落日①

 机上ではアストレアの地図が散らばっている。

 そこに記されているのは主要な砦や近隣の住民の数に、それを守るための兵力が足りないと訴える者の声が悲痛に響く。それを宥める者の声もまた震えているのは、動揺しているからだ。彼らよりももうすこし年長の騎士が叱咤する。しかし、入り交じる怒号にかき消されてしまった。

 ブレイヴの視線の先には騎士団長トリスタンがいる。その隣にはジークが、そして母の姿がある。隠居したはずの老姉弟の挙止きょしはまさに騎士のそれで、公爵夫人に助言を与えていた。まるで、戦いの前のようだと、ブレイヴは思う。

 扉を押し開けたときに、彼らの目はたしかに光を宿していた。

 公子を認めてもそれは一瞬で、騎士たちは目前と迫る脅威に向き合っている。あれはもう客人などではなく、アストレアにとって敵なのだ。ブレイヴは混乱のなかを押し分ける。エレノアとは目が合っていたはずだ。それなのに、母はまだ息子に声をかけようともしない。

「母上!」

「静かになさい。まったく、あなたはいつもそうです」

 ああ、そうだ。このひとは、こんな状況に置いても変わらないのだ。ブレイヴは失笑しそうになる。

「なにが、起きているのです?」

「皆まで言わねばなりませんか?」

 落胆を隠さない声だった。当然だ。エレノアは母としてではなく、公爵の代理としてここにいる。呼吸が乱れる。頭痛がして眩暈を感じる。この苛立ちは誰に対してだろう。

「……すでに森を抜けたと報告が入っております。城下に着くまでに小一時間もないかと」

 耳元で囁いたのはトリスタンだ。ブレイヴは拳を作る。覚悟はしていた。そのはずだ。けれども、ブレイヴはたしかめる必要があった。この目でみて、この耳できく。それが、無意味なことだったとしても。

「あなたはここで何をしているのです? わかっているのなら、早く行きなさい」

 どこへ、と。ブレイヴの声は唇から出てこなかった。皆はまだ議論をつづけていて、騎士たちは倉皇そうこうとしている。長老たちはエレノアを待っているのだろう。だが、ブレイヴを映してなどない。公子はここにはいない。そんな目をする。

 そういうことか。ブレイヴはやっと理解した。最初からアストレアにブレイヴはいなかった。ガレリアから帰還した聖騎士はまだ戻っていない。アナクレオンは王としてではなく、個人の願いとしてブレイヴを頼っている。いや、それ自体が密命のようなもの、ブレイヴは独断でガレリアより逃げたことになっているはずだ。

「なら、私を差し出せばいい」

「公子……!」

 語毛を強めた騎士団長をエレノアは制する。冷えた眼差しで、ブレイヴを見つめるその人は、失望のため息を吐いた。

「あなたは何もわかっていない」

 ちがう、と。ブレイヴは口のなかで否定する。

「頭を冷やしなさい。……その時間は与えたはずですよ」

 そうだ。母親は時間稼ぎをしていた。皆はとっくに動き出していたし、公子や王女を閉じ込めていた理由もわかる。ブレイヴはかぶりを振った。それなら、なおのこと矛盾している。白の王宮の要人は、元老院の目的は最初からブレイヴだ。

「ジーク。あなたに、すべてを任せます」

「仰せのままに」

 黒髪の騎士はエレノアに一揖し、ブレイヴを残して退出した。必ず来るという意思の表れだった。

「待ってください、母上」

「あなたも騎士ならききわけなさい。時は限られています。それなのに、あなたは」

「母上は、私を、信じてはくださらないのですか?」

「冷静になれと、そう言っているのですよ。わたくしは」

 冷静だ。だから、言ってはならない声を躊躇わずに、母を悲しませる言葉を吐く。

「……信じていないのは、あなたですよ。ブレイヴ」

 信じている。いや、信じようとしているだけだ。ブレイヴは歯噛みする。己の未熟さに憤り、無力さを呪ったところで何になるのだろう。アストレアは疑われているのだ。たとえ、虚偽だったとしても。白の王宮はそれを叛逆と見做みなす。

「私は、行けません」

 行けるはずがない。逃げることなど、できない。母が何を考えているのか、ブレイヴにはわからない。まもなく、マイアの騎士団がここへと着くだろう。王の直属とは別の、元老院に従う者たちだ。威嚇のための兵力ならば戦える。だが、元老院が本気でアストレアを落とすつもりだとすれば、とても持たない。アストレアは小国だ。だからこそ、ブレイヴは行けない。己の潔白を訴えれば、と。ちいさな希望に縋る自分が滑稽だった。

「そう。あなたは、見捨てるのね。ブレイヴ」

 エレノアは憐憫れんびんの目で見る。

「アストレアを、皆を、民を、わたくしを。それから、彼女を」

 ブレイヴは振り返った。そこには、幼なじみがいた。

「レオナ……」

 彼女はルテキアに支えられるようにして、やっとそこに立っていた。胸に押し寄せるこの感情は何だろう。後悔ではないことはたしかでも、ブレイヴは己の愚かさをそこで認める。王女の傍付きは言った。これは、王命ではないのだと。アナクレオン個人の願いなのだと、ブレイヴもそう受け取った。だとしたら、選択肢はもうどこにもない。ブレイヴもレオナも。このアストレアにいてはならない存在なのだ。

「城を、アストレアを捨てろと。そうおっしゃるのは、城主の代理としてですか?」

「いいえ。……母としてです」

 わたくしも、駄目な城主ですね、と。エレノアは笑む。胸が苦しい。息がうまくできない。ブレイヴを呼ぶ声がする。それなのに、幼なじみにこたえる声を持たない。

「いきなさい」

 エレノアは二人に向けて言う。城主としてではなく、本当に母としての声だった。

「だめ。そんなの、だめです。おかあさま……、だって、わたし……」

「あなたのことは、本当の娘だと思っていますよ。だから、母の声はちゃんとききなさい」

 嗚咽する幼なじみの頬をエレノアは撫でる。

「そんな顔をするものではありませんよ。強くなりなさい、レオナ。これは、母との約束です」

「……いや。いやです。そんなこと、できない。わたし、わたしがいるから、」

「レオナ」

 ブレイヴは幼なじみの手を取る。それ以上は、言わせてはならない。彼女はもう一度ブレイヴを呼ぶ。そうして、きっとブレイヴが選んだおなじことをしようとする。そんなことをさせてはならないし。ブレイヴは望まない。

「行こう。……行かなければ、ならない」

 幼なじみを引き寄せたとき、彼女は震えていた。この手は、レオナを守るためにあるのに、こんなにも不安にさせてしまった。本当に、愚かだ。ぜんぶ捨ててしまうところだった。老姉弟たちは孫を見る目で見守っている。騎士団長はずっと黙していて、表情を隠すようにうつむいている。ジークは先に行った。レオナを引き留められなかったルテキアは自責の念を覚えているのかもしれない。傍付きもまた、唇を開かずにいる。ブレイヴは意識して呼吸をした。いつだって正しい道だけを選んできた。そう、思っていた。けれど、どこまでただしかったのだろう。

「しっかりなさいな、二人とも」

 母は、笑っていた。どうしてこんな顔ができるのだろうと、ブレイヴは思う。きっと、信じているからだ。これは、終わりなどではない。

 扉を開けて、回廊をすこし進めばジークが待っていた。黒髪の騎士はブレイヴの前で膝を折る。

「レナードとノエルが先行しています。じきに日が落ちる……それまでに、できる限りアストレアを」

「わかった」

 ブレイヴはそこから立ち止まらずに、そして一度も振り返ることをしなかった。アストレアよりさらに南へと、森の奥へと入った青髪の公子につづく騎士の数はわずか数名だけ。それは、彼らの長い旅のはじまりだった。

 

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