[2]緯度の計測

 リネーシャの笑みも一瞬のことで、彼女は「さて――」と寝台しんだいから降りると別の人物に声をかける。


「テサロ、現時点での所見しょけんはどうだ?」


 テサロと呼ばれた人物は至誠の左手にいることが分かる。

 だが視界の外にいるためにその姿は見てとれない。


「今のところ報告すべき事象じしょうかんそくされておりません。治療の方もじゆん調ちようで、施術せじゅつ完了まで残り3分ほどを見込んでおります」


 テサロは年老いたおばあちゃんといった声質せいしつで、おだやかで物腰ものごしやわらかい口調だ。


「ではそのまま継続けいぞくせよ。ミグの方はどうだ?」

『こっちも問題ないっすね。こっちもあと5分くらいで終わるかと』


 少女はさらにミグという別人に声をかける。

 それは明瞭めいりょうで若くかっぱつそうな女性の声だったが、不思議とどこから聞こえているかが分からなかった。


消化器官しょうかきかんあいはどうだ?」

『今のところ全て正常っすね。念のために軽めのものから試してみて下さい』


 リネーシャは相づちだけを返し、さらに別の人物に言葉を向ける。


「スワヴェルディ、観測かんそくに問題がなければ食事のたくうつれ」

かしこまりました」


 スワヴェルディと呼ばれた人物は若い男性の声をしている。

 部屋にいるのはそれで全員らしく、リネーシャは「では青年――」と再び至誠に顔を近づけひとつの提案ていあんを口にする。


「君の置かれた状況や事情じじようについては我々も分かっていないが、何よりまずは治療が最優先だ。そして次に腹ごしらえをませよう。状況の整理とこうさつはそれからだ」


 リネーシャは一方的にそれだけ告げると、至誠の反応を確認することなく視界の外へと移動していった。


「私はあちら側を見てくる。テサロは治療を次第しだい迎賓室げいひんしつまで案内してやれ」

うけたまわりました」


 2人か3人か――その足音は、扉の開閉音の後にフェードアウトしていった。


 至誠にはまるで状況が分からなかった。

 状況を整理し理解しようと試みるが、相変わらず「分からない」以外の結論は出てこなかった。



 そのまま何の進展もなく数分が経過する。



 すると彼女らの言ったとおり、これまでがうそのように体の自由が戻ってきた。


 至誠はおそるおそる上体を起こし、素手で体に触れてみる。痛みや違和感いわかんはない。少しばかり倦怠感けんたいかんいだくが、しばらく寝込んでいたとすればうなずける程度ていどのものだ。


 むしろ気になるのは服装だ。

 服は黒いハイネックインナーのようで、幾何学模様きかがくもようのような白い図柄ずがらがびっしりと描かれ、肌触りはサラサラとしている。着心地きごこちはとてもいい。


 ただ、体格が分かるくらいぴっちりとしており、スポーツ選手やボディービルダーのように鍛え抜かれた体格をしていればさまになるだろうが、きゃしゃな体格の自分には似合わないな――と至誠は感じた。


 ズボンはややかためのを使っているが形状は至誠の通っていた高校の学生服に似ている気がする。ただこちらにも白い図柄が多く入っている。


 それらの服に心当たりはないが、考えたところで答えが出る気がしなかったので、今は先に周囲の状況を確認すべく見渡した。


 部屋模様は質素しっそだ。

 中心には今まで至誠が横になっていたベッド――というよりも手術台のようなだいがある。

 ドラマなどで見る手術台と違うのは、こつで医療器具らしきものがまったくないことだ。ぱっと見ではだいせきのような質感に見えるが、触れると少しだけ弾力があり見かけほどかたくはなかった。


 かべ沿いの一角にはたなや長机が並んでいる。机の上には書物しょもつようの分からない品物が並び、棚には薬品らしき容器が並んでいる。そこだけを見ればどこかの研究室だろうかとほう彿ふつとさせるが、部屋の中ではかなり浮いている。


 なにせ壁や天井に目を向けると、ここが建造物ではなく自然物の中にいる印象を受けるからだ。

 まるで洞穴ほらあな洞窟どうくつをそのまま部屋として使っているようだ。ゆか水平すいへい研磨けんまされているが、壁や天井は自然がそのまま残っているような無骨ぶこつさだ。


 そして天井には、至誠の知る照明器具はない。

 天井には天にまたたく星々のような小さな光源が無数にあって、それが唯一、部屋の中を照らす。


 全体的にやや薄暗く感じるが、決して光量が足りていないわけではない。

 例えば、隣にいる老年女性の表情が見てとれるくらいには明るい。至誠はその女性がテサロと呼ばれていた人物であることを理解する。


 彼女はこちらが落ち着くのを待ってくれているかのようなほがらかな表情をしている。


「あ、あの……。ええっと……」


 至誠は口を開くが、言葉が続かない。分からないこと、聞きたいことが多すぎて、どこから問いかけていいのか考えがまとまらなかったからだ。


「ゆっくりで大丈夫ですよ」


 そんな様子にテサロ優しそうな笑みを浮かべ、柔和にゅうわでおしとやかに語る。


 テサロの第一印象にけんかんはない。

 しかし彼女はそれ以上言葉を続けず、至誠が口を開くのを待っている様子だ。


 テサロの容姿ようしは声の印象通り年老いた女性だ。

 顔立ちは丸みをびており、やや緑がかった黒髪はウェーブがかっている。

 ぱっと見の身長は170㎝くらいで、174㎝の至誠よりもわずかに低いくらいだ。


 長いローブを身にまとって立っていて、顔立ちからは70から80歳ほどの老人に見えるが、その立ち姿からは老いは感じさせない。

 表情にせいが感じられ、背筋がしっかりと伸び、その仕草に若々しさがあるからだろう。


 だが何より目を引くのは、その手に持つつえだ。

 杖と言っても足腰の悪い老人がもちいる杖とはまるで違う。

 例えるならば漫画やゲームで出てくるような魔法の杖。それも仰々しい装飾そうしょくほどこされ、たけほどにもなる巨大な杖――それをテサロは手にしていた。


 その杖が何なのか気になるところだが、先に聞いておきたい疑問は無数にある。


 その中からなんとかひとつを選び、至誠は口を開いた。


「えっと……ここはいったい、どこでしょうか?」

「ヴァルシウル王国北方に位置するこうざんザミエラフの近く。あるいはザマーゾエロギ山脈のふもと――と言って伝わりますでしょうか?」


 現状は何が何だか分からない。けれど現在地くらいは分かるだろう。彼女たちの容姿から欧米おうべいだろうか――などと心のどこかで思っていた。そんな至誠の希望をくだくように、全く聞いたことのないゆうめいが聞こえてきた。ヴァルシウル王国などという国家は、至誠の知る地学知識には全くない。


「心当たりがないようでございますね」


 至誠が言葉をきゅうする様子で察したのか、テサロは優しく語りかけながら歩み寄ってくる。


「は……はい。はじめて聞きました」


 現状でゆいいつはっきりしていることは、今はテサロとつうができていることだ。

 少なくとも日本語は通じているし、相手は至誠と会話する用意がある。


 至誠にはその何とか王国がどこかは分からない。もし本当にここが日本ではないのだとすれば、不法入国ふほうにゅうこくうたがわれていてもおかしくない。だが今のところ責め立てられたり尋問じんもんを受けたり、聞く耳を持ってもらえないじょうきょうではない。


 ――落ち着け。


 至誠は再三自分に言い聞かせる。


 確かに現状では何が何だか分からない。

 しかし、さしあたって目の前に危険らしい危険はない。


 もし彼女らが何らかのがいしゃであれば違った感情も浮かぶだろう。

 だが今のところ何も証拠しょうこはなく、自身の不安をかき消すためにだれかれかまわず闇雲やみくも嫌疑けんぎをかければ自分の立場を危うくするだけなのは想像にかたくない。


 そう、ろんてきこうで感情をせいしていると、自然と視線が落ちる。


 その様子を見て、テサロの方から「聞きたいこと、気になることはあるでしょうが――」とていあんを切り出す。


「それらの疑問は、今は後に回しましょう。我々としてもあなたがなぜ地下深くにいたのか、ゆうえきな情報は持ち合わせておりません」

「……。……そう、なんですね。……そうでしたね」


 リネーシャという少女も同じようなことを言っていたと思い出し相づちを返す。


「私はテサロ・リドレナと申します。主に医療研究いりょうけんきゅうたずさわっており、ここヴァルシウル王国ではなく、レスティアこうこくより派遣はけんされております」


 ヴァルシウル王国に加え、レスティア皇国――いずれも至誠には聞き覚えのない国名だ。


 だが彼女の言うとおり、その疑問はいったん脇に置いておく。

 その点だけを深く追求しり下げたところで疑問ぎもんは減るどころか、むしろ増えそうな気がするからだ。


 そして相手に与える印象というのは最初の段階で固まってしまう。本当の意味で第一印象というのはコンマ何秒で決まってしまうらしいが、挽回ばんかいするならば早いにしたことはない。

 なら優先すべきはれいせいせいてきにコミュニケーションをとることだろう。

 えんかつな言葉のやり取りをて今後へとつなげることが、結果として自分の置かれている状況を理解する近道に繋がる――と至誠は結論づける。


「……分かりました……えっと、リドレナさん。助けていただいたみたいでありがとうございます。僕は、せいと言います」


 向こうが名乗ったのにこちらは名乗らないのでは印象が悪いだろう――と至誠は名乗る。

 彼女の名前のどちらが苗字みょうじでどちらがじんめいなのか分からないが、欧米おうべいと同様であれば苗字は後ろに付くだろうと予測し、助けてもらったようなのでその感謝もえておく。


「カガラシセイ様ですね。かしこまりました。――不躾ぶしつけな確認で申し訳ないのですが、家名の文化はございますでしょうか?」

「加々良が家名です」

「それではシセイ様――と呼ばせていただいてもよろしいでしょうか?」

「? はい、大丈夫です」


 苗字みょうじで呼ばないことに抱いた疑問は顔に出ていたらしく、すぐにその理由を説明してくれる。


「レスティア皇国においては、初対面の方であっても家名で呼ぶことは稀です。この辺りの習慣しゅうかんは国によって変わってきますのでシセイ様が無理に合わせる必要はございませんが、もしよろしければ私のことも家名のリドレナではなく『テサロ』とお呼びいただけますと幸いです」


 至誠からみたらめずらしいと思えるぶんだが、初対面の相手をいきなりしたの名前で呼ぶのは馴れ馴れしいと思うのは日本人としての感性だ。


 そして「ごうに入っては郷にしたがう」というのが日本の文化で、ここがゆずれないいっせんでもなし、今はそれでいい気がした。


「分かりました。テサロさん――ですね」


 なので至誠はその言葉に甘え、呼び方を合わせる。


 だがのうには当然のように疑問が残る。


 ――初対面の相手でも下の名前で呼ぶ文化の国がどれほどあるのだろうか?


 至誠から見て、テサロやリネーシャは白人に見える。白人であれば欧米に多いだろう。リネーシャに至っては、北欧やロシア系と言った方が正確かもしれない。


 ――そもそも欧米やその近辺に「ヴァルシウル王国」や「レスティア皇国」という国があった記憶はない。


 だがその記憶を「判断の基準」にするべきかは悩ましい。なにせ高校2年生の途中までの記憶しかなく、そこから先が思い出せない。それがエピソード記憶だけなのか判断するのは早計だろう。


 ――それに何か……。何か、重大なことを忘れている気がする。


「――様。シセイ様。どこか具合が悪いでしょうか?」


 ハッと考えにふけっていた意識が現実に戻ってくる。考えるのは後に回そうと思っていたのに、意識して思考を止めないと自然と考え込んでしまう。

 それもどんどんと悪い方向におちいってしまい、不安と焦燥しょうそうだけが累積るいせきしていく。


「す、すみません、ちょっと考え込んでしまって――」


 ようだいの悪化ではないと告げると、テサロは安心したようにほがらかな笑みを取り戻す。


「シセイ様の置かれた状況をかんがみればいたかたのないことと思います。我々としては取り乱すこともそうていしていましたので、こうやって冷静に受け答えできることを喜ばしく思っております」

「もしかしたら取り乱した方が……気が楽だったかもしれませんね」


 できるだけ冗談じょうだんだと分かるように苦笑を浮かべて至誠は返すが、少し自虐的じぎゃくてきすぎたかな――と思い至ったのは、それを口にした後だった。


むよりもはつさんした方が良い場合もございます。ですがそれは一時の気休め、痛み止めでしかありません。すぐにより大きな不安と焦燥しょうそうにかきたてられ、より気がるでしょう」


 テサロはまるで自分にも経験があるかのように共感を示す。


 ――テサロさんは医療関係者だと言っていたし、すでにカウンセリングが始まっているのかもしれない。

 と至誠が理解していると、彼女は「大事なのは元凶に対してどうアプローチするかです」と言葉を続ける。


「まずはお互いの知り得ている情報を出し合い、『現状の把握はあく』と『原因の究明』、そして『今後の方針』について決めたいと考えております。それがシセイ様の不安を払拭する第一歩となりえると考えますが、いかがでしょうか?」


 としこうか、こちらの意図や感情をくみ取りさいてきていあんをしてくれている――と至誠は感じた。


「そう、ですね。そうしてもらえると、とても助かります」


 至誠は力なくも笑顔で返すと、まるごと包み込むようなおしとやかで優美ゆうびほほみ浮かべてテサロはうなずく。


「ではそのように話し合いの場をもうけましょう。ですがまずは、お食事にいたしとうございます。空腹のままでは思考がにぶり、せまくなり、どうしても悪いいちめんばかりが目についてしまうものです。レスティア皇国において『空腹と睡眠不足はいい仕事の天敵てんてき』という国是こくぜがございまして、私もこの年になってもよくそれでしかられます」


 テサロは子供のように無邪気むじゃきな笑みをこぼす。そこには至誠から少しでも不安を取りのぞこうとする配慮はいりょが感じ取れた。


「確かにそうですね。――では、お言葉に甘えさせていただきます」


 テサロの提案ていあんがあると感じた至誠は破顔はがんしつつ、そのこうを受け取ることにした。


「それでは立ってみていただいてもよろしいでしょうか? 歩行に問題がないようでしたら、迎賓室げいひんしつの方へご案内致します」


 ベッドから足をおろし立ち上がる。ひんやりとした冷たさが素足すあしに伝わるが、気になるほどではなかった。


 少し歩いてみたりして体に違和感がないことを確認すると、テサロが部屋のたなから服を取り出して持ってくる。


「シセイ様の服ですが、発見時にずいぶんとそんしようしておりましたのでこちらでえを用意しております」


 先ほどまで寝ていたベッドに、上着やマフラーらしきもの、くつしたくつが並べられる。色は黒で、ボタンが多いあつの服のようだ。


「ありがとうございます。こちらもしていただいてるんですよね?」


 至誠がすでに着ている黒いはだに触れながら問いかけると、テサロはこうていする。


「はい。もし肌に合わないようでしたら遠慮えんりよなくおつしやってくださいませ」


「いえ。むしろ心地ここちいいくらいです。ありがとうございます」


 至誠が笑顔で返すと、テサロは少しだけあんしたような表情をぜる。


「それはようございました。室内は適温に保たれていますが、外は雪が積もるほどに冷え込んでいます。少し厚着するくらいがちょうどよろしいですよ」


 至誠は「そうなんですね。わかりました」と肯定こうていする。


 ――雪が降るってことは季節は冬なのかな?


 などと考えつつ肌着の上から服を着ると、テサロがついてくるようにうながしてくる。


「それでは迎賓室げいひんしつの方へご案内致します」

「はい。よろしくお願いします」


 立ち上がりしばらく周囲を歩いてみたが特にこれといった問題はなく、至誠はテサロにうながされるままに部屋を出た。





 至誠はテサロの後を追う。


 テサロが金属製のじゆうこうな扉を引くと上に続く長い階段が現れた。ここも先ほどの室内と同様に自然のどうくつをそのままかつようし、階段状に加工しただけのように見えた。


 階段は一階から三階に相当そうとうする段数があったが、決して長いわけではない。少なくとも至誠のような若者にとってはさほど苦ではない段数のはずだった。


 しかし、階段のなかごろを過ぎると息が切れ始める。


「お体の方は大丈夫ですか?」


 思わず壁に手をつく至誠を見て、テサロは足を止めて心配そうに問いかける。


「あ、いえ。……ちょっと、息が上がってみたいで。……すみません」

「お気になさらず。シセイ様の治療にはひと月ほどかかりましたので、筋肉がおとろえたのでしょう。無理のないペースで大丈夫ですよ」


 ただでさえ運動神経は平均以下なのに――と、リハビリの必要性を感じつつ、しばらく息を整えてから「大丈夫そうです」と告げ、再び階段を上る。


 階段を上りきると廊下ろうかに出た。


 外が寒いと聞いていたが、廊下は暑くもなく寒くもない。室温と湿度しつど最適さいてきに保たれているようで、むしろここいいくらいだ。


 テサロが待ってくれるので息を整えつつ、その間に周囲を見渡してみる。


 周囲は先ほどまでの自然を活用したような作りとはまるで違う。


 至誠は建築に関して詳しくないのでうまく例えられなかったが、足元には深紅しんく絨毯じゅうたんがひかれ、やや高い天井にはごうなシャンデリアらしき照明が等間隔とうかんかくで並び、柱は細かく装飾そうしょくり込まれ、窓を隠すように並ぶカーテンも細かい刺繍ししゅうからは高級さをひしひしと感じられた。


 窓と反対側の壁にはエンブレムのようなデザインがほどこされたタペストリーがかざられている。


 げいひんしつはすぐそこだとテサロに教えてもらい歩き始めると、確かに1分と歩かず目的の部屋へとたどり付いた。


「私は他の方々かたがたんでまいりますゆえ、席についてくつろいでいて下さいませ。すぐにスワヴェルディという執事しつじが来ると思います。ご入り用の際はその者にお申し付けください」

「はい。ありがとうございます」


 テサロを見送り扉が閉まると、辺りは静寂せいじゃくに包まれた。



 至誠は改めて周囲を見渡す。


 部屋の中心には純白じゅんぱくの石材でできた円卓えんたく鎮座ちんざしている。20人は座れそうな椅子が囲っていて、いずれもりそうな装飾そうしょくほどこされている。


 ――これ、勝手に座ってもいいのかな……テサロさんに聞いておけば良かった……。


 手持ちに一銭いっせんもないこの状況で値の張りそうなものに触れるのは怖いと感じた至誠は、テサロはすぐに人が来ると言っていたこともありその場で待つことにした。


 とはいえじっと突っ立っているのもひまなので、さらに周囲に目をくばってみる。


 部屋の奥側の壁には大きな肖像画しょうぞうがかざられ、その両脇りょうわきには国旗らしきはたがポールに立てられている。別の壁には絵画かいがやタペストリーがかざられ、一部に書架しょかもある。窓辺まどべには廊下と同じカーテンがとうかんかくで並んでいて、全体を通してとにかく高級感がきわっている。


 そのまましばらく待ってみるが、まだ使用人は現れない。


 な至誠は、さわらなければ大丈夫だろうと考え、書架に近づいてみた。


 並製本なみせいぼん革装本かわそうぼんもあるが最も多いのは上製本じょうせいぼんだ。

 背表紙せびょうしに書かれた文字は日本語どころかアルファベットすら見当たらない。


 手に取って中身を確認してみたい気もしたが、無断むだんで手の取るのははばかられるだろうと、思いとどまった。


 ――日本語はまだしも英語もないなんて……本当にここはどこなんだろう?


 同時にそんな疑念ぎねん脳裏のうりをかすめるが今は深く考えないようにした。テサロが言っていたように、悪い方向に考えがかたよりそうな気がしたからだ。


 ひとまず今は他に何かないか室内を見て回ろう。こういう時はまず目星めぼしからだよね――と友人とTRPGをしていたころの楽しい記憶を掘り起こしながら、思考がネガティブにおちいらないよう気をつける。


 部屋のおくかざられた絵画かいが肖像画しょうぞうがのようだが、えがかれているのは人間ではなかった。


 確かに二本の足で立ち、身につけた鎧は威厳いげんを感じさせる細かい装飾が施されている。だがその顔は人ではなく犬――いや、おおかみだ。じんろう、もしくは狼人間おおかみにんげん


 そんなかいが天井にせまるほどの巨大ながくぶちに入っている。


 ――人狼……人狼ゲーム……いや、不吉ふきつ連想れんそうはやめよう。


 絵画の脇にある旗のデザインは、縦に三分割され、中央が白色で両端が水色のこうで、中心には狼の横顔が描かれている。至誠は似たような国旗デザインを見たことある気がしたが思い出せなかった。


 右手の旗は黒をベースに赤い円環えんかんが中心に描かれている。

 構図こうずは日本の国旗と似ているが、赤い円は塗りつぶされていない。

 日の丸というよりは、金環日食きんかんにっしょくのイメージが近いだろうか――と至誠は考えるが、そもそもこの旗がなんなのか分からないのでなんとも言えない。もし国旗なら少なくともそのようなデザインの国に全く心当たりはない。


 ――日本と似てる国旗と言えばパラオとかバングラデシュぐらいだよね? グリーンランドとか韓国も比較的似てるけど、黒ベースのデザインじゃなかったはず……。


 と、ついつい考えてしまう自分をいさめ、壁に掛かっている絵画の方へ目を向ける。


 ふうけいじんぶつが並んでいて、人物画で描かれているのは全てじんろうのようだ。


 その中にふたつ例外があり、地図らしき図柄を見つける。


 現在地が分かるかも――と、額縁に近づいてのぞき込むと、2種類ある地図はしゅくしゃくが違うだけのようだ。例えば日本地図と、世界地図にように。


 しかしどちらの地図に描かれた地形にも心当たりはなく、文字も読むことはできなかった。現在地をしめす記号らしきものはあるが、それが現在地を指している確証かくしょうはない。

 仮にその記号が現在地を示しているのだとすれば、真北に位置し、地図の境界ギリギリにいることになる。


 フルカラー印刷ほど色鮮やかではないが、その地図にはあわい色がついている。ほっぽうは雪を示すような白みをび、なんぽうにはばくあらわしているのか、黄色みを帯びたりょういきがある。


 実態は分からないが、そこから想像するに気候が変わるほど広い地図のようだ。


 しかし地図の中に至誠の知る地形はなかった。

 そもそもこの地図は海と陸の比率がおかしい。地球では海が7割で陸が3割だが、この地図ではむしろ逆。海は2割程度しかない。


 地図の外側は雲らしきデフォルメされた絵柄で覆われており、これが何か分からず気になった。


 だが最も気になるのは、地図の中央よりやや南の部分だ。

 山脈が連なっているのかと思ったがよくよく見ると、陸地が浮いている様な描かれ方をしている。


 ――まるで、ゲームのワールドマップのような……。


 そこまで考えたところで至誠はハッと我に返り、それ以上変な方向へ考えないようにしきする。

 これじゃあまるで、ここがゲームの中あるいは異世界いせかいのようだ――などという突拍子とっぴょうしもない思考は非現実的なので、ぽいっと投げ捨てることにした。


 荒唐無稽こうとうむけいな考えは捨て置き、周囲へくばりを再開する。


 あと部屋の中で見ていないのは窓くらいだと考え、まどに近づく。

 カーテンくらいは触れても大丈夫かな――と、真っ赤で高級そうなカーテンを優しくそっと開き、外を見てみる。


 窓は大きな出窓でまどで、普通の窓よりも少し身を乗り出すことで広範囲こうはんいを見ることができる。


 だが外の光景がまったく見えなかった。


 こうこうとした室内の光が反射していたためだ。

 すなわち窓の外は暗闇くらやみであり、今が夜であることが分かる。


 至誠は窓とカーテンの隙間すきまに入り込み光をさえぎる。

 そうしてようやく見えた外の光景こうけいは、一面の銀世界だった。街明かりどころか人工的な光は一つも見当たらない。


 ――テサロさんの言葉は本当だったんだ……。


 別に疑っていた訳ではないが、ここを一人で出ていけば遭難そうなんからの凍死とうしという嫌な連想が容易よういに浮かび、少し気が滅入めいる。


 そんな嫌な想像を意識して奥へと引っ込め、現在の季節が冬であることだけを理解するようにつとめる。

 間違ってもここがミステリー小説の世界で、りつしたペンションで起こる殺人事件に巻き込まれるパターン――などという余計な発想は投げ捨てるべきだろう。


 それよりも――と、今は目の前の光景に集中する。


 雪明かりが強く夜中にしては遠方までよく見える。月が雲にさえぎられることなく、かつ満月に近いのだろうと想像にかたくない。

 その月そのものが見えないだろうかと探っていると、顔をギリギリまで窓に近づけたところでかろうじて見えた。


 形はほぼまんげつと言って差し支えがない。


 ――ん? 月のすぐ隣でかがやいているあの星は何だろう? このげっこうの中でも見えるって、相当明るい星だよね……。あの感じからすると……木星……とかかな?


 至誠は天文てんもんに強い関心を持っている。

 宇宙に対し大いなるロマンを感じ、将来のしん希望をてんもんがくしゃにするか、もっと堅実的けんじつてき安定職あんていしょくにするかかでずっと迷っていた記憶がよみがえる。。


 同時に、それがひどく遠い出来事のように感じられた。

 だが今は、現実逃避のために過去におもいをせるのはやめておく。


 北極星ほつきよくせいを見つけられれば緯度いどが分かり、そこから少しでも現在地をしぼり込めるだろうと考え、窓から見える星々を注視する。


 デネブ、アルタイル、ベガのようにいろどる明るい星はすぐに見つかったが、他はなかなかに難しい。


 特に、満月のように月光の強い時期は星を探すのが難しい。

 昼間に太陽の光で星々の輝きがまったく見えないように、月光が星をおおかくしてしまう。


 大量に打ち上げた通信衛星が光を反射して星の観測ができなくなる、と天文学者が反発していたニュースもあったなぁ――なんて記憶が無意識に掘り返されつつ、至誠は視力が2.0以上あることを生かして粘り強く星をさだめる。


 北極星はこぐま座のポラリスという星だ。そして探すには「ほくしちせい」か「カシオペア座」を探すと楽だ。


 少しして、カシオペア座を見つける。

 そこから北極星を見つける方法は慣れれば簡単だ。まずα星とβ星を結ぶ直線と、δ星とε星を結ぶ直線、それらが交差する地点を見つけ出す。その地点とγ星を直線で結び、その距離の5倍ほど先の位置に北極星がある。


「……あった」


 北極星はその名の通り、真北を指し示す。だが今は方角が分かったところでさほど重要ではない。


 必要なのは北極星のこうだ。

 そして高度は、大まかであれば道具なしにはかることができる。


 こぶしを作り、片腕を目線と同じ高さで伸ばす。伸ばした片腕に、もう片方の腕を上に重ねる。この時の拳ひとつのところに見える星の高度がおよそ10度だ。

 拳を上に重ねれば、そこに見える星の高度は20度ということになる。そうやって拳を北極星の高さまで上に重ねていくことで、おおよその高度が割り出せる。


 だが現状ではいろいろと問題がある。

 体を使った計測はただでさえ精度せいどが低いのに、窓から見える地平線ちへいせんはどこもさんみゃくが続いていて高度を測る基準きじゅんが明確ではない。


 さらに、腕を伸ばすために一歩後ろに引いたことでカーテンのすきから光がれている。その結果、窓に室内の光が反射し星が見えづらくなっている。


 それでもなんとか出窓部分を活用して計測を強行することができた。

 今回はこぶしひとつ分で事足りたことも大きいだろう。


 つまり北極星の高度はおよそ10度。北極星の高度はれいするので、現在地の緯度が10度であることが分かる。


 ――え……緯度が10度? それってフィリピンとか、タイくらいの位置じゃ……? あるいはメキシコよりもまだ南だよね……パナマくらい?


 少なくとも赤道近くという結論になる。


 ――そんな場所で、こんなに雪が降るなんてことがあるだろうか?


 地平線の彼方かなたそびえる山脈まで続いているいちめんぎんかいを見ながら、至誠は言葉を失う。


 自分のやり方が間違っていただろうか――と、再度けんしょうをしてみるものの、ついでにアンドロメダ座とペガスス座も見つけただけで、緯度の結果は変わらなかった。


 だが目の前の気候との矛盾むじゅんは説明できない。


 ――そもそもの話、なんで冬に夏の大三角が?


 至誠は信じられない光景に思考がフリーズしかける。それでもへいせいさを失わないように思考を続け、一つのせつを考える。


 ――地球のこうきゅうげきへんどうして……氷河期ひょうがきおとずれた?


 とっぱつてきこうへんどうによるパニック映画を思い出しながら、そんな仮説についてさらに考える。


 ――もしかして、自分の記憶があいまいであまつさえ死にかけていたのは、そのげんしょうに巻き込まれたってこと……なんだろうか? 氷漬こおりづけの状態だったらしいけど、もし映画のような急激きゆうげき気候変動きこうへんどうならあり得るかも知れない? ……かな?


 その考えも非現実的だとは思うが、異世界などという考え方よりは矛盾むじゅんが少ない気がした。


 しかしこれ以上は一人で考えていてもらちがあきそうにない。


 ――とりあえず今は頭の片隅かたすみとどめるくらいにしておこう。


 と、カーテンを抜けて扉へ視線を向けてみるが、スワヴェルディという人物が来る気配けはいはない。


 ――他に今見て回れるものはあるかな?


 と、目星を再開した直後、扉の近くに立てかけられている「ある物」に視線しせんくぎけになる。


「これは――」


 ――間違いない。


 至誠の目の前には、時代劇じだいげき漫画まんがの中でよく見る代物しろものがそこに存在していた。


「日本刀――?」


 妙に懐かしい気がするが、実物をあつかったことはない。

 しかし目が覚めてからはじめて見覚えのある物に出会ったことが、ひときわ大きなあんかんをもたらしてくれている気がした。






 ただ、なぜだろうか。






 至誠の心の奥底からき出てくる衝動しょうどうはそれだけではない。



 もしこれを手に入れたら、今いだいている不安もしょうそうも、全てが一気にかいしょうできるのではないだろうか――そんな思考がだいのうに広がっていく。




 ――危ないのではないか?




 ――他人の所有物に勝手に触れるのは良くないのではないか?




 そう考える自分もいた。



 実際、ほんだなを前にしても本を手に取らなかったのは、勝手に他人の物を扱うのがはばかられると思ったからだ。






 しかし。





 それでもしょうどうは体をつき動かし、至誠は腕を伸ばしその日本刀を手に――

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