姫路涼の多重世界
気が付くとそこは僕の知っている世界ではなかった。
週の終わりである金曜日の放課後、土曜日曜の補習を含めると合計で十九日間連続も通学した開放感から僕は同じく十九日間の補習を共にした戦友達とビルの明かりで夜でも明るかった街中が暗くなりはじめるまで馬鹿みたいに遊び回った。事実馬鹿なのだが。
「それじゃあ、また来週な」
一人が家の門限で帰宅しなくてはいけないと言い出すと皆その言葉を待っていたかのように「それじゃあ俺も」と言いだし、その日はお開きとなった。
戦友もとい友人たちが市営の地下鉄で帰って行くのを一人寂しく見送った僕は帰宅ラッシュを終えて人が少なくなった最寄りの駅へと向かった。
帰宅ラッシュが終わっているだけあって駅には改札の外にも内にも両手で数えきれるくらいの人しか居なく、駅のホームで列車を待っているのは僕一人だけだった。
『まもなく1番ホームに列車が参ります。白線の内側に下がってお待ちください』
全身の毛を逆立てるような低い声の不気味なアナウンスが流れ、しばらくすると僕の目の前に一両編成の黒い列車が停車した。
一度も目にしたことのない型の列車だったけれど僕は感覚的に「これに乗れば家に帰ることが出来る」と感じたので何の不信感も抱かずに僕はその列車に乗り込んだ。僕が乗車し適当な咳に着くと他の乗客が乗り込んでくる様子も無く列車のドアが閉まり静かに発車した。
僕以外の乗客が一人として乗車していない列車の窓から真っ暗で自分の顔しか見ることの出来ない寂し気な景色を眺めている内に僕は列車の僅かな振動に眠気を誘われて途中の駅に停車する前に眠りに落ちてしまった。
「んっ。んん? 寝ていた、のか?」
目が覚めたのは僕の家に最も近い駅に列車が停車する直前だった。
「誰もいない」
列車には他の駅で誰も乗車していなかったようで出発した時と同じように僕一人しか居なかった。列車が駅に着いて完全に停車するといつもの様に鞄を背負い真っ黒な列車を降りた。
「静かだな」
静かと一言で片づけるには不自然過ぎて違和感を覚えるほどだった。が、
「帰るか」
僕はその違和感を『いつもとは帰宅時間が違うからだ』と合理化して家までのおよそ十分の道のりを人や動物さらに車ともすれ違う事も無いまま帰宅した。
「ただいま」
家族に対しても礼儀としてきちんとそう告げて家に入ると、母親か妹がまだ起きていたようでリビングの電気が付いていて、食欲を掻き立てられる美味しそうな和食の香りが僕の鼻に入り込んできた。
「連絡忘れていてごめん。遊んでいたら遅くなった」
この香りは味噌汁に肉じゃが。あと微かに梅の香りも漂っている。これは母さんがよく作る混ぜ込みご飯の香りだろうか? いつもながら随分と美味しそうな香りだ。
そんな事を考えながら僕の帰りをこんな遅い時間まで待ってくれていたのであろう母親か妹もしくは二人に向けて軽く謝りながらリビングと廊下を遮る扉を開くと扉の真正面にあるキッチンに見知らぬ少女が当たり前のように立っているのが見えた。
「鍵は閉めていたはずなのだけれど、どちら様かしら?」
「お前こそ、人の家に上がり込んで何をしている?」
間取りや家具の配置、見知らぬ少女が手にしている食器も全て間違いなく僕の家の物だから帰宅する家を間違えたという事は考えられない。
「ご飯を余分に作ってしまったのだけれどあなたも食べる?」
少女は瞬時に状況を理解したようで、とても冷静な表情でそう言った。
「じゃあ、食べる」
少女に言われるがまま彼女の作った料理を一通り食した僕は何故か互いに自分の家だと主張するこの状況について彼女の考えを聞いた。
「この状況についてお前は」
「涼」
「えっ?」
「涼、姫路涼。私の名前よ」
「その名前、本名か?」
「えぇ、間違いなく」
僕が驚きながら訊き返した質問に彼女は、僕と同姓同名の少女は即答した。
「その反応から何となくだけど理解したわ。あなたの名前も」
「姫路涼だ」
「字は予想が付くけれど念のためこの紙に書いてもらえるかしら?」
僕は彼女、涼の指示通りにメモ用紙程度の紙に自分の名前を書いた。それを見た涼は眉間を抑えながらも納得したかのように頷いた。
「何となくだけど色々理解したわ」
「何を?」
涼は僕の質問を完全に無視すると、食い気味に聞いてきた。
「聞きたいのだけど、あなたの家の間取りや家具の配置は今朝まで暮らしていた家のものと同じよね?」
その質問に僕は首を縦に振って肯定した。
「やっぱり」
「何がやっぱりなんだ?」
「まだ確信は出来ないのだけどここはパラレルワールド、多重世界の一つと考えられる」
「パラレ? 多重? 何だっけ? それ」
僕がそう言うと涼は呆れ顔で
「一度聞いた事くらいすぐに記憶しなさい」
と上から目線で言ってきた。記憶力が無くて悪かったな。
「パラレルワールドつまり多重世界というのは図に表した方が判りやすいわね」
涼はそう言うと僕の鞄から勝手にノートを取り出して定規も無しに綺麗な十字の線を引いた。
「縦の線を時間だと考えると多重世界というのは横の線」
「思い出した。科学が発達した世界と魔法が発達した世界が同時に存在するみたいなあれか」
「どうせ、ゲームか何かで得た知識なのだろうけれど大体そのようなものね。今回の場合はあなたの暮らしてきた世界と私が暮らしてきた世界がその二つの世界に当てはまるわ」
ゲームの知識もたまには役に立つものだ。受験勉強をおろそかにしてまでラスボスから同じような話を聞いた甲斐があった。
「つまり、ここもパラレルなんたらの一つって事か?」
「恐らく、あなたの世界と私の世界の中間地点がこの世界という事になるのでしょうね。あと、パラレルワールドよ」
「そんなに怒るなよ。それでだ、ここがパラレルワールドって事は分かったけど、どうすれば自分の世界に戻れるのか分かるか?」
「そんなことまで分かる訳が無いじゃない。思い当たる節と言うとこの世界に来る直前に全く人の乗ってこない列車に乗ったくらいだけど」
全く人の乗ってこない列車、そう言えば僕も変な黒い列車に乗って帰ってきたな。
「涼も何か思い当たる節があったの?」
「人のいない列車なら僕も乗った。いつもは乗らない黒い列車だった気がする」
「この世界に来た理由はそれが原因と考えて良さそうね」
「戻れる方法が分かったなら早速駅に行くぞ」
受験勉強を付き合ってくれた僕の友達以上恋人未満の女友達の口癖を使うなら『思い立ったら即行動』だ。
「思い立ったら即行動するのは嫌いではないけど、駅には明日行きましょう」
「早いに越したことは無いだろ?」
「外は暗いし、準備してそのままにしているから早くお風呂に入りたい。それに戻り方が分かったからと言って絶対に戻れるという確証は無いでしょう? 運よくあなたが見たという黒い列車が来るとは限らないし」
そう言うと涼はすたすたと浴室へ向かった。
「はぁ、何だよ、あいつは。別世界の俺のくせに頭良さそうだし、料理上手いし、女だし。似ている所なんて胸くらいだろ」
そんな事を愚痴りながら窓の外を覗いてみると人の気配どころか目に見える限りの建物の電気が全く付いていなかった。
「電話は、通じないよな」
通じたとして、僕と涼しかいないであろうこの世界で一体誰が電話に出るというのだろう。
「ふぅ、さっぱりした。あなたも入ってきたら?」
見かけによらず風呂に入っている時間が短いな。まだ十分も経っていない。
「それじゃあ、僕も入って来るとするよ」
入るとは言ったけれど着替えはどうしよう。涼はどうしたのだろうか? もしかして、部屋に着替えがあったのだろうか?
「言い忘れていたけれど、私の部屋、きっとあなたの部屋でもあるのだろうけれどその部屋のタンスの中にあなたのものだと思われる着替えも入っていたわよ」
別の世界の自分だからなのか涼は僕の気持ちを読み取ったかのように着替えの場所を教えてくれた。
「涼の言う通りみたいだな。それにしてもこの部屋も全然変わっていないな、何処からどう見ても僕の部屋だし」
ベッドの下に隠していたはずの本以外は特に変わらない僕の部屋だ。それにしてもベッドの下に隠していた僕のお宝は一体何処に消えてしまったのだろうか。
「取りあえず、風呂だ、風呂」
涼に聞こえるか聞こえないか程度の小声でそう呟きながら脱衣所に向かうとその途中に女物のパンツが落ちていた。
「うっぇ」
何か変な声が出た。多分いや、確実にこれは涼の下着だろうが僕はこれを見無かった事にして脱衣所で服を脱いで浴室に入った。
「はぁ、家なのに疲れる。風呂くらいはゆっくりしよう」
今日は何気ない独り言の回数が多いような気がするけれど、そんな事は湯に浸かって疲れと共に忘れてしまおうと浴槽に右足を入れると日常的な違和感を覚え、途端に体中に寒気がした。
「うわっ、冷てぇ。って、これ、冷水じゃねぇか」
すぐに脛程度まで冷水に浸かっていた右足を浴槽から戻し、仕方なく温かいシャワーを浴びた。
疲れを忘れる為に入った浴室でさらに疲れた僕は脱衣所で着替えを済ませた後、未だに廊下に放置されたままの涼の下着に再び「うっぇ」と変な声を出し、洗い物をしていた涼を見つめた。
「さっきから何か用でもあるの?」
「どうして風呂があんなに冷たいんだよ。それに廊下に下着を放置するな」
僕はそう言って涼の顔色を窺いながらそう言った。すると、涼は頬を少し赤らめて、
「あなたは熱いお風呂が好きだったのね。ごめんなさい、多重世界の自分だから好みも同じものだとばかり。それよりも、下着は触っていないわよね?」
「あぁ、触っていない」
涼はホッとした表情になりながらも「異性とは言え多重世界の自分に触られても困らないけれど」と開き直っていた。そんな余裕を見せるくらいなら今すぐ廊下に放置されている下着を片付けて欲しい。
「下着の事は置いておくとして、今後の為にもお互いの好みを知っておく必要がありそうね」
「どうせ、明日までだろうし知らなくても良いだろ」
僕はそう言って断ったのだけれど涼はそれを無視して話を進め始めた。
「好みの味は?」
「いきなりだな。味? 味なら甘いのが好きだ。あんこでもチョコレートでも甘いものならいくらでも食べられる。逆に辛いのは苦手だ」
母さんや妹からは「女みたいな好みだ」とからかわれるけれど好みだから仕方がない。
「私とは真逆ね。じゃあ、料理は?」
「全く出来ない」
だからという訳ではないけれどあんなに美味しい料理を作ることが出来る涼の事が少し羨ましいと思ったりしない事も無い。
「何となくだけど理解したわ。私とは全てが真逆なのね、性別も味覚も、知力も」
「最後のだけは余計だ」
と、声を大にして言ってやりたいが僕の方が涼よりも知力が低いことは明らかだから返す言葉が無かった。
「何を考えているのか何となくだけど理解出来るけれど、今日はもう寝ましょう」
「寝るってまだ十二時前だぞ」
「そう言われてもこれから何をするの?」
「何も決めていないけど」
涼は僕に聴こえるほど大きな溜息を吐くと「それなら寝たって良いじゃない。寝たくないのなら寝なければ良いだけの話でしょう?」と反論のしようがない正論を吐いて僕と涼の共通の寝室に行ってしまった。
僕の寝つきが悪いという事はその逆である涼は寝つきが良いようで寝室に行って五分としないうちにとても別世界の僕のものとは思えないほど可愛らしい寝息が聞こえて来た。
「散歩にでも行ってみるか」
もしかしたら僕たち以外にもこの世界に来ている人が居るかもしれないという淡い期待を抱いて僕は家を出た。
「静か、だな」
いつもは車が絶えず行きかっている国道でさえも車が通っておらず、ただただ不気味であるというのにそれに加えてこの世界には風が存在していないようでさらに不気味だった。
散歩していると最初、僕の心を支配していた不安や恐怖と言った感覚が徐々にこの不自然過ぎる違和感に慣れたようだった。そして、携帯の時刻表示を見ると長々と歩き回っていたはずなのにまだ十二時一分前を示していた。
「まだ今日は終わっていなかったのか」
まだ涼は眠っているだろうけれど起きた時に心配させる訳には行かないしこの世界での短剣はこの辺で区切りを付けてまた明日に持ち越すことにしよう。
携帯の時刻表示が十二時を示したその瞬間、この世界に大きな鐘の音が鳴り響いた。そして気付いた時には僕は寝室のベッドで横になっていた。
「夢? あの世界も、涼も全て」
それが夢ならどれだけ良かった事だろう。
「この声」
自分の声に異変を覚えた僕はすぐに自分の姿が映る物を探して自分の姿を映すとそこには姫路涼ではなく姫路涼が映っていた。いや、これだと間違いなく涼に馬鹿にされてしまうからもう少し的確な表現をしよう。男の姫路涼ではなく女の姫路涼が映っていた。
「何がどうなっているんだ?」
この多重世界で日を跨いだ僕たちの身体と精神は入れ替わってしまった。
「さっきまで寝ていたはずなのだけど」
一体ここは何処なのだろう。分かるのはさっきまで私が眠っていたベッドの上ではなく不気味で不安と恐怖が支配する屋外であるという事。そして、眠る前の出来事が夢ではなかったという事。
「何でこんな所に」
声の調子がおかしいのか、はたまた私の耳がおかしくなってしまったのか私の声がもう一人の私、姫路涼の声に聴こえた。
聴こえたのではない。理由は分からないけれどどうやら私は男の方の姫路涼の身体になってしまっているらしい。
「なるほどね、何となくだけど理解したわ」
もう一人の私であるこの身体の持ち主で恐らく現在私の身体を所有してうろたえているのであろう姫路涼に説明しやすいように今のうちに状況を簡潔に整理すると、私と彼の精神が何らかの原因によって入れ替わってしまったらしい。
「なんて、流石に彼もわかるわよね」
とにかく、何が原因で入れ替わってしまったのか分からないけれど、彼の姿の私がここにいるという事は入れ替わる前に彼の精神は本来の器であるこの身体でこの場にいたはずだから何か手掛かりになりそうなことを見聞きしているかもしれない。
それにはまず、出来るだけ早く彼に連絡した方が良さそうだ。
「どうすれば良い?」
僕であるという認識は出来ているけれど鏡に映っているのは涼だ。もしかしたら僕は自分を男だと思い込んでいるだけで本当は女だったのかもしれない。きっとそうだ。間違いない。
「そんな訳無いだろ」
僕は馬鹿だが僕が女ではなく男であるのは僕が一番よく分かっている。そうなるとまた最初の疑問『これからどうすれば良いのか』に戻ってしまう。さっきからこのループを十三回は行っているのだが結論が出る気がしない。
「訳わかんねぇ。あと髪邪魔くせぇ」
よくこんな長さになるまで放っておけるものだ。僕だったら耐えきれない。
「今は僕の身体だし切ろうかな」
僕が血迷ってそんな事を口走っていると涼の携帯電話に見覚えのある電話番号から着信が入り、僕は恐る恐る電話に出ることにした。
「もしもし」
『やっぱり出たわね。私よ』
「僕の声? お前は誰だ?」
『その無駄に有り余っているテンションと壊滅的な知力は私の声になっても変わらないのね』
「涼か?」
よく考えればこの世界で僕に電話を掛けてくることが出来るのは涼だけだろう。
『えぇ、そうよ。何故か外にいるからあなたの携帯を借りて私の携帯に電話したのだけど、電話番号まで私と同じなのね』
着信があった時に表示されていた電話番号に見覚えがあると思ったが、僕の携帯の電話番号だったのか。
『今あなた家に居るのよね?』
「そうだけど」
『外に出ないで待っていてくれるかしら? 今からすぐに帰るから』
涼はまたもや自分の言いたいことだけを言うと僕の返事も聞かずに電話を切って、十五分とかからずに涼は僕の身体で家に戻ってきた。
「ただいま」
「お、おかえり」
涼は何も感じないようだけれど、鏡でもないのに自分が目の前にいるというのは何とも奇妙な光景だった。
「帰って来て早々で悪いけれど色々と話を聞いても良いかしら?」
僕と真逆で毎日規則正しい生活をしているのであろう涼にとって今は就寝時間真っ只中なのだろう。中身が涼の僕はとても眠そうな表情をしてそう言った。
「明日の、いや時間的には今日の朝じゃ駄目か?」
「別に、構わないけれど」
いつ倒れてもおかしくはないと思えるほどぼんやりとして前へ、後ろへ舟を漕いでいる涼はメモ帳に僕に聞きたいことを忘れないようにきちんとメモをした。
そして、僕の部屋から僕の部屋には本来存在していない女物のパジャマ、
「ネグリジェ」
眠そうな涼は僕を睨みつけながら怒鳴り声でそう言った。今まだ気にしていなかったけれど僕の目つき怖いな。
「この服の事を女物のパジャマだと思っているみたいだけれどネグリジェだから」
男の身体でパジャマもといネグリジェに着替えた涼は部屋に向かい再び眠りに就いた。
「俺も寝るか」
流石に多重世界とやらの同一人物とは言え年頃の男女が同じ部屋で一夜を過ごす訳には行かないので、僕は僕の世界では妹の部屋となっているスペースにあるベッドで寝ることにした。
寝る直前に今の僕の身体ではスカスカになっている胸の部分が涼の入っている僕の身体では少しふっくらとしていることを思いだしたけれど涼が知ったら後が怖そうなのでさっさと眠って忘れることにした。
僕と涼が入れ替わってから六時間以上が経過しただろうか。僕はキッチンから漂う美味しそうな匂いに釣られて起床した。その匂いはやはり涼の作る朝ごはんの匂いで昨日の夕飯同様においしそうだった。
「自分以外の身体で料理を作るのは初めてだったから昨日の夕飯と比べて味は落ちているかもしれないけれどそこは我慢してもらえるかしら」
涼は控えめにそう言っていたけれど食べてみると料理が苦手な僕の身体で作ったとは思えないほど昨日の夕飯から味が劣っているようなことは無かった。
むしろ、あまりの美味しさにテーブルの上に並べられた高級ホテルのような朝食を口いっぱいに頬張ってしまうほどだ。
「その身体は私の身体なのだから少しは遠慮してくれる? あと、豆乳も飲んで」
「お前、甘いものは苦手じゃなかったか?」
「少しくらいは我慢して飲んでいるわよ」
我慢してまで飲む理由が何処に……あっ、このほとんど引っかかりの無い胸か。
「まぁ、豆乳は嫌いじゃないから飲んでやるよ」
「ありがとう。お礼に私はひじきをいっぱい摂取してあげる」
「僕は禿げていないからな」
母さん曰く父さんは禿げていなかったらしいけれど禿げていたという父方の爺ちゃんからの隔世遺伝が怖いのだからあまり笑えないような冗談は言わないで欲しい。
「ふざけるのはこれ位にして、昨日の夜から日を跨いで私の身体に映るまでに何か見聞きをしなかった?」
寝る直前に寝ぼけながら目が覚めた自分宛のメモを書いていたけれど、寝る前の涼が僕に聞き出したかったことはそれだけだったようで涼はメモを確認して僕にそう質問するとそのメモを左手でぐちゃぐちゃに握って二メートルほど離れたゴミ箱へ投げ入れた。どうやら聞き手も僕と逆で左らしい。いや、右で箸を持っている所からすると両利きか。
「私の行動を食い入るように見なくて良いから早く答えてくれない?」
「分かっている」
寝起きが良い僕の反対という事で寝起きの悪いらしい涼は僕に質問に関して早く答えろと言わんばかりに睨みつけて来た。
自分の目とは言え怖いものは怖いので日を跨ぐ瞬間に鳴っていた鐘の音の事を僕は涼に出来る限り正確に伝えた。
「なるほどね、何となくだけど理解したわ。あくまで根拠のない憶測だけれど日付が変わる時にその鐘の音が鳴り響く。それを今夜、私たちのどちらか一方が聞くことを出来れば戻る可能性はありそうね」
「つまり、僕たちは自分の身体に自分の意識が戻るまでは帰り方が分かっても元の世界に戻れないって事だよな?」
「そうなるわね」
たとえ仮の話だとしてもこんなことを考えたくはないけれど、もし今夜鐘の音を聞いても入れ替わったまま元の身体に戻ることが出来なかったら僕たちは元の世界に戻る術を見つけてもこの世界に永遠に留まり続けなくてはいけなくなるのだろう。
「何でそんな辛気臭い顔をしているの?」
「お前、頭良いくせに何もわかっていないのか? もし、元の身体に戻れなかったら僕たちは自分の世界に帰れなくなるんだぞ」
僕はいつの間にか今の僕の身体よりも僅かな膨らみのある涼の胸ぐらを掴んでいた。
「それくらい分かっているわ。だけど、戻れたとしても戻らなくても良いかも……。なんて、嘘に決まっているでしょう。私の身体でそんな怖い顔をしないで」
涼は嘘だと言ったけれど、そう言っていた涼の表情は嘘を言っているとは思えないほど真剣でどこか悲しそうだった。
「気分を悪くさせてごめんなさい。ちょっと頭を冷やしてくるわ」
「あ、あぁ」
てっきり寝室に行くものとばかり思っていたのだが涼の世界で『頭を冷やす』というのは物理的な意味合いを持つようでは浴室に向かっていた。もしかして、あいつ水風呂に入る気じゃ?
「涼、ちょっと待て」
気付いた時にはもう遅く、涼は昨日同様に着ていたパジャマもといネグリジェと下着を廊下に脱ぎ散らかして既に冷水に浸かっていた。
「よく漫画で女の子が男の子にお風呂を覗かれるなんてベタな展開があるらしいけれど、男の子が女の子にお風呂を覗かれている場合も例に倣って『きゃー、えっちー』と言っておくべきなのかしら?」
「今はそんな事を考えなくて良い。というか冷水に浸かっているとはいえ冷静過ぎるだろ。って、そうでも無くて、冷たいのになんでそこまで平然と僕の身体で水風呂に浸かっていられるんだよ」
我ながらうまい事を言えた気がするけれど、そんな事よりも涼が入っているのが冷水であると分かっているからか、見ている僕の方が冷えてきた。
「ごめんなさい。気を利かせて昆布とか浮かべておくべきだったわね」
「何だよ、お前。そこまで同一人物である僕が将来禿げると思っているのか?」
「冗談よ、冗談。今は禿げるなんて思っていないわ。少なくとも今は」
「そろそろ僕のメンタルが耐え切れなくなるからやめてください」
コンマ一秒たりとも年上でも年下でもない僕たちだけれども流石に敬語を使って懇願した。もう、ストレスで禿げそう。
それはさておき、さっきはとても悲しそうな表情をしていたが、まだ冗談を言う事が出来るだけの余裕があるとわかってホッとした。その代償として僕のメンタルと将来への希望が削り取られたけれど。
「マイナスな事を考えていても仕方が無いし、今日は死に物狂いで戻るための可能性を探してみましょう」
「じゃあ、僕はあの黒い列車が来るかもしれないから駅に行ってみる」
「それなら私は元の世界に帰るためのヒントが無いか探してみることにするわ」
お互いの予定を大雑把に確認して僕はひとまず浴室から出た。あっ、今日の行動予定を聞くのではなく涼を水風呂から出す目的で浴室に行ったという事をすっかり忘れていた。
午後十一時三十分、僕の世界とこの世界では時間の流れは変わらないと思うけれど「まだこんな時間なのか」と思いながら僕は線路を見張っていた。
しかし、正午と午後六時頃に涼が駅まで昼食や夕食を運んできてくれた時以外に人や動物を見ることは無く、僕がこの世界に乗ってきた黒い電車はおろか普通列車さえもこの世界の線路を通ることは無かった。
「はぁ」
今日だけで何十回目になるのかもわからない大きな溜息を吐いているとホームへツ続く階段からコツン、コツンと足音が聞こえた。
「涼か?」
一度目、二度目は僕たち以外の人か動物が来たのだと期待したが、三度目ともなると流石にそんな期待はしなかった。
「長い事お疲れ様、夜食にと思っておにぎりを作ってきたのだけれど食べる?」
「貰う」
ほとんど動いていないとはいえ、電車が来るまでの間は学は無いけれど僕なりに色々と元の世界に戻るための案を考えていたからいつもは使わない部分にエネルギーを使った事で僕の腹の中では九時くらいから存在し得ない虫が鳴いていた。
「収穫はあったのか?」
僕の好みではない組み合わせの服を着ている涼が持って来てくれたおにぎりを一つ食べ終えた恐らく涼の好みではない組み合わせの服を着ている僕は一日中動いていない僕とは違い一日中町中を巡っていたのであろう涼にそう尋ねた。
「帰るためのヒントは見つからなかったけれど、この世界でしばらく暮らしていく術は見つかったわ」
一刻も早く元の世界に戻りたいというのが本音だけれど、少なくとも今日は帰る術がないというのは明確だったので僕はそのしばらく暮らしていくための術とやらを聞いた。
「従業員はいなかったけれど、見た限り全てのお店が開いていて必要なものをいつでも持って行くことが出来るような仕組みになっていたわ。私の世界ではその商品に見合ったお金と言うものと交換しなくてはいけないのだけれどあなたの世界ではこれが常識なの?」
「いや、僕の世界も涼の世界と同じだ」
「なるほどね、何となくだけど理解したわ。見た目は同じこの世界にも私たちそれぞれの世界とは異なる世界の在り方があるのね」
取りあえず、僕らにとって最悪の未来になるこの世界で息絶える未来はしばらくは考えなくても良さそうだ。
「もうすぐ、日付が変わるわね」
涼がそう言った事で日付が変わるまで残り五分を切っていることに気が付いた。
「ねぇ、日付が変わるまでは絶対に眠らないと約束するから少しあなたの膝に頭を乗せても良いかしら?」
「もう寝ている時間だったな」
僕はそう言うと涼は許可もしていないのに膝の上に頭を乗せて横になった。膝に乗せられた頭はほんのりと温かかった。温かいというよりは、
「お前じゃなくて俺の身体熱くないか?」
「そうかしら?」
「気のせいかもしれない。忘れてくれ」
僕たちが沈黙したのは午後十一時五十九分五十六秒だった。沈黙した僕たちは頭の中で、
三秒
二秒
一秒
と、カウントダウンをした。そうして日付が変わるとあの鐘の音がこの世界に鳴り響いた。
「戻った、みたいだ、な」
おかしい。
自分の身体のはずだがすごく重くて顔が燃えるように熱い。
それなのに身体は凍えるように寒い。
世界が、回っている。
「涼、大丈夫? ねぇ、涼ってば。自分の世界に戻るのでしょ? 涼」
涼が僕の名前を叫んでいる。だけどそれはとても遠くに聞こえた。
元の身体に戻った僕は僕の好みの服を着た涼の膝から転げ落ちて冷たいコンクリートで出来たホームに倒れて夜空を見上げていた。
元の身体に戻った瞬間に涼が倒れた。
「涼、大丈夫? ねぇ、涼ってば。自分の世界に戻るのでしょ? 涼」
自分の名前を呼んでいるように感じてあえて呼んでいなかった彼の名前を呼ぶのが初めてだとか、そのような事を考えている余裕はこの時の私には無かった。
私は何となくだけど理解していた。涼が急に倒れた原因が私にあるのだと理解していた。
「やっぱり」
涼の額に手を当てると私の思った通り彼は触れている手が火傷してしまいそうなほど熱くなっていた。原因は間違いなく私が涼の身体で涼の身体が慣れていない水風呂に何十分も浸かっていたからだ。
「涼、立てる?」
涼からの返答は無かった。ただ、朦朧としている意識の中で涼は私の耳には届かないほど小さな声で何かを言っているようだった。
「男の人を背負ったことは無いのだけれど」
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。涼を背負った私は心の中で何度も、何度も誤った。多重世界の自分だからと少し、いやだいぶ自由にそして雑に涼の身体を扱っていた。
彼は自分であるのと同時に私とは生きる世界が違う赤の他人である事をすっかり忘れていた。
「さ…、……で……に」
「涼? どうしたの?」
家までは残り二分ほどの距離まで歩くと涼は気が付いたのか、私の背中から乗り出すようにして何かを呟いていた。
「咲、待って。咲」
今度ははっきりと言葉が聞こえた。『咲』と涼は確かにそう言った。私の世界に同じ名前の真矢咲という超絶可愛い天使もとい私の親友以上夫婦未満の女友達がいる。きっと涼の世界にも同じ名前の友人がいるのだろう。
「咲? 咲がいるの?」
涼に聞いてみたが涼からの返事は無く、私の背中には涼の重みがズシリとのしかかってきた。きっと涼は朦朧とする意識の中で幻覚のようなものを見ていたのだろう。
「涼、着いたよ」
軽く揺すって起こしてみたが熱による疲労で涼は目を覚まさなかった。流石に病人をリビングで寝かせる訳にはいかないので、私はもう一度力を振り絞って涼を寝室のベッドに寝かせた。
涼をベッドに寝かせた後、私はすぐにこの世界の在り方として二十四時間営業となっている無人薬局へ行き冷却シートと私の世界では医師の処方箋が無くても買うことの出来る薬を貰ってまだぐっすりと眠っていた涼の額に冷却シートを張った。
「おやすみ、涼」
「朝?」
駅のホームで倒れたのは覚えているけれどどうやって家まで帰ってきたのか全然記憶にない。
「涼、目が覚めたのね」
「涼」
夜のうちに何があったのか分からないけれど僕の呼び方が『あなた』から『涼』に変わっていた。名前以外の全てが真逆の同一人物なのだから仕方が無いけれど同じ名前をお互いが呼び合うというのは違和感がある。
「僕はどうしてここに?」
「憶えていないの?」
うっすらとは覚えているけれど思い出せるほど安定した記憶ではなく、覚えていないようなものだったので僕は取りあえず肯定した。
でも、何となく懐かしい誰かを見た様な気がする。
「元の身体に戻った瞬間『私の所為』で涼が熱を出して倒れたから私が涼を背負って帰ってきたのよ」
「悪い、重かっただろ?」
「別にそれくらいの事で気にする必要はないわ。私が涼にしたことはそれくらいで許されることでは無いから」
「自分を責めるなよ。僕が倒れたのは僕の身体が弱かったからだ」
それが今の僕に出来る精一杯のフォローだった。
「語彙力の無い限りで出来る精一杯のフォローをありがとう。でもまだ熱は下がっていないみたいだから黒い列車の事は私に任せてゆっくり休んでいなさい」
涼はどうしても僕に無理をさせたくはないようで、とても僕を駅から背負って帰ってきたとは思えないほどか弱い力で僕をベッドに押さえつけてきた。
「わかった。涼の言葉に甘えて今日はゆっくりと休ませてもらう。涼も疲れているなら休んでいいからな。『思い立ったら即実行。実行したらゆっくり休む』僕の友達が言っていた言葉だ」
僕がそう言うと涼は少し驚いたような顔をしたが、すぐにいつもの仏頂面に戻った。
「その調子だと今日中に全快しそうね。おかゆを作ってあるからお腹が空いたら食べなさい」
涼はそう言うとさっさと駅へ向かってしまったようで家の中はシンと静まり返っていた。その不自然さは僕の眠気を誘い僕は再び夢の世界へ誘われた。
「もう夜か」
漆黒の闇は空を覆い僕がとても長い時間眠っていたことを教えてくれた。しかし、家の中はまだシンと静まり返っていて涼の気配は感じられなかった。
看病と言う看病をされた覚えはないけれどそれでもやはり涼のおかげで熱は下がったようだった。
寝ていただけだから特に空腹という訳ではなかったけれど、流石に作ってくれたものを手も付けずに無駄にしてしまうのも悪いので僕は涼が作っておいてくれたというおかゆを茶碗一杯分だけ食べた。
「美味しい」
涼はやっぱり僕とは真逆で心配性なようで薬も準備しておいてくれた。
「もう十時か」
二日前、この世界に来た時に涼がこれくらいの時間に眠くなっていたのを思い出した。きっと昨日も僕の事を背負いながら眠気と戦っていたはずだが、僕に文句を言ってくることは無かった。
まぁ、毒舌なら吐かれたけれど。
「身体の調子も良いし迎えに行くか」
きっと身体の調子が悪くても迎えに行ったとは思うけれど、自分に対する言い訳としてそう呟いて僕は駅に急いだ。
迷うことなくホームへ向かうとベンチに横たわる人影が見えて、僕はすぐその人影に駆け寄った。
「おい、涼」
最初から分かっていたけれどベンチの上に横たわっていたのは涼だった。
昨日の僕のように風邪か何かで倒れているのではないかと心配になったけれど、どうやら涼はただ眠ってしまっているだけのようだった。
「ったく、心配させるなよ」
昨日僕が涼にされていたように僕も涼を背負って駅を出た。首元に涼の寝息が当たり何ともくすぐったかった。
「りょ、う?」
駅を出てから五分ほど経つと僕の背中からそんな声が聞こえた。
「涼、起きたのか」
「こんなことをして身体は大丈夫なの?」
「絶好調とは言えないけど涼のおかげで随分と良くなった」
「そう」
僕の背中で再び眠ったという訳ではないだろうけれど、しばらく僕と涼の間に沈黙が訪れた。元の世界なら風の音や車のエンジン音が気まずさを少しだけ和らげてくれるけれどこの世界では気まずさが和らぐことは無く、ただただ僕の足音と二人の呼吸音だけが不規則なテンポで妙な空気感を作り出していた。
「重いなら降りるけれど」
「重くは無いけど、僕に背負われるのは嫌か?」
「そんなことは無いわ。むしろ乗り心地が良くて最高よ」
褒めてもらった、のだろうか? 少なくとも毒舌ではないのは何となくだけど理解した。
「昔を思い出すわね」
「昔?」
そんな事を言われても元々住む世界が違う僕と涼が昔の記憶を共有するなんてことは無いはずなのだが。
それは涼もすぐに気付いたようで、
「ごめんなさい。昔、涼の様な男の子と遊んだことがあって、涼と会ったのはこの世界が初めてなのにおかしなことを言ったわ」
と、訂正した。
でも、僕は涼の言っていることが分からなくも無かった。涼と同じように僕も過去に涼の様な女の子と遊んだ記憶がある。それが涼本人では無いとは当たり前だが分かっているけれど、それでも涼と一緒にいると何故か時折懐かしい気持ちになる。何なのだろうとても不思議な気持ちだ。
唐突に思い出したその女の子の事を考えながら僕はその女の子と似ているようで似ていない雰囲気を持つ涼を地面に降ろすことなく家に帰ってきた。
家に帰るなり涼が部屋で忙しなく何かを探しているのを横目で見ながら私は寝室の扉に背中を預けて涼に似ているようで似ていないあの男の子に関する記憶を思い出してみた。
三十分ほど考えてみたけれど、その男の子に関する記憶は核心に触れようとすると何者かに封をされているかのようにぼんやりとし始めて思い出すことは出来なかった。
「あった」
涼はようやく探し物を見つけたようで、私の世界だったら近所迷惑になりそうなほど大きな声でそう叫んでいた。どうやら涼が捜していたのは縦五センチメートル、横十センチメートルほどの画用紙で出来た紙切れだった。
そう言えば、あのくらいのサイズの紙切れを私も持っていたような気がする。それが一体何であるのかは思い出せない。
「涼も部屋で探し物か?」
「まぁ、そんなところね」
「それなら片付けは頼む。僕はあっちの部屋で寝るから」
病人と言う立場を存分に利用して面倒くさい事を押し付けてくるなんて。でも私とは違って出し方が綺麗なおかげで散らかっているとは言い難いし、私の探し物さえ見つかれば十分とかからないくらいで片づけることが出来そうだ。ただ、この出ている物の中から見つけることが出来ればだけれど。
結論から言うと目的のものは五分とかからずに見つけることが出来た。涼が綺麗に散らかしてくれていたおかげで私が散らかす必要は無く片付けも想定通り十分前後で終わらせることが出来た。
「切符、なのかな?」
片づけを済ませてポケットに仕舞っていた探し物をよく見てみると、ピンク色の画用紙に『きっぷ』と多分子供の頃の私の字で書かれていた。しかし、『ぷ』という字の中央にある『う』の部分が鏡文字になっていて過去の自分が犯した失敗を可愛らしく思いながらもほんの少しだけ恥じた。
裏面を見てみると印刷されたような文字で『往復券 残り1回』と印字されていた。私の記憶ではこんな手の込んだことをした覚えはない。
「一応、持っておこうかな」
この切符をこの世界で思い出した事と涼や私がこの世界に来た時に乗っていたのが列車で会った事はとても偶然とは思えず、私はその『きっぷ』をこの世界に来た時に着ていた制服のポケットに仕舞ってから就寝した。
どんなに遅くとも一週間以内には元の世界に帰ることが出来ると思っていたけれど、この多重世界にやって来てから一ヶ月が経とうとしていた。
いつの間にか新しいものが供給されているスーパーがあるおかげで僕たちはこの一ヶ月間食べ物に困ることなく生き延びることが出来た。しかし、僕たちが元の世界に帰るために必要な黒い列車は一向に現れなかった。
そうして、この世界に来てから一ヶ月目となる日の朝。
「ついに、ついに、ついに来たぁぁぁ」
この世界に来て一番大きな声を上げた涼と言う名の目覚ましで僕は目を覚ました。
「涼、うるさい」
一ヶ月前は関係にお互い距離感があったけれど、一ヶ月も一緒に暮らしていると僕たちの関係は次第に兄妹または姉弟の様なものになっていた。
「見てよ。ほら、これ」
「あぁ、よかったな」
僕は顔色一つ変えずにいつもの大人っぽい口調を忘れてはしゃいでいる涼の胸を見た。この世界に来て一週間までの僕なら腰を抜かして驚いただろうけれど、涼のAほども無かった胸がDほどに大きくなったところで驚いたりはしない。
その原因と言うのはこの世界側にあり、この世界はほぼ毎日僕たちに何かしらの変化をもたらし続けて来た。初日の入れ替わりが終わった翌日には僕が涼そっくりの少女に女体化するなんてことが起きたし、涼が小学三年生程の身長に縮んだり、僕が二人になったりした事もあった。
そんな一ヶ月を過ごしていたのだから、大層喜んでいる涼には悪いけれど今更この程度では驚かなくなってしまった。
「どう?」
「普通」
どうせ明日には戻ってしまっているのだろうからドヤ顔でこちらを見てくる涼を軽くあしらって僕はさっさと制服に着替えた。
「ほら、涼も早く着替えて駅に行くぞ」
「わ、分かっているわよ」
僕たちがまだこの世界に居る時点で分かりきっているけれど黒い列車を見つけることは出来ていなかった。来たばかりの頃、早く元の世界に戻ろうと思った僕は
「この線路を歩いて行ったら帰れるかもしれないな」
と、三日目から共に駅で黒い列車を待つことにした涼に言ってみたことがある。しかし涼は
「帰る方法は黒い列車に乗る以外に無い」
と、無駄に綺麗な真顔でそう言って来た。
「あっ!」
「うるさいわね。いきなり大声を上げてどうしたのよ」
涼も今朝大声を上げていたのだからお互い様だと思うけれど何故か強く怒られた。
「家に置いて来たはずのお守りが制服のポケットに入っていたから驚いただけだよ」
僕がこの世界で熱を出した日だったかに見つけたこの『きっぷ』を制服のポケットに入れた覚えはないのだけれど、家で落とした時に涼が制服に入れておいてくれたのだろうか?
「まぁ、お守りを持って来るのは言い事だと思うわ。私も常日頃からお守りを持ち歩いているし」
「もしかしたら、僕の持ってきたお守りのおかげで黒い列車が来たりしてな」
この一ヶ月、神や仏に願っても叶わなかった願いが小さい頃に作ったお守り代わりの『きっぷ』ごときで願いが叶うとは思っていないけれど。
それにしても、僕がこの『きっぷ』を思い出そうとすると度々幼い僕と共に記憶の中に現れるあの女の子は誰なのだろう? 思い出そうとするとその部分だけ何者かに閉ざされたかのように記憶が途切れてしまう。
「『往復券 残り1回』か」
子供の時に作ったものだったはずだけれど裏面には何かで印刷したかのように整った字でそう印字されていた。
「黒い列車もこの『きっぷ』一枚で出られたら良いのに」
そんなくだらない事を考えている間に太陽は沈み、街灯の明かりこそあるけれど暗くなっていた。
「涼、今日はもう帰ろう」
この二週間ほどから僕たちは遅くまで来るのかわからない列車を待つ事をやめた。これは僕の案ではなく就寝時間が決まっている涼が僕に言って来た提案だった。
この世界が僕たちに仕掛けてくる様々な変化で疲労していた僕としてもその提案には賛成だった為、僕がこの世界に来た時に黒い列車から降車した時刻と大体同じ十時前後までと時間を決めて僕たちは出来るだけ一緒に駅に張り込んでいた。
「今日も来なかったな」
僕は僕の眺めていた1番線の真後ろにある2番線を眺めていた涼にそう呟いてベンチから立ち上がった。
「はぁ」
溜息か、はたまた欠伸か判断は出来なかったけれど涼がいつも通り眠たそうにしていることだけは分かった。
「帰ったら冷たいシャワーでも浴びたらどうだ?」
「えぇ、そうさせてもらうわ」
僕たちの視線が線路からホームを下る階段に向くと今まで一度だって鳴ることがなかったスピーカーから随分と久しぶりに効く列車の到着音が流れた。
『まもなく1番線、2番線に列車が参ります。白線の内側に下がってお待ちください』
忘れようと思っても忘れることの出来ない、でも忘れていた全身の毛を逆立てるようなアナウンスが聞こえた僕は咄嗟に1番線を見た。何度となく言うまでも無く僕と真逆の性格をしている涼は恐らく2番線を見た。
耳を澄ませると上りの線路と下りの線路の両方から同じ速度、同じテンポで線路を鳴らしてやって来る列車の音が聞こえた。
僕は2番線を見なかったし、涼も1番線を見てはいないだろうけれど、僕らの前には例の一両編成の黒い列車が一台ずつ停車した。
列車のドアが開かれると僕の意識は自然と黒い列車の中に引き込まれて行った。涼に何か一言言うべきだと頭ではわかっていたけれど口に出すことは出来ないまま僕は、僕たちはそれぞれ黒い列車に乗車した。そうして、互いが互いの顔を合わせることがないまま黒い列車の扉は閉まりゆっくりと静かに発車した。
行きがそうであったように帰りも僕は次の駅に着く前に眠りに落ちてしまった。
目が覚めると当たり前の様な気もするけれどごく普通の列車の中だった。服装は制服、手元にある携帯電話の日付は僕があの世界で暮らしていた分だけ巻き戻っていた。そして、まだ発車してから一分と経っていなかった。
「夢、だったのか?」
寝ていた訳ではないと思うけれど、ぼんやりとした頭で唯一ハッキリとしていたのは涼に別れを言う事が出来なかったという後悔だった。
「夢だったなら必要無いか」
そう思ったが、仮にあれが夢だったとしても僕の中では一ヶ月間を共に過ごした他人であり、姉であり妹のような存在で、もう一人の僕だった涼に別れの挨拶が出来なかったのは何故だか涙が溢れてしまうほど悔しかった。
列車にはあの時と同じように僕以外の乗客が乗ってくることは無かったけれど、変な世界に向かうことは無く順調に僕の住む町へと向かっていた。
しばらく窓の外の真っ暗な景色を眺めているとその景色にはこの列車には乗っていない涼の姿が映った。
涼も僕と同じように列車の中で目を覚ましたようだけれど、僕とは違って意識がはっきりとしているようで折角大きくなっていた胸が元のサイズに戻っていたことに即座に気付いた。
「なんで、どうして戻るのよ」
実際には聞こえなかったけれど僕はきっと涼がそう言っているのだろうと何となくだけど理解できた。
「ただいま」
家族が居なくなってから、涼と言う一時的な家族が出来ても一度として言った事が無かった帰宅の挨拶を私は十数年振りに口にしていた。
「お帰りなさいですよ」
家の中から返ってきたその言葉に私は何となくだけど理解した。
私が勝手に元の世界に戻ったと勘違いしているだけで私はまたどこかの多重世界に迷い込んでしまったらしい。
「って、咲ちゃん?」
私の想像は間違っていた。
「涼ちゃん、随分とお帰りが遅かったですね。もう少しでお料理が冷めちゃうところですよ」
「どうして? ……って、あぁ」
こちらの世界ではあまり時間が経っていないようだけれどあちらの世界で一ヶ月も余分に過ごしていたからこの世界での今日、我が家にマイエンジェル咲ちゃんが手料理を作って待っていてくれることをすっかり忘れていた。
「テーブルに料理を準備するですから、早く着替えてくると良いのですよ」
マイエンジェル咲ちゃんが小さくてぷにぷにしたおててで料理を運んでいる間に私はあの世界で赤の他人であり、兄であり、弟のような存在で、もう一人の私だった涼と共有して使っていた寝室で制服から涼の前では絶対に着なかった学校のジャージに着替えた。
着替え終わると制服から『きっぷ』が落ちていたことに気が付いた。『きっぷ』の裏側に印字されていた往復券は残りが0回になっていたけれどその上からクレヨンのようなもので斜線が引かれていて幼い『涼』の字で『きげん えいえんにゆうこう』と書かれていた。
やっぱり『う』が鏡文字になっていて全てが真逆だったというのにこんな所で一致する辺り、流石もう一人の私だと思う。
「涼ちゃん、準備出来たですよ」
「うん、今行く」
また使う日を夢見ながら私はその『きっぷ』を机の中に大切に仕舞いこんだ。
気が付くとそこは僕の知っている世界ではなかった。
『でも、私は何となくだけれどこの世界を理解していた』
幼い頃に別の世界の僕と出会った
『約束の場所』
『涼くん、またここであそんでくれる?』
「うん、いいよ。涼ちゃん」
そこは僕と涼『涼と私』しか知らない二人だけの世界だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます