フランツの休暇

「お帰りなさいませ、兄様」

 フランツを最初に迎えてくれたのは一番下の妹だった。

 いつのまにこんなに大きくなっていたのだろう。末妹が生まれたときにフランツはこの家にいなかった。はじめて顔を見たのもとっくに百日が過ぎていたし、次に会ったときには末妹は喋り出していた。

「いまはダリアが見頃ですのよ」

 居館へと行くあいだに、妹が庭園に色づく花を紹介してくれる。エルマン家の庭師自慢の庭園だ。

「でも、今年はちょっと早いみたい。いつもはもうすこし後に咲くの。赤い色も紫の色も綺麗でしょう? 私は橙の色も好き。ね、素敵でしょう?」

 丁寧にひとつ一つを説明してくれるのだが、花に一切の関心がないフランツにとってはどれもおなじ丸い花に見える。

 そのあとも妹のおしゃべりは止まらずに、フランツは調子を合わせるのに苦労した。

 あの花はね、女の方への贈りものにぴったりですの。兄様も好きな人がいるでしょう? お土産に届けたらきっと喜んでくださいますわ。あ、でも宝石の方が嬉しいのかしら。ごめんなさい。私、あんまり宝石には詳しくないの。姉様たちもそうでしたけど、私には馴染みがないの。そう、私たちには母様が残してくれた真珠の首飾りだけで十分。

 応接室に着くまでたっぷり小一時間は掛かっただろうか。

 エルマン邸には執事や侍女がたくさん控えているものの、どうもこの妹はじっとしているのが苦手なようでお茶の用意をすると言って、フランツ一人を残して去って行った。

「ああ、兄上。お待たせして申し訳ありません」

 息つく間もない。次いで再会したのはエルマン家の次男だった。

「いや、いまここに来たところだ」

 弟が苦笑したのはフランツが気遣いの声で返したのだと、誤解したためだろう。

「前に兄上にお会いしたのは、秋がはじまる前でしたね」

 そんなに前になるのかとフランツは記憶を辿ってみる。ちゃんとした休暇を取ったのは一年ぶりで、少なくともこの家に帰った覚えはなかった。

「私はいまでも白の王宮へ行くと緊張しますよ」

 そういうものなのだろうか。弟はフランツに代わってエルマン家を継いでくれて、妻子とともにこの家を守ってくれている。家を空けてばかりのフランツにしてみれば、白の王宮の方が自分の家みたいなものだ。脱ぎっぱなしの軍服、洗っていないコップ、机の上には山となった羊皮紙の束。フランツの執務室を開けるたびに扈従こじゅうが悲鳴をあげる。

「でも、兄上ももっと早くに言ってくださればよかったのに」

 急に責められているような気分になって、フランツは弟から目を逸らす。

「すまなかった。知らせを使わせたはずだが」

「ええ。昨晩に」

 本当はまだしばらく白の王宮に留まるつもりで、しかし王命とあらば騎士は従う他はなくなる。何を返しても言い訳みたいになるので、フランツは唇を閉じる。

「妹たちも兄上を案じておりました。早く知っていたならば帰ってきましたよ」

「いや、いい。皆には他の家族がある」

 エルマン家の長女は王都マイアの名家に嫁いでいる。大貴族同士の結婚だった。近くにいるとはいえ余所に行った妹だ。それに幼子を二人も抱えて戻るのは大変だ。

「皆、元気にしております」

 エルマン家には六人の兄妹がいる。この弟と末妹、嫁いだ長女の他には次女と末弟が。このあとの晩餐でそろうのは末弟だけだ。

「あれは息災か?」

「ええ、とても。幸せそうですよ」

 次女のことだ。そもそもエルマン家にはいまこの兄妹たちしかいない。子どもを六人も産んであれほど元気だった母も、風邪をこじらせてあっさり逝ってしまった。騎士だった父は戦場でその誇りを守った。聖騎士だったのは父の兄だ。老いても強く勇敢だった聖騎士は、しかしフランツが白の王宮に入って数年後、聖騎士の称号を譲った。それ以降、フランツはほとんどここには戻らなくなる。次男が成人するまでエルマン家を支えてくれたのは父の六つ下の弟で、叔父はいまもあれこれとエルマン家の子どもらの世話を焼く。

 長女は叔父に言われるがまま嫁いでゆき、次男にも妻子がある。けれども次女だけは縁談にどうしても首を縦には振らずに、そのうちフランツはエルマン家に呼び戻された。

 兄妹の誰かの大事でしたらどうするおつもりですか。白騎士団副団長のカタリナにこっぴどく叱られて、仕方なしにフランツは帰ってくる。ええ、それはもう大事です。エルマン家はじまって以来の。叔父と弟はフランツにそう捲し立てた。

「あのときはずいぶんと大人気ない声をしたものですが、いまはちゃんと反省をしておりますし、結果的には良かったと思っていますよ」

 弟の瞳に偽りの影は見えない。次女はおなじ大貴族の妻になるよりも、幼き頃から自分の傍にいてくれた扈従こじゅうを選んだのだ。フランツは泣きながら訴える妹たちの声をそのままにきいた。

 噂は白の王宮にも届けられて、あの堅物の聖騎士殿は殊の外身内には甘いなどと揶揄やゆされたものだが、事実とは異なる。単に面倒だったのだ。

 フランツの性格をよく知っているカタリナは、この情のない男に複雑そうな目をしただけだった。あれが、どういう意味だったのか。けっきょくフランツは知らないままでいる。

 晩餐も終わりへと差し掛かろうとした頃に、末弟がしきりにこちらへと視線を寄越してくるので仕方なくフランツは問うてみた。末弟は恥ずかしそうに俯いた。

「兄上は、あの竜と戦ったのでしょう?」

 彼を咎める声が重なった。次男と末妹だ。だって、でも……と。末弟は情けない声を出す。

「構わない。お前たちも見たのか?」

 兄妹はそろってうなずいた。

 エルマン邸は王都マイアの南にあるため、ここ以上に安全な場所はなかった。一般の市民は士官学校へと逃してあったが、あらかじめ他の諸侯らをエルマン邸に誘導させたのはフランツだ。巨大な獣はその足で大地を揺らし、それから咆哮をつづけた。だから彼らは嫌でも何が起きていたのかを、その目で見たのだろう。

「兄上は立派です。だって、あの竜に勝てたのですから」

「私一人の力ではない」

 純真な瞳だ。末弟の目はいつまでそうあるのだろうと、フランツは思う。士官生になって次の年には戦場へと行く。弟はそこでこの世界が綺麗なものだけでできていないと知るのだろう。

「まあ、でもそうですね。兄上は王都を守ってくださいました。それに、もう一人の聖騎士からも」

 グラスを机上へと戻せば、その音がやや乱暴にきこえたのかもしれない。饒舌につづけるはずの次男の声はそこで止まった。フランツはため息をする。彼らは何が真実であったのかを知らなかったし、理解するのはまだ先だ。

「そういう物言いをするものではない」

 兄妹たちの視線から逃れるように、フランツはそこで席を立った。

 その翌日、フランツは兄妹たちにちゃんとした挨拶をしないままエルマン家を去った。次男は怒るというよりも、おそらく呆れただろう。しかし、これでいい。足りないところは叔父が見てくれる。叔父が逝ったあとには次男もエルマン侯爵として独り立ちしている。そんな遠い未来のことまで想像して、フランツは自分がおかしなことを考えていると現実に戻った。

 訪れたローズ邸では伯爵には会えなかった。

 ローズ伯爵は昨年の秋頃に体調を崩し、以来屋敷に籠もっている。娘が失踪してからはずっとそうだった。伯爵には元老院としての役目があるはずだが、いまの彼に無理強いは酷であると、アナクレオンもそう言う。

 ローズ邸を出たフランツは次にするべきことをしばらく悩んだ。

 なにしろ一年振りの休暇だ。とはいえ、これまでの休日も途中で扈従がフランツを呼びにくるものだから、まともに一日を休んだことはなかったように思う。必要な買いものにしてもカタリナがすべて済ませていてくれた。彼女こそいつ休んでいるのだろうとフランツは尋ねたことがあったが、カタリナは笑って返すだけだった。

 名家の娘が馬車に乗り込むのが見えた。

 浅葱色のドレスを着て、髪の毛も綺麗に纏めあげている娘はこれから婚約者のところへと行くのかもしれない。カタリナ・ローズは晩餐会でも白の軍服を着ていたのを、フランツは思い出した。

 カタリナと部下だった少年騎士が見たのは、人間ではなく竜族だった。

 竜人ドラグナーは竜の力を取り戻すために人を喰らったのだという。若い娘の臓器は獣にとってご馳走だ。なぜ王がそんなことを知っていたのか、しかしフランツには主君を疑うという選択肢は存在しない。ただ、カタリナが生贄になったとは思えず、いまも彼女の存在を信じている。

 叛乱軍討伐の王命を受けたときから、行方不明者の捜索は打ち切られていた。

 フランツはカタリナを探そうとする。けれども、最初にどこへ向かえばいいのかわからなかった。彼女が好んでいた花も知らなかったし、行きつけの店だって思い浮かばなかった。

 いなくなってからはじめて思い知る。フランツはこの感情に蓋をするしかなかった。親も周囲も皆が止めたのに、なぜ彼女は聖騎士の道を選んだのだろう。フランツだっておなじ声をした。あのとき、彼女は笑っていたのはどうしてだろう。いまさら思い返しても、彼女はとっくにフランツの前からいなくなっていた。

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