ロッテの涙

 リンデル将軍の保護下に置かれて七日が過ぎた。

 宅邸内を自由に行き来できない不自由はあるものの、使用人たちは皆やさしくなにかとレオナたちを気遣ってくれる。ここ数日は寒さが厳しかったので暖炉に火を絶やさないようにと執事長が何度もきてくれたり、大台所の料理長がイレスダート人にも好みの味付けを気にしながら料理を出してくれたり、侍女たちが新しい旅服を持ってきてくれたりと至れり尽くせりだ。

 私たちは軟禁されているのであり、これは監視されているだけなのです。

 レオナの傍付きは何度も忠告する。考えすぎではないかと、レオナはルテキアに苦笑いで返す。彼らは将軍が連れてきた客人を歓迎しているだけで、リンデルの人となりがそうさせているのだと、レオナはそう思う。

 この家にはリンデルの他の家族はおらず、早逝した妻が残した二人の息子たちはとっくに独立してサラザールの文官になったという。どちらも気が優しくて内部で苦労しているのだと侍女たちの話をきいて、レオナは複雑な気持ちになった。

 幾日経ってからやっとルテキアの言葉の意味がわかった気がする。

 どんなにリンデルが人徳のある人間だったとしても、将軍は王国軍側の人間には変わりなく、けっきょくは解放軍の敵でしかないのだ。

 はやくここから抜け出さなければいけない。そう思ってもレオナたちは自由に動けずにいる。監視という言葉もたしかにそうだろう。心配性の使用人たちはこれからはじまる王国軍と解放軍の戦いに巻き込まれないようにと、レオナたちをここから出してはくれない。それになによりもシャルロットだ。レオナはずっと伏せったままの少女を見る。あれ以来、オリシスの少女は一日のほとんどの時間を寝台の上で過ごしていた。

 夕食の時間にもシャルロットはミルク粥をすこし食べただけだった。レオナもルテキアもあまり食が進まず、ゆっくりと胃の腑に収めていく。温野菜のサラダにライ麦のパン、人参を裏ごしした甘いスープと根野菜を包んだオムレツ。魚や肉料理はほとんど出てこなかったがいずれも薄味に変えてくれている。サラザールの情勢はイスカのシオンからもきいていたので、やはりいつまでも自分たちが客人としてここに居座るわけにはいかないと、レオナはそう思う。ここの人たちはやさしいからこそ、善意に甘えていては心が苦しくなる一方だ。

 食事が終わったあと、リンデル将軍が訪ねてきた。

 ずっと具合の悪いシャルロットのために新しい医者を連れてきてくれたらしい。今度の医者は若い男で、その顔が見えたとき思わずレオナは声を出してしまうところだった。

 若い医者はレオナたちを横切ると寝台のシャルロットに何かを話し掛けている。レオナはルテキアを見る。傍付きは毅然とした面持ちでいて、とにかく落ち着くように目顔でレオナに訴えた。

 そうか、ルテキアは彼に医者の知識があることを知っているのだ。そういえば魔道士の少年も薬には詳しかったし、それを実の兄から習ったのだと言っていた。だとしても、いったいどうやってリンデル将軍に接触したのか。

 一人はらはらした思いで見守るレオナにリンデルはやさしく微笑む。心配は要らない。好々爺こうこうやの顔で見つめるリンデルはあの子の祖父みたいだ。実際そうだったのだろうか。シャルロットの母親を知っていたリンデルはかの人を娘のように思っていたのかもしれないし、その娘に対する気持ちも偽りのないやさしさだ。

「薬をいくつか処方しておきましたので、しばらくはこれで様子を見てください」

 若い医者がそう言った。レオナには目も合わせてくれないので、彼が何を考えているのかわからなかったが、少なくとも余計な声をしてはならないと思った。リンデルが若い医者に銀貨を二枚手渡すのが見えた。彼は無言で懐へとしまうと、反対にリンデルに紙切れのようなものを渡した。

「これは……?」

「あなたの息子を名乗る男から預かりました」

 リンデルの顔つきが変わった。二人のあいだに、しばらく緊張した沈黙が流れた。

「叛乱軍の決起は近い。……どう答えるのかは、あなた次第です」

 それだけ言い残して若い医者は出て行った。リンデルは彼を追わずただため息をひとつ落とすと、レオナたちに向き直った。

「心配は要らない。そなたたちは必ず国に返そう」

 老将軍の笑みに胸が苦しくなる。本当のことを言えば楽になれるのかもしれない。たぶん、ブレイヴたち解放軍はリンデル将軍を味方につけようとしている。こちらの事情を皆まで話してしまえば、リンデルは力を貸してくれるのではないか。けっきょく思いを留めたまま、レオナはリンデルの足音が遠ざかっていくのをただきいていた。シャルロットが待っている。

「セルジュは、なんて言ったの?」

「迎えがかならず来るから、このままここにいなさい、って」

 やはり、解放軍はまもなく動き出す。

「それから、これ……」

「軍師殿はこんなに薬を寄越したのですか?」

 少女が握りしめている麻袋を見て、ルテキアが言う。

「ううん。ちゃんと動けるように、食べなさいって」

 麻袋のなかからはお菓子がたくさん出てきた。胡桃と無花果いちじく入りのケーキの他にも焼き菓子が入っている。あの見るからに融通の利かない堅物の軍師が自らこれを買ってきたのかと思えば、ちょっと可笑しくなってレオナは笑ってしまった。でも、彼はあれでやさしいところもあるのだ。

「ねえ、レオナ。あのひと……、だいじょうぶだよね?」

 少女の薄藍の瞳がレオナを見つめている。どう答えれば少女を安心させられるだろう。リンデルは敵だ。解放軍がこれから戦う相手、大丈夫だなんて無責任な発言はできない。

「だからセルジュは、きてくれたのよね?」

 はっとして、レオナは伸ばしかけた手を止めた。カナーン地方を抜けてウルーグに来た。もともと華奢だった少女が旅のあいだにもっと痩せてしまった。イスカですこし元気になったはずが、サラザールで逆戻りだ。でも、この少女は聡い。きっとあのとき、リンデルが語った話もきいていたし、己の出自にも気がついている。 

「ロッテは、どうしたい?」

「あのひとを、たすけたい」

 レオナはうなずく。たとえこれから戦いがはじまろうとも、その思いはレオナも一緒だ。

「それに、にげたくないの」

「ロッテ……?」

「私のほんとうの母さま。ずっと贖罪ばかりつづけていて、だから私……生まれてきてはいけない子なんだって、そう思ってたの」

 否定しようとして、けれどレオナは声を止めた。最後までちゃんときいてあげよう。レオナは傍付きと目配せする。

「ラ・ガーディアから最後はオリシスに流れ着いて、しばらくは大聖堂でお世話になっていたけれど、母さまは死んでしまった。そのあと、オリシスの公爵家に呼ばれて、アルウェン様の養女になって。でも、私ずっと苦しかった。みんなに大事にされるたびに、こわくなるの。私は要らない子なのに、って」

 シャルロットは大切な瑪瑙オパールの首飾りに触れている。

「アルウェン様もテレーゼ様も、ロア姉さまもみんなやさしかったの。みんな私の本当の家族じゃないのに、私には本当の母さまも、兄妹だっているのに……。でも、そんなのは関係なかった。だって、私はみんな大切だったもの。それなのに、私。あのひとのこと……アルウェン様を、一度だって父さまって呼んであげられなかった」

 透明な雫が少女の目から落ちていく。後悔、懺悔、哀愁。どれも少女の本当の心だ。

「クリスがね、言ってくれたの。じゃあ、今度は大切なひとたちを大事にしてあげなさいって」

「ロッテ……」

 白皙の聖職者は、ラ・ガーディアへの旅の途中でシャルロットに寄り添っていた。常日頃から人々の告解をきいているクリスは、人の心をほぐしてそれから本当の声を引き出してくれる。クリスにこの少女を託してよかった。レオナはそう思った。

「ねえ、レオナ。私、まだ間に合うかな……? たしかめるために、ここに来たの。だからもう一度、会ってちゃんと話がしたいの。私を、見つけてくれたから」

「ぜんぶ終わったら、いっしょに会いに行きましょう?」

 レオナはシャルロットを抱きしめる。涙でぐちゃぐちゃになった少女の顔を手巾ハンカチーフで拭いてくれるのはルテキアだ。

「もちろん、そのときは私も一緒です。あの男は逃げてしまうかもしれませんから」

 絶対に逃がしません。鼻息を荒くする傍付きに、レオナもシャルロットも思わず笑ってしまった。

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