月の見えない夜①

 レナードが大衆食堂を出たとき、日はすっかり暮れていた。

 国境の集落でもこれまでの村や町と比べて広く、東には立派な建物が並んでいる。辺境を任された貴族の邸宅のようで、この街に駐在する騎士も多い。ここがなぜ無事だったのか、レナードはやっとわかった気がする。下手に手を出せばあとには引けなくなるし、何よりもここには監獄があるからだ。

 非番の前の日以外は酒を飲まないと決めていた。

 アストレアにいた頃からずっとそれを守ってきたのに、今日はどうしても一杯だけ飲まずにはいられなかった。自分の懐から出すわけではないので、デューイは麦酒エールをどんどん注文する。隣でノエルは塩漬け豚とレンズ豆の煮ものをつついている。ウルーグの名物料理を一通りたのしんだあと店を出た。けっきょく、レナードが飲んだのは一杯だけでノエルは酒に手を付けず、遠慮知らずのデューイだけが盛りあがっていた。

「ったく、俺はちゃんと止めたからな」

「お前が先に飲もうと言ったんだろ? ここは同罪だ」

「ちょっと待った。勝手に巻き込むのはなし。飲んだのはお前たち二人だろ」

 レナードがぼやき、デューイがにやにやして、ノエルが反論する。同郷のレナードとノエル、そこにデューイがくっ付いてくるのは面白いからという理由だけだ。

「ああ、もう。お前なんか連れてくるんじゃなかった」

「それ俺の台詞! お前らとちがって俺は騎士じゃないのに……」

「仕方ないよね。人手が足りないんだもの」

 ごちる二人にノエルがあっさりと返す。愚痴を零すデューイの言い分もわかるし、ノエルの声も正しい。この街にはたくさんの騎士が集まっていて、けれど皆はそれぞれの仕事で忙しくしている。

「まあ、こういうのはね。俺たち下っ端の仕事だと諦めるしかないよね」

 とはいえ、レナードたちが向かっているのは監獄だ。酒場で一杯引っかけてから来ましたなんて言えば、あとで間違いなく処罰されるだろう。酒精アルコールのにおいが残っていないか、レナードは嗅ぐ。我ながら軽率だったと諦めるしかない。

「でもさ、見張りを任されるってことは、お前たちは留守番役ってことだ」

 ぴたりと、レナードは足を止める。

「おいおい、そんな睨むなよ。俺が決めたわけじゃないし……。ええと、誰だっけ? アステアの兄さん?」

「セルジュは軍師だからね。彼の言うことをきかないってことは、公子の言葉を拒否するっておなじ意味」

 べつに公子に逆らうなんて、そんなつもりじゃない。レナードは独りごちる。

 いま、この町には俘虜ふりょとなったイスカの戦士たちが収監されている。彼らを率いていたのはイスカの族長であるシュロ、獅子王の右腕と呼ばれた男だ。すでにシュロと公子たちとの話は付いているようで、他のイスカの戦士たちも大人しくしている。彼らの仲間だったイレスダート人が一人、そこから抜けたことも騒いでもいないようだ。

「でもさ、よかったよな。アステアは兄さんとちゃんと会えて」

「ずっと捜していたからね。偶然だっていうけど、奇跡みたいなはなしだよね」

「よくなんかないよ」

 泣いているアステアの姿を思い出した。あれは嬉し泣きだった。レナードはかぶりを振る。

「軍師かなんだか知らないけど。あいつ……、いきなり入ってきてえらそうに」

 デューイとノエルが顔を見合わせた。 

「なあんだ、お前って案外根に持つ奴なんだなあ」

「アストレアにいたのにエーベル家を知らなかったくらいだしね」

「ちがう! そうじゃない」

 拳に力が入ってしまうのは酒を飲んだせいだ。

「だって、あいつジークを知ってたくせに、あんな言い方って……」

 その場にいなかったデューイはともかく、ノエルもきいたはずだ。アストレアの公子ブレイヴには麾下きかのジークがいつも傍にいる。アストレアのカラスが公子から離れることはない。けれど自由都市サリタでマイアの追っ手から逃れるために、しんがりを務めたのはジークだ。他に適任者などいなかったと、公子も認めている。

「ジークは、生きてる。勝手に決めつけるなっての」

 目が熱くなってきて思わずレナードは空を見あげた。禍々しいほどの赤が空を染めていた。デューイが肩をたたいた。麦酒をあれだけ飲んだくせに完全には酔っていないらしく、どこかやさしい。

「まあ、でもさ。軍師の言うことは素直にきいとけって」

「そうだね。イスカを知っているセルジュが道案内してくれるんだもの。エディ王子も、公子も。帰ってくるまで俺たちはここを任されたんだから」

 レナードはうなずく。俘虜は殺さない。それが、ウルーグの王女エリンシアの出した答えだ。シュロはウルーグで預かり、そのあいだにエディがイスカに行く。こちらにシュロという人質がいる限り、ウルーグの鷹は無事にここに戻ってくるはずだ。

「それにまだ油断はできないよ。獅子王とは関係のないイスカの戦士だっているんだもの。ここを襲ってこないとも限らない」

「そういう仕事はごめんだな。俺は騎士じゃないし」

「そんなの、知ってるよ」

 レナードは鼻を啜る。泣いているわけではなく、単に外が冷えるからだと二人の前で意地を張る。

「でも、そうだよな。まだ終わりじゃないんだよな」

「そうそう。囚人に食事を届けるくらいなら、俺にだってできるけどな」

「さっき、あれだけ文句言ってたくせにね」

 そうして三人で笑い合う。北風の冷たさに震えながら、監獄へと近づく前にレナードはちゃんと騎士の顔を作る。まもなくウルーグにも冬がやってくる。あたたかな季節が来る頃には、ウルーグとイスカの関係も修復しているだろう。

 北の監獄が見えてきた。それまでじゃれ合っていたデューイもさすがに静かになった。洋灯を用意していて正解だ。すっかり空を覆い尽くしてしまった闇のなかに月は見えなかった。

 衛士は不在で、おそらく食事の時間を手伝っているのだろう。深い地下へとつづく階段をおりるのはすこし緊張する。ちょっと足を滑らせてしまえば奈落の底へと真っ逆さま、足を折っただけでは済まされない。監獄という場所だからか、おしゃべりなデューイも声を出さずにいる。レナードは一段ずつたしかめながらゆっくりと降りていく。

 最下段に着いた。見張りの騎士たちとはここで交代だったが、しかし姿が見えない。ここでの食事は固くなった黒パンと冷たいスープ、それに果実が一切れ。それほど時間がかかるようには思えず、他の二人も不審に思っている。

「なんだか、嫌なにおいがしないか? 血生臭いっていうか」

「ここは監獄だよ。血のにおいくらいしてもふしぎじゃない」

 地下はいっそう冷えるために二人の顔も強張っている。いや、これは緊張からかもしれない。レナードの手が震えるのもそのせいだと思い込む。

「やっぱり、こんなところ来るんじゃなかったなあ」

 デューイがぼやく。ノエルはもうデューイを無視してレナードを見ている。手燭で辺りを照らしながら慎重に進んでいく。レナードたちよりも先にここに入った者がいたのだろうか。いや、それにしてはおかしい。投獄されているのはイスカの戦士たちだけで、面会など来る者はいないはずだ。それなら、彼らの仲間たちはどうか。ありえない。他の集落とはちがってこの街は軍備が整っているから潜り込むのは不可能だ。

「レナード」

 ノエルが囁いた。生唾を呑み込んで、とにかく緊張を抑える。デューイの言うとおり、こんな場所じゃなかったらもっと冷静でいられた。

「デューイは先に戻れ」

 嫌な感じがする。けれどもそれを上手く形容できない。

「はあ? お前なに言って」

「いいから、早く。たぶん、俺たちの他に誰かいる」

「誰かって……」

 デューイはそこで声を止めた。監獄の衛士、あるいは囚人たちの見張り役の騎士。でも、そうじゃないことをデューイだってもうわかっている。

「レナード!」

 ノエルが急かしている。言うことをきかないデューイに焦れたのか、それにしては切迫した声だった。視線に導かれてレナードは鉄格子の先を手燭で照らす。三人の息が同時に止まった。

「な、なんだよ。これ……」

 まず視界に入ったのは切り落とされた四肢だった。それが人間の手足だと理解するまでに時間が掛かった。赤いインクでもぶちまけたように床を塗らすのは血、そのなかに人間だった生きものの身体が転がっている。そこまで見届けたところでレナードは嘔吐した。

 ノエルがレナードから手燭を奪って走り出した。囚人たちに武器は許されていなかったが、相手はイスカの戦士たちだ。得物がなくてもその気になれば鉄格子など簡単に壊せる。それくらいの膂力りょりょくの持ち主だ。囚人同士の会話を防ぐためにそれぞれ離れて収監させているのはそのためだ。レナードはしばらく嘔吐き、それからのろのろと上体を起こした。腰を抜かしているデューイを無視してノエルを追う。立ち尽くしているノエルを見て、レナードもすぐにわかった。

 そこにあるのは、ただの殺戮だった。

 顔の判別ができないほどに顔面が潰されていた。次の囚人は喉を掻き切られている。激しくいたぶられたのか、白目を剥いて絶命している姿を見てレナードは思わず目を逸らした。その次も、その次も鋭利な刃物でずたずたに切り刻まれた死体を見た。一番奥に収監されているのはイスカのシュロだ。獅子王の右腕と謳われた戦士、牢屋の前で横たわっている三つの死体はウルーグの騎士たちだった。

「まさか……」

 レナードの声が震えていた。牢屋の扉は開いていた。ただし、彼は武器など何も持っていなかったはずだ。なにより、殺されているのはウルーグの騎士たちだけではなく、イスカの戦士たちもそうだ。レナードは恐る恐るシュロへと近づく。彼の身体には指も耳もない。順番に切り落とされたのだろうか。切断された四肢の横には首が転がっている。

「な、なんで……」

 こんなことができるのだろう。レナードの唇がそう動く。ガレリア遠征の際に敵国であるルドラスの騎士と戦った。人を殺すのははじめてだったし、そうしなければ殺されるのもはじめてだった。けれど、戦場でもこんなにひどい死に方はしない。レナードの両目から涙が勝手に出てくる。吐き気が治まらなければ頭痛もする。早く戻って報告しなければならないのに、足が動かない。隣で震えているノエルを見た。レナードとおなじくらい顔をくしゃくしゃにして泣いていた。

「戻らないと……」

 ノエルを促したそのとき、やっとに気がついた。

 いつからいたのだろう。レナードたちよりも頭ふたつ分ちいさい子どもがそこにいた。迷い込んで来るようなところじゃない。なにより、子どもの唇には笑みが描かれている。

「なあんだ。まだ、いたんだ」

 白髪の少年だった。無邪気に響くその声に身体が震える。その瞳に宿る青玉石サファイアのような青がおそろしい。白の少年が近づいてくる。

「デューイ! 逃げろ!」

 それが最後だった。闇はもうすぐ傍までレナードのところに迫っていた。

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