第一幕 意味なき密室と彼女の虚誕

第1話

 頭が重い。ただひたすらに。

 こんなにも頭が重いのなら、学校に行くのはよした方がいいかもしれない。よし、そうしよう。休もう。

 そう思うものの、長年の習慣というべきか、染みついたものはなかなか取れずに、やはり学校に行くことを選択してしまう。いつもの時間になると、布団から出ないといけないという何かの使命感に駆られ、結局布団ふとんから出て行ってしまうのだ。


 自分の部屋を出て、とりあえずは洗面台に向かう。うーむ、鏡の中の自分は非常に眠そうな顔をしている。いや、いつものことか。

 伊勢谷いせたにには「いつも眠そうな顔」だとか「もうちょっと眼を開けて生活しろよ」だとか言われるのだが、これが常になってしまっているので、今さらあえてこれを変えようとかいう気にはならないのだ、残念なことに。


 髪は短めのごくごく平凡な髪形なので、セットだとか寝癖直しだとかも必要ない。顔を冷や水でしっかりと洗うことで、俺の目覚まし第一段階。

 よし、とかるーく気合を入れると、鏡にうつった俺の顔も少し活力に満ちた……、いや、それほど変わらなかった。

 とりあえず、俺の中では第一段階のスイッチが入った。そして、洗面台の隣の部屋であるリビングへと向かう。


「あら、おそよう。いつもギリギリねぇ」


 そう言われたので、ふと時計を見てみるとまだ七時二十分。俺は不服の意を唱えるため、顔をしかめて見せる。


「なんならあと二十分寝ても間に合うんだけど」

「別にそんなにギリギリを攻めなくてもいいのに。ま、あたしは学校昼からだし、のんびりさせてもらうわねー」


 そう言いつつ、ソファに座って足を組み、悠々ゆうゆうとテレビを見ながら宣言通りのんびりとしているのが俺の姉、篠原晴美しのはらはるみである。大学二年生。それにしても大学生とはどうしてこうもゆとりたっぷりなのだろうか。高い授業料払ってるんだから毎日朝から学校に行け。別に俺が授業料を払ってるわけじゃないが。


「おい姉貴、そんなところでだらけてるのはいいけど、飯はできているんだろうな」


 俺の午前中のエネルギー源である朝食。見たところ、全く作る気はなさそうであるが、もうできているというのなら話は別だ。いくら大学生の朝が遅いからといって、高校生は関係ないのである。一日三食、これが基本だ。


「何言ってるの。今日の朝の担当は春絵はるえでしょ。ほら、台所見てみなさいな」


 姉貴の指差す方向を見ると、そこは篠原家の台所。そこでせっせと朝食を作るのは、我が愛しき妹、篠原春絵しのはらはるえであった。


「おはよう、お兄ちゃん。ごめんね、ちょっと遅れちゃってて、もう少しでできるからね」


 陰りのない笑顔が俺の寝惚ねぼまなこに飛び込んでくる。あぁ、天使だ。天使以外の何者でもない。こんなしっかりしていて、黒い部分がまったく感じられなくて、目もちゃんと開いていて……、俺の妹だとは全く思えない。俺の家を訪れた伊勢谷にもそのように言われてしまった。


「おい悠人はると。あれ、本当にお前の妹なのか? お前と違って人への対応もしっかりしてるし、目もしっかり開いているし、色白だし、そこそこ成長の見込みもあるし……ってぐへっ!?」


 その時俺が妹に寄りつきそうな変な虫をあらかじめ排除しようと先手を打っておいたことは、仕方のないことだろう。顔だけで男を選んではいけない、絶対。

 もう春絵も中学三年生だ。他の中学三年生に比べて大人びている部分もあるため、どこの馬の骨とも分からないやからが寄りつかないように、ちゃんと見張っておかないといけない。少し引っ込み思案じあんな所のある春絵は、なかなか嫌とは言えないタイプだからだ。


「ああ、春絵、おはよう。別に構わんぞ。俺はまだ時間はたっぷりあるからな。何なら俺も何か手伝おうか?」


 姉貴が半眼でこちらを見たような気がするが気にしない。自身の自堕落じだらく性分しょうぶんがそっくり似ている姉よりも、似ても似つかない天使属性を持つ妹と仲良くする方が楽しい、なんて言うまでもないはずだ。

 もちろん普段の俺は、自ら進んで何かを手伝おうとはしないタイプだ。だが、春絵と会話をしたことで第二段階のスイッチが入ったことだし、少し張り切ることにしようかと腕まくりをしようとすると、


「ううん、大丈夫だよお兄ちゃん、もうほとんどできてるし。それより、今日の晩御飯、期待してるからね」


 という妹のお断り。さいですか、お兄ちゃん、必要とされてないですか。

 篠原家は、兄妹三人で家事を分担している。父親は単身赴任……というか職業柄ほとんど家におらず、母親は母親で職業柄忙しいのだが、それでも母親に関しては、姉貴が高校生の間は義務感か知らないが、家にいることが多かったのだ。しかしそれが、姉貴が大学に入ってしまうと、「やりたいことがある」とか言って、さっさと海外へと行ってしまったのだ。家のことは姉貴に任せると言い残して。


 それで姉貴が家のことを全てやってくれるというなら、俺もまあ構わないか、と思っていたのだ。しかし姉貴が打ち出した方針は以下の通りだ。大学生とはいえ、一人で全てをやるのは無理がある。だから、兄妹三人で協力して家事をこなしていこう。


 要するに、主に母親と姉貴のせいで、俺も家事の一端いったんになうことになってしまったのである。で、当番順でいくと、今日の晩は俺が担当することになるのだ。

 面倒だが、春絵が期待してくれているのだし、簡単に済ますではなくしっかりと作ることにしようか、そう思ってできた料理を運んでいく。今日は完全和食。春絵が作ると和食が多くなる。香ばしいさけの塩焼きが食欲をそそった。

 姉貴がソファから腰を上げ、ダイニングテーブルへと向かう。


「さてと、朝食にしますか」姉貴が言う。何もしていないと言うのになぜか満足気だ。

「ほら、働け姉貴。はし出せ、はし」俺はテーブルについて動こうとしない姉をいましめた。

「えー、私担当じゃないしー」

「いいよお姉ちゃん、私がやるから」


 そう言ってせっせと動き回る春絵。全くもって素晴らしい妹だ。篠原家のどこにそのようなDNAがあったのか、はなはだ疑問である。

 そして、テーブルには料理が並び、三人きりの食事が始まる。バタバタしてはいるが、これが篠原家の朝だ。


「それでは篠原三兄妹、今日も一日がんばりまりしょう! いただきます!」


 あぁ、そんな純真無垢な笑顔でその一言を言われてしまうと、俺の昨日のまわしき記憶もどこかへと飛んでいってしまいそうだよ……。


 昨日の出来事。放課後に女子に呼び出されて言われた言葉が、「キミのことが大嫌いです」だもんなぁ……。女子に呼び出されること自体おそらく初めての経験なのに、早速トラウマになりそうだ。

 あれから俺は、そんなことに自分が関わる義理はないと思って、キッパリと断った。意外にも永峰ながみねは粘り腰を見せることもせずに、「そっか」とだけ言って俺の元から去って行った、というのが昨日の顛末てんまつだ。


 結局、アイツは俺に対して何を期待していたのだろうか。俺のことが嫌いで、それでも俺に頼みごとをしてきた。その理由が全く分からない。しかも、二つ目に言われたことが衝撃的すぎて忘れかけていたのだが、一つ目に言われたことも全く信じ難いことだった。


 永峰瑞希ながみねみずきは、自分自身の口で言ったのだ。自分は、うっすらとだが未来が分かるのだと。どうすれば、そんなことを言っている奴を信用できるというのか? 今の所、アイツのことを信用するとすれば、永峰は嘘を言っていない、という俺の直感を信じることの他はないのだが、そんな直感、はっきり言って信じたくない。


 ともかくも、俺のことを嫌いなら、俺に関わってこないでくれ。そうとだけ切に願っている。

 誰かの悪意を感じることはしばしばあった。だけど、それをはっきりと口に出して言われたのは初めてだった。そして、初めてそのように言われて思ったことは、そういうことはちゃんと言ってくれた方がまだマシなのだろう、ということだ。

 ちゃんと面と向かって言うくらいなのだから、まあよっぽど自分のことを嫌っているのだろう。だけど、それを言わずに裏でこそこそ言われるくらいなら、表だって言ってくれる方が、こちらとしてもそれなりの対処ができる。


 というかまあ、こっちから関わることは二度とないのだろうが。

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