ルーファスの裏切り②

 失念していたのはイリアが公子の教育係として分相応の働きを見せたためだった。

 ムスタール公爵家に生涯を尽くす所存だと、そういう目をする。騙されていたのだろうか。コンスタンツはそう思わない。たしかに、イリアにとってコンスタンツは恩人である。忠節を誓うのは正当な理由だ。ただし、この女には本来の主が別にいる。いま見せている忠誠心など偽りにすぎず、完全に見抜けなかったコンスタンツが短慮だっただけだ。

 そして、コンスタンツはイリアの意図を知った。

 侍女の一人も同行させなかったのは失敗だったようだ。この女は本気で公子を人質にするつもりだ。ならば、じきにコンスタンツもそうなる。イリア・ルーファス・クレインは王女の騎士である。

「公は多忙な身です。お前に時間を割いているときではないのです」

 このような道理が通る相手ではなくとも、やはり牽制はしておくべきか。早鐘を打ちはじめた心臓の音が耳の底で響いている。動揺を悟られてはこちらの負けだ。

 しかし、いつそれが知られたのだろうか。

 ムスタールはたしかに戦いの準備に急いでいるが、であるのかは伏せられていた。それが北の敵国ルドラスであるならばまだしも、イレスダートのおなじ公国同士の内乱とあっては、民はひどく動揺する。ルダ、ならびにアストレアの公子などの要人が関わっているのならばなおのこと、イレスダートの情勢も大きく変わり、だからヘルムートは麾下きかの騎士以外には直前まで秘匿ひとくに努めていたはずだ。耳聡くこれを手に入れたというのか。なんてしたたかな女なのだろう。

 コンスタンツは失笑する。勝算は、ない。だというのに騎士を、教育係を、この女を哀れに感じていた。

 だいたい、公爵に会ったところでどうなるというのか。広言こうげんを吐くのはいいが、ヘルムートは応えはしない。コンスタンツは逡巡する。均衡を破ったのは階下からの声だった。

 それは、イリアが望んだ通りの結果であり、しかしながらコンスタンツにとっては不本意なものであった。どうしてここに来てしまったのか。コンスタンツの視線など、夫は気づきもしなかった。従卒たちの手は腰に佩いた剣へと伸びている。これ以上の刺激を与えればこの女は何をするかわからないというのに。

「ムスタール公爵、ですね?」

「そうだ。お前は何だ?」

 説明を求める声色はコンスタンツにも向けられていたものの、ここにいる役者を見て瞬時に把握できない愚者ならば、コンスタンツの心はとっくに夫から離れている。これはあくまで意思の確認だ。

「私はイリア・ルーファス・クレイン。このような手間を取らせてしまったこと、まずはお詫びいたします。されど、ヘルムート公にはお話ししておかねばならないことがあります」

「きこう。だが、先に私の息子を帰して頂きたい。子どもには関わりのない話だ」

 イリアは直接公子を抱いていたわけではなかったが、そこでやっと解放をする。はじめはうまく足が動かなかった公子も一、二歩と進んだところで一気にコンスタンツの腕へと飛び込んだ。しっかと抱きしめた息子の身体は震えていて、それを受け止めるコンスタンツもはじめて母親の表情をした。ずっと堪えていた涙がコンスタンツの胸を濡らす。しかし、公子を侍従へと託すとコンスタンツはこの場に留まった。この女をムスタール公爵家に関わらせたのはコンスタンツだ。その責任は、取らねばならない。

 階下へと消えた足音のあと、しばしの空白があった。

 もう一人の従卒が促している。とはいえ、ヘルムートの実直さを知る人間ならば、それを選ばないこともわかっている。殺してしまうのは実にたやすい。イリアが王女の騎士でなかったならば、コンスタンツは目顔で従卒に命じていた。

「公はルダとの戦いの準備をしていると伺いましたが、それに間違いはございませんか?」

「事実だ」

「では、ルダとともにあるのがアストレアの公子だということも、ご存じなのですね?」

「無論だ。しかし、君が問いたいのはそれではないだろう?」

 淡々と、何の感情ものぞかせない会話はつづく。

「おっしゃるとおりです。……それでは、レオナ殿下のことは?」

「君が何を言いたいのか私にはわかりかねるが、私にはそう時間がない。これはアナクレオン陛下の王命なのだ。レオナ殿下ならびにマリアベル殿下、それからバルト殿下の保護を第一とせよ。君が正したいものが、どこにある?」

 行方知れずとなっている王女はもとより、そこに王妃や生まれて間もない王子までもが関わっているなど、さすがに寝耳に水だったようだ。イリアは瞠目をしたものの、コンスタンツはさして驚かなかった。むしろ想定内だとすら感じている。マイアの敵はルダとアストレアの聖騎士だ。王女や王妃の存在など演出にすぎない。

「いいえ」

 それでも、イリアは否定の声をする。

「公は思い違いをされているようだ。アナクレオン陛下の意思は別にあるということを。アストレアの聖騎士を討つという、その意味がおわかりか? 彼は、」

「オリシスのアルウェン公を暗殺しただけでなく、マイアの騎士に剣を向けた。造反の意思がなければそうはならない。これ以上の理由がまだ必要か?」

「それこそ、誤りです。なにより、国王陛下はそれを望んではおられない!」

 ヘルムートの嘆息がきこえた。堂々巡りである。しかし、コンスタンツはそこにほんのわずかな違和を摘み取る。ヘルムートの物言いも声音にも、何の揺らぎもない。目には一点の曇りもない。だからこそ、妙なのだ。

 ムスタールを空けていた夫の仔細をコンスタンツは知らずにいる。

 王都に囚われていただとか、君主に剣を向けたなどといった噂はきいていたが、それをヘルムートに問い質したりもしなかった。ただ、夫の身に何かが起きていた。それだけはたしかだ。

 コンスタンツはヘルムートの横顔を見る。

 落ちくぼんだ眼窩も痩せた頬も、急に何年もの時を過ぎたかのようだ。ただ、その目だけがちがう。何ひとつとして疑わない。妄信ぼうしんとでもいうべきか。いまのヘルムートは王を神のように見ている。 

 話が平行線をたどる一方で、また別の従卒が現れた。肩で息を整える間もなく主へと耳打ちをし、ヘルムートの顔に緊張が走る。火急の知らせだろうか。コンスタンツがその詮索をする前にヘルムートは片手をあげた。はじめから交渉などではなかった。諫言かんげんなど、この女が勝手に用意しただけの声だ。飛び出そうとした女の前にコンスタンツは立つ。

「控えなさい、イリア。お前はもう、ただの女なのですよ」

 この女はもはや騎士でも教育係でもなかった。公子に剣を向けたそのときから、イリアの明日は決まっていたのだ。

 ヘルムートの従卒たちがイリアを羽交い締めにする。剣を取られ、騎士の証を奪われた女はまだ抗議と罵る声をつづけていたが、それ以上ヘルムートへ届くことはなかった。

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