おキツネが手を引いて
今年は何といっても昼夜の気温差に悩まされ、蝉も鈴虫も風邪を引いたに違いない。例年、夏祭りの笛の真似事のように羽を擦っていた鈴虫は息を潜めていた。真っ赤な鳥居のトンネルを潜ってくる盆踊り会場の喧騒も、よくよく耳を澄まさねば聞き取れない。それは決して征十郎の難聴が酷くなったからではない。老体に鞭を打ちながら登ったこの神社は、驚くほどの静寂に包まれている。
7月末だというのに、薄手の羽織が必要なほど、今夜は冷え込んでいた。山の梺で行われている盆踊り会場は、露店と踊りの熱気で気温を盛り返しているようだが、ここは何段も階段を上がった山の中腹にある神社である。地元の小学生が描いた画用紙を赤く照らす提灯が幾つも飾られており、それは鬼灯のように美しく、そして妖しい。風情はあれども熱量はない。つまりは虫も元気を無くす程、此処は寂れている。
「こん、こん、こん」
寂れた神社の境内に似合わぬ、子供の声がした。征十郎は皺くちゃな顔をあちこちへ向け、声の主を探す。賽銭箱の傍の段差に腰を下ろしたままの征十郎が探せる範囲は限られていたが、動くのは億劫だ。そのうちに視界の悪さに見切りをつけ、問答勝負に出ることにした。
「あれ、こんこん聞こえるのぉ。風邪を引いた虫さんかいな?」
征十郎は掠れた声で穏やかに問うた。まるで独り言のような、しかし疑問符をきちんと踏んでいるような、際どさがある。
「違うやい!これはキツネの鳴き声だ!」
答えが返ってきた。軽やかな子供の声で怒られてしまった。しかし征十郎にとっては大層、微笑ましい声に他ならず、朗らかに微笑みを携え、またきょろきょろと辺りを見回した。声の主は何処にいるのだろう。階段の向こうは、町並みが広がっている。木の影だろうか?鳥居は隠れる程には太くないので、きっと違う。神社の後ろにいるのだろうか?それとも、守り人の様に対面している狐の石像の影か。
「おキツネさんや、ありがたや、ありがたや。お話出来るとは、嬉しいのう… この神社の迷信通りやないですか。老いぼれを迎えに来て下すったか。」
「そうだ!迷信通りだ!この神社の境内はな、お迎えのキツネ様が出るんだぞ!悪いやつはヤカンのキツネ様が来て地獄行き!良いやつは稲荷のキツネ様がやってきて天国行きだ! じーじは迷子になって、孫に心配を掛けたからな!地獄行きだ!」
意気揚々としゃべり続ける子供の声は、狐の石像の影から聞こえていた。
「あれまぁ、困ったねぇ…。地獄は怖いなぁ」
征十郎は柳眉を垂らして頬を引っ掻き、至極困ったように唸って見せた。すると、狐の石像の影から子供が顔を出した。真新しい甚平を着て、狐のお面を付けた8歳程の少年だった。
「地獄が怖いなら、どうすればいいのか、考えるんだな!」
「考えろとは、挑戦的だで……。そうさなぁ、心配をかけてしまった孫のマサくんに、謝らないとなぁ……。マサくんは今日、東京からこっちに遊びにくるんだったねぇ…。一緒に夏祭りに行く約束をなぁ、去年にしたんだ。」
征十郎は顎を撫でながら、しみじみと思い返す。狐の少年は石像の影から征十郎の近くまで歩み寄り、そのしわくちゃな顔をじっと見ていた。
「覚えていたのか!」
狐の少年は今だとばかりに大きな声を張り上げた。キンと空気を伝う子供特有の甲高い声だ。征十郎もこれには驚いて、肩が跳ね上がる思いだったが、狐の面を眺めながら落ち着きを取り戻し、朗らかに笑った。
「覚えておるよ、マサくんとの大事な約束なんじゃ…。忘れておらんさ。だからじーじは、今日まで元気にやってこれたんだよ。」
「じーじは元気か!」
「じーじは元気じゃ。マサくんも元気じゃのう」
「そうだ!マサくんは元気だ!」
狐の少年は呆気なく自分の正体を明かした。けれど狐のお面を取ることはなく、征十郎の目の前に仁王立ちしながら、指先を突きつけた。
「じーじは、じゃぁ、天国だ!ちゃんと反省したし、マサくんとの約束を覚えてたからな!稲荷のお狐様が、天国へ連れてってやるぞ!」
「そりゃぁ良かった、良かった。じゃぁ、天国行きも決まったところでな、去年の約束を守りに行こうかのう。下の屋台を一周してから、帰ろうかいな」
晴れて天国行きとなった征十郎は笑いを堪え切れず、手を伸ばして孫の頭を撫でてやった。狐の面の上からはみ出た髪を直してやりながら、よっこいせ、と声を漏らして立ち上がる。曲がったままの腰をなんとか持ち上げて、つま先を引きずりながら石段を歩き始めた。
「じーじ!杖は?」
「………あっとねぇ、此処へくるまでに、階段を登ってきたらよう、杖が邪魔でのう、おっ捨ててきたんじゃよ。鳥居に捕まって上がる方が、楽だったんじゃ……」
「じーじ危ないぞ! マサくんが杖を見つけてきてやる! そしたら、あんず飴を買って帰るんだ! 」
いつの間にか狐からマサに戻っていた孫は、祖父の是非も問わずに勢いよく階段を降りて行った。本物の狐の如く、軽やかに降りていく小さな体はあっという間に鳥居の奥へと消えていき、随分と下の方で「どこにあるんだ!」と癇癪を起こす声がした。征十郎は一生懸命探し周っている孫の下へと急いで降りていきたかったが、足は重く、一段一段踏みしめながら下って行った。階段の中腹へ来ると、盆踊りの喧騒が煩い。鳥居の足元に生えている草をかき分けながら探し回っている孫は、狐の面を後頭部に付け替えていた。一年経つと、顔つきが変わっているように思えて、征十郎は孫の成長をまじまじと眺めた。
「マサくんや、ないならもうええよ、肩を貸してくれんか、そうしたら歩けるじゃて……」
「ちぇ! しょうがないな! じゃぁ、あんず飴と一緒にたこ焼きも買って! 」
「あいよ、ほら、これで買ってきな。」
征十郎は懐から千円札を出し、マサに渡してやった。やったー!と大きな声を張り上げるマサをなんとか宥めながら、残りの階段を降りて屋台の通りを進む。4つ折りにした千円札を大事に大事に握り締めながら、祖父に肩を貸し進む。あんず飴屋を見つけると、征十郎を置き去りにして走っていき、せんべいの上に乗ったあんず飴を練り込んで遊びながら、食べ終わる前にたこ焼きも購入した。たこ焼きは袋に入れてもらい、手首から下げることにした。マサは食べることに夢中で征十郎の存在を忘れかけたが、時折振り返って歩幅を合わせてやる。祭りの喧騒を抜けたところで、田んぼの間を通る一本道に差し掛かった。街灯の感覚が広く、薄暗い道である。マサは狐の面を後ろから横にずらして、祖父を連れて歩いた。なんたってヤカンであろうと稲荷であろうと狐様なのだから、怖いものに襲われても強気でいられるのだ。境内では聞けなかった鈴虫の羽音も聞こえ、サンダルの足音に混じる。
「そういやぁマサくん、来年も来るのかい?」
マサがあんず飴の棒をたこ焼きの袋に放ったところで、征十郎が聞いた。マサはたこ焼きのタッパーを取り出しながら、「うん」と答えた。
「来るよ。毎年夏休みはこっちに来るじゃん。マサがやだって言ってもママが行くって言うよ。」
「でもね、マサくんは中学受験をするって、お母さんが言っていたねぇ。今、小学4年生だから、来年は夏期講習があるって電話でいっとったなぁ。中学に入るのに勉強するんじゃぁ、立派なもんだ。公立の学校にゃぁ、行かないのかい?」
「公立の中学校には行かないよ。塾の夏期講習はいくよ。でも来年もここにくるよ。だからじーじと夏祭りにくるんだよ。」
マサはたこ焼きを頬張りながら答えた。
「マサくんはお医者になるから、田舎にくるよ。そしたらシゲ爺のところの診療所で働いて、じーじと毎年、夏祭りに行くんだ。だからじーじは長生きしてないとダメなんだよ! だから道に迷っても、あそこの境内で待ってちゃダメだよ。お狐様が間違えて迎えにきちゃったら、じーじいなくなっちゃう。」
征十郎はしばらく言葉を紡ぐことができなかった。街灯の下をゆっくり通り過ぎたあと、「そうだねぇ」と静かに呟いた。孫の成長をしみじみと感じる。去年はただはしゃぎ回るだけの子供だった。宇宙人なんじゃないかというくらい落ち着きがなくて、祖父の手を煩わせた。「おとなしくしないと、来年は一緒に来ないぞ」というこの一言が効いて、母親たちに引き渡すまでを凌いだのである。一年経つと、こうも違うものか。一年の長さを思うと、感慨深いものがある。短いようで、一年とは長いのかもしれない。よく生きたなぁと、征十郎は静かに呟いた。
「あ、じーちゃん家!見えてきた!」
田んぼの果てに見える一軒家の明かりに気づくと、マサは食べ残したたこ焼きを袋に仕舞い始めた。いそいそ、そわそわ、あそこに両親がいると思うと、居ても立ってもいられない。祖父に肩を貸している関係上、いきなり走り出したりはしなかったが、途端に落ち着きを失っていたことから、その本心は丸わかりだ。征十郎は孫の肩から手を離し、ぽんと背中を押してやった。
「ありがとうね、マサくん。もう行っておいで、ここまでくれば、一人で歩けるよ。」
征十郎に押し出された途端、マサは一目散に玄関に向かって走って行った。一度だけ振り返ると、祖父は相変わらず足裏を引きずって歩いていたが、本人のいう通り、何となく大丈夫だと思ってしまい、会いたい一心をそのままに両親の元へと向かって行った。
「マサくん!どこにいたの!」
庭先に入るなり、母親が駆け寄ってきた。マサは母親の腰に抱きつき、玄関先を見渡した。車庫にあるワゴン車にエンジンが掛けられ、祖母は家の鍵を締めるところだった。父親はワゴン車の運転席で皆に早く乗り込めと煽りを掛けており、戸締りを終えた祖母が急いでワゴン車に向かっていた。マサも母親に手を惹かれてワゴン車に乗り込んだ。
「どこ行くの?夏祭り?」
マサは助手席に乗り込んだ母親に尋ねた。母親は険しい表情でバックミラーに映る我が子に答える。
「病院よ、征十郎祖父ちゃんが死んじゃったって、シゲ爺から電話があったの。マサくんがいつまでも帰ってこないから、お祖父ちゃんの病院に行けなかったのよ?」
マサは母親が何を言っているのかが分からなかった。自分と共に後部座席に座っている祖母が、泣きながら両手を合わせているのを見ても、状況が掴めなかった。何もかもよく分からない侭、父親は車を発進させた。
ワゴン車のヘッドライトが、蛻の空となった家の縁側を撫でて行く。ほんの一瞬の間だったが、仏壇に入っていく征十郎の姿を、マサは確かに見ていた。
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