明日へ

「悪いが殴らせてもらう」

 一言断りを入れるところがレオンハルトらしい。再会の挨拶もないままいきなり胸ぐらを掴まれた。鼻と鼻がぶつかりそうな距離でもブレイヴは抵抗しなかった。彼の気が済むまで殴ればいいと、そう思った。

「レオンハルト!」

 悲鳴のような声が響く。アイリオーネを制したのはセルジュだ。レオンハルトは愛しい妻女をちらと見たものの、拳を収めなかった。ブレイヴもまだ息を殺している。軍師が止めたりしないのは、できなかったのは、力では叶わないとわかっているからだ。

「レオン、おねがい。やめて……」

 レオンハルトの背に顔を埋めるアイリオーネの声は震えていた。そこでようやくブレイヴは解放された。しばらく呼吸に喘いで、それからまた彼の顔を見る。友は、怒っていた。

「あなたがそれで気が済むのなら、まずは私を殴ればいい」

「ほう? それでは、お前が先に俺に殺されても構わないと?」

「レオン……っ!」

 許されなくて当然だ。グランの竜騎士団が間に合わなければ、アイリオーネたちを失っていた。

「よせ、セルジュ……。アイリオーネも、」

 肩で呼吸をしながらブレイヴは二人を止める。レオンハルトは舌打ちをし、ブレイヴに目も合わせずに去って行った。夫を追うアイリオーネの姿が消えるまで、ブレイヴは彼らを見つめていた。あのまま殴られていた方がずっとよかった。レオンハルトはブレイヴを責めたくてそうしたわけじゃない。もしも逆の立場ならば、ブレイヴだって力任せに友を殴っていた。

「公子、私は……、」

「傷はもういいのか?」

 隠そうとしても無駄だ。軍師のこの性格ではちゃんとした治療も治癒魔法も受けないままだろう。

 ブレイヴたちが氷狼騎士団の砦へとたどり着いたのは夜半頃、すでにここは混乱していた。ともかく負傷者が多い。生き残った者たちはこれからが戦いなのかもしれない。治癒魔法の使い手は限られているから重傷者が優先されるし、よしんば傷が治ったとしてもその先も戦えるかどうか。あまりにも犠牲が多すぎた。

 そう、その代償が大きすぎたのだ。

 ブレイヴの拳が震えていた。己の未熟さと無力さを嘆くのは、もう何度目だろうか。新兵たちは全滅した。しんがりを務めたオルグレムは戦死した。老将軍の麾下の騎士たちもおなじく、若者たちだけが生き残った。クライドとフレイアの傷は深く、クリスとシャルロットが付きっきりだった。難を逃れていたのはルダの魔道士たちで、もう一人の幼なじみとの接触があったことを、ブレイヴはまだ知らなかった。けれども彼女が無事ときいて安堵したブレイヴは、自分に堪らなく嫌気が差した。けっきょく、自分はそういう人間なのだ。

「私を恨んでください」

 同罪だと、すこし前にセルジュはそう言った。そのままそっくり返してやりたくなった。

「いつからだ?」

 ひかりとは、なんて重いのだろう。最初からオルグレムは託すつもりだったのかもしれない。セルジュという軍師が、それをもっとも嫌うことを知っていて、それでもなお選ばせた。すべては、未来のために。

「言ったはずです。立ち止まらないでください、と」

 軍師は常に最善の道だけを選ばなければならない。それが、どれだけ非情な策となろうとも、軍師は勝つために存在する。でも、その選択は失敗だ。オルグレムという老将軍を失い、この集団の士気は著しくさがっている。新たに加わった兵力も半分なくしてしまった。じきに白騎士団が氷狼騎士団の砦を包囲する。そのときが、終わりだ。

 セルジュの声はきこえなくなっていた。代わりにブレイヴの耳に届いたのはあのうただ。聖堂の扉の向こうから紡がれているそれは、鎮魂歌でも挽歌ともちがう。そういえば、ロベルトはいまでも戦場で星たちのうたがきこえると言っていた。友を、家族を、仲間を想って。あるいは戦いに疲れた自分のために口遊む。回廊にはたくさんの騎士が行き交っていたものの、聖騎士を呼び止める者は一人もいなかった。勇者や英雄などではない。死と嘆きを連れてくる死神のようだ。きっと、彼らの目に聖騎士はそう写っている。

 当てもなく彷徨ううちに東の塔へとたどり着いた。

 偶然、それとも見張っていたのだろうか。ロベルトの扈従こじゅうが上の階へとつづく扉を、ただ黙って開けてくれた。ブレイヴは螺旋の階段をひとつ一つたしかめるように歩いて行く。施錠されていたのは、以前ここで自害した者がいたからだ。うら若い未亡人の女性は夫を失った悲しみから逃れらなかったという。敬虔なヴァルハルワ教徒は自ら命を絶つことが許されないが、謂われのない理由で命を奪われた夫の元に行きたかったのかもしれない。

 空は昨日の雨が嘘だったみたいに晴れている。イレスダートの夏の訪れだ。

「そこから飛び降りれば、楽になれるぞ」

 冗談なのか本気なのか。どちらでもないような彼の声に、ブレイヴは笑って応える。ちゃんと笑えていたかどうかなんて自信はない。ロベルトが表情を変えないからなおさらだ。

「もう、いいじゃないか」

 ブレイヴはまじろぐ。いったい、彼は何を言いたいのだろう。

「ここに集まっているやつらのことなんて、考えなくていい。おまえがいなくなれば、またちがう別のやつを探すさ」

 そういうことか。相変わらず人を慰めるのが下手な人だ。ブレイヴは笑みをそのままにする。でも、そうじゃない。彼の、ロベルトの言いたいのは、きっと誰も言ってくれないことだ。

「おまえが、ひとりで背負う必要なんてないんだ」

 一人で背負っているわけじゃない。それなのに、声に出せないのはどうしてだろう。

「ここに、正義を謳っているやつなんてどれだけいる? 騎士の矜持きょうじ? 知ったことか。自分を信じてくれるひとがいる? だったら、そいつはおまえの選択をわかってくれる。失望するなら勝手にすればいい。そんなもの、ただの押しつけだ」

 いつになくよく喋る。こういうときのロベルトは怒っている。

「逃げたっていい。誰にもおまえを責める権利なんてないし、それならそいつがたたかえばいい」

「俺は、ただ、」

「姫さまのためか? 言いわけにきこえるな、おれには」

 前にもおなじことを言われた気がする。ずっとその繰り返しだ。早口で喋りつづけたせいか、ロベルトが疲れているようにも見えた。彼らしくない。そう、思った。

「そうだよ。逃げればよかったんだ。西のラ・ガーディア、それにグラン。せっかくイレスダートから離れられたのに、どうしてそうしなかったんだ?」

「そんなことは、望んでなんかない」

 自分も、そして彼女も。

「ばかだな、おまえ。正直で、素直で、でもどうしようもなくばかなやつだ、おまえは。むかしからそうだった」

 腹が立たなかったのは、彼が笑んでいたからだ。呆れられていたとしても、それでもよかった。いま、ブレイヴをちゃんと叱ってくれるのはロベルトしかいない。あの軍師ですら顔色を窺うような目をしていた。

 息を吐く。しばらく止めて、また呼吸をする。だいじょうぶ。冷静だ。だから、これからどうするべきなのかも、ちゃんとブレイヴはわかっている。

「できない」

 失望のため息がきこえた。ブレイヴはもう一度、言う。

「できない。俺は、イレスダートの聖騎士だから」

「そう言うと思った」

 視線を外して空を仰ぐ彼の目は、いま何を見ているのだろう。過去か、それとも明日か。二人とも大人になったし、騎士になった。最後に別れたときに交わした約束は守れなかった。でも、まだ終わりじゃない。

「やっと、たどり着いたような気がする」

 なにをと、きき返す前にロベルトは笑みで応えた。

「おれは誰かのために剣を持っているわけじゃない。でも、戦場で戦ってたたかって、ずっとそうしてきた」

 ロベルトは左手を開いては閉じ、それをまた繰り返した。

「そのうち、おれよりも若いやつらがおなじ部隊に入ってきた。ひかりしか見たことのないような目をして、馬鹿みたいに理想を語ってばかりだった。とにかく危なっかしくて、でも自分より年下のやつを死なせたくなかった。そうやって生き延びて、気がついたら氷狼騎士団ができていた」

 自分は指揮官になんてなりたくなかったし、将軍の地位だって欲しくなかった、そう言いたげな声だった。

 似ているな、とブレイヴは思う。彼自身もそれを認めているのかもしれない。一度だって、友とは呼べなかったあの人とおなじ。

「そうだよ。きっと矜持や大義や、自分の理想とか、そういうものじゃなかったんだよ。何のために、誰のために自分がここにいるのか、わからなかったんだと思う。あのひとも……、アドリアンも。仲間がいて部下がいて、家族だっている。そうしたものをぜんぶ失いたくなかっただけで、そこにいる理由なんてなかったんじゃないかって」

「ロベルト」

 彼はひと呼吸を置いて、かぶりを振った。

「いや、忘れてくれ。おれのことなんて、どうだっていい」

 やっぱり不器用な人だ。急に居心地が悪くなったのか、ロベルトはブレイヴを残して螺旋階段をくだって行く。人を励ますのも慰めるのも、あるいは説教するのだって彼は昔から苦手なたちだった。

 明日、彼の前でこれからのことを語ったならば、またおなじ声をするだろう。ばかだな、おまえは。

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