いってらっしゃい
朝が来て、夜が来る。昼なんてあっという間で、また闇の時間が訪れる。最初の三日はそう過ぎていった。
みんな疲れた顔をしていても、けっして声には出さなかった。レオナもおなじだった。治癒魔法の使い手は休む暇もなく、己の精神と魔力の限界まで力を使う。氷狼騎士団の砦に
殺気立っている大人たちを怖がって、子どもたちは母親から離れようとしなかった。それでも四日目の昼には退屈しはじめたらしく、ぐずったり他の子どもと喧嘩したりを繰り返している。叱りつけるのは逆効果だから、ちょっと手が空いた娘たちがうたを口遊む。ああ、このうたは最初にここに来たときに耳にしたうただ。
レオナはしばらくソプラノの音色をきいて、それからまた回廊の奥へと進み出した。
九つの鐘が鳴ったあとのすこし落ち着いた時間になってから、レオナは義理姉のところへと向かう。王妃の部屋の前にはいつも侍女が控えていて、扉をたたくよりも前にマリアベルの様子を教えてくれる。気分が優れなかったり熱を出したりの繰り返し、またあとで来ますとレオナはこの日も侍女にそれだけを伝えた。
王妃の隣の部屋からは幼子の笑い声がきこえてくる。まだちいさいレオナの甥っ子は、ようやく傍付きに懐いてくれたらしい。ここは、きっとだいじょうぶ。レオナはまた歩み出す。
アロイスたちを守ってくれたのはグランの竜騎士団だ。
けれどもレオナはまだレオンハルトに会っていないし、アイリオーネともすこし話ができただけだ。いや、会えずにいるのは他にもいる。レオンハルトが幼なじみに詰め寄ったときいたとき、レオナはすぐ彼のもとに行きたかった。そうしなかったのは、できなかったのはなぜだろう。レオナのねえさまはそんな義理妹の心のなかなんてお見通しだった。わたくしのことよりも、いまは彼の傍にいてあげなさい。マリアベルはぎこちない笑みで、そう言ってくれた。
オルグレム将軍は帰ってこなかった。叔父を失ったマリアベルはずっと泣いていた。そうして体調を崩したあとも、彼女は幼なじみや軍師を責める声をひとつもしなかった。
いま、氷狼騎士団の砦はかなしみに包まれている。老将軍の元にいた騎士たちも、ルダの魔道士たちも、あとから加わったマイアの騎士たちも、みんなが失ったものの大きさに打ち
「これは、レオナ殿下」
はっとして振り返れば、初老の男が笑んでいた。
「あなたは、クレイン家の……?」
「ええ、そうです。殿下の傍付きであったイリアとおなじく」
レオナは傍付きを忘れたことはなかったものの、その名前をひさしぶりにきいた気がする。そういえばイリア――、ルーファスは、自分をクレインの娘だとあまり口にしなかった。
「お一人でどちらに向かわれるのですか? よろしければ私がご一緒いたしましょう」
「いえ、わたしは……、ひとりで平気です」
ここでレオナの正体を知っている者は多い。でも、皆はレオナを王女扱いしないし、ちゃんと対等に見てくれる。外部の者からすれば異端に見えるのかもしれない。王女が傍付きを伴わずに一人でいるなんて、白の王宮では異例だ。
「ああ、でもこれは好都合です」
「えっ……?」
急に男の声が変わった。
「殿下と聖騎士殿は幼なじみでしたな。どうか、殿下の声を持って聖騎士殿に伝えて頂けませんか? この戦いを、けっして止めないと」
「どういう、ことですか?」
その穏やかな笑みはそのままなのに、冷酷で
「ええ、言葉どおりの意味ですよ。聖騎士殿にここで立ち止まられては困るのです。何が起ころうとも、誰を犠牲にしようとも、あなた方には王都へとたどり着いて頂かねばなりません。そして、イリアをムスタールから救ってもらわねば」
勝手なことを。知らないあいだに作っていたレオナの拳が震えていた。みんなそうだ。けっきょく、おなじなのだ。彼に、幼なじみにぜんぶ押しつける。
「あなた方は彼を信じて、ここにいらしたのでしょう? でしたら口出しは無用です。それに……、ルーファスは騎士です。自分の身に何が起ころうとも、彼女は己の手で未来を切り拓きます」
男の返事を待たずに去ってしまったが、これでよかったと思う。あれ以上声をつづけていればもっと感情のままに言葉を紡いでいただろう。それはきっと、王女としてただしくない方法で。
もう一度、王妃の部屋を訪れてみれば眠ったあとだと侍女が教えてくれた。
今日はいつもよりもうすこし食事も取れたと言うから、これならゆっくり眠れるはずだ。王妃の隣の部屋は静かで、アロイスは王子と一緒に眠ってしまったのかもしれない。一人前の男になる前に子守が得意になってしまったと、アイリスは怒るだろう。それからまたクリスたちのところへと戻る。アイリオーネとシャルロット、それにクライドの姿が見えない。眠るフレイアの傍でクリスが
そろそろ戻らないと、きっとルテキアが心配している頃だ。レオナは早足で回廊を進んでゆく。人の姿もまばらで、娘たちのうたも祈りの声もきこえなくなっていた。そのときだった。
「レオナ?」
呼び止めた彼の方が驚いた声をしていた。
「ブレイヴ……、まだ、やすめないの?」
「
「こんな時間なのに?」
涙が零れてしまいそうになる。ちゃんと眠っているの? ちがう。ききたいことも伝えたい声も他にあるのに、幼なじみが無理に笑おうとするから心が苦しくなる。
「レオナは、早く眠らないと……」
頬に触れるその手が愛おしくてたまらなかった。だから、手離したくなかった。急いでいるはずなのに、彼は胸のなかにいるレオナをただ抱きしめてくれた。だいじょうぶだよと、声がする。だいじょうぶじゃない。レオナはそう繰り返す。
「だいじょうぶじゃないときは、ちゃんと言って? ひとりじゃないって、言ってくれたのはあなた。隠さないでぜんぶはなしてって、そう言ってくれたのは、ブレイヴよ?」
どうすれば彼をまもれるだろう。ずっと考えてもこたえが見つからなかった。いま、レオナにできるのは幼なじみを送り出すことだけだ。口づけをひとつ頬に残して、それからそっと幼なじみから離れる。泣き顔なんか見せたくない。ちゃんとした笑顔でなくてもいいから、ありのままの自分で、レオナは言う。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
ひかりが見える。レオナはいつだって幼なじみといるときに、ひかりを感じる。
きっと皆もおなじなのだろう。彼が聖騎士だからじゃない。暗闇のなかで光を求めるそのときのように、夢も願いも希望も、明日へと届ける祈りに似ている。
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