ルーファスの裏切り①
五回目の鐘がきこえても、コンスタンツの足は大聖堂へと向かってはいなかった。
敬虔なヴァルハルワ教徒の家に生まれ、父は枢機卿である。コンスタンツが神の教えを疑ったことはない。本来ならば鐘の音がはじまるその前には席に着いているはずだった。とはいえ、それは義務などではなく習慣である。神は尊い存在として崇めていたとしても、心のすべてを預けるには遠すぎるのだ。
やがて、鐘の音が途切れた。
ムスタールの城の構造は複雑で、居館から別塔へと移動するだけでもかなりの時間を要する。敷地内にある広い庭園とそこを抜ければ騎士たちのための兵舎が見えてくる。普段はコンスタンツの寄りつかない場所だ。少年騎士がコンスタンツを見て気遣いの声をした。公爵夫人と声を交わすなどいまを置いて他にはないもので、反応もまた初々しい。コンスタンツは作った笑みを唇に乗せる。見習いからさして時の経っていない騎士だった。今日のことを忘れずに胸へと仕舞っていてもそれは彼だけの思い出となり、上官へと報告もしないはずだ。
先を急ぐコンスタンツは、
コンスタンツに最初に報告を来た侍女は嗚咽するだけでまともに話ができずに、扈従は
とはいえ、それなりに心は急いていたのかもしれない。
焦慮や短気など滅多に他人に見せないコンスタンツもやはり人の親だった。良家の娘として厳しく躾けられ、公爵夫人としての表情を崩さないコンスタンツはいま、額から流れる汗を拭いもせずにいる。結いあげた黒髪は乱れて、仕立てたばかりのライラック色のドレスの裾もすでに汚れていた。なんてはしたないのだろう。粗雑で品性のない行いをコンスタンツは嫌っていた。それでも、かまわない。責を負うのは私だ。コンスタンツはそうつぶやく。
十歳になるコンスタンツの息子が突然いなくなった。
午前は勉強の時間で昼食のあとは、剣や馬術を教わるのが息子の一日の予定だ。教育係は公子としてふさわしい人間に息子を育てる。そこに甘さは一切なかった。
公子が母親と過ごせるのは夕食時と夜の数時間だけだ。コンスタンツは息子を誇りに思い、従者たちも公子を
息子とささいな口論となったのは、五日前のことだった。
ヘルムートは実に半年以上もムスタールを離れていた。ようやく帰ったきた父親を前に息子が交わした声といえば
それからも、ヘルムートは公務に追われる日々を送っている。
夕食の時間なのに父親の席はいつも空いていて、家族の時間を持てないままだった。子どもたちの気持ちをコンスタンツは理解しているつもりだ。しかし、十歳の子どもに悟らせるには彼はまだ幼く、そうした機微をコンスタンツは見逃していたようだ。
もともと熱心なヴァルハルワ教徒ではないヘルムートが祭儀に関わるのは職分にすぎず、そこに公務が被されば当然後者を優先する。だから聖体祭のあと、午後のすこしの時間だけがヘルムートに許されていたというのに、それさえなくなってしまった。
幼子にとっては裏切られた気持ちになったのかもしれない。父親の前でこそ涙は見せなかったものの、機嫌はなかなか戻らずに、コンスタンツはつい息子を叱りつけた。悔やむならばこのときの自分だ。コンスタンツはそう思う。
やがて、コンスタンツの足は止まった。甘く、しかしどこかもの悲しく匂い立つのは、そこらに群生している青い花の香りだ。
外壁に補修の跡は見られず施錠もしていないここには、かつてムスタールの公女がいた。つまりヘルムートの母親が晩年を過ごしていた場所で、コンスタンツがそこへと足を踏み入れたのは実に一、二回ほどである。
誰かに閉じ込められたのではなく、公女自身がここを選んだのだ。理由はついぞ明かされずに、義理の娘であるコンスタンツにも笑みさえ見せなかったその人は、うつくしい時分のまま逝ってしまった。
コンスタンツはこの花が好きではなかった。青い花は
塔の内部には最低限の施設だけしかない。
しかし、調理場や浴室などもそのまま残っていて、他には本を好んでいた公女のために書物庫が用意されていた。たしかに、何年もそこに閉じ籠もっていても退屈しないだけの書籍がここにはある。そうした気性は息子のヘルムートにも、それからその息子にも受け継がれていたようで、会話の端からここの存在を拾った公子はこの場所へと行きたがっていた。ヘルムートはもとより、コンスタンツも子どものちょっとした好奇心だと受け流していたが、息子は本気だったのだろう。
コンスタンツは最上階へとつづく階段を行く。
たどり着いたそこは公女の寝室だ。豪奢な刺繍が施されている絨毯の上には二人がいる。息子は本に夢中な様子で、靴音を響かせながらここまで来た母親にも気がつかなかった。すこし離れた場所には教育係が公子を見守っている。微笑ましい光景に見えてそうではない。コンスタンツは安堵よりも失望と怒りを抱いていた。
双眸は息子よりも先に教育係を貫く。目が、合った。教育係は相好を崩さずに、遅かったですね、と。そういう目顔をする。やがて、母親の存在を認めた公子は後ろめたそうにうつむいた。叱られるのをおそれたようで、同時にこれまでになかった殺気を感じ取ったらしい。息子は聡い子どもだ。怯えて泣くのは簡単でも、それでは母親をもっと困らせる。だから、何もしないという選択を取ったのだろう。
「ここで、何をしているのです?」
あえて、コンスタンツは問うた。どういう声が返ってくるだろう。どうせ、期待するような応えはなくとも、その主張だけはきくつもりであった。教育係は黙したままだ。内心の苛立ちを抑えつつも、コンスタンツは待つ。
公子の教育係に新しく付けたのはイリアという女だった。
濃い青髪は王都の生まれに多く、身なりからもはっきりと上流貴族と見て取れた。大聖堂の一室で出会ったときこそ女は声を乱していたものの、しかし物腰の落ち着きようや優婉な所作も、ただの貴人とはちがう。そうコンスタンツは読んでいた。
推測は当たる。女はクレイン家を名乗り、コンスタンツはかの侯爵家に覚えがあった。そう、王女の傍付きだ。
たしかに、騎士の
「お前の言い分をきいてやっているのですよ、イリア」
寛容を込めた声音はどこまで届いているかどうか。ただし、三度目はない。これは
普段は大人しい公子の癇性に付き合ったというのなら、教育係としては失格だろう。そんな
「ムスタール公に、目通りを願いたい」
まったくの想定外ではなかったが、コンスタンツは意外そうな目をした。
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