二章 アストレアに咲く花

黒騎士ヘルムート

闇の帳

 北の大地にほど近い都市は、夜になるといっそう風が強くなる。ときには雨や雷を連れてきては野や畑を荒らすという。沃土よくどに恵まれないガレリアの民が餓えるのもこのためだ。

 毛布に包まってから何時間がすぎただろう。レオナは寝返りを繰り返している。眼裏に映るのはガレリアの人々だった。痩せた子どもたち、母親と思われる女たちの表情はひどく疲れていて、老人たちもまた病人のように見えた。王都マイアとはまるでちがう。おなじイレスダートの国なのに別の国みたいだ。

 長くつづく戦争はそれだけ人々を疲労させるし、国を弱らせるのことくらいはレオナだって知っている。教えてくれた修道女はガレリアの出身だと言っていたのを思い出す。ヴァルハルワ教の司祭や司教たちは、北の敵国をおそれてそこにはあまり近づかないのだとも。

 あれは、レオナが修道院にいたときのことだ。

 十歳の子どもが両親や兄妹、それから幼なじみと引き離されたのだから、はじめは不安でたまらなかったのをよく覚えている。けれども、すぐに馴染んだのは、そこにレオナとおなじ年頃の娘たちばかりがいたからだ。

 風が強くて眠れない夜には、隣の少女の部屋に忍び込んではお喋りをした。ちいさなお茶会に出されるのは水と焼き菓子がふたつだけ、それでも少女たちの記憶にはたのしい思い出として残っている。あの頃もレオナが眠るのは簡素な寝台だった。天蓋もなければ、装飾も施されていないただ眠るだけの部屋。白の王宮の、レオナの部屋とはちがうところ。そこで過ごした五年の時は少女の時分には、とても長く感じられた。だからいま、レオナの目が冴えてしまっているのは、そのせいではないはずだ。

「眠れないのですか?」

 すぐ隣にはレオナの傍付きが居る。幼い頃には遊び相手として、レオナが修道院から白の王宮へと戻ったときには騎士として。限られたちいさなせかいでしか生きられなかったレオナが知るひとといえば少ない。彼女は、そのなかの一人だ。

「だいじょうぶ、よ」

 ひとつ、嘘をついた。王都からガレリアまで馬車を乗り継いで来た。十日もかけてようやく着いたというのに、すぐガレリアを発ったのだから疲れてはいる。けれども泣き言なんて言いたくはなかった。それに、弱い自分を見せるのは嫌だったのだ。

 不安とおそれと。レオナはたしかに感じている。ガレリアを離れても、まだここはルドラスには近い場所だ。

「不自由な思いをさせてしまい、申し訳ありません。ですが、すこしでも眠ってください。明日からはまた馬車での移動がつづきます」

「わかっているわ」

 強がりを見せたのはレオナで、勝手にやさしい声を期待したのもレオナだ。だから、つい語調が強くなってしまった。レオナは暗闇のなかでため息をする。自己嫌悪だった。それに、騎士のこの物言いはむかしからだ。彼女が騎士だからではなくて、そうした性格のひとなのだ。もっとも、レオナの傍付きはそれを使命感として隠しているのかもしれない。哀歓あいかんを持たない人形さながらの顔をする。それが騎士としてはただしい。そういう声を騎士はする。

「そのように考えごとをしていては、眠れるものも眠れなくなります。瞼を閉じるだけで良いのです」

「それができたら苦労はしないわ。わたし、そんなに鈍感ではないの」

 けれど、レオナがほしいのはそうじゃない。ひどい八つ当たりだと思う。前の日も、その前の日にもレオナの眠りが浅かったのは事実で、それを傍付きは知っているはずだ。ちいさな子どもが我が儘を言っているみたいだ。レオナは二度目の嘆息をする。それもきっと、傍付きにはきこえただろう。

「ねえ、イリア」

 レオナは彼女の名前を呼ぶ。それは騎士の名であって、しかしそうではなかった。ひとつ、ふたつ、みっつと。呼吸が空いて、やっと声は返ってくる。

「ルーファス、です」

 心なしか声色は固い。でも、この作戦は成功だ。イリア・ルーファス・クレイン。それが彼女の名前で、つまりイリアというのもルーファスというのも、そのどちらも間違ってはいなかった。しかし、どういうわけか傍付きはイリアを名乗らない。

「イリアはイリアでしょう?」

「いいえ、私はルーファスです」

 今度はすぐにきこえてきた。レオナはちょっと笑う。

「あなたは、イリアよ」

「いいえ、違います」

「ちがわないわ。あなたはいつも頑固ね」

「それは、褒め言葉です」

 面白いことを言うけれど、レオナにとってはちっとも面白くはない。

「褒めてなんていないわ。わたしは、イリアはイリアでいてほしいだけよ」

「できない相談です。私はルーファスですから」

 騎士だからと、そう言いたいのだろう。もっとも、いまのルーファスはそれをすこし忘れたみたいに、意固地なところを見せているけれど。

 ちょっとした喧嘩をしたときみたいな高揚感がある。レオナには母のちがう姉がいたけれど、ずっと一緒だったルーファスもまた姉のような存在だった。こんなに意地っ張りな騎士を見るのは、ずいぶんとひさしぶりかもしれない。嬉しいような、けれどもさびしくなるのはどうしてだろう。 

「はなしを、きいてもくれないの?」

 いいたいこと、ききたいこと、たしかめたいこと。どれも、レオナがこれまで口にしなかったことだ。見せてはならない弱さでも、伝わってしまうのなら、いっそぜんぶ届けばいい。レオナはずっとルーファスを見ている。暗闇のなかでも目が合った気がした。 

「わたし、こんな風にマイアを離れるなんて、思ってもみなかった」

 レオナは騎士が話をきいてくれているうちにつづける。

「あの城塞の向こうは、もうルドラスなのね。北の国、わたしの知らない国、敵の国。本当は、こわかったの。ここに来ることが、マイアを離れることが。だって、あちらの国には野蛮なひとがいるのでしょう?」

 唇からは勝手に声が零れてゆく。それでもレオナは本音を隠してはおけなかった。外へと出せば後ろめたい気持ちになるのは、レオナが管見かんけんにとらわれているせいだ。

「ルドラスのすべての人がそれだとはかぎりません」

「そう……、そうね。わたしたちは、おなじ人間ですもの」

 教え子に諭すように傍付きは言う。レオナは彼女の言葉をただ繰り返した。嘘みたいにきこえてしまうのは、心のどこかで闇が棲みついているからだ。いかりと、にくしみを手放すことができないレオナがいる。持ってはならない感情なのに、あれは敵だと認めている自分がいる。 

「ご心配には及びません。そのためにガレリアがあるのです」

 レオナの憂苦などぜんぶお見通しのようだ。肩が、手が震える。寒さのせいではなかった。恥じるべきだと思う。弱くて、みっともなくて、浅ましいことばかりを考えてしまう自分を。だけど、向き合うべきだ。自分の気持ちとも現実とも。レオナには逃げるところなんてどこにもない。

「わたし、知らなかったわ。ガレリアが、こんなにも荒れたところだったなんて」

 レオナは王都マイアで生まれ育った。白の王宮の離宮と修道院と、そこだけがレオナのせかいだった。

「ここでひとは生きているのね。みんな、ここをまもっているのね。ここからマイアを、イレスダートを守るために。それなのに、わたし……。戦争、はやく終わればいいのにって。ひどいことばかり、思っていた」

 幼なじみが戦地へと送られてからというもの、レオナは強い憤りを感じていた。兄のアナクレオンにはひどい声をしてしまった。後悔は、いまもある。それなのに、どうしても考えられずにはいられない。別の誰かに、他の誰かに。レオナとは遠くにいるような他人が戦えばいい。あまりに利己的な思想におそろしくなる。別の、他の、知らない誰かとは、いったい誰のことなのだろう。誰かであっても、それは生きている人なのだ。

 兄が自分をここに向かわせたのは、きっとそのためだ。自分の目で見て、感じて、知って、現実を受けとめるように伝えたかったのかもしれない。

「姫様」

 レオナは止めていた息を吐く。

「無知というのは罪ではありません。たしかに誤解や偏見を生みますが、しかしどう感じてどう思うかなど個人の自由なのです。誰にも強要などできません」

「でも、わたしは」

「気に病む必要はございません。けれど、忘れろというわけでもありません。ここに生きている者も、ルドラスに生きる者もたしかに存在しているのですから。そして私たちは、たがえているのです。すべてを分かり合えるというならば、最初から争いなど、戦争など起こりません」

 戦争。ぽつりと零れた言葉は音には乗らない。そうだ。わたしたちは戦争をしている。遠く離れた王都マイアで、白の王宮という安全な場所だけがイレスダートではない。無知なままの王女ではならないのだと、教えてくれるひとたちがいる。無力な王女をまもってくれるひとたちがいる。せめて、忘れなければいい。大切なのは目を逸らさないこと、知ろうとすること。

「さあ、姫様。もうお休みになってください」

 レオナは呼吸を深くする。いまは、眠ってしまおう。こわい夢はきっと見ない。悪いことだって、きっと起こらない。

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