交錯
空の色が変わりはじめた。
市場では買いもの客でごった返している。酒場からは笑い声がきこえて、今日も賑わっているようだ。
日が沈むより前に帰って来るように。レナードやノエルよりもずっと前に騎士になったジークが、口酸っぱく言う。人数分の平服と三日分の食糧、任されたのは子どものおつかいだ。
レナートは生返事をしたものの、けれどもこんな時間になってしまった。大通りではサリタの住民も、東や西からの旅人に巡礼者がひしめき合っている。人の波から逃れようとして、レナードは子どもとぶつかった。
「痛いなあ! 気をつけなよっ!」
避けたつもりでも、ちゃんと前が見えていなかったらしい。子どもはレナードをにらみつけて、それからまた雑踏のなかへと消えてゆく。
「なに、ぼうっとしてんの」
すかさず隣からはため息が漏れた。ノエルだ。
「財布。俺が持っていて正解だったね」
レナードも嘆息する。
「でも、まだ子どもだったのに」
「子どもだから、だよ。ここはイレスダートじゃない」
わかってるよ。そう言おうとして、レナードは唇を閉じた。相棒の声は正しかった。
白壁の街を茜の色が染めてゆく。まもなく夕暮れだ。
これじゃあ、薬屋に寄るのは無理だ。レナードはひとりごちる。出かける前にもっとちゃんと場所を確認しておくべきだったと、いまになって後悔しても遅い。この街を知る異国の剣士はとっとと先に行ってしまったし、宿場の主人だってめんどくさそうにレナードをあしらった。
大通りから外れて小道へと入れば、やっと人混みから抜けられた。旅人と思わしき人たちは、レナードとは反対の方へと進んで行く。
「あの人たち、向こうの大陸から来たのかもしれないね」
ノエルはいつもレナードの心の声を先読みする。
「ここをくだってゆけば港に着くんだよ。ほら、前に本で見ただろ? 船って言うでっかい乗りものが人を乗せるんだって。だからさ、この先には海が広がっているんだよ」
「ふうん」
自分でも驚くくらいに興味も関心も入っていない声だった。向こうの大陸とか言われても想像できなければ、港や海だって思い浮かばない。
「なんていうか、意外」
「なんだよ」
「レナードのことだから、海を見てみたいだとか船に乗ってみたいだとか、そういうこと言うかと思ってた」
子どもじゃあるまいし。それにいまのレナードは両手が塞がっていて、袋一杯に詰め込まれた果物を落っことさないよう歩くだけで大変なのだ。
「らしくないんじゃない? そういうの」
「なにがだよ」
けれど、なおもノエルはレナードを煽る声をする。
「もしかして落ち込んでる? なんていうか、レナードが静かなのって気持ち悪い」
「お前なあ」
売られた喧嘩を買うつもりはなかったので、レナードはもう一度ため息を吐いた。ばかだな。レナードは口のなかで言う。それならお前だって一緒じゃないか。こんな風に飄々としていても、いつもとちがうのはノエルだってそうだ。レナードもノエルもそんなに器用な方じゃない。人の心の機微を敏感に感じ取って気の利いた声をしてみたり、普段どおりに振る舞えたりできるほど無感情ではないのだ。
「優しい人だった」
「うん」
ぽつりと、レナードは零した。相槌を打ったノエルも、そこから嘘みたいに静かになった。
二人は一度だけ、オリシス公爵夫妻の茶会に招かれた。そんなに緊張しなくてもいい。穏やかな声で言ったのはアルウェンで、席に着いてもぎこちない騎士二人に自ら香茶を注いでくれたのは彼の妻テレーゼだ。円卓にはテレーゼが作った焼き菓子がたくさん並べられる。おすすめはアップルパイだと教えてくれて、客人よりも食べていたのはアルウェンだった。
おっかなびっくり香茶を口に含んでみれば、自分で淹れるよりも何倍も美味しかった。世間話をするオリシス公と公子は年の離れた兄弟みたいだった。ジークはいつもと変わらない
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
レナードは口内を噛む。自分はオリシス公の最期を知らない。けれども、公子はめっきり口数が減ってしまったし、ジークは接触する者すべてを敵のように見ている。たぶん、それが正しい。レナードもノエルも、ジークのようにするべきなのだ。いつもどんなときも、騎士でいなければならない。
それなのに、ジークは二人を部屋から追い出した。雑用を押しつけられたことに腹は立たなかったけれど、暢気にこの街を歩いている場合なのだろうか。逆効果だよ。ジークの気遣いを煩わしく思ったのははじめてだ。
「どうしたんだろう……?」
ノエルの声にレナードは顔をあげる。宿場へと戻るためには、また大通りへと出なければならなかったが、そこには人だかりができていた。
子どもたちは大人たちのうしろに押し込められる。何かに怯えているのか
「見なよ。あれがイレスダートの騎士だってさ」
「わざわざ王都マイアからお出ましだそうだ」
「いやだねえ、あんなにぞろぞろと。いよいよサリタも巻き込まれるのかねえ」
野次馬たちのあいだからレナードもそれを見ようとする。藍色の軍服に身を包んだ騎士たち、掲げられた旗には竜の刻印がある。あれは、たしかに王都マイアの騎士たちだ。
レナードは後ずさろうとして、しかし足がすくんで動けなかった。
「レナード、落ち着いて。あれは多分、ちがう」
ノエルが耳元でささやく。追っ手が来るには早すぎる。それに、相棒は人々の
黒馬に跨がり、従えた騎士たちとともに悠々と進むその男の顔を、レナードは忘れなかった。四角い顔にやたらと目立つ鷲鼻に、顎を覆う不衛生な髭は自分の力を誇示する者の容姿だ。底意地の悪そうな笑みがこちらに向いているような気がして、思わずレナードは息を止める。
「レナード?」
急に震えだしたレナードにノエルは怪訝そうな目をする。城塞都市ガレリア。北の辺境への遠征に伴わなかったノエルは、あの男を知らない。でも、レナードは絶対にあの男を忘れたりはしない。
「な、んで、あいつが、ここに……?」
背中に脂汗が噴き出した。心臓の音が耳の奥でうるさい。マイアの騎士が通り過ぎて、サリタの住民たちが解散する。けれども、レナードの震えはしばらく止まらなかった。
応接室へと通されてから小一時間はそのまま待った。すっかり忘れられていたのだと思っていたが、給仕娘が香茶を運んでくる。謝罪の言葉でもつづくと思いきや、給仕娘は目も合わせずにそそくさと部屋から出て行った。
さて、どうしたものか。
異母兄ならとっくに短気を起こしているだろう。いや、癇癪持ちのランツェスの長兄は、まず力を持ってサリタを攻略する。つまりはそういうことなのだ。兄ホルストが北の城塞都市ガレリアへと送られて、そうして自分がこのサリタを任されたのは。
買い被りすぎだと、ディアスは思う。
腹の探り合いならばもっと適した者がいるのではないか。しかし、騎士にはこういった仕事も必要なのだ。ディアスがまだ少年だった頃、王都マイアの士官学校でその声をしたのは、黒騎士ヘルムートだった。心理戦にはもっとも向いていない黒騎士がディアスをそう諭したのだ。
ディアスはふと、幼なじみならばどうするだろうと思った。あれは辛抱強いたちだから、やはりこのまま大人しくカウチに座っている。
早春に白の王宮で会ったきり、ディアスは幼なじみの
扉をたたく音がきこえた。ひと呼吸遅れて二人が入室した。どちらも黒髪で、丸眼鏡をかけた
「ああ、冷めていますね」
老爺はすぐにベルを鳴らす。扉の向こうで控えていたのだろう。ややあって給仕娘が戻ってくる。丸眼鏡の男は満足そうに香茶を飲み直す。そうして、やっとその視線がディアスへと向いた。
「時間は限られていますのでね。手短にお願いしますよ」
散々待たせておきながら第一声がこれだ。ディアスは内心で嘆息しつつも、
「困りますねえ。サリタに介入するおつもりですか、貴方たちは」
王はディアスに内容を知らせていなかったが、そこに何が
「ひとつ、訂正させて頂く。あなたは誤解している。これは命令でも勧告でも強制でもない。忠告だ」
「忠告、ねえ」
市長はさも愉快そうに唇の端を持ちあげた。アナクレオン・ギル・マイアからの書状をまるでただの紙切れのようにひらひらさせ、老爺に見せた。なんと、これは。老爺は仰々しい物言いをして、ディアスを睨みつける。ディアスはため息を吐きたくなった。
「まあ、お気遣いはありがたく頂戴致しますよ。しかしながら、思いちがいも甚だしい。アナクレオン陛下は思慮深い方だと存じておりましたが……。いや、失礼。とはいえ、サリタが自由都市であることをお忘れのようだ」
意趣返しのつもりなのだろうか。ディアスは冷めた目で市長を見つめる。
「そんなにこわい目をなさらなくても、ねえ?」
「時間が惜しいと言ったのは、そちらでは?」
市長ははじめて演技ではない本当の笑みをした。食えない男だ。長々と駆け引きに応じるつもりはない。ディアスは王命にてこのサリタにいるが、しかし他国の王の声を無視するような街だ。自由と権利を代償に滅びるというのなら、当然の報いとも言える。
「ふふ。正直な方だ。そうですねえ、忠告は素直に受け取りましょう。私も命は惜しいですからね」
「ああ。賢い者ならそうする」
存外、人間らしいところもあるのだと、ディアスはそう思った。歳の頃は三十手前か。ディアスの異母兄と同世代だ。サリタの市長は市民が選ぶために世襲ではなかったが、例外だったようだ。前市長、つまりこの眼鏡の男の父親が急死したために跡を継いだのだろう。選出の期間を設けなかったのも、周辺の諸国の動きを懸念したためだ。
では、前市長が毒殺されたという噂も本当らしい。
サリタへと入る前に情報屋はディアスにそう言った。銀貨二枚を握らせただけの眉唾物と考えていたが、真実味が帯びてきた。白の王宮が忍ばせた間諜、または反市長派の議員らによる暗殺。
そうして、前市長が不審死を遂げてから一年と経たずに接触してきたイレスダートに対して、丸眼鏡の男が警戒するもの当然なのかもしれない。
だが――。ディアスは口のなかで言う。アナクレオンという人は、どこまで本気なのだろう。同盟、いや協力関係であるには力の差が大きすぎる。これでは、周辺の諸国はサリタがイレスダートに服従したと見做してしまう。しかし、武力で事が起こってしまうよりは、その方がずっといいのかもしれない。そうなる前に何としても、市長の口から肯定の言葉を吐かせる必要がある。
ディアスは敢えてそれ以上は言わなかった。
「それにしても、アナクレオン陛下は噂に違えぬお方だ。なかなかに情が深い。わざわざこんな辺境のサリタにランツェスの赤い悪魔殿を遣わせるくらいですから、ねえ?」
眼鏡の奥には嘲笑が見えたが、ディアスはこれを無視した。用が終わったならさっさと帰れ。市長はひとつ咳払いをする。言われなくてもそうするつもりだ。だが、ディアスが席を立っても市長はカウチに残ったままで、老爺も動かなかった。多忙なのは本当で、この後にも来客が控えているらしい。ディアスはその答えをすぐに知る。
市長の部屋を出ても案内役の若者はわざと遠回りをしているようだった。何か隠したいことでもあるのだろうか。ディアスはふと階下へと視線を投げた。そこは藍色の軍服を着た騎士たちで埋め尽くされていた。あれは、王都マイアの騎士だった。
遅かったのかもしれない。歯噛みするディアスを案内役の若者が別室へと連れて行く。なるほど、鉢合わせるのはサリタ側にも不都合なのだろう。
この先でもたらされるのは対話か、それとも。
いまはただ、若い市長を信じるしかできなかった。
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