第19話 発熱

 熱を帯び、ぬるくなった水を捨てて、新たに水を溜めた桶にタオルを浸す。桶の中には満遍なく氷を入れている。

 確か、これで今日はこれで六回目だった筈だ。どんなに冷やしても時間が経ち、何度も暖まったタオルを漬けていると水の温度は上昇していく。その度毎にキッチンで水を汲み直していた。

 

「ミリアちゃん、大丈夫? ずっと看病してるわよね。今日はもう店閉めて私が看るから、一回休んだら?」


 後ろから声がしたので振り返る。そこにいたのは心配げな顔をしたハンナさんだった。


「ありがとうございます。でも、大丈夫です。店は続けてください」


 ハンナさんが心配して声を掛けてくれたけど、私は失礼のないよう笑顔を意識して断った。ありがたいけど、これは私がやらなきゃいけないし、何より私が看てあげていたい。

 私の顔を見て、納得したようにハンナさんは頷いた。


「……そう」


「でも、すいません。お手伝い出来なくて」


「いいのよ。そんな顔じゃお客様に見せられないわよ。普段の綺麗な顔を早くまた見せててよね」


 言われて、そんなに自分は浮かない顔をしていたんだと思った。

 今まで全く意識もしなかった。


「それに今のあなたの仕事はしっかりヴェルト君を見てあげることだから。ちゃんと仕事を果たしなさい」


「はい、ありがとうございます」


 にっと優しい笑みを浮かべるハンナさん。気を使って申し訳ないと思うと同時に、ちょっと、ただの期待かもしれないけど心が軽くなった感じがした。

 最近はトーマスもエマも私には看てあげてくれと言って、未だに見つからない病原者を探してくれている。

 今はそこまで手が回る状況じゃないから、とてもありがたい。皆、良い人ばかりだ。

 部屋の前に着き、一旦桶を床に置いてから扉のドアノブをガチャリと回す。音を立てないようにそっと開け、再び桶を持って中に入る。

 タンスにテーブルに、ダイエット器具やコードが繋がっていない明らかに使われていないテレビ。必要なものから使わていないようなアイテムが乱雑に集められているこの部屋は、今はヴェルトが使わせてもらっている。

 ヴェルトが入る際に整理しスペースは多少空けられたが、それでもまだ狭い。

 その中にある、立っていると私の胸辺りまである台の近くまで移動してその上に桶を置く。そのまま部屋の中央辺りにある椅子をベッドの近くまで寄せて、私はそこに座った。全てそっと、音を立てない動作で行う。

 大丈夫、起きていない。ベッドの上のヴェルトを確認するも起きた気配はない。

 でも、それでも。ヴェルトの様子を見て、私は顔を歪めてしまったのが分かった。ああ、本当だ。ハンナさんの言う通りだと、意識して初めて気付いた。

 ヴェルトは、苦しそうに息をしながら、頬を上気させている。とても辛そうだ……。

 五日前、風邪を引いた当初は平然としていたが、熱が上がるに釣れて苦しげな表情を見せるようになっていった。更にそれに伴うように体も動かなくなっていく。それを見ているのが、とんでもなく辛かった。

 私は目を背けて、水に漬けていたタオルを取り出して絞る。それをそのまま綺麗に折りたたんでヴェルトの額に乗せる。

 心なしか、ヴェルトの表情が穏やかになった気がしたのは、ただの私の希望的観測なのだろうか。


「あのね、ヴェルト。エマもトーマスも私達の代わりに探してくれてるんだ。ハンナさんも仕事はしばらく休んで良いって。でも、ごめんね。仕事の方はやらせてもらうね。ハンナさんやお客さんにお礼を返さないと」


 静かに、私は声をかけた。

 窓の方向を見る。時刻は二十時を回り、外はわずかな月明かりに照らされてる場所以外は黒に染められている。もうこんな時間か……。

 私は、ヴェルトに視線を戻した。


「ヴェルトも恩返ししたいって言ってたよね。退院してから、すぐ風邪を引いて寝込んだからまだ全然出来てないでしょ。だから、早く直して元気にならないとダメだよ……」


 言っている内、ただでさえ小さい声が更に小さくなっていくのを、客観的に聞いて理解した。と共に、自分の言葉に懐疑的になっている自分がいるのも認知した。


「……本当に直るよね、ヴェルト?」 


 大丈夫。そう言い聞かせても、不安は増すばかり。

 風邪を引いて三日目で三十八度を越えた時点から嫌な予想ばかりしてしまう。そして熱が四十度を越えた時、それは更に現実味を帯びた。

 考え得るのは最悪の事態。もしかしてヴェルトが……。何度もそんなことを考えてしまう。

 嫌だ。そんなの嫌だ。

 なんでヴェルトが……。だって今まで罹らなかった。なんで安全だと逃げた過去で病気にかかってしまうんだ。

 そう考えながらその実理解はしている。赤体病は、潜伏期間が長い。元の時代で感染していたのが、移動した過去で発症しても何らおかしくない。しかもヴェルトは疲れから体力も弱っていたのだから。

 それでも信じたくなかった。

 所詮、可能性の話。私の思い過ごしだという可能性だって決して低くはないんだ。出来るなら、そっちを信じたい。

 信じたいのに……。


「ヴェルト……」


 出てきた声は震えてしまった。

 もし。考えたくもないもしもの話で、ヴェルトが病気に罹っていたとしたなら。その所為でヴェルトが死んでしまったら。嫌だと思考を閉じようとしても、その考えは勝手に頭に浮かびあがってくる。

 酷く気分が沈んだ。想像でこれか。本当にそうなった時、私はどうなるんだろう。

 ――生きていけるのだろうか。

 いや。なにそんなことを考えているんだと、内心で私は自分を叱咤する。

 ただ、一つ。仮に私の予想通り、ヴェルトが病気に罹っていたとしても回避する可能性を上げる方法がある。

 部屋の一角にあるテーブルの上の白いケースを見る。

 あれを打てば……。

 まだ進行の進んでいない今の状態なら、薬を打てば助けられるかもしれない。薬は二本あるんだ。一本くらい良いのではないだろうか。

 このままだと手遅れになってしまうかもしれない。やるなら今しかない……!

 その時、ヴェルトがうーと苦しげに唸った。

 ダメだと言われたのが、パッと脳内に思い出される。昨日四十度を初めて越えた時、薬を打つと言った私にヴェルトが言った。

 二本あるからではない。二本しかないんだ。不確定なままで打って、違ったらどうすると。いざ必要になった時に、薬が無いなんてなったら、私達はただ死に行く皆の姿を見送るしか無くなってしまう。確証を得るまで絶対に打つなと言われている。

 確かにヴェルトの言う通りだ。最もな話だ。

 ――そんなの分かっている。分かっているけど、心は不安でしょうがない。

 ……それでも、やっぱり私は打つ訳にはいかない。

 そう思い詰めていた時だった。うーんという唸り声が聞こえ、ヴェルトの瞼が動いた。


「……何て顔してんだよ、ミリア」


「ヴェルト!」


 思わず声を大きく出してしまった。

 ヴェルトは、薄らと瞼を開け、私を見上げている。しかしその声はか細く弱いものだった。

 

「大丈夫なの、ヴェルト!」


「ああ、大丈夫だよ。こんなの全く問題ねえ」


「そう、だよね……」


 そうだ。ヴェルトはどんなに苦しかろうと決して弱さを認めようとしない。私に弱い自分を意図的に見せるということがない。そんなの分かりきっている。

 その言葉も、明らかに強がりだった。


「それより何だ、その顔は……。お前、何考えてたんだよ?」


「なにって……」


「もしかして、俺が病気に罹ったとか、そんなの考えてたんじゃねえだろうな?」


 一瞬うっと言葉に詰まってしまう。

 そして自分でも分かるぐらい、自然と顔が暗くなった。


「だってヴェルトの熱が四十度越えて下がらないし……」


「……何度も、言ってきただろ。俺はウイルス、なんかには負けねえ……。やられ、てなんかたまる、かよ……」


 途切れ途切れに、何とか繋ぎ合わせたように言葉を出すヴェルト。

 こんな状況でも、ヴェルトはいつも通り心は強く持とうとしている。それでも、体は正直に弱さを見せている。

 ただの強がり。

 さっき私の考えていることが分かったのも、私が今まで何度も言ってきたから予想出来たということだけではないのだと思う。きっとヴェルト自身も同じことを考えているからだ。

 不安な筈だ。多分私と同じくらいに。それでも負けじと鼓舞している。本当に尊敬する。

 

「でもヴェルト、本当に辛いときには私には辛いって言ってね。お願いだから、無理はしないで……」


「だから大丈夫――」


 ヴェルトは何か言いかけて、でも必死な私の顔を見て、言葉を呑み込んだ。

 そして、はあっと息を一つ吐いてから、


「また寝るわ。……やっぱりまだ起きてるのだるい」


「ご飯は? ハンナさんに頼んで、軽いものもらってこようか?」


「いや、いい。食欲沸かねえんだ」


「ならせめて、水だけでも飲んで」


 寝ている間タオルで拭いたりはしたものの、多量に汗を掻いていた。水分も大分失われているだろうと思い用意していた、台の上、水の入った透明なボトルを手に持つ。


「……ああ」


 疲れが表れた口調で同意したヴェルト。私はほっと胸を撫で下ろすが、体に力を入れて起こそうとしたが思い通りに起こせていないヴェルトを見て、私はすぐに支える。そのままボトルの飲み口を水に運ぶ。


「もう良いや。……じゃあ、寝るぜ」


 少し飲んだだけで、体を寝かせようとするヴェルト。


「喉渇いてないの?」


「今ので充分だ」


 その動作一つも、ゆっくりと体を重そうにしているのが分かる。途中からは私もバッと手を出して支えた。

 その際にずれたタオルを戻そうと触ると若干熱を帯びていたから、タオルを再び水に漬けて冷やして絞る。そしてまたタオルを置こうとヴェルトの方を見ると、ヴェルトがまだ目を開けていた。

 どうしたのかと聞く前に、ヴェルトが小さく口を開いた。


「……ずっと世話してくれてありがとうな、ミリア。タオル気持ち良い、と思うぜ」


 ボソリとか細い声で言った。

 そう言った後ヴェルトは焦るように目を瞑って、私に背を向けてから眠りに就こうとした。

 私は思わず頬を緩めた。それは随分久しぶりな気がした。

 そのまま今度こそ、ヴェルトは寝息を立て始め、眠りに落ちた。その顔を私は、眺める。

 そうしていると、ふと昔のことを思い出した。

 死にかけた私にあなたはパンを与えてくれた。生きろと言ってくれた。とても暖かい想い出だ。

 ――私はあなたに救われた。

 だから、今度は私が救うんだ。あなたを死なせはしない。

 改めて、強く誓った。


   ☆★☆★☆★☆★☆


 私は今、見慣れない場所にいる。

 何もない、ただあるのは闇。辺りは暗闇に覆われ、物音一つしない。聞こえてくるのは自分の息だけ。だというのに、何故かここは果てもない広さを有していることは分かった。

 辺りを見渡す。すると、黒だけの中にある一点。私の目の前少し行った先に、果ての見えない上空から一筋の光が差していた。そこだけは照らされている。

 私はそこを目指して走り出した。でも何故か私と同じスピードで、逃げるように光も移動していく。

 追いつけない。それでも追い掛ける。その光の元にいたいと、強い欲求があったから。

 そして、遂にその光が動きを止め、私はその光に追いついた。そして光の中に入ろうとした。

 でも、光はふっと消えた。ろうそくに灯っていた火が息でかき消されるように、本当に突然消えた。

 私は光を見失った。


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