月の見えない夜②

 夜になると街には霧が広がっていた。

 ウルーグの中心部から離れたこの地では夜間や明け方に霧がよく出るという。モンタネール山脈から伝わっている冷気がそうさせているらしく、乳白色の霧はずっと遠くまで広がり視界を遮っている。

 着込んだ外套だけでは、これから冬は乗り切れないかもしれない。

 ここはイスカとウルーグの国境近く、ここよりもっと北のイスカの冬は厳しい。本格的な冬が訪れる前に幼なじみたちはイスカへと旅立つ。ブレイヴと彼の軍師のセルジュ、それからエディも。彼らのことを思いながら、レオナは空を見つめた。闇のなかで月は見えなかった。

「ごめんなさい、待たせてしまって」

 レオナはシャルロットとルテキアとともに、街の南東部にある教会へと赴いていた。朝の祭儀を終えて修道女たちの手伝いをする。教会では身寄りのない子どもたちを何人か預かっていて、朝の勉強から戻ってくる子どもたちはお腹をぐうぐう鳴らしている。

 午後の祭儀のあと、クリスに呼ばれて司祭に会いに行く。街の人々は突然引き渡されたイスカの戦士たちに怯えているようで、しかしこれでイスカとの戦争が終わるのだときいて喜んでいる。王子と聖騎士殿にはぜひお礼を伝えて頂きたい。司祭は皺だらけの顔をもっとしわくちゃにさせて微笑んだ。

 その頃にはとうに日も沈んでいて、迎えに来てくれたのはディアスだった。だいたいの予想は付いていたらしく、もう一人の幼なじみはレオナの謝罪にあきれ顔で応える。きっとブレイヴたちも心配しているだろう。

「明日にはここを発つ」

 レオナはうなずく。ブレイヴたちのことだ。

「エリスがイスカの族長に会いたがっていたみたい。手紙が届いて、エディが苦笑いしていたって」

「シュロはむずかしい男だ」

「ディアスは会ったの?」

「いや、だが交渉は難儀したはずだ」

 レオナとディアスがブレイヴたちと合流したとき、すでに話は付いていた。けれど、幼なじみもエディもその顔は疲れているように見えた。

「明日も教会に行こうと思うの。ロッテが、もっと司祭さまのはなしがききたいって」

「そうか」

 手燭を持つディアスを先頭に、ルテキアとシャルロットもつづく。オリシスの少女の声は戻らないままで、それでもクリスは根気よく対話をつづけてくれる。おなじヴァルハルワ教徒同士、なにかと通じるものがあるのだろう。シャルロットはクリスに心を許している。

「もう一人はどうした?」

「クリスのこと? 今日は泊まり込みの仕事があるって。フレイアもいっしょだから、きっとだいじょうぶ」

 ウルーグの後衛部隊として、レオナはクリスとフレイアともずっと一緒だった。白皙の聖職者の仕事はすごく丁寧で、そして優れた治癒魔法の使い手でもあった。

「負けていられないわ。わたしも」

「お前はそのままで十分だ」

 レオナはちょっと笑う。無理はするなと忠告されているのかもしれない。イスカの戦士たちに襲撃された村の人たち、それに戦いのあと俘虜ふりょとなった戦士たち。そのどちらもレオナたちは治療した。現場は思っていたよりもずっと凄惨で、レオナはすぐに動けなかったしシャルロットは震えていた。ウルーグの王城に残らなかったのは自分たちで、危険な場所へと来てしまったのならそれ相応の働きをしなければならない。逃げ出さずにいられたのも半分は意地だ。

「ディアスは、どうしてきてくれたの?」

 問いかけるのならいましかないと、そう思った。

 いまだけのはなしじゃない。自由都市サリタにディアスがいたのは偶然でも、それから先は幼なじみの意思だ。ブレイヴと彼の傍にいたレオナはイレスダートを追われてここまで来てしまったけれど、ディアスにはその理由がない。レオナはディアスの顔を見あげたものの、視線はすぐに逸らされてしまった。

「約束をしたからだ」

 それは誰のことなのだろう。きっと、これ以上は答えてくれない。そんな気がする。

 霧のせいか外を出歩いている人はほとんどいなかった。大衆食堂や酒場もそうそうに店仕舞いしたようで、すでに明かりも消えていた。レオナは寒気がするのもこの霧のせいだと思い込む。それとも早く戻って幼なじみに伝えるべきなのだろうか。この予感はあのときとおなじ、あの日オリシスのアルウェンは――。

「誰だ?」

 鋭い声が響いてレオナははっとした。急に足を止めたディアスの視線は路地裏を向いている。足音が近づいてくるとともに、手燭に照らされてぼんやりだった人影も次第に鮮明になった。

「デューイ……?」

 声は返らずにデューイはその場で倒れ込んだ。ディアスが止めるより早く、レオナはデューイの身体を抱き起こそうとする。レオナの両手はすぐに赤く染まった。

「デューイ、しっかりして! あなた、いったい……」

「無理に起こしてはなりません! この傷は、ただの怪我ではありません」

 ルテキアに叱りつけられてやっとレオナは冷静になった。どうして気づかなかったのだろう。剣や槍などの刃物による攻撃ではない。デューイの身体から強い魔力の名残を感じる。

「こいつはレナードたちとともにいたはずだ。それがなぜ、ここにいる?」

 幼なじみはどこまでも冷静だった。それよりも、早くデューイを助けなければならない。頬や首、さらに下にたどって胸や腹、手足も裂けた皮膚から血が止まらず、レオナは震えた。

「お、俺のことは、いい。それより……、はやく、レナードたちを」

「デューイ! しゃべらないで、いま助ける!」

 癒やしの力を発動させる。緑色の光がデューイの全身を包み込む。しかし、デューイは無理やり上体を起こしてレオナの手を撥ねのけた。

「たのむよ。はやく、行ってくれ。ふたりが、このままじゃ……!」

「デューイ!」

 それが最後の力だったのかもしれない。デューイは意識を失い、それきり動かなくなった。レオナはルテキアを見て、ディアスを見た。たしかにデューイはレナードとノエルと一緒だった。イスカの戦士たちを収容する監獄へと行っていたはずで、気まぐれに先に抜け出すことも彼の性格を重んじれば考えられる。でも、この傷はちがう。誰かに遭遇して、攻撃されなければこうはならない。

「ロッテ……! デューイを、おねがい」

「レオナ! なにを……?」

 少女はただ震えていた。レオナもシャルロットも、前におなじ光景を目にしたことがあったからだ。

「おねがい、ロッテ。デューイを救って」

「無理を言わないでください! 彼女はまだ」

「いいえ。あなたなら、できる」

 レオナはシャルロットの目をまっすぐに見た。薄藍の瞳は涙で潤んでいる。おそろしいのか象牙色の彼女の頬が青ざめている。あの夜、オリシス公の部屋を訪ねたときのように、またすぐに倒れてしまうかもしれない。それでもレオナは繰り返す。

 教会に残っているクリスを呼びに行っていたらきっと間に合わない。いまここで、彼を救えるのは彼女だけだ。

「ディアス、きて」

 レオナは立ちあがり、幼なじみを見た。眉間に皺を寄せて、ともすればため息を落としそうなディアスの顔はすべてを悟っているようだった。

「わたしはレナードたちのところへ行く。デューイを、お願い」

 デューイをルテキアとシャルロットに託して、レオナは北の監獄へと行く。どうしてもっと早く気づかなかったのだろう。この霧は自然現象ではない。魔力のにおいを辿れなかったのは、レオナが弱いからだ。この力はあのときとおなじ、この魔力は、あの白の少年の力だ。

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