光なき場所にて
「まったく、長い旅になりましたよ」
とんだ目に遭ったものですと、そればかり繰り返す麾下に
イレスダートの領土に入ってから七日が過ぎた。
馬を飛ばしつづけながら先を急いで来たディアスたちだが、そろそろ王都が近づいてもいい頃である。
ディアスが王の
騎士が主君の声に背くという選択肢はない。ディアスはイレスダートを離れて、自由都市サリタへと赴いた。同行する麾下は一人だけ、その方が動きやすくもなるし、だから他にディアスを止める者がいなかったのも事実だ。
「聖騎士殿と姫君は、いまごろグラン王国でしょうね」
あなたもともに行きたかったのでしょう? と麾下が目顔でそう言う。
さすがにグランは遠すぎる。とはいえ、麾下の知らせがなかったなら、ディアスもあの険しい山脈を越えていたかもしれない。
しかし、運命とはわからないものだ。
そもそもディアスはそんなものを信じていなかったし、敬虔な教徒でもないから神の加護を自分の都合の良い方へと解釈したりもしない。天に意思があるのなら、神がディアスを他の教徒のように愛していたのなら、そもそも城塞都市へと行っていたのは幼なじみではなくディアスだったはずだ。
だが、行ったところでどうなる。
笑いが込みあげてきた。北の国でソニアが消息を絶ってから、もう五年が過ぎている。敵対するふたつの国で交わされたはずの和平条約もなくなり、イレスダートとルドラスは戦争をつづけている。
それだけではない。白の王宮で暗躍する者たちは、聖騎士も王女も盤の上で動かせる駒だと思っている。イレスダートを追われたブレイヴと、彼の傍にいたレオナがサリタでディアスに再会したのもただの偶然に過ぎない。
だとしても、複雑に絡み合った思惑さえも、人は運命の悪戯であるとそう結びつけたがるものだ。あのとき、麾下がディアスを西の国まで迎えに来たように。
「いま、何を考えているのか当ててみましょうか?」
ディアスは麾下を見た。心を読まれているわけではなかったが、こういう物言いをするのはソニアだった。
「だめですよ。あなたは、公子なのですから。ランツェスになくてはならない方だというのを、お忘れなきよう」
「わかっている」
「それにしても、やはり聖騎士殿には教えて差しあげるべきだったのでは?」
サリタを経つ前に、ディアスは麾下をアストレアに送っている。
ディアスの予測は正しく、サリタを支配しようとして失敗した男はアストレアに居座っていた。そして、その隣には意外な人物も。
「アストレアの
「だからこそだ。あいつは、余計に苦しむ」
ディアスの前ではけっして口に出さなかったが、ブレイヴはずっと葛藤をつづけていた。宿敵ともいえる男、それにアストレアの鴉が生きていていま誰の隣にいるかなんて教えたところで、より悩ませるだけだ。
「甘やかすのと優しさでは意味が異なると思いますが」
「オスカー」
「失礼。口が過ぎたようですね」
麾下は両手をあげて降参する。ランツェスの名門パウエル家の長子である麾下は、幼き頃よりディアスに付き従っているせいか口が減らないたちである。
女、子どもは彼のようにお喋りな男を好むらしく、たわいもない話で花を咲かせて気がつけば三時間が過ぎていたなどもめずらしくない。もっとも、この口が武器であるからこそ、必要な情報を容易く入手する特技も持っているのもたしかだと、ディアスは嘆息する。
「王都が見えてきましたね」
いななく馬をなだめて、オスカーはもうすこしゆっくり進ませる。
「夕刻までしばしの時間をください。それまでに手筈は整えておきますので」
「ああ、頼む」
「俺としてはとんだ貧乏くじを引かされた気分ですよ。……まあ、主君のご命令とあらば従いますが」
こうやって軽口をたたくのも相変わらずだと、ディアスは微笑する。イレスダートとラ・ガーディアを行き来するあいだに髪を切る間もなかったようで、オスカーは伸びた前髪を邪魔そうに掻きあげた。赤髪はランツェスの男子によく現れる色で、彼らの誇りでもある。
「しかし……、本当にこれで良いのですか?」
何のことだと惚けてみれば痛烈な口撃が待っているだろう。ディアスは無言を貫いた。相手もこちらの性格をよく知っているせいか、諦めとあきれの両方を含んだため息がきこえる。
「ここまで来たのですから止めはしません。ですが、忘れないでください。ウルスラ様はルドラスにいます。兄君は二人……しかしあなたが本当の兄君ということを。あなたは、ランツェスに必要な方なのです」
説教がくどい。言われなくても、自分の立場くらいはわかっている。いいえ、わかってなどいませんね。オスカーの翡翠色の目がディアスを射貫く。敵国と勝手に交渉し、盟約の証として妹ウルスラをルドラスに送ったのは兄ホルストである。麾下はディアスがあのままランツェスに留まっていれば、こんなことにはならなかったとそう思っているのだろうか。
馬鹿馬鹿しい。その頃のディアスは国王の下命でサリタにいたし、その後幼なじみとともにイレスダートを離れたとしても、これに干渉しようがなかった。
「いったい俺に、何を望んでいるんだ?」
「言えばきき入れてくれますか?」
答えはわかっているくせにあえてそういう物言いをする。
そんなことにはならない。ディアスには兄がいる。いずれ爵位を継ぐのはホルストで、ランツェスを導くのも兄だ。
王都マイアへと入り、ふたたびオスカーと落ち合ったディアスはその宿で仮眠を取った。
白の間で国王アナクレオンが血を流したというのも、その場にいたのが黒騎士ヘルムートだという噂がはじまったのも、それからすこしあとのことだ。
ディアスが幼なじみたちとともにラ・ガーディアに行っているあいだに、オスカーは様々な情報を集めて知らせてくれた。悪い知らせは三つあり、それらのすべてを鵜呑みにするわけではなかったが、しかしディアスは確信を持っていた。奴らは己の手で王を殺さない。王殺しはなにより勝る大罪だからである。
そこは、せかいから切り離されたような空間だった。
地下特有の黴臭さに加えて、汚物の饐えたにおいが充満している。身体の芯からしみるほどの寒さは、外套を着込んでいれば多少耐えられるものの、囚人たちに与えられているのは粗末な衣服だけだ。看守の持つ洋灯だけがここで唯一の明かりで、食事のとき以外は常闇の世界だった。獣のうめきがきこえる。度重なる拷問によって人間ではなくなった者がそこには閉じ込められている。
イレスダートでは肉体に与える過度な罰は禁じられているのではなかったのか。ディアスは自らの問いを封じ込める。こんな光のないせかいで、人間の尊厳など何の意味も持たない。
奥へと突き当たると看守がいた。
洋灯で照らされた男の顔はいびつに歪んでいて、醜かった。ディアスは男の手に金貨を一枚乗せる。昼のあいだにオスカーがもう一枚の金貨を手渡しているはずで、看守は黙ってさらに奥へとつづく扉を開けた。
牢獄とは、罪を犯した者が入れられる場所だ。
士官生時代に何度も懲罰室にぶち込まれたディアスは、なぜ自分がそこにいるのかをちゃんと理解していたし、罪とは贖うものだということも知っている。窃盗や詐欺、あるいは暴力など、常習者を除けばここを免れられる。そもそもそんな犯罪に手を染める者が少ないのは、世界中でも王都マイアだけだろう。
だからこの場所にいるのはそれ以上の罪を犯した者、つまりはもう二度と外には出られない者が閉じ込められている。
はたして、彼がそれほどの罪人なのだろうか。
ディアスはずっと己に問いつづけている。たしかに生まれ落ちてから死に逝くまで、なにひとつとして罪を犯さなかった人間などいないだろう。それを律するのは人であり、裁くのもまた人である。彼は、裁く側の人間ではなかったのか。
白の王宮内で対立する元老院は彼を独裁者と罵り、誹る。彼のやり方はたしかに独善と呼べるものなのかもしれない。しかし彼は、ディアスの王はすべてを受け止めた上で、イレスダートの君臨する王である。正しさなど、ない。自身の妹を敵国へと売った時点で、彼は己の罪を認めているはずだ。
鉄格子の向こうにいる罪人はひどく痩せていた。
伸びた青髪に艶はなく、洗髪する手段もないために
これからすることもまた、罪なのかもしれない。
だが、ディアスは彼の目に光を見た。
「俺は、あなたに死んでほしくないだけだ」
己を高尚な人間だとは思わないし、忠実なる騎士の自覚もない。罪人の唇が微笑みの形を作っている。彼こそ、アナクレオンこそ、ディアスの王だ。
「人は、ひとつしか選ぶことができない。お前は……、そこから何を選ぶ?」
ディアスはそれに答えなかった。
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