空っぽのデューイ

 両親を思い出すたびに、それは絵本のなかに描かれたようなどこかの他人の家庭みたいだなと、いつもデューイは思う。

 王宮の庭師だった父親は職人気質の頑固者、いつも口をへの字に曲げた無口な男で、反対に母親はいつも明るくお喋りだった。物心ついた頃から昼間は両親どちらも家にいなかったので、幼いデューイは近所のじいさんのところに預けられていた。

 父さんは城に、母さんは下流貴族の家に働きに行っている。二人とも働き者の良い若者だよと、じいさんはいつもそう言っていた。夕暮れがはじまるくらいに母親が迎えに来て、晩ごはんのいいにおいがする頃に父親が戻ってくる。長机にはいつも花が飾られていて、お待たせと言って母親が鍋ごと持ってくるのは根菜のシチューだ。たぶん明日もシチューで明後日もきっとおなじ、けれどもデューイは母親の作ったシチューが大好きだった。

 いわゆる中流家庭で育ったデューイは、食卓に並ぶのが固くて酸っぱい黒パンとスープ、たまに出てくるニシンの塩漬けとしょっぱい乾酪チーズも、質素な食生活だと思わなかったし、いまでも思い浮かべると口のなかに唾が沸く。黙々と食事を進める父親とずっとたのしそうに喋っている母親と、デューイはちぎった黒パンをスープに浸してから口に入れる。それすら自分ではなく、実は他人の記憶なのではないかと、時々思う。ああ、そうか。あのあたたかさは、もう二度と戻っては来ないからだ。

 いきなり投げられた林檎をデューイは落っことしそうになった。ガゼルがにやにやとしている。こういうとき、ガゼルはいつも勝手に人の心を読んでいる。

「お嬢ちゃんは元気そうみたいだな」

「……また寝込んでるって、そうきいたけどな」

 片眉をあげるガゼルを無視してデューイは林檎に齧りつく。固い上に酸っぱくて水気もない林檎だ。最初にガゼルがデューイに与えた食事も不味い林檎だった。路地裏で猫のように丸くなって眠る。空腹とあまりの寒さに何度も目が覚めては厨芥ちゅうかいを漁りに行く。まるで自分がごみみたいだ。嫌なことを思い出しかけて、デューイは夢中で林檎を囓る。

 ある日突然、母親がいなくなって、しばらくして父親が城から帰ってこなくなった。面倒を見てくれていたじいさんも死んで、デューイは本当に一人になってしまった。貧困窟へとたどり着いたときのデューイは空っぽだった。服はぼろぼろ、お腹はぺこぺこ、喉はカラカラ。そうした子どもは他にもたくさんいて、別にデューイだけが特別じゃなかったのに、ガゼルはデューイを見つけた。手負いの猫みたいに暴れるデューイを手懐けるのは苦労しただろうに、けっきょく最後まで自分の手元に置いた。この男も変わり者なのだろう。デューイはそう思う。

 芯まで残さずに林檎を食べた。露天で盗んできた林檎を巡って殴り合いをするような世界だ。自分の分はなかったらしく、ガゼルはデューイが食べ終わるまで黙って見ていた。こういうときだけ父親面するところは、昔とぜんぜん変わっていない。

「なあ、上手くいくと思うか?」

 サラザールに帰ってきてからずっとききたかった。ガゼルの周りにはいつも仲間たちがいたし、他にもイレスダート人やらがいる。二人きりになれる時間はそうそう見つからず、そもそもデューイは勝手にサラザールを飛び出した身だ。

「上手くいってくれなければ困る」

 当たり前の言葉で返してくるガゼルに辟易した。この男はいつもそうだ。あれこれと説教をするくせに、肝心なところではぐらかす。けれど、ガゼルが皆を導いている。ガゼルの言葉で皆が動く。

「リンデル将軍のことはよく知ってるんだろ? 将軍は、本当にこっちの味方になってくれるのか?」

「いいや」

 デューイはぎょっとして辺りを見回した。路地裏には二人の他に誰もいなかったものの、絶対に仲間たちにはきかせられない声だ。

「おいおい。じゃあ、何のために、」

「いいじゃないか。軍師殿が行ってくれたおかげで、お嬢ちゃんたちに知らせることができたんだ。あとは迎えに行ってやるだけだ」

「そうじゃない。あんたは将軍に伝えたかったんだろ? なんて書いて渡したんだよ」

「不肖の息子から、親父へと感謝の気持ちだ」

 こいつ殴った方がいいんじゃないのか。すんでのところでデューイは止まった。ガゼルみたいな大男に挑めば痛いだけじゃ済まなくなる。少年の頃、何度もやり合ったデューイは身を以て知っている。

「なんだよ。いまになって怖じ気づいたとか、そんなのはナシだろ」

 ガゼルはただ笑っている。本当にそうなのかもしれない。

「リンデル将軍に賭けるって言ったのはあんただ。それをいまさら、」

「そうは言っても、あのじいさん頑固者だからな」

「あんたの父親みたいな人だったんだろ? どうにかするのが息子の役目なんじゃないのか?」

「父親……、まあそうだな。親父でもあり友でもあり、恩人でもあるな」

「なんだよ、それ。意味わかんねえよ」

 くそ、やっぱり殴ればよかった。収拾のつかない自己嫌悪に駆られてデューイはガゼルを睨みつける。ガゼルはずっとにやにやしている。それこそ、ちゃんと大人になった息子に向ける目でデューイを見つめる。

「俺がもし、リンデルの立場だったらお前は止めたか?」

「はあ? そんな無駄なことするわけないだろ」

「そういうことだ。しかもな、あいつは騎士だ」

 意味がわからない。会話をさっさと終わらせようと、デューイは歩き出そうとする。

「まあ、待て。お前はイレスダートの騎士とずっと一緒だったんだろう? なら、見てきたはずだ」

「知らねえよ。……たしかに公子は国を追われてるって話だけど」

「騎士はどうあっても主君を裏切れない。そういう生きものだ。剣を捧げた相手を守り通す」

「いや、けど公子は主君にっていうよりも」

「なら、お姫さんがブレイヴの主君みたいなもんなんだろ」

 さっぱりわからん。お手上げだ。諦めてガゼルから視線を外した前に、魔道士の少年が現れた。

「親子喧嘩ですか?」

 いつも着ていた白い長衣ローブはここにいればすぐ汚れてしまうので、古着にちゃんと着替えている。寸法が身体に合っていないので少年がより子どもみたいに見える。まるで、少年の頃にガゼルのお下がりを着ていたデューイのように。

「そうじゃないよ」

「そんなところだ」

 二人が同時に答えたのでアステアはぷっと吹き出した。

「みなさん、ガゼルさんを待ってますよ」

「ああ、いま行く」

 大男の背中に向けてため息をおとしたデューイに、魔道士の少年はまだ笑っている。

「早く迎えに行きましょうね。きっと、会いたがっていると思いますよ」

 デューイはまじろぐ。あの子は王の落胤らくいん。少女の出生の秘密を皆まで語ったデューイはには触れなかった。でも、皆もう知っている。

「いろいろありましたけど……。でもサリタのあの街であったこと、偶然とかじゃないって、僕は思うんです」

「ふうん。アステアは運命とかそういうの信じるたちなんだ?」

「そんな大げさじゃないです。なんて言ったらいいのか……、そう縁です。繋がりって言うのかなあ?」

 ぶつぶつと独り言を落とすみたいにつづけるアステアにデューイも笑う。

「そうだな。アステアも兄さんと会えたもんな」

「はい! だからデューイさんも、見つけたのならぜったいに目を離しちゃだめですよ」

「なんか……、アステアが言うと説得力あるよな」

 たしかに偶然だと思う。サリタの街でレオナたちに会ったのも、そこでオリシスの少女に会ったのも。けれども、その先は人の意思だとデューイは思う。

 ラ・ガーディアへの案内役を買って出たのはずっと探していたを見つけたからだったし、あわよくばサラザールに公子を関わらせようとしていた。デューイがあれこれと画策しなくとも、けっきょくブレイヴたちはサラザールへと来た。

 王政が成り立たずに壊れかけたラ・ガーディアの最果て。養父であるガゼルがやろうとしていることなど非現実的で、だとしても勝手に死なせたくはなかった。もっと大勢の人間が関わってくれば、他の国も動き出せば現実に近づくかもしれない。当たりだった。それを運命なんて言葉だけで済ませるつもりはないけれど。

 デューイは服のなかに忍ばせてある瑪瑙オパールの首飾りに触れる。

 空っぽの少年。でも両親が残してくれたふたつの首飾りと、それから兄妹がデューイには残っている。

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