼称された者達の襲来の際だ。

 その際にも至誠は夜空を見上げた。

 それは一瞬の記憶に過ぎなかったが、アドレナリンによって最高潮に思考が巡る今は鮮明に記憶が蘇った。



 その時見つけた星々は、至誠の知識と確かに多くが符合していた。

 例えばカシオペア座だ。

 特徴的なW状の星座は、北極星であるポラリスを探すのに用いられる。


 記憶にあったカシオペア座を手繰ると、北極星は地平線近くにあり、高度は一〇度か――あっても二〇度だろう。


 北極星の高度は緯度に等しくなる。



 つまりあの時の場所は、赤道付近の北半球である事を指し示している。


 しかし襲撃時に辺りは一面雪景色だった。

 あれほどの積雪が赤道付近の地域で見られる事があるのか疑問だ。



 だが、もしも緯度の高い北国であれば、相応の高い高度に北極星がなければ辻褄が合わない。




 そして今はどうか。



 至誠が夜空を見渡すと、幸運にも雲との隙間にカシオペア座を見つけることが出来た。

 しかしカシオペア座そのものが地平線近くで辛うじて見える程度の高度だ。


 北極星に至っては地平線の下に潜り込んでいる。



 すなわち現在は南半球である事が推察される。


 天の南極を探すべく反対方向へ視線を向けた。



 しかしそれらしき星座は見当たらない。

 南十字星を直に見た事はない影響もあるだろうが、雲が散見される以上、その中に隠れていてはどうしようもない。



 それでも北の空にカシオペア座が見えている以上、大きく南下したわけではない。


 そして直上には満月が輝いている。



 同時にリネーシャの口にしていた『すでに日付も変わってしまったが――』との言葉を思い出す。


 満月で南中なんちゅうに来るとしたら二四時だ。


 移動元も先も緯度はほとんど変わらず赤道付近。

 月の位置から考えられる時間経過を鑑みて、経度もさほど変わらず。


 つまり至誠の考えが正しければ、同じ赤道付近であるはずだ。


 しかし周囲の気象環境は、明らかに雪国のそれとは乖離している。



 目の前に広がる光景は、地平線まで続く不浄の地だ。

 不浄の地とはそういう場所なのかもしれない。

 だが少なくとも、違和感を覚えた。



 ふと、こちらの世界地図を思い出し矛盾に気付く。



 元いた王国は北国ではなかったのか。


 北極星の位置から南下したことが分かるが、地図では、元いた国から南には不浄の地はなかった。不浄の地があるとすれば北側だ。


 しかし北に転移したのであれば、北極星の高度が高くなっていないと辻褄が合わず論理がかみ合わない。




 ――そもそも異世界ならば世界の仕組みが全く違う可能性だって十分あるか。




 行き詰まった思考を一度落ち着かせるように、至誠は再び天を仰いだ。



 ここが異世界であれば、月が複数あったり、巨大な月が浮いていても良いものなのに。そうすれば、もっとすんなりと異世界だと受け入れられるだろう――そんな心残りにも似た吐息を零す。



 見上げた夜空は、なんとも強い既視感を与えてくる。




 夜空で月以外にまず目を引くのは、夏の大三角形ことデネブ、アルタイル、ベガだ。

 それを基準に、はくちょう座、わし座、琴座を見て取れる。

 そして離れた所にカシオペア座、ペガスス座、ケフェウス座――。


 なんとも見慣れた星々だ。



 だが至誠の知る世界では、魔法もなければ吸血鬼も居なかった。



 やはりここは異世界で、自分の常識は通用しない――そう結論づける直前、リネーシャの言葉が脳裏を過ぎる。





『地中深くで見つかった。仮死状態で劇慟硝石――そうだな、分かりやすく表現するなら地下深くの氷層に閉じ込められている形で発見された』





『暗黒時代の住人で、悠久の時間を地下深くの氷層で眠っていたのではないか』



 リネーシャは三〇〇〇年以上生きていると言っていた。


 そしてその彼女すら記憶になく、記録に残っていないほどいにしえの世界に日本があったのかもしれない。


 それがリネーシャの提唱した暗黒時代人説だ。



 その説を前提に考えるならば、今見上げている天体は日本で見ていた天体と決定的に違う箇所がある。




 ――歳差さいさだ!!




 至誠の脳裏に電撃的なひらめきが過ぎった。

 と同時に、ミグの声が脳裏に響く。



「『至誠待ってッ!』」



 声を上げたのは至誠だった。



 ミグの声が脳裏に響き、それと同じセリフが自分の口から出る。

 それが彼女の意志によるものだと理解できたが、突然のことに一瞬驚き心臓が脈打つ。



「『君には酷な状況だろうが、狂気に飲まれないよう自分をしっかり持ってッ!!』」




 ミグは至誠の体を使って、彼を鼓舞するように声を上げた。




 至誠が怪我を負っても命をつなぎ止められるよう、経過をうかがいながら彼の体内で待機していた。


 それが陛下たるリネーシャの命令だったからだ。

 不浄の地に転移させられるという不測の事態に遭遇してからは、何とか脱する方法がないかと思案していた。


 そんな最中に感じたのは、至誠の精神の変化だ。


 流血鬼は宿主の感情を読み取る事が出来る。

 細かい思考までは分からないが、少なくとも心理状態を把握できる。



 至誠が魔女の襲撃から今までに抱いた感情は、恐怖と混乱、そして不安だ。



 その衝動を緩和する術式をミグは知っていたが、ミグが動くべきは至誠の肉体的な損傷だと考えていた。

 戦闘中に無策に鬼道を使えば、戦況を悪化させる場合がある事を理解していたためだ。

 それでも彼は時間の経過と共に少しずつ落ち着きを見せつつあった。



 しかし、ここに来て一変した。



 急速に心理状態が悪い方向へ振り切れる。

 その心理状態は恐怖だ。それが間髪入れず、急速に昂ぶり活気に溢れ始める。

 それもすぐに落胆へと変わり、かと思えば昂ぶる。


 感情の乱高下が異常だ。


 このような事例にミグは心当たりがあった。

 宿主の心が混乱を極め、壊れかけているときだ。


 そしてその先に訪れるのは、世界との拒絶だ。


 現実を受け入れられず、目をそらし、全てを拒絶する事でこれ以上心が壊れないように行う防衛本能が働いてからでは、精神に致命的な傷を残しかねない。


 だからこそ、ミグは宿主である至誠の体を使って声を上げた。


 何とか精神をつなぎ止めるために。



 そして、至誠がそのような事態に陥っているのだと、周囲に知らせるために。



「ミグさん」



 場合によっては精神作用を及ぼす術式が必要になると考えていた。


 だが至誠の語りかける口調は、落ち着き払っており、心が壊れかけているようには感じない。



「僕なら大丈夫です。それよりも、いくつか確認したいことがあります」



 何を言い出したのか、ミグには分からなかった。

 自暴自棄になったり、狂気に飲まれたりしているのかとも思った。


 しかしそのような雰囲気は、口調からも内面からも感じられない。



 ――いや、この状況下で平静でいられることそのものが、すでに狂気に飲まれた証拠かも知れない。



 そう考えたが、感情の浮き沈みはすでに収まっている。

 狂気に飲まれ壊れるわけでも、殻に閉じこもるわけでも、精神が分裂するわけでもない。


 ミグには至誠の大まかな感情、精神状況しか分からない為に、即座に判断が下せず言葉を詰まらせる。



 その間に、至誠は全員に目配りをしながら問いかける。



「皆さんに『北極星』あるいは『天の北極』という概念はありますか?」



 テサロは地上から跳躍して襲撃してきた怨人を回避する最中だったために言葉を返す余裕がない様子だ。

 ヴァルルーツは何を言っているのか理解できない様子で、リッチェは恐怖でそれどころではないらしく、誰からも答えは聞かれなかった。



「『待って至誠。今はそのような事を話し合っている場合じゃ――』」



 もしかしたらすでに狂気に飲まれ、少し前の陛下と語り合う所まで記憶が巻き戻り、状況が上手く認識出来ないのかも知れない――ミグはそんな仮説を立てて声を上げるが、至誠の次の言葉で遮られる。



「それが分かれば、今いるの場所が特定できるかもしれません。そうすれば、どちらへどれほど向かえばいいかも分かると思うんです」

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