姫路涼の永遠
長い年月を生きてきた中で、恋と言うものをしたのはあれが最初で最後だった。
これは、この世に生を受けてから二百五十年ほど経ったほんの数十年の出来事だ。
その日、僕は二百四十八歳の時から五年働いた都会の仕事をクビになった。一つ知っておいてもらいたい事がある。それは決して僕が不祥事を起こしたわけではないという事だ。
僕は単純に会社での業績が悪かった。ただそれだけだった。ただそれだけでクビになるなんてことは社会では当たり前だ。同じ経験を百年ほど前にも経験した。百年前は高校での出来事だったけれど。
今は過去の話は置いておくとして、僕は職を失った。しかし僕も馬鹿ではないので、職を失った時に生活できるように百年ほどアルバイトやパートでこつこつ貯めた僅かな貯金と今暮らしている都心のマンション程ではないけれど立派な家を用意してある。という事で早速翌日から僕はその家がある都市部から遠く離れた山奥にある田舎に向かった。
余談だが、今まで住んでいたマンションは十万円ほどで貸し出して家賃収入を得ることにした。
元々少なかった荷物は四泊五日の出張用キャリーバッグに全て詰め込み、僕は午前中最後の普通列車で二時間ほど揺られた。僕が下車したのはどこか懐かしさを感じさせる町並みが続く田舎町だったが、僕が向かう予定の田舎はそこからバスで一時間ほど走ったところにある山を越えなくてはいけなかった。
僕はその山の手前まで向かうバスに乗車しようと思ったのだが、残念な事にその日のバスの運行は午後十二時七分で終わっていた。
仕方がないので今日泊まることの出来る宿を探すことにすると、バス停のすぐ近くに居酒屋と兼業の民宿があった。
「ごめんください」
民宿の扉には『只今準備中』の札が提げられていたが『空室あり』の看板もうっすらとした文字ではあったが看板として置かれていたので持って歩くには邪魔だと思うほど大きなキャリーバッグを持ってお邪魔した。
「営業は五時からよ」
中は思った以上に居酒屋染みていて民宿と兼業している雰囲気は一切感じることが出来なかった。
「お酒を飲みたいのではなくて、一泊だけお部屋をお借りしたいのですが」
「あっらぁ、民宿の方のお客様? もう十年以上民宿に泊まる人がいないものだから、近所の酒飲みが来たのかと思ったわ」
民宿の女将は「ごめんなさいねぇ」と僅かに酒焼けした声でそう言うと、店の奥から埃の被っていた後の残る『宿泊リスト』と印字されたテープが張られているファイルを持ってきた。
「えっと、ここに名前と住所と電話番号……やっぱり名前だけでいいわ」
毎回同じことを言っているのだろう。宿泊リストには住所と電話番号の欄は作ってあるものの、過去十二名の宿泊者もその欄は空白になっていた。
「値段は朝食込みで、二千円先払いね。夕食は無いけどこの辺だとここくらいしか飲み食いできるところはないから食べるなら別料金だけど?」
「じゃあ、夕食はここでいただきます」
「じゃあ、適当に席を空けておくから五時から深夜二時までの好きな時間に来て。じゃあ、まず二千円ね」
朝食付きだとしても安すぎる値段設定に若干驚きつつも、僕は二千円を二千円札で支払って部屋のカギを受け取った。
「部屋は奥の障子を開けて、左手にある『松』って書かれた部屋だから。それと、明日の長足作らないといけないから出発する時間は?」
バス停に書かれていた明日の朝一の発車時刻は六時十二分だった。そこから逆算して、
「六時までには出ようと思っています」
「それじゃあ、五時ごろ朝食作るわね」
「ありがとうございます」
「ごゆっくりどうぞ」
女将の言った通りに見せの奥にあった障子を開くと左手側から時計回りに『松』と書かれた部屋、『竹』と書かれた部屋、『スタッフルーム』と彫られた木の板が付けられた部屋、『梅』と書かれた部屋があった。僕の泊まる部屋の名は『松』らしいので『松』と書かれた部屋のドアに渡されたカギを差し込み、扉を開いた。
田舎の民宿だから松の部屋でも地上デジタル放送のチューナーが取り付けられたブラウン管テレビか悪くてもラジオ、最低限テーブルと座布団が置かれているだけだと思っていたのだが、驚くべきことにその部屋は二十畳ほどの広さがあり、某有名企業の薄型テレビに加えてキッチリとメイキングされたダブルサイズのベッドが置かれていた。
はっきり言ってこの部屋は二千円では安すぎるほど快適な空間だった。
試しにテレビを点けてみると、田舎故に地上波の番組は三つしかなかったがその代わり衛星放送を視聴可能だった。
そこまで充実していて二千円という安さに何度も驚きながら衛星放送を楽しんでいるといつの間にか居酒屋の営業が始まるらしい午後五時を一時間以上も過ぎていた。
腹が減るという事は僕の体質上有り得ないが、扉から僅かに香る酒や串焼きの香りで僕の腹が減っているような気分になった。
女将は席を用意してくれると言っていたので、僕は財布から三万円ほど抜き取って酒や串焼きの香り漂う居酒屋の方へ足を運んだ。
「いらっしゃい、ここの席開けておいたから座りなさい」
部屋から出て来たばかりの僕を即座に見つけた女将は、そう言うと女将の目の前にあるカウンターの席を僕に勧めた。
ほぼ女将の本業と言っても過言ではない居酒屋はこの周辺に暮らす人たちだろうか? 年齢層の高い人たちが集って大声で笑い合いながら酒を飲み交わしていた。
「姫路さんだっけ? ビール? それとも日本酒?」
あまり居酒屋には行かないが、一杯はドリンクを頼まなくてはいけないのだろう。女将はビール瓶と酒瓶を僕の前に置いた。
「ごめんなさい。アルコールは得意ではないのでウーロン茶を頂けますか?」
「兄ちゃん珍しいな。都会っ子か?」
女将がウーロン茶を入れてくれるのを待っていると隣に座っていた男が僕の顔をまじまじと見てそう言った。あまり酒の香がしてこないからまだあまり飲んではいないらしい。
「生まれは田舎です。昨日までは長い間、都会に暮らしていました」
あと、あなたよりも二百歳ほど年上ですとは口が裂けても言えない。というのは冗談だが、それを言ったところで信じてはもらえないだろう。
隣の男に今に至るまでの話を聞かせてくれと言われたので少し要約して語ると、何故か同情されて鶏のから揚げを奢って貰った。
「この人も二十年前はサラリーマンだったらしいけど会社のお金を持ち逃げして逮捕されてその後この町に」
「この町に来てからは真面目に働いているぞ」
「ただの介護施設の事務だろう?」
僕はウーロン茶しか飲まなかったけれど他の客は時間が経つごとに酔いが回り始め、とても話してはいけないようなことも大声で話していたりした。そんな空間を酔いが回ることがないまま楽しんでいるといつの間にか日付が変わってしまっていた。
「そろそろ寝るのでお会計良いですか?」
「えっと、姫路さんは二千百六十円ね」
「大きいのしか持って来ていないので申し訳ないですけど、一万円で」
「そんなこと気にしなくて良いわよ。はい、七千八百四十円のお釣り。明日の事だけど、五時で良かったわよね?」
「はい、五時で大丈夫です」
「分かったわ。お休み」
「お休みなさい」
誰かにお休みと言われたのは何年振りだろうか。いや、何年なんてものではない。百年振りくらいに言われたのではないだろうか。
僕が部屋に戻ろうとすると、泥酔状態の常連客の人たちも見ず知らずの僕に「お休み」とわざわざ声を掛けてくれた。
その日は随分と良い気分で眠りに就くことが出来たのだが、目が覚めたのは眠りに就いてから二時間ほどが経った三時十九分だった。
「まだ、早いみたいだな」
二度寝をするには十分な時間ではあったが、眠気は起きた途端に永遠の彼方へ消失してしまったらしく目を瞑っても夢の世界に戻ることは出来なかった。
「仕方ないな」
本当はバスの中でゆっくり読もうと思い持ってきた本を読むことにしよう。十八年前に作家デビューを果たした真矢咲という人の『水色の雨傘』という作品だったはずだ。
百二十ページほど読み進めると時刻は五時七分前になろうとしていた。
「姫路さん、起きています? ご飯の準備できましたよ」
「起きています。すぐに行きますね」
読んでいた本にしおりを挟み、僕は二時間と五十三分前に営業を終了したばかりの居酒屋の方に向かった。
「居酒屋の営業が終わったばかりなのにわざわざ申し訳ありません」
「気にしないの。それに私は今日の仕込みをしていた所だったから」
女将は僕の前に白米、ワカメの味噌汁、焼き鮭、卵焼きというおふくろの味を出してくれた。実際に母親がこのような料理を作ってくれた記憶は残念な事に無かったが、女将の作った料理はとても懐かしい味がした。
「ごちそうさまでした。とても美味しかったです」
「そうかい。誰かに朝食を作ってあげるのは久しぶりだったから、口に合ったみたいで良かったよ」
昨晩僕が見ている間は酒を一杯も口にしていなかった酒焼け声の女将が作った朝食を食べ終えた僕は部屋で荷物をまとめ、時計が針を含めて左右対称になったのを確認して民宿兼居酒屋の『永遠亭』を後にした。
永遠亭を出てから徒歩三十秒のバス停で待っていると時間よりも七分早い六時五分に僕が昨日乗る予定だったバスがやって来た。
「おや、珍しい」
乗車すると余程この地域の乗降客数が芳しくないのか、バスの運転手がそんなことを呟いていた。
「お兄さん、そんな大きな荷物を持ってどこに行くんだい?」
バスが五か所連続で停留所に停まることなく走っていると、静寂の空間に耐えられなくなったらしい運転手は僕にそう問いかけてきた。
「終点までです」
「終点? 終点には何もない……もしかして山を越えた末本村に行くつもりか?」
「そうです。そこに実家と言うか、昔住んでいた家があって」
「それなら少し急がないといけないな。末本村行きのバスは日に一本しか走っていないんだよ」
驚いたようにそう言う運転手は停留所に乗客がいないことを良い事にバスの速度を上げて、始点から終点までおよそ二時間かかる道のりを一時間四十分ほどで到着させた。
「わざわざすいません」
「気にするな。どうせ、この時間の乗客なんていないんだ」
運転手とそんな他愛もない会話をしながら支払いを済ませ、バスを降りると運転手は僕に向けてとても五十後半くらいの男がするには見苦しすぎるほどの笑顔を見せて手を振っていた。
バスを降りてから目的地である末本村行きのバス停までは二十分ほどまともに舗装もされていない山道を歩いた。
二十分ほどの山道が終わると、途中で舗装が中断されたコンクリートの道路が現れ、その道端には錆びついていて停留所名のわからないバス停と木造の小さく古びた小屋があった。
運転手はわざわざ急いでくれたのに申し訳ない気持ちでいっぱいだが、末本村行きのバスはいつの間に時間を変えたようで、バス停には今からおよそ三時間後の時間が到着時間として記されていた。
「随分と長いな」
流石に森の中で三時間もの時間じっと待っている訳には行かないので僕は取りあえず近くにあった小屋にお邪魔することにした。
その小屋はどうやら待合小屋のようで、小屋の中にはバスを待っているのであろう女性が一人小屋の中に設置してあるベンチに座っていた。
僕は特に何の意識もせずに女性の向かいの席に座り、読みかけだった『水色の雨傘』を読み始めた。二行ほど読み進めていると、僕は違和感と既視感に似た既視感ではない不思議な感覚に襲われた。
違和感の正体は女性だった。ベンチに座る女性はバスがやって来るまでの空き時間を利用して暇をつぶしたり僕のように本を読んだりする様子が全く見受けられなかった。それだけなら僕も違和感を覚えることは無かっただろう。僕が違和感を覚えたのはこんな山の中腹の待合小屋に居ると言うのに僕の様なキャリーバッグも手提げ鞄を持っている様子も無かったからだった。
何をする訳でもなくただひたすらに俯くだけの不思議な雰囲気を持つ女性に僕はつい、声を掛けていた。
「あなたは何処から来て何処に行くのですか?」
僕の口からスラスラと出て来たその言葉は真矢咲執筆の小説『水色の雨傘』で出てくる主人公のセリフだった。
そんな僕の言葉に女性は既視感に似た既視感ではない感覚を漂わせ、不思議なほど美しい微笑みを浮かべた。
「何処かからやって来て何処にも行かない」
女性はそう言うと再び顔を下げ、何をする訳でもなく床を見つめていた。僕はそんな切なさと儚さが混在している彼女に生きてきた中で一度も感じた事のない胸を締め付けられるような感覚に襲われた。
「あなたは道を見失ったのですか?」
これも『水色の雨傘』からの抜粋だった。
「私はもう、誰にも必要とされていません。だからこうしてこの場に逃げ込んだ」
女性のその言葉には後悔の念が残されてはいなかった。そういえば、先ほど見た女性の目は二百四十八年という長い時間の中で幾度となく見て来た死を望む者の目をしていた。
そんな目をしていると知ってしまった以上、僕は女性の事をこのまま放っておくことは出来なかった。
「あの、これは一体何の真似ですか?」
僕は自然と女性の手を取っていた。そして、僕の口は勝手に動き出していた。
「誰にも必要とされていないのなら、僕と一緒に来ませんか? 奇遇な事に僕も誰からも必要とされなくなってしまった」
「あなたは何処から来て何処に?」
女性は僕が『水色の雨傘』から抜粋した言葉から抜粋して僕に尋ねた。その問いに僕は優しく笑みを浮かべてこう答えた。
「僕はあなたよりもずっと昔の過去からやって来てあなたのいる未来に向かう予定です」
告白のセリフとしては随分とキザすぎるような気もするが、何せ二百四十八年生きてきて初めての恋であり初めての告白だ。少し位間違っているくらいが初々しくて丁度良いだろう。
「どうせあなたも私の前から消えていく。消えて二度と姿を現さなくなる」
女性はまだあの目をしていた。女性は余程辛く切ない思いをしてきたのだろう。軽い言葉で女性の心を動かすことなど出来そうに無かった。だとしても僕にはとっておきの手段がある。
「僕は絶対に消えない。二度とあなたの前から姿を消すことは無い」
「皆、皆そう言った。そして皆」
「僕は不死だ。死にたくても死ぬことを僕自身が許してくれない。だから、だから僕はあなたと永遠に添い遂げることが出来る。同じ、不死の存在であるあなたと」
僕はそう言い、女性は目を見開いて僕を見つめた。
「僕と一緒に来てください。絶対にあなたを一人にはさせません」
僕は女性の手に触れた。手には、手だけでなく女性の全身には生々しいほどの傷があった。恐らく自害を試みた時に出来た傷だろう。違和感と共に僕が気付いた既視感に似た既視感ではない感覚は百年ほど前の僕の身体にあった傷に似たものが僕の視界に映り込んで感じた感覚だったようだ。
女性は僕の問いに答えることなく待合小屋を出た。そんな女性を追って僕も重くはないがそれなりの重さがあるキャリーバッグを手に出て行った。
「ついて行っても良いですか?」
陽の光が入ってこない小屋の中で暗くなっていた女性は木々の間から差し込む木漏れ日を浴びてとても美しく愛おしい声でそう告げた。
ここからは全て余談だ。
僕は無一文の女性、名を川野流。『ながれ』と書いて『りゅう』と読む女性と共に待ちわびていた末本村行きのバスに乗り込み四十九分かけて末本村に向かった。
「ここが僕たちの新居だ」
新居と言うには古すぎるが、長い間空き家だったにしては綺麗すぎるその家に僕は初めての家族を招き入れた。
こう言うのは随分と失礼な気がしてならないが、流は思っていた以上に料理のスキルが高かった。曰く不死だと気付く前の時代に流は調理師の免許を所得していたらしい。家族の手料理と言う補整も少なからずあるのだろうが、流の料理はどれを取っても美味しく感じた。
家族になって人間にとっては長い月日が経ち、村も随分と様変わりした。それに伴い、僕たちにも僅かながら変わった。
それは、僕が三百七十八歳で流が二百十七歳の時だ。僕たちの間には不死の子供が出来た。それはもう可愛らしい女の子だった。僕と流は考えに考え抜いた結果、その子供に『永遠』と書いて『とわ』と名付けた。
今は愛すべき妻、涼と今年で百五十歳を迎えた長女の永遠、そして永遠と五十離れた双子の五人で山を越えた咲にある『永遠亭』があったあの村を吸収合併し末本町、数年後には末本市になることが決まったその都市でゆっくりと時間の流れを堪能している。
僕は二度と女性に恋をすることは無いだろう。僕には今こうして、絶対に居なくなることのない愛すべき家族に囲まれてとても幸せに永遠の命を全うしているのだから。
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