第二〇話

「リッチェ――それでもやはり、今のあなたの実力ではこれだけの並列処理が厳しいのも事実です。せめて、一人は降りる必要があるでしょう」


「でっ、でも――」



 思っていたよりも遙かにオドの浸食が早い――ミグはテサロの顔の一部が黒くくすんでいる事に声を上げる。



『リッチェ!! 飛翔を交代して!! テサロはすぐに治療を――』



 しかし、テサロは襲来する怨人を片手間で避けながら、首をゆっくりと横に振り否定する。



「すでに体内は手に負えないほど、オドに浸食されております。すでにマナの生成が出来ない程に、です」



 本来テサロほどの実力者であればそう易々と汚染が進行したりしない。

 オドを分解しマナを生成する速度が極めて早く、必要以上に暴露ばくろしないように周囲のオドに干渉できる為だ。

 常に適量のオドを取り込みマナに変換する。特に大がかりな術式を用いる際には、併用してオドを取り込み量を増やし、分解を加速させマナを補充できる。


 だがその干渉が裏目に出た。


 直前まで使用していた霊術は莫大なマナとエスを消費する。それを補うために、多量のオドを吸収分解する態勢のまま不浄の地に飛ばされたことにより、過剰に暴露ばくろしてしまった。

 加えて、リッチェとヴァルルーツ、そして至誠が大量被曝しないよう、その一身で肩代わりしていたのも大きい。


 前者はテサロ自身がすぐに、後者はミグの説得で関連する術式を破棄させたが、遅かったのだと痛感する。



「そ……そんな……。でも……」



 リッチェは否定の言葉を必死に紡ごうとした。

 しかし不浄の地と怨人がもたらす狂気、加えて唯一の肉親を失う恐怖と相まって言語を上手くまとめられない。


 代わりに声を上げるのはミグだ。



『ダメだ!! 自己犠牲は認められない!!』


「このままでは意識も、そう長くは持たないでしょう。これではただの足手まといでしかありません。全員死ぬか、一人が死ぬか、です」



 テサロは耄碌もうろくとした瞳をしているが、その表情はこの先の結末をすでに受け入れようとしていた。


 リッチェは止めようとした。誰であれ自ら命を投げ捨てる事などあって欲しくない。それが尊敬する師であり親であるならば尚更だ。



 ――だが、言葉が出てこない。



 テサロ・リドレナという英傑はたぐいまれなる才覚と、屈強な意思を併せ持ち、これまでどれほど困難な環境においても結果を残してきた。


 それがリッチェの知る師の姿だ。


 だがそんな師が、自ら出した結論と結末、それを受け入れる覚悟を示している。



 ――止めたいのに。何としても引き留めたいのに、説得できる言葉が見つからない。




「それはなりません!!!」



 リッチェのうろたえる合間に大声を上げたのはヴァルルーツだった。


 ヴァルルーツはこの場において無力だったが、誇りがある。

 狼魔人としての誇り。王族である事の誇り。男であることの誇り。

 その矜恃は、王国を、民を、婦女子を守る為にあるのだと確信していた。


 そして今、目の前で自己犠牲すらいとわない淑女が、その身を捧げようとしている。そのような状況下で、ヴァルルーツは黙ってみていることなど出来なかった。



「誰かが降りるべきなら、私が降りるべきだッ!!! 足手間というのならば、私こそがその汚名に相応しいッ!!!」



 ヴァルルーツがリネーシャ達に謁見えっけんしたのは王国を守る為だ。

 そしてその言質はすでに取ってある。ならばすでに役目は終えているともいえる。


 だが、ここで自分の命可愛さに黙っていると言う事は、皇国への恩を仇で報ずる事だ。そんな腑抜けた王族の国など、誰が助けてくれるというのか。


 それに、皇帝陛下へ嘆願たんがんに際し自らの命すら差し出す気概で謁見した。



 ――覚悟なら出来ている。



「いけませんよ王子。賓客たる者が、それも王族がそのような――」



 優しく諭す様に告げるテサロだが、ヴァルルーツは言葉を遮り反論する。



「それは違います! 我が王国にて迎え入れた以上、あなた方が国賓であり賓客なのです! ならば、真っ先に降りるべきは私なのです!!」



 そこに反論の余地はない。

 テサロは間違いなくヴァルシウル王国に招かれた皇国民の一人なのだから。


 故にテサロは別の理由を挙げる。



「それでも、王子はまだ余力を残しておられる。必ずその力が必要になるときが来るでしょう」


「自分にできる事など、それこそあなたの身代わりとなる事くらいしかないのです!」


わたくしはもう、手遅れです。故に――」



 何を言ってもその意思に変わりはない――そう訴えるように語るテサロの言葉を、今後はミグが遮る。



『そんな事はない!』



 テサロの論弁は『自分が手遅れだ』という前提だ。そこが崩れれば、反論の余地はなくなる――そうミグは訴えかける。



『まだ間に合う。今治療すれば!』


「自分の体のことは、自分が一番よく分かっております」



 未だ断続的に来襲する怨人を悠々と避けてはみせるが、確かにその挙動に鈍重さが増してきている。



『いや分かってないね! 末席とはいえ陛下の眷属の一人として、治せると言ってるんだ!』



 それでもまだ今なら助けられるとミグは確信していた。



「しかし真なる問題は『不浄の地を踏破出来るかどうか』その達成率です。何事においても一〇〇%はあり得ませんが、わずかでも、一欠片でも可能性を上げるべきです。優先すべきは、殿なのですから」



 テサロの弁を覆すには達成率を向上させるための代案の提示が好ましい。

 だが今のミグにそのような案はない。


 そのうえミグがテサロの治療に当たると言うことは、その分至誠をはじめ、周囲に危険が増すと言う事だ。



「ミグ。あなたは至誠殿のお側にいるべきなのです。皇国に私の代わりはいても、日本人は唯一なのですから」



 テサロの言葉は嘘ではない。


 真情を吐露するならば「リッチェとミグにも生きて帰って欲しいから」と口にすべきだろう。

 そうしないのは、自分が身代わりになると言い出しかねないと知っているからだ。

 特に愛娘であるリッチェにそのような事は考えて欲しくなかった。親のために子が犠牲になるなど、断じてあってはならないのだと考えていた。



『ダメだ。許容できない』



 それでもなお引かないミグに、テサロは語りかける。



「私が生にしがみつく事はそれだけ危険を抱えると言うことです。親のわがままで、無為に子が危殆きたいに瀕する事は忌むべき事です」



 これまでのテサロの言葉は本心ではない。嘘はついていないが、正論によって本心を煙に巻こうとしている。しかし今の言葉は本心だと、ミグは感じていた。


 リッチェの事は生まれたときから知っていた。

 妹のように感じていたし、テサロのことは母親のように慕っていた。


 そしてなにより、リッチェが生まれる前のテサロの苦辛を知っていた。



『ああ分かるさ。いつか子は親を超えていく。けど屍を踏み越えさせるのは今日じゃない!』



 ミグに親しい者を切り捨てる判断が出来ない事を、テサロもまた知っていた。


 しかし、だからこそ、それまで平静だったテサロが声を荒らげる。



「あなたには分かるはずですッ!! 親よりも先に子が死ぬなど、あってはならない!! 手遅れになってからでは遅いんです!!!」



『だから手遅れになる前に治療をするんだ!!!』




 呼応する様にミグも叫び返す。




 リッチェは止めたかった。口論も、テサロの行動も。

 しかし、その言い交わす言葉に割って入る事が出来ず、考えのまとまらない感情が頭に止めどなく溢れる。


 ――自分で自分の感情を制御できない。


 脳裏は混乱を極め、狂気と悲嘆の入り交じった涙がこぼれ落ちる。

 咽ぶ事もなく、啜り上げる事もなく、ただただ悲涙が頬を伝う。


 その様子に、テサロとミグの言葉が遮られた。



 テサロは表情を綻ばせながらリッチェを柔らかく引き寄せ、腕で優しく包み込む。



「これからあなたは皆を牽引けんいんするのです。涙で瞳を曇らせてはなりません」


「――でっ……でも――」



 テサロの手はすでに黒く変色を始め、冷たくなりつつあった。

 それがリッチェの顔に触れた瞬間、感情が決壊したかのように泣きじゃくる。




 ミグは何と説得すべきか悩んでいると、口元を手で覆い隠した至誠が小声で話しかけてきた。

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