姫路涼の雲隠れ
これは僕がまだ六つの時の話だ。
僕はその日、母親と喧嘩をした。喧嘩の内容は僕の残しておいたお菓子を食べたとか、食べていないとか、その様なとても他愛のないものだったような気がする。
「もう、母さんなんか知らない」
僕は何も持たず、何も考えずに幼いながらも無駄に立派な勢いだけで家を飛び出して何処に向かう訳でもなく白昼のただただ住宅街を彷徨った。そんな時に彼らと出会った。
「んっ、んん~」
金目のものを持ち歩いていた記憶は無いが、僕は背後から忍び寄って来た大人に口を押えられながら抱かれてこの住宅街ではよく目にするような銀色の自動車に押し込まれた。本当ならばここで恐怖のあまり泣き叫ぶのだが、この時の僕はこの状況に喜びを感じていた。母親から遠ざかるのがこの上なく嬉しかったのだ。
僕のその様な心情を知る訳も無く、僕を拉致した大人は車の運転席に座るもう一人の大人に指示を出して車を発車させた。
「ガキなんか誘拐してどうするつもりだい?」
運転席から荒々しいがとても拉致している最中の犯罪者とは思えない優しい女性の声が聞こえた。そんな女性に対して僕を車に押し込んだ大人は子供だった僕でもわかるほど下衆い笑い声をあげた。
「子供を舐めちゃいけない。子供と言うのは親にとって宝と言っても過言ではない。そんな子供を人質に金を要求することが出来る」
「お前は良い大学出ている癖にバカだねぇ。そんなことをしたらどうぞ捕まえて下さいと言っているようなものじゃないかい。しかも一度しか使えない。この子にはしばらく大人しくしてもらう。そして、しばらくしたら私たちの手となって働いてもらうのさ」
女性はそう言うとラジオをかけ始めた。意図していた訳ではないだろうが、ラジオからは子供向け音楽特集として僕がよく保育園で耳にしていた音楽が流れていた。
車は僕を拉致してから三十分ほどで停車して、僕はその二人の子供であるかのようにごく自然に車から降ろされ一階建ての小さな家に入れられた。
「今日からここがあなたの家だから。大人しくしていなさいよ」
「ところでお前、さっきから大人しいな。怖いのか?」
僕は首を横に振った。僕のその対応に男性は一瞬驚いていたが、すぐに笑みを浮かべて僕の頭をわしゃわしゃと撫で回した。人に頭を撫でられるという行為は今まで不快だと思っていたが、この時だけは何故かとても嬉しかった。
「お前、何て名前だ?」
男性は僕にとても優しくそう聞いてきた。すると、男性の頭に声だけは優しい女性の蹴りが入り、ゴツンというとても鈍い音がした。
「本当にバカだねぇ。ガキに対しても名前を聞く時は自分から言うのが筋でしょうに。あたしは川野流ってもんだ。こっちのバカは真矢咲。男みたいな名前と女みたいな名前で分からなくなるかもしれないけど、まぁ頑張って覚えてくれ。で、あんたは?」
「姫路、姫路涼」
僕は誘拐犯に対して一切の警戒感を出さずに個人情報を易々と流出した。
「そうか、涼。良い名前だな」
僕の名前を覚えた咲は僕の名前を何度も連呼しながら僕の頭を何度も撫でた。流は「やめろ。バカ」と咲を罵っていたが咲はそれを無視して十分ほど僕を撫でていた。でもやはり咲に撫でられて不快に感じることは無かった。
この日から、家から雲隠れした僕と誘拐犯の奇妙な生活が始まった。
誘拐初日の夜、咲は見知らぬ場所で眠りに就くことが出来ない僕に昔話の代わりとして、僕を誘拐した経緯について話してくれた。
「俺たちはあの時、空き巣の下見としてあの場所にいた。あの場所は防犯カメラが一つも無くて裏社会でもあまり知られていない空き巣スポットらしいから空き巣初心者の俺たちには絶好の場所だった。でも警察に捕まりたくなかった俺たちは念入りに下見をした。涼を見つけたのはその時だった。気付いていたか? その時の涼は家には帰りたくないけど行く当てがないそんな顔をしていた。だから誘拐した」
犯罪者らしいとても身勝手な理由だった。それでも六つの僕は自分の気持ちを分かってくれる大人が居てくれたことを純粋に嬉しく感じていた。
そして、咲は「流には内緒だぞ」と続けた。その流は同じ部屋で荒々しい喋り方をしているとは到底思えないほど可愛らしい寝息をたてて眠っていた。
「あいつ『ガキなんか誘拐してどうするつもりだい?』なんて言っていたけど、涼を誘拐しようって言いだしたのはあいつだ。これはあくまで俺の憶測だけど、あいつは涼を昔の自分、家出をしたけど誰にも見つけられないまま飢え死にしそうになった自分と重ねている。まだ小さい涼にそんな思いをして欲しくないとか思ったはずだ。涼が帰りたくなったらいつでも家に帰すからな」
僕は横になりながらも咲の言葉に対して首を横に振った。咲は暗い部屋の中で見えなかったのか、僕のその仕草には一切触れずに「そうだ」と続けた。
「家に帰っても俺たちに誘拐されたなんて言うなよ」
「大丈夫、僕は帰らないから」
今度は言葉で伝えたけれど咲からの返答は無かった。しばらくすると咲と流の寝息が子守歌代わりのハーモニーを奏で始めて僕も眠りに誘われた。
その日見た夢を僕は今でも忘れることなく覚えている。母親と喧嘩をしていたあの時間が夢となっていた。
『涼、嘘を吐かずに言いなさい。あなたが妹のお菓子を食べたのでしょう?』
食べていない。僕は何度も反論したが母親は全く信じてくれずに罪のない僕を延々と攻め続けた。
『あなたが、あなたが、あなたが』
母親は僕の名前を呼ぶことなく何度も何度も僕を『あなた』と呼び、起こしていない罪に対する謝罪を要求してきた。
「もう、母さんなんか知らない」
僕はそう言って家を飛び出した。母親は追ってこなかった。扉から顔を覗かせる事も無かった。窓から僕の姿を見る事も無かった。全て現実と同じだった。そうして僕は住宅街を彷徨い……。
「涼、涼」
とても優しい母親のような声で呼ばれた。
「ようやく起きたか。朝ごはんが出来ているから早く食え」
「涼、よく眠れたか?」
流と咲は目覚めたばかりの僕を快く迎えてくれた。そんな気持ちの良い朝は物心ついてから初めてだった。
「早く食えよ」
夢の中で僕の名前を優しく呼んでくれたその声は今日もやっぱり優しくてとても荒々しかった。
「いただきます」
「それにしても妙だな」
僕と一緒に朝食を食べ始めた流は忙しなくテレビのチャンネルを変えながら腹立たしさと安堵を兼ね備えた口調でそう呟いた。咲も一人だけトーストを加えながら新聞とパソコンを交互に見ながら「おかしいな」と呟いていた。二人は前日の夜からこのような行動を取っていた。
今となってその意味が分かった。流と咲はテレビ、新聞、インターネットから僕が行方不明になった情報を探していたのだ。でも、その情報が公に発表されることは無かった。その日も、その翌日も、一年が経っても。
そんな事とは知らず、流と咲は咲の出勤時間ぎりぎりになるまで僕の住んでいた住宅街で起きたニュースを探した。その姿を見て僕は二人の事をとても誘拐犯として見る事は出来なかった。
咲が誘拐という大層な事件を起こしたのにもかかわらず何食わぬ顔で仕事へ向かうのをこれまた何食わぬ顔で見送った流は荒々しい口調には似合わないエプロン姿で家事を始めた。
「お母さん、僕も何か手伝う」
「あぁ?」
荒れた口調で睨まれて僕は初めて気が付いた。僕は咲の事をうっかりお母さんと呼んでいしまった。
「家が恋しくなったか?」
僕は思い切り首を横に振った。それを見た咲はとても悲しそうな顔で「何だよ。それ。涼は誘拐されているって理解しているのか?」と笑みを浮かべながら言った。だが、その目は全く笑っていなかった。
「涼の親がどうだったか知らないけどこの家では家事をするのはあたしで儲けるのは流の役目だ。涼の役目はよく食って、よく寝て、立派な大人に成長することだ。なんて、犯罪者に言われたくないだろうけど」
そう言うと流はテレビを付けて「これでも見ていな」と録画されていた僕の知らない昔のアニメを流してくれた。
テレビを見ているうちに僕は眠ってしまったようで、目が覚めた時には昼の一時になっていた。そして僕は何故だか布団の中にいた。
「寝るのが役目だとは言ったけど寝すぎじゃないかい?」
「ごめんなさい」
僕がそう謝ると、流はとても申し訳なさそうな顔で「別にそれくらいで謝るなよ」と呟いた。でもやっぱり口調は荒々しかった。
「涼、飯食って寝ていただけだから腹減ってないだろ?」
流の問いに僕は腹の音で否定した。その音を聞いた流はため息交じりに「まじかよ」と呆れたように呟き、苦笑をしながら用意してくれていたらしい昼食をテーブルの上に置いてくれた。しかし、テーブルに置かれた昼食は一人分ではなくて二人分だった。
「どうした? あたしも別に腹は減ってなかったから涼が起きて腹減っているみたいなら一緒に食べようと思っていただけだ」
流はそう言っていたが、僕も六つながら流が一人で食べるのはかわいそうだと思ってわざわざ僕が起きるのを待っていてくれたことに気付いていた。
「いただきます」
「おう、いっぱい食え」
前日の夜、この日の朝、そして昼と流の作ってくれた料理を食べたが、どれも一言では言い表せないほど美味しくて幸せな味だった。あと、意識はしていないだろうけど僕の口に合った味付けでこのままこの家の子供になりたいと強く思った。
その日の夕方、仕事から帰って来た咲は僕にお土産を買ってきてくれた。そのお土産は僕の着替え用の服と下着だった。服は少し大きめだったけれど、流が僕に買ってきてくれたものはどれも僕の好みに合っていた。
あっという間に誘拐から一ヶ月の月日が経ってしまっていた。この一ヶ月間、流と咲は自分が誘拐犯であることを忘れ僕を育て、僕が行方不明になっていることを証明する情報を日課のように毎日探していた。先にも述べて分かっていることではあるが、僕が雲隠れしたことは公にはされていなかった。
「出掛けるぞ」
いつになく荒々しい口調で珍しく優しさのない声の流に連れられて僕は一ヶ月ぶりに家の外へ出た。
車にはいつ用意したのかチャイルドシートに座らされ、ここに来た時のように流の運転で三十分ほど車を走らせた。そして車は僕が一ヶ月前まで住んでいた住宅街近くの公園前に停車した。
「家の場所は覚えているだろ? 案内しろ」
流は飲酒をしている訳でもないのに酷く荒れていた。僕は一緒に暮らしてから初めて流に怯えながら隣を歩く咲の手をギュッと握って二人を家へと案内した。
公園から六つの僕の足で十五分ほど歩いた場所、そこが僕の住んでいた家だった。
「ここが涼の家か」
「悔しいが、俺たちの住んでいる家とは比にならないほど立派な家だな」
「そんな事言っている場合じゃねぇ」
流は首を横に勢いよく振って本来の目的を思い出し、僕が住んでいた家のインターホンを押した。数秒の沈黙の後、家の扉が開かれた。そこから出て来たのは間違いなく母親だった。
「お母さん」
僕は母親をそう呼んだ。その瞬間、たった一瞬だったけれど母親はとても嫌そうな顔をしていた。その表情は流と咲の目にもはっきりと映ったのだろう。流は小さく舌打ちをして、咲は僕の手をほんの少しだけ強く握った。
「涼、そちらの方々は?」
僕は一ヶ月間も家に帰っていなかったというのに母親は僕を心配する素振りを見せるどころかあたかも今帰って来たばかりのような自然さを漂わせて淡々とそう言った。その言葉を聞いた僕は直感的にこの母親は流の嫌いなタイプの人間だと思った。
「見た瞬間に気付いているだろ? あたしたちは涼を誘拐した誘拐犯だ。あんたが警察に届けていないみたいだから公にはなってねぇみたいだが」
「こんな所で立ち話をするのもあれですからどうぞ、中へお入りください」
母親にそう勧められ僕たちは「お邪魔します」と告げて家の中に入った。流も咲も僕が自宅に帰ってきたというのに「お邪魔します」と言った事に関して言及してくることは無かった。
「どうぞ、お掛けになってください」
「失礼します」
母親の勧めに対して流と咲が礼儀正しくそう告げる。今思い出してもそれはとても誘拐犯と被害者の構図には見えなかった。
母親は僕たちが流と咲の家には置かれていないソファに座ると「お茶をお出ししますね」と台所に向かい紅茶を来客用のカップに淹れて僕たち三人に出した。流と咲はそのカップに手を出すことは無くただじっと母親を睨みつけるように見つめた。
「それで、誘拐犯が何のご用でしょうか?」
「まどろっこしいのは嫌いだ。だから単刀直入に言わせてもらう。あんた、涼の捜索願を出して無いだろ?」
流の問いに対する母親の解答はとても軽い、軽々しいものだった。
「はい」
そのたった二文字は、見た目や口調に反してとても優しく懐の広い性格の持ち主である流の堪忍袋の緒を切った。
「てめぇ。涼は、涼はお前のガキだろうが」
流はガラスのテーブルを叩き、母親に向かって一ヶ月前から着実に溜まっていたのであろう母親に対する怒りの炎を吐き散らした。咲も同じように堪忍袋の緒が切れていたはずだが、咲は僕をそっと抱くことで怒りを抑えているようだった。
しかし、母親は顔色一つ変えずにこう返した。この時、僕は咲の咄嗟の判断で耳を塞がれたが母親の口の動きから何を言ったのか一字一句正確に感じることが出来た。
「涼は私の本当の息子ではありません。涼は、涼が生まれて間もない頃に他界した私の姉の息子で私は嫌々涼を引き取って育てていただけです。私は涼がこの家で生活していることが嫌で、嫌で仕方が無かった。だから、家出をしようと、誘拐されていようと、それこそ道端で餓死していようとどうでもよかった。だから捜索願も出さなかった。涼の事はあなた達が責任を持って育ててください。そして、私の前に二度と現れないでください」
母親は立ち上がると流に封筒を差し出した。流は何かを悟ったようにその封筒を奪うように受け取り「帰るぞ」と僕たちに告げた。この何年か後にふとこの封筒の事を思い出した僕が咲にこの封筒の中身を訊ねるとあの中には僕が流の養子になる為の書類などが入っていたらしい。
「お邪魔しました」
僕と咲は母親だった人にそう告げて家を出た。最後に僕の家だった所から出た流は、
「いくら金を支払われても二度とお前みたいな奴の前に現れるものか」
そう告げて十五分ほどかかるはずの道のりを八分で歩き僕たちは車へ戻った。
「ごめんな」
出会ってから初めて流に謝罪された。そして、強く抱かれた。加減がわからないのかとても強く抱かれていたけれど咲の頭の撫で方のように嫌な気はしなかった。
帰りの車は咲の運転だった。助手席には流が座り、運転席の後ろに備え付けられたチャイルドシートに僕が座った。発車してから十分が経つと車は赤信号に捕まり停車した。その時まで沈黙していた車内に突然咲の咳払いが響いた。
「あのさ、俺たちそろそろ結婚しないか?」
咲はそう言うと着ていた上着のポケットから小さな箱を取り出して流に渡した。流はそれをそっと受け取り、僕には見えないようにその箱を開いていた。僕は見ることは出来なかったが、それはきっと婚約指輪だったのだろう。
「涼、今日は何が食いたい? たまには咲の金で外食するぞ」
流は荒々しくい口調で、そして優しく涙ぐんだ声でそう言いながら笑った。
「僕は」
答えを出せなかった。あの家で過ごしていた中で僕の意見を聞いてくれたことは一度も無かったから僕が意見することは無かった。
「どうした? 家族に遠慮なんかするな」
「涼、少しは遠慮してくれないと今後の生活的な意味で困るからな」
「じゃあ、ハンバーグ。は、ダメ?」
今までは少しだけ他人行儀だった僕たちは初めて互いに気を許して家族のように和やかな会話をした。その会話はあの家で過ごしていたら決して叶う事のない夢の様な会話だった。
「ダメな訳あるか。涼、この辺で一番高いハンバーグ食いに行くぞ」
「バカ言うな。少し高いファミリーレストランが限度だ」
とても和やかな会話をしながら僕と二人の誘拐犯は家族へとなって行った。
家族になってから十二年が経ち僕は無事に高校三年生へと進級し、卒業の日を迎えることになった。
「あれ、涼の家族か?」
クラスメイトの一人が僕の家族を誰にも気づかれないようにこっそりと指差した。その指先に居たのは大人気なく泣いている流と呆れたようにハンカチを渡す咲だった。
「僕の大切な家族だ」
きっとこれからもそれは変わらない。僕が二十歳になっても、結婚をして家庭を持っても流と咲は血の繋がりこそないものの心で強く繋がった自慢の家族だ。
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