[2]虚虚実実の駆け引き
音も衝撃も弱まり、至誠は恐る恐る目を開ける。
まぶしさは消え失せ、パラパラと小石がすれるような音だけが聞こえていた。
周囲に視線を向けると、まるで廃城のような見るも無惨な光景へと変わっていた。天井は消滅し、壁の大部分は崩落し、衝撃波で舞い上がった雪がユラユラと地上へ戻りつつある。
迎賓室をはじめとした建物全体は見るも無惨に崩落しているが、変化のない場所もあった。至誠が座っていると円卓の周囲だ。机の上に飲み物が零れた程度の影響しか受けていない。
見上げると透き通るような夜空が広がり、月と木星が並んでいる。
遠景には
至誠は魔法や鬼道というこの世界特有の技術について恐ろしく考えていた。しかし周囲の光景に目を向けると、そのイメージが甘かったと痛感する。
決して小さくはない屋敷が一瞬で消し飛んでしまった。
テサロが守ってくれたようだが、そうでなければ至誠の肉体が跡形も残っていないであろうことは明白だ。
そう、至誠が周囲の状況から状況の理解に努めていると、視覚の端に謎の黒い固まりをとらえた。
それは黒い布、いや、服で、そこから足のような靴のような部位が見え、腕のような手のような部分が見え、そして床はゆっくりと赤黒い液体が床を侵食している。
倒れているのは三人。二人は顔が無く、そこらから血が噴水の様に止めどなくあふれ、死体となったばかりなのだと主張する。残りの一人は頭部があるが、背中に大穴が空いている様子で、こちらも尋常じゃない量の出血が起こっている。
しかし、まだ命はある。その腕が、指先がなんとか
至誠の脳は、異様に不快感を覚える音だけが理解できた。
潰される音だ。
何かが潰れた音だ。
そしてそれは至誠も目にしていたはずだった。
リネーシャは
その頭部は豆腐のように潰れ、
――なんだ、これ……?
至誠の脳は、とっさにその状況を認識できなかった。
聴覚は確かに異質な圧縮音を聞いた。嗅覚は、理解できない臭いを訴えていた。視界は床に広がる赤く濁った液体が血液である事を認識し始めた。散らばった肉片と脳髄が理解し始めた。
そして。潰れた頭部が人の形をしている事を認識した。至誠の意識が、理性が、頭脳がそれを、狂気を、凄惨を、現実を理解し認識してしまう。
映画やサスペンスドラマはでの殺人シーンを見たことがある。映画の内容によっては流血シーンが鮮明に描かれている場合もある。
だが、現実はその比では無い。
頭部からは想像できるよりもはるかに多量の血液が噴出し、店で売っている精肉とはまるで違う肉片が
至誠は体から力が抜けていくのが分かった。
体が、
だが、それをかき消したのは止めどなくあふれてくるむかつき――いや吐き気だ。
「魔女……いや、違うな。
そんな至誠の心境を知らず、リネーシャは
一方でエルミリディナはリネーシャとは対照的で、この状況を楽しんでいる口振りすら見せている。
「何を仕込んでるのかと思ったら、
だが彼女の口にした単語の意味も、彼女の感性に触れる余裕はなかった。先ほどまで食べていた食事は喉元を通り、口から吐き出される。至誠はただただ、その苦しみに耐えるのが関の山だった。
*
「こ、これは――」
至誠の
ヴァルルーツは魔女の脅威、その
だが、その魔女をあっさりと返り討ちにしたレスティア皇国皇帝、リネーシャ・シベリシスの強さに、歓喜や興奮を通り越し、恐怖すら覚える。いや、この感情は
魔女は
それがヴァルルーツの持つ認識だ。
単身ですら強い魔女が徒党を組み、軍を形成し、国家を成す。さらに宗教によって強い忠誠心が後押しし、計り知れない軍事力を誇る。それが世界の三大列強国の一角まで上り詰めたマシリティ帝国だ。
そして実際、マシリティ帝国の魔女は
だがその魔女を、魔女で構成される暗殺部隊を、その奇襲を、あっさりと退けた。
これが三大列強国の一角にして軍事力世界1位の
リネーシャ・シベリシス。
戦慄では言い表せない程、ヴァルルーツは総毛立つ。そんなヴァルルーツに言い聞かせるように「さて――」とリネーシャは再び口を開く。
直後ヴァルルーツはそれまでの感情が霧散し、ただひたすら息をのんだ。次の彼女の言葉一つが王国の命運が左右する――それを理解したためだ。
「『レスティア皇国皇帝および皇女の暗殺未遂』とは、ずいぶんと気前のいい大義名分を
「――ッ! で、では――」
リネーシャの口調はすでに
「貴国は新たに発見した
「じゃ、私もそういう
皇帝に続き皇女の
――これでヴァルシウル王国は救える。
ヴァルルーツの内心には万感の思いが広がる。
――それでも、これで亡国となることは回避できるだろう。
「ヴァルルーツ王子ぃ」
「は、はっ!」
気の抜けかけていたヴァルルーツをエルミリディナが呼びかける。
慌てて返事をしつつ、表情を引き締める。
まだレスティア皇国の助力を受けられる言質を取っただけだ。今この瞬間にも民は
――戦争が終わるまでは気を抜いては駄目だ。
それに、今回の件はレスティア皇国に対する大きな貸しとなる。その清算も、王族たる自分の役目だ。そうヴァルルーツは自身に言い聞かせた。
「至誠の側に居なさい」
その言葉で、至誠と呼ばれた彼が地下で発見された青年であることに気付いた。
ヴァルルーツは皇太子という立場から、人型
だが王子は研究者ではない。故に人型
加えて切迫した心理も相まって、ようやく
――
今なおむせ込み胃液を逆流させているこの青年がどのような価値を持っているかヴァルルーツには分からない。だが彼の周りを固める従者の厳重さを見れば、その重要さが
それらを理解すると同時に、ヴァルルーツは彼の元に駆け寄った。
――本格的な戦闘が始まってしまえば、今の自分にできることは……悔しいが、何もないだろう。
今できることがあるとすれば、
*
エルミリディナは崩落した壁の一点を見つめながら横へ数歩移動する。視線の先と至誠の間に自身を割り込ませ、妖艶な音色で語りかける。
「私はレスティア皇国第一皇女、エルミリディナ・レスティアよ。無節操なあなたたちはいったい誰かしらぁ?」
――誰も居ない。
少なくともヴァルルーツには、何者の気配も感じなかった。
だが直後、むくりと黒い塊が起き上がる。全身を黒いローブで覆い、深々と被ったフードの奥には、人間の頭蓋骨を模した仮面が見える。
「これはこれはご丁寧に皇女サマ――」
全身で辞儀を見せる魔女の声は
「であるならば、そちらは……かの皇帝リネーシャ・シベリシスですかネェ?」
全部知っているが――とでも言いたげな優越的で意地の悪い口調を、一切隠そうとしていない。
「これほどの
強い語勢でリネーシャが警告すると、老婆は
「マシリティ帝国でございますかァ? 知りませんなァ。我々は単なる
老婆はさも当然のようにマシリティ帝国との関連を否定する。
「戦争においてはまず頭を潰すのは定石でございますのでェ、ヴァルシウル王国の第一王子を追ってきただけでございますネェ。それがまさかこのような地にかの
これはあくまで
当然、それは建前と
自分がマシリティ帝国の手の者であるというなら証拠をだせ――と言わんばかりに悠々と周囲を見下ろす老婆は、ある人物で視線を止める。
「……おんやァ?」
喜悦の声を上げ、間髪入れず声高々に問いかける。
「これはこれは、まさかまさかッ!
老婆の投げかける先にはテサロがいた。だがテサロは言葉はおろか反応一つ表さない。ただひたすらに周囲を警戒している。
「いえいえいえ、間違えようがありません!! まさか、かのマシリティ帝国における伝説の
老婆は
「アァ……まさかこれほどの幸運に恵まれるとは!
魔女の優越感に浸るような
「素晴らしいのあなたの頭の中ね。少なくとも4つ、間違っているわ」
代わりに、エルミリディナが水を差すように舌戦を仕掛ける。
「まず――」
エルミリディナも魔女に負けず劣らずの余裕をにじませ口を開く。
が、その瞬間、リネーシャに倒されたはずの魔女の遺骸が一気に動き出す。
リネーシャの足首を、脚を、三人がかりで
それによってリネーシャの移動が制限されたとみて、四方に身を隠していた魔女がその姿をあらわにし、
巨大な魔法陣がリネーシャたちの足下に展開される。
と同時に、ヴァルルーツはその影響で足腰に力が入らずバランスを崩す。とっさに手をついたが、その瞬間に腕に力が入らなくなった。
――まずいッ! なんの魔法だこれはッ!?
ヴァルルーツの脳裏で叫ぶが、それも一瞬のことで、すぐに体の自由は戻ってきた。
魔女による未知の魔法攻撃を受け、レスティア皇国の誰かがそれを打ち消した――とヴァルルーツは想像力で補完するが、それ以上のことは分からなかった。
戦いのレベルが高すぎる――そう、ヴァルルーツは悪寒が走る自分を抑えていた。
その間にリネーシャはまとわりつく遺骸を振りほどき――いや、壁沿いまで吹き飛ばし、そして遺骸は動かなくなった。
その状況下でもエルミリディナは一歩も動かなかった。ただひたすらに会話で気を引いた魔女を注視している。
「会話で気を引き奇襲とは、ずいぶんと古典的な戦法だな」
四方の魔女は魔法陣を放棄すると、会話で気を引いていた魔女の元へ参集する。
「まァ、そのくらいできなければ、かの皇帝の偽物は務まりませんネェ。
老婆の魔女は重ねて嘲り
「
リネーシャのそんな挑発に魔女は笑みを押し殺すように肩を揺らす。
「ええ、ええ。
その言葉に呼応するように、隣の魔女の一人が
テサロがその攻撃にあわせて手のひらを向けると、その魔法の攻撃は見えない防壁に阻まれ光を拡散しながら四散した。
だがその瞬間を狙い二人の魔女が左右へ回り込むと、杖を振りかぶる。二つの杖は互いに共鳴を起こすように火花を散らすと、振り抜いたタイミングで双方の杖から雷撃が飛来する。
常人であれば一瞬にして消し炭になってもおかしくない程の雷撃だ。その攻撃先はリネーシャでもエルミリディナでもない。
ヴァルルーツと、そして至誠だ。
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