不吉を呼ぶ霧の先に

 乾いた風が頬をたたく。城壁の向こうは異国の地であり、ブレイヴの知らないせかいだ。

 地平の彼方までさえぎるものが何ひとつない、広々とした眺めがつづいている。左の端にはいまだ雪を被った山脈が連なっていて、その反対にも白い森が見える。あれから三ヶ月が経とうとしているのに、イレスダートの北部に春の訪れはやはり遅いようだ。

 見張り塔へと行く途中で、ブレイヴはつまずきかけた。敷石が外れているのに補強もされずにほったらかしだ。さすがに城壁には何度か修復の跡が見られるが、それでも充分とはいえない。一人がやっと通れるくらいの階段は崩れかけているし、ひびも入っている。過去何度も北からの侵攻を防いだ城塞は、イレスダートでもっとも重要な拠点だと言えるはずだ。それなのに、白の王宮は輜重しちょうの他をガレリアに与えないらしい。あの日、鳩首きゅうしゅしていた要人たちの顔を思い出せば、ため息も勝手に出てくるものだ。

 しかし、要人たちの逡巡しゅんじゅんもわからなくはない。

 ルドラスの主だった侵攻は見られず、見張り塔から認めた敵の姿にしても、あれは斥候せっこうだろう。となれば、七万の兵はどこに潜んでいるのか。ガレリアの上官ランドルフは、ブレイヴにそれらすべてを追えと命令する。服従を強いられては従うしかないので、ブレイヴは甘んじてそれらを受けている。それに、指揮官と聖騎士が争っていれば軍の士気に関わる。ここにはアストレアの他にも、おなじ公国からも騎士団が集まっているし、けれども彼らはブレイヴに味方などしてくれない。麾下きかの騎士などは、ブレイヴに説教するくらいだ。

 塔の最上部へと着けば少年兵が両手を擦り合わせていた。昨晩の雨はあがっても太陽は見えずに、乳白色の薄霧が漂っている。纏っている粗末な外套だけでは到底寒さはしのげずに、少年は交代の時間が来るのをひたすらに待っているのだろう。聖騎士を見あげる幼い顔はひどく疲れていた。少年たちがあたたかいスープを口にできるのは夜の食事のときで、それも王都からの物資がなければ三食が固くて酸っぱい黒パンと冷えたスープだけだ。ガレリアが敵国ルドラスとの国境に位置していて、イレスダートとルドラスが戦争をしているから貧しいこの国は冬を越せる。

 少年たちのほとんど感情のない目を見るたびに、胸が痛む。

 けれども、子どもたちだけではない。男も女も、老人たちもそうだ。自分たちの国に入ってくる騎士なんて、まるで他人事のように見る。いきているのに、しんでいるみたいだと、ブレイヴは思う。彼らは現実を受け入れている。戦争と死と。いつも向かい合わせに生きてきた彼らには、逃げ場がないのだ。だから、責めたりをしない。主張もしなければ要求もしない。諦めているのに等しく、それがこのガレリアの人間の性質なのかもしれない。

「公子。すこし、いいですか?」

 ブレイヴを呼ぶのは赤髪の騎士だ。アストレアの新米騎士でも、ブレイヴは彼を自分の傍によく置いている。そのうしろから、白皙はくせきの少年兵が出てきた。ガレリアの人間は白膚しらはだが多いものの、この少年は特にそうだ。いや、これは緊張のあまりに顔色が悪いのかもしれない。唇の端が震えている。

「聖騎士さまに、会いたいってひとがいて……」

「私に……? ランドルフ卿が呼んでいるのか?」

 ブレイヴの問いに白皙の少年は首を振るだけで、黙り込んでしまった。

「どうも旅人みたいです。俺も、ちょっときいただけで、良くはわからないけれど。言葉があんまり通じないみたいで。あ、でも、武器らしきものは持っていないそうです」

「レナードはその者に会ったのか?」

「いいえ。この子が言うには、聖騎士を連れてこいって。その一点張りらしくて……」

 赤髪の騎士――レナードは頭を掻いた。ブレイヴは嘆息する。イレスダートでも他の国でも、基本は共通のマウロス語を使う。地方へと行けばなまりはあってもきき取れないほどではない。この時期に旅人は考えられないので、ルドラスの難民か。ブレイヴはしばし黙考する。ただの旅人ならば問題はない。しかし、ガレリアにとって危険な人物ならば話は別だ。剣など武器の類いは見当たらなかったという少年の声も、どこまで信用していいものか。それに、剣がなくとも人を殺せる手段ならばいくらでもある。たとえば、その者が魔道士だったならば。

 いま、ガレリアには対抗できるような高位の魔道士はいない。白の王宮は必要以上に騎士をガレリアへ寄越さないし、治癒魔法の使い手にしてもさして多くはなかった。まさかいきなり魔法攻撃をされるなど考えていなければ、そのような上級魔道士がガレリアにはいないと踏んでいるのだろう。だが、強い魔力は城塞など簡単に破壊する。そういう力を、ブレイヴは見たことがある。

「わかった。その者に会おう」

 ブレイヴが応えれば、白皙の少年はすぐに階段を降りはじめた。

「あっ、ちょっと待ってください。俺、ジークに伝えてきます」

 レナードが先に駆けて行く。麾下の騎士が来るまで待てという意味だが、そうするうちに白皙の少年が勝手に進むので、ブレイヴは部下を待たずに少年を追うことにした。

 ずいぶんとちいさな背中だ。年の頃は十二、三歳くらいのように見える。けれど、白皙の少年は剣をいているし、攻撃の命令が下れば戦場で戦う。読み書きもろくにできないうちに戦う術だけを教え込まれるのが、ガレリアの少年たちだ。

 白皙の少年が足を止めた。崩れかけた建物は古い教会で、少年の視線の先には外套を着込んだ男が座り込んでいる。すこし前に新しい聖堂ができたために、この廃墟には誰も近づかなかった。だが、まだそれを知らない巡礼者ならば別だ。

 ヴァルハルワ教の関係者か。ブレイヴは口のなかでつぶやく。教会本部のあるムスタールはガレリアよりも南だが、視界を遮る霧のせいで方向を狂わされたのかもしれない。白皙の少年が男へと近づいて、何かを受け取った。子どもの手に握らされたのは銀貨が二枚。ブレイヴは、それを見逃さなかった。

「待て。きみは……、これはどういうことだ?」

 少年を怖がらせないような声をしたものの、しかし白皙の少年は応えずに逃げてしまった。子どもを追うブレイヴの腕を男が掴む。そして――。

「イレスダートの、聖騎士ですね?」

 男の発音は、ルドラス人のものだった。










 

 ブレイヴがすぐに男をルドラス人だと認めなかったのには、理由がある。

 ガレリア人とおなじくルドラスの人間もまた身体の色素が薄い。白膚に痩躯そうく、それに男は襤褸ぼろを纏っていて浮浪者と思ったくらいだ。だが、男はちがう。善悪のつかない子どもを使ってブレイヴを誘き寄せた。

 諜者ちょうじゃを斬るのは簡単でも、いまブレイヴは男の言葉に従っている。聖騎士に会ってほしい人物がいる、と。そう、男はつぶやいたのだ。

 落葉樹の森へと入れば、霧がもっと深くなった。

 哨戒部隊が見落とすわけだ。この森は存在している。白い霧は幻そのもので、つまり奴らはこの地形を利用している。その先にあるものを、こちらへと悟らせないために。

「公子」

 麾下の騎士が囁く。黒髪の騎士ジークはブレイヴがもっとも信頼する騎士だ。アストレアのカラスの異名は彼の髪色が由来だが、戦場に出ればもっとその意味がわかる。ブレイヴはジークの声を無視した。レナードとジークがブレイヴを追ってきたのは小一時間前。ルドラスの男は、わざと彼らが追いつく速度で進んでいた。そして、ブレイヴが森へと入ってからすでに二時間が過ぎている。午後の合同訓練に聖騎士の姿がなくとも、少年兵たちは騒いだりはしない。しかし、夜までに見つからなければさすがに問題にはなるだろう。そのとき、ランドルフはどう動くか。ブレイヴは考えるのをやめた。それに、もうここまで来てしまった。

 これは、罠だと思わない。好機だと、ブレイヴはそう思った。

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