雨が降るその前に①

 誰かに呼び止められるわけでもなく、アロイスは足を止めていた。

 風が変わったような気がする。それに、におい。空を覆う灰色の雲はまもなく雨を連れてくるのだろう。イレスダートの雨季が終わるのもそろそろで、その前にやわらかい雨が降るのはめずらしくはなかった。けれどもこの雨は好機となるのかそれとも逆となるのか。アロイスにはわからない。

「あら? まだここにいたのね? あなたはもう戻らないと」

 ほうけていたわけではなかったのに、そこに立ち竦んでいたアロイスを見つけたのは上の姉だった。

「もうすこしだけ、いさせてください。姉上」

 アイリオーネは後衛部隊のなかでも特に重要な治癒班を任されている。姉は優れた治癒魔法の使い手だ。適任だとアロイスも思う。

 でも、姉はもうイレスダートの人間ではないのに。アロイスはちょっと複雑な気分になる。

 アロイスは無意識に周囲を見回していた。

 イレスダート人以外もここにはいる。見習いたちを丁寧に教えるのは白皙の聖職者だ。白金の長い髪と薄藍の瞳は、中性的な美しさを感じさせる。はじめて会う者などは彼を女性と見紛うはずだ。すこし離れたところには金髪の少女がいて、アロイスとは一番歳が近かった。白金の聖職者は西のラ・ガーディアから来たそうで、金髪の少女がオリシスの娘だという。ここにはルダの魔道士だけではなく、マイアの人間もたくさんいる。クレイン家に縁のある者や元は王都マイアの宮廷魔道士に、聖騎士は彼らを拒まない。

 なんだか、知らない人ばかりになったな。

 アロイスが姉を心配している理由はひとつではなかった。疲れているのかもしれない。はじめは、そう思っていた。グラン王国で大きな戦争が終わったばかりで、次は祖国ルダの危機だった。ムスタールの黒騎士団との戦闘を経て、ここに至るまでの三ヶ月のあいだに疲労するのも、当然かもしれない。

「ここは、僕がいますから。姉上は休んでいてくださいね」

 気遣うというよりも、懇願のような声になってしまった。アロイスの姉はちょっと笑う。

「まあ、あなたまで私を年寄り扱いするのね。余計なお世話です。それに、私はグランのレオンハルトの妻ですよ? ここで休んでいたらあの人に叱られてしまうわ」

 目も口も笑っているからか、そんなに怒っているようには見えなくとも、だからこそ姉が気になってしまう。

 やっぱり、アイリ姉さまは無理をしている。アロイスがそれに気がついたのは最近だ。ムスタールの黒騎士団と戦ってから、いやアロイスがフレイアの制止を振り切って、敵の騎士を助けたそのあとから、だ。

 間違ったことをしたと思わなければ、姉を困らせるつもりもなかった。けれど、あのとき、アロイスは気づかなかったのだ。騎士を救いたい一心で、姉の顔を見ていなかったのだ。

 いまとなっては、あの騎士が誰であったかなどたしかめようがないし、アイリオーネも何も言わないだろう。そんな気がする。でも、結果的に姉を気鬱にさせてしまったアロイスは、レオンハルト王子に会ったらまず殴られるかもしれない。

「それに、私よりも先に休むべき人がいるわ」

 アイリオーネの視線が白皙の聖職者へと向かう。

 彼もずっと働き通しだった。救える命は救う。治癒魔法の使い手は、自身の魔力が尽きてもなお働く。魔法の力だって有限ではないから完全には治せない傷もある。それをなかったことにする、そういう力を持っているのはレオナ王女だけだ。

 とはいえど、王女にばかり負担はかけられないし、救えなかった命だってもちろんある。

 生き残った者たちができることは、生きることだけだ。アイリオーネもクリスも、それからシャルロットという少女も、彼らにずっと付き添っている。本当に、いつ休んでいるのだろうと、アロイスはそう思う。

「クリス。ここは、私が代わります。シャルロットもいるから心配は要りません。あなたは休んでください」

 いつもの姉の声ではない。白皙の聖職者は瞬き、しかしその次には柔和な笑みを見せた。

「それは命令でしょうか?」

「お願い、よ」

 喧嘩がはじまってしまうのではないかと、内心でアロイスは焦っていた。普段は大人しい気質の二人だから余計にこのやり取りがちょっと怖く感じる。そこで袖を引かれているのにアロイスは気がついた。視線をすこしさげてみれば、金髪の少女がこちらを見つめている。

「うん、だいじょうぶ。私、アイリといっしょにがんばれる。クリスに教えてもらったとおりに、ちゃんとできるから」

 新米たちが白皙の聖職者とアロイスの姉と、それから金髪の少女を順番に見た。

 ここに加わったばかりの者たちが不安視するのは無理もないけれど、このオリシスの少女は聖騎士たちとずっと一緒に戦ってきたのだ。ややあって、白皙の聖職者はもう一度微笑んだ。どうやら先に折れたのは彼のようで、アロイスもやっと安堵した。

「さあ、あなたは早く王子のところに戻りなさい。傍付きが長く王子から離れるなんて、だめですよ」

 マリアベル王妃とバルト王子は氷狼騎士団の砦に残っている。

 王都への道のりはまだ長く、なによりもこれから戦うのは白騎士団だ。マイアの他の騎士団も動き出していて、それに隣国の公国も黙ってこちらの進軍を見逃すわけがない。確実な安全が確保できるまで要人たちはベルク将軍が守ってくれる。聖騎士はそう言った。ならば、アロイスの役目もおなじだ。

「ええ、そうですね。姉上」

 これも忠告ではなくお願いだろう。アロイスはうなずいた。すでに聖騎士たちは南へと進み出している。輜重しちょう隊に治癒班に、後衛部隊はやや遅れて本体につづく。悪戯に時を重ねれば不利になるのはこちらの方で、なにしろ白騎士団は大軍だ。

 この戦力差を埋めることなど本当に可能だろうか。聖騎士や彼の軍師を信じていないわけではなくとも、不安にはなる。姉は、そんなアロイスを案じているから、なおのこと母親のような声をする。

 わかっています、姉上。アロイスのもう一人の姉は、魔道士の主力部隊を率いているからとっくに出発していた。ルダを離れるそのときまで、アイリスはいつだってアロイスを叱咤したし、それから守ってくれた。それなのに、この姉ときたら戦場へと赴くときにも、アロイスに何も告げずに行く。これも、アロイスはちゃんとわかっている。絶対に帰ってくるつもりだから、余計な声など要らないのだ。

 僕は自分の足でこれから歩かなければならないし、僕にだって守らなければならないひとがいる。

 まだ幼いアロイスの主君は、抱っこが下手くそなアロイスに触れられると、とにかく泣く。王妃はちょっと笑って、それでも泣く子をアロイスの腕に託す。ほら、バルト。あなたの傍付きですよ。アロイスはちゃんとあなたを守ってくれます。ちいさな王子はむずがったり泣いたりを繰り返し、けれどもこのところは大人しくしてくれる。幼子のぬくもりと、やわらかい頬を思い出してアロイスは微笑む。自分がすこしだけ強くなったような、そんな気持ちになるのだ。

 バルト王子のところへ戻ろう。ここは、アイリオーネがいるからきっと大丈夫だ。

 ところが、一歩踏み出してアロイスの足は止まった。馬のいななきが響いた。そんなはずはない。アロイスはそう思い込もうとする。この森には自分の足で来た。他に馬を必要とする者もいなかった。火急の用件で使者を遣わせたのならば――。いや、後衛部隊の子細な位置までは味方といえど、知る者はわずかだ。

「あ、姉上……!」

「貴様らは叛乱軍だな?」

 騎士を先導している男はまだ若かった。聖騎士とおなじか、あるいはひとつやふたつ上にも見える。アロイスは答えられずにいる。敵とはいえ、騎士が着ている軍服の色は白だ。

 ならば、分別のある人間のはずだ。アロイスはその短い時間で逡巡する。

 その数は十にも満たなくとも、ここでまともに戦える者なんてわずかだ。

 アロイスの耳元で声がする。アイリオーネがアロイスの名を呼んでいる。ああ、そうか。少なくとも最悪の事態は免れているのだ。アロイスは一瞬、あの金髪の王女フレイアの存在を思った。けれども彼女がいまここに、いないことが正解だった。戦える側の人間はそうでない者を守ろうとするし、力のある側の人間は勝てない数でも戦おうとするからだ。

 いったい、何が起こっているのだろう。

 上手く働いてくれない頭で考えても無駄だ。聖騎士の軍師はけっして見誤らないし、見落としたりしない。けれど、どんな名軍師でも中身は人間である。運命の歯車はどこかで狂ったりもするかもしれない。

 アロイスは意識して呼吸を深くする。だいじょうぶだと、口のなかで繰り返す。従えと、白騎士団の男がそう言った。他に逃れられる術など何もなかった。











 

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