領主の息子

「けっして油断なさらないでください。わずかな隙も、あの方には禁物です」

 レオナはうなずく。でも、ずいぶんとむずかしい注文をする。傍付きは二度おなじ声をした。最初はアストレアへと向かうときに、そして次は領主の館へと近づく前だ。

 アストレアの北部を預かるバルタザール伯は、亡きアストレア公爵の弟である。

 しかしアストレアを治めていた兄とちがって、バルタザールがアストレアの城のなかで過ごしたのは十四年余り、成人になる前にはもう城から出ている。

 バルタサールは政治に疎く軍事にも興味を示さない人間だが、少年時代は勉強熱心な子どもだったという。とはいえ、好んだのは植物や動物に関するものばかり、あるとき気まぐれに兄が弟から奪った本は、小一時間もしないうちに投げ返されたらしく、兄弟仲は良くなかったのかもしれない。なにしろこの二人の性格は正反対、おまけに見た目だって似ていない兄弟だったのだ。

 アストレア公爵がなかなか妻女を迎えなかったのに対して、バルタザールは成人してすぐに結婚した。

 相手はアストレア北部の領主の娘で、ここから先の話が人々を驚かせて、またわくわくさせる。バルタザールは公子の身分を捨てて、領主の家の爵位を継ぎ、そうして伯爵となったのだ。しかも実の兄には事後報告、その頃にはバルタザールの妻には子どもができていた。

 壮大な兄弟喧嘩がはじまるかと思いきや、アストレア公は豪快に笑って、それから祝いの言葉をしたためた手紙だけを寄越したという。そうなると、やはり不仲説を認めるところでも、バルタザール伯が影からアストレアを支えているのもまた事実、彼が少年時代に学んだ植物学や家畜に関する知識はアストレアの民を助けている。

 もともと沃土よくどに恵まれたアストレアではあるものの、他国に頼らずに生活できているのはバルタザールの実績だと言わざるを得ない。自分たちの暮らしに困ることがなければ、自国内での争いはまず起きないのだ。だからこそ、アストレア公は弟の好きにさせていたのだろう。これを知るのは、アストレア公の妻エレノアを含めたわずかな者のみだ。

「でも、穏やかで大人しい方なのでしょう? バルタザール伯は」

「いいえ、ちがいます。警戒すべきなのは伯爵ではありません。バルタザール伯の息子であるダミアン様です」

 ダミアン。レオナは口になかで繰り返す。つまりは幼なじみの従兄弟だ。

 考えすぎではないかしら。レオナはため息を吐きかける。ブレイヴはバルタザールは元より、嫡子であるダミアンをそんな風には言わなかった。というよりも、幼なじみから従兄弟の存在を伝えられたのもそれがはじめてで、なによりここまで来てしまった。

 山毛欅ブナの森を進んでまず湖を目指す。

 女神アストレイアに守られしこの国には、精霊たちが隠れ住んでいる。アストレイアは聖イシュタニアの六番目の娘である。敬虔なヴァルハルワ教徒の少ないアストレアでも、北部に住まう者は別だった。彼らは森を愛し湖を守り、そうしてアストレイアを敬愛している。

「精霊が見えるのは子どものうちだけです。大人になってそれを口にしても、誰も信じてはくれません」

 そう、ルテキアは言う。レオナとシャルロットは無言で顔を見合わせた。イレスダートでは十八歳で成人と認められるものの、西のウルーグでは二十歳からだ。シャルロットが考え込んだ顔をするので、レオナはにっこりと微笑んだ。

 湖の近くにはいくつかの集落がある。

 人々はレオナたちを見ても動じずに、巡礼者として招き入れる。アストレアの蒼天騎士団が出陣したのも知っているはずで、それでもおなじ教徒であれば余所者だって歓迎するのだろう。

 レオナはまず教会へと赴き、祈りを捧げる。領主の館まではそれほど遠くなかったが、聖堂を出る頃には迎えが来ていた。想定内です。ルテキアが目顔でそう言った。

 白い花がレオナを迎えてくれる。リアの花だ。アストレアにいたのはたったひと月だけだったけれど、それでもこの花を見ると思いが込みあげてくる。ルテキアがシャルロットに花の名を教えている。リアの花。少女は繰り返す。すぐにこの花が気に入ってくれたようだ。

 領主の館は想像していたよりもずっとちいさく、ここに先の公爵の弟が住んでいるときけば驚いてしまうくらいだ。それでも手入れが行き届いている庭園には、たくさんの花が咲き誇っている。赤や黄色、青に紫と、どこを見回しても美しく、白の王宮の片隅にあるレオナの庭園にもけっして劣らない素晴らしさだった。

「奥方様が花を好まれる方なのです」

 ルテキアがこっそり教えてくれる。幼なじみの母エレノアも自分で薔薇の世話をしていた。そういうものなのかしら。つづきを促してみたものの、ルテキアの声はそれきりだった。

 そのまま応接室へと通される。白い壁にはたくさんの壁画が飾られていて、台座付きの飾り時計や他の調度品もレオナの目を惹く。バルタザール伯の趣味のひとつなのだろうか。ルテキアにきいてみようとして、男が一人部屋へと入ってきた。

 はじめは執事かと思ったのも無理はない。彼は年若く、顔立ちも地味だった。青髪の男はシャルロットを見てレオナを見て、それからルテキアに視線を落ち着かせた。

「やあ、ルテキア。ひさしぶりだね。君が、私の求婚を断って以来かな?」

 その最初の声に、レオナは目をまたたかせた。

「おやめください、ダミアン様。その話はもう、終わったことです」

「ふうん。終わったこと、ねえ?」

 彼――ダミアンはくすくすと笑う。

「私から逃げて伯母上のところに行ったかと思えば、今度は王女の傍付きねえ」

 ダミアンの目がレオナを射貫いている。けれどもふしぎと嫌悪も恐怖も感じなかった。彼の目の色が、幼なじみと似ていたからだ。

 このひとが、ダミアン。

 レオナはてっきりバルタザール伯が応対するのだと思っていた。アストレアに入った時点でこちらの動きは読まれています。幼なじみの軍師セルジュは断言して、ルテキアも同意する表情だった。彼はレオナがイレスダートの王女だと見抜いている上で、こちらの心を読んだ声をする。

「ああ、父上はだめですよ。いまはね、夏野菜の収穫で一番忙しい時期なので」

 事前にバルタザールのことをきいていなかったら、きっと間の抜けた顔で返していただろう。あるいは、追い返すための常套句か。

「まあ、要件はだいたいわかっていますよ。それこそ、父に言っても無駄です」

「ダミアン様」

「そうそう、その顔。君はいつも強い目をするね」

 挑戦的な物言いをするこの男に、ルテキアが食ってかかるのは当然だ。しかし、それにしては今日の傍付きはどこか大人しい。ダミアンという人と、婚約者だったから? レオナは声に出さずに二人を観察する。

「ああ、失礼。話をはじめる前にまずお茶を用意させましょう」

 ダミアンがベルを鳴らすとすぐに侍女が入ってきた。

 サブレーやマドレーヌなどの焼き菓子が載った皿が並べられていくものの、カップに注がれるのは香茶ではなかった。真っ黒なインクの色、それににおい。鼻をツンと刺激する香りは不快ではなくとも、なんだか警戒してしまう。

「これはね、珈琲コーヒーですよ。知っています? サリタよりもずっと先、海の向こうの大陸から来たものです。どうです? めずらしいでしょう? イレスダートで出回るのはもっと先でしょうね。でも、かのイドニア大公もこれを好んでいるんですよ」

 イドニア大公。レオナは繰り返す。城塞都市ガレリア、そこから東にはイドニアがある。公国を守り、そうして治めているのがその人だ。

 老騎士はずっとイレスダートのために戦ってきた人だが、しかしイドニアからはほとんど動かない。どうして彼が、イドニア大公を知っているのだろうか。

 レオナ、と。呼ばれてはっとする。彼の声をまともにきいてはなりません。傍付きはずっと忠告していた。

「さあ、冷めないうちにどうぞ」

 彼は先に、この珈琲という名の飲みものをたのしんでいる。手を付けないのは失礼に当たるとはいえ、この色を飲んでみるのはちょっと勇気が要る。レオナが迷っているうちにルテキアが動いた。傍付きの眉がすぐに険しくなった。

「あっはは! その顔、最高だね! 美人が台無し」

 客人を前にしてダミアンは大笑いする。

「ルテキア、だいじょうぶ?」

「問題、ありません。ですが、レオナ。これは飲まない方がよろしいかと。ロッテも」

「甘くて、おいしい」

 二人は同時にシャルロットを見た。

「そうそう。初心者はね、そちらのお嬢さんのようにミルクと砂糖をたっぷり使うのがおすすめですよ」

 なるほど。ルテキアが何度もおなじ声をしてきた理由がようやくわかった。この人は一筋縄ではいかない。相手が聖騎士だろうと王女だろうと、たとえ王を前にしても機嫌取りなんかしないし、彼にはきっとそれだけの余裕があるのだ。

 ルテキアの制止を無視して、レオナもカップに手を伸ばす。苦い。口に含んだ最初の感想がそれでも、鼻に抜けるこの香りは悪くない。

「わたしたちがここにいる理由をすでに知っていると、そうおっしゃいましたね? でしたら、バルタザール伯はこちらの要件を飲んで頂けるのかしら?」

 カップを卓上に戻すと、レオナは彼の目をじっと見つめた。清冽な湖の色とおなじ色が見える。濁りのない純粋な色、でもその心はどうか。ダミアンはくすくすと笑っている。

 こういうときに姉のソニアならばどうしただろう。ルダのアイリスならば、もっと強い言葉を使うかもしれないし、珈琲だってぜんぶ飲み干している。でも、わたしはふたりのようにはなれない。

「ルテキア……?」

 急に左肩が重くなったと思えば、ルテキアが肩に寄りかかっていた。レオナは傍付きの名をもう一度呼ぶ。けれども反応はまるでなく、その次には右肩も重くなった。

 シャルロットだ。少女もルテキアとおなじように、目を閉じたままで動かなかった。眠っているのだろうか。それにしては様子がおかしい。

「これは……」

 ダミアンがちいさく笑っている。レオナは彼を睨みつけた。

「ふたりに、何をしたの?」

「ああ、心配は要りませんよ。すこし眠ってもらっただけですから」

 はっとして、レオナはカップを見た。二人のカップはほとんど減っていなかったが、耐性のない者にとって少量でも眠り薬は毒だ。

「わたしに、毒は効きません」

「知っていますよ。最初からそのつもりでしたので」

 では、どういうつもりなのか。

 そもそも、この男はレオナを歓迎する気などなかった。かといって追い返すならばとっくにそうしているし、最初から敷地内に入れないはずだ。

「そんな怖い顔をしなくてもいいじゃないですか。王都の姫君は存外気の強いお方だ」

「その呼び方はやめてください。わたしは、レオナです」

 ダミアンの表情がはじめて笑み以外の感情を描いた。

「失礼。では、レオナ。あなたがここに来ることはわかっていましたよ。精霊たちがやたらと騒いでいましたのでね」

「……みえるの?」

 問いにダミアンはゆっくりとうなずく。

「ええ。信じるかどうかはお任せしますし、どうせあなたには見えないでしょう?」

 挑発に乗るのは負けだ。それに傷つくことも怒ることもない。レオナは竜の末裔なのだから、人間じゃない。臆病な精霊たちはそもそも人間だって怖がる。

「そんなに警戒する必要もありませんよ。正直に申しましょう。ただ、あなたと話をしたかっただけです」

 その声を信じるかどうか。レオナは息を落ち着かせる。だいじょうぶ。一人でだって、たたかうことはできる。

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