第一話 学園七不思議の噂


    一


 ――正直、面倒臭いと思いました。こでまでに絶縁を考えたことは一度や二度ではありません。でも、わたしから縁を切っても駄目なんですよ。それがわかったのは、小学校の頃でした。


    ※


 その日、砂山瑞樹すなやまみずきは珍しく朝から調子が良かった。

 喧しい目覚ましが鳴る前に起きることができたし、朝食の目玉焼きは上手く行った。家を出てからも至って平穏。交通事故を始めとする変なものを巻き込まれることも、ましてやなく、無事に学校まで到着してしまった。

(そういえば、今日のテレビで運勢は最高とか言ってたような――)

 普段は話のタネにしか聞いていない占いが今日は当たるのかもしれない。その淡い期待は、教室に入ろうとしたとき耳に飛び込んできた声によって、かき消された。

「おっはよー、瑞樹ちゃん! ねえねえ、面白そうな話があるんだけど!」

(気がしただけ、か)

 瑞樹はかぶりを振ってその二房の三つ編みを軽く揺らすと、何も聞かなかったことにして、自分の席に着き荷物の整理を始めた。

「無視なんて酷いじゃないのさ。……あれ、もしもーし、瑞樹ちゃーん?」

「…………」

 挨拶を無視されたものの、めげずに瑞樹の元にやってきた、声の主である少女――朝霧陽子あさぎりようこは、普段なら自分を見るだけでため息をつく瑞樹がまったく反応してくれないのを見て、不思議そうに首を傾げた。

 瑞樹は視線を動かしてショートボブの少女をちらりとだけ見ると、あくまで沈黙を決め込むことにした。ため息は心の中で吐くだけにして、鞄から必要なものを取り出し、黙々と机の中へと収めていく。

「聞こえてないのかな? でも、耳栓はしてないみたいだし」

 身体を倒して耳を覗き込む陽子の言葉を聞いて、瑞樹の額に一瞬深い皺が刻まれる。

 それは一度だけ耳栓をつけたときのことだった。確かに耳栓を付けることで陽子の声や周囲の雑音を聞かず、またそれらに反応させられることなく、しばらくは平穏な生活を送ることができた。だが、それも無視しているのではなく耳栓で音を聞こえなくしていると陽子が気づくまでのことだった。

(……まさか頭から水をかけられるとはね)

 体操服で授業を受ける羽目になったことは今でも忘れていない。好奇な視線だけならともかく、思春期を迎えた男子の不埒な視線に晒されることになったことは、まだいくらか心の傷として残っていた。もちろんその後ただでは済ましたはずはなく、その後一週間陽子は学校を休んだ。

「なんかしたっけかなぁ……あ、わかった! もしかしなくても月のものでしょ!!」

 陽子が無邪気に叫ぶと、男子の視線が一斉にこちらを向いた。

(ば、馬鹿は一辺死なないと直らないのかしら!)

 陽子のふっくらとして叩けばりんごのように赤く染まるであろう頬に向けて、思わず拳が出そうになる。だがここで反応したら負けだと自分に言い聞かせ、視線に耐えながら瑞樹はゆっくりと深呼吸。そして気分を他に逸らそうと、瑞樹はお気に入りのブックカバーに包まれた本を取り出した。

 今瑞樹が読んでいるのは、歴史ある女子高に通う生徒たちの日常をつづったシリーズものだった。非常に人気のある作品で、長きに渡って刊行が続いていたのだが、最近ようやく完結したばかりだった。瑞樹はそれを期に読み始めたばかりだったが、そこに描かれる少女達の生活は虚構とはわかっているが、瑞樹にとってはどうして女子高にいかなかったのかと自問自答させられるほど憧れる生活ものだった。

 とはいえ、瑞樹の住む千種ちぐさ市に存在した女子高は、今通っている千種学園だけであり、またその千種学園もまた少子化の煽りを受けて数年前に共学へと変わってしまっていた。

(ああ、あと十年早く生まれていれば――なんてね)

「おーい、瑞樹ちゃーん?」

 と自分の世界に入った瑞樹が肩を落としている間、陽子は瑞樹の前をうろうろしたり、目の前で手を振ってみたりと一通りのアクションを起こし、瑞樹の気を引こうとしていた。体に触れてこないのは水をかけた一件の後で、『二度と身体に触れず、危害を加えない』と約束するまで頬を張られ続けたからであり、それを破ったらどうなるかはこれまで身に染みて理解しているからでもある。

「そ、そこまで無視されちゃうと、お姉さん悲しくなっちゃうかな」

 とはいえ、流石に限界に達したらしい。陽子は眼に涙を貯めながら寂しそうに机の上で『の』を書き始めた。

(まだ諦めていないのは流石というべきかしらねぇ。にしても、誰がお姉さんだか)

 内心でツッコミを入れてみたものの、このまま放置していると後でより面倒なことになりそうな気がしてきたので、仕方がなく瑞樹は本を伏せて彼女へと向き直った。もちろんいつものようにため息をつきながら。

「あんたのしつこさには感心するわ。で、何か用なの?」

「あ、へへ。おはよう、瑞樹ちゃん」

「おはよう。……で、用は挨拶だけ?」

「そんなことないよ。……どうしてそんなに嫌そうなの?」

 一瞬で顔を綻ばせる陽子に対し、瑞樹は投げやりに応じる。早く終わらせたい、と誰が見てもわかりそうなものだが、残念ながら陽子には通じない。

「あなたがこれまでに『面白そう』って持ってきたことで、無事に終わったことがあったと思ってるの?」

「うーん……あったような、いや、ないかな?」

 目を逸らす陽子を細目で睨みつつ、瑞樹はため息をついた。

 陽子とは小学校からの付き合いだったが、彼女は昔から『面白そう』なことがあるとミサイルのように首を突っ込んでいき、爆発するかさせるかした後、何故かその尻拭いを瑞樹が手伝わされる、という不思議な関係だった。そんな目にあってもなお瑞樹が付き合い続けているのは、どうあってもその爆発に巻き込まれるから、自分が被害を受けないように取り成したほうがマシ、というだたその一点に過ぎない。

「で、でも今度は違うって、絶対!」

「へー。まあ、言うだけ言ってみなさい。聞くだけは聞いてあげるから」

「う、うん。瑞樹ちゃんは学園七不思議、って知ってる?」

「……まあ、一応は」

 曖昧に頷いた瑞樹だったが、実際には一応どころではなくかなり詳しく知っていた。とはいえその内容は理科室の模型が歩き出すとか、調理室で誰かが料理をする音が聞こえるとか、良くある学校の怪談でしかないはずだった。

「その七不思議とやらがどうしたの?」

「うん。今度新聞部でその特集をすることになってね。で、わたしは実際に七不思議を写真に収めようと思って」

「そういえばあんた、新聞部だったわね」

 新聞部とはいっても、年一回の対外向けのものを除いて、毎週発行される新聞基本的にゴシップしか取り扱っていない。瑞樹が読んだときにはくだらない噂や、嘘くさい捏造写真が紙面を飾っていたのを思い出す。しかし、それでも生徒からの評判は上々でだというのだから世の中わからない。

「でもどうやって調査をするつもり? 夜、校舎は鍵がかかるはずだけど」

 数年前に忍び込まれたことがあるらしく、校舎は夜六時を過ぎると自動的に鍵がかかるようになっていた。

「そうなんだよね、それがネックなんだ。だからね、頼んで欲しいのよ」

「何を? 誰に?」

「学校の鍵を、生徒会長に」

「……馬鹿じゃないの、あんた」

 あっけらかんと言う陽子に、瑞樹は呆れかえった。

「えー、だって友達でしょ?」

「……ただの知り合いよ。わたし達はそこまで親しくはないわ。それに鍵なんてそう簡単に借りられるわけがないでしょ?」

 生徒会長と何度か話したことがある、と聞かれればYESだが、話したことがあれば友達か言われればイコールではない、と瑞樹は思っている。それにもし友達だったとしても、そうそう学校の鍵を簡単に貸してくれるはずはない。

「そこを何とかするのが瑞樹ちゃんの役目です。まあ、最悪ダメでも構わないよ。その時はどうにかするから」

 そのどうにかする、の主語は自分なのだろうな肩を落とした瑞樹に、別の方から声がかかった。

「おはよう、砂山さん」

 声の方を向くと、そこにはすらりと背の高い少女が微笑みを浮かべて立っていた。艶のある美しい長い黒髪、整った顔つき。まるで瑞樹が先ほどまで読んでいた小説の中に出てくる女学生のようなその人こそ、生徒会長である水無月雨みなづきあめであった。

「あ、うん、おはよう、水無月さん」

「朝霧さんも、おはようございます」

 陽子にも会釈をしながら、雨は瑞樹の隣へ鞄を置いた。その緩やかな動きをいくつもの男子の視線が追っていた。が、人は全く気にしないようだった。鞄を開くその動作一つ一つが、さながらの一輪の水仙のような優雅さを感じさせた。

(こうして見ていると、男子が憧れる理由もわかるわね)

 腕を組みつつ頷く瑞樹を、不思議そうに雨が見つめる。一方、その隙に陽子が後ずさっているのに瑞樹はまったく気がつかなかった。

「じゃ、瑞樹ちゃん、後は頼んだからね!」

「え?」

 その声に反応したときには、陽子はあっという間に瑞樹の前か去っていき、教室の反対側にある自分の席に戻ってしまっていた。一方的な陽子に憤慨する瑞樹を見て、雨はくすりと笑みを浮かべた。

「ふふ、お二人はいつも仲がいいのね」

「……よくこの顔を見てそんなこと言えるわね」

 瑞樹の額には深い皺が刻まれている。

「好きも嫌いも好きのうち、ですよ」

「それは絶対違うわ。陽子が持ってくるのはいつもトラブルばかりで、困らされてばかりだし。聞いてよ、この前も――」

「まあ、そんなことが。でもね、実はこの間生徒会でも」

 他愛のない世間話を続けながら、どう頼んだものかと瑞樹は悩んでいるうちに、始業を告げるベルが鳴り響いた。




    二


 ――何となく、どこかで会ったような気がしていました。いえ、それだけが理由じゃないのですけどね。


    ※


「起立、礼」

「それでは皆さん、また明日」

 HRが終わり、生徒に人気のある担任の男性教師が女生徒に囲まれるのを――正確には、その陰に隠れるようにして陽子が出て行くのを見て、瑞樹は大きくため息をついた。

 結局のところあれから雨とも、そして陽子とも話す機会がないまま放課後になってしまった。

 陽子は瑞樹に何か言われるのを恐れてか、徹底的に瑞樹を避けていた。授業が終わると共に、教師よりも早く教室を出て行く徹底振り。昼休みも教室にはおらず、挙句の果てに携帯電話も通じない。メールで文句は言っておいたが、この分では見てはいないだろう。

 一方、雨もまた生徒会の用事かあるのか、休み時間になると出かけていたし、昼休みは生徒会室で会議をしながら食事を取るとのことで、まとまって話をする時間はなかった。

 陽子からは別に今日中にと言われていたわけではないが、この手の用事はできれば早めに済ませたい。それに最悪、今日のうちに決行されてしまう可能性もある。

(とはいえ、どう言って切り出したものか――)

 話を付けるのであれば、意固地な幼馴染よりは雨の方が手っ取り早いだろうことはわかっている。とはいえ、まさか正面から正直に学校の鍵を借りたいなどと言えるわけがない。しかし、何か絡め手で行こうにもこちらにはネタがない。……そもそもよく考えてみれば雨と言う少女のことを瑞樹は何も知らない。

(ただ、以前から知っていたような気はするのよね、不思議と)

 と、思考を巡らせながら教科書を片付けていると、その肩を誰かが叩いた。

 一瞬陽子かとも思っが、彼女はさきほど飛び出して行ったばかりだと思い直し、ゆっくりと振り返るとそこには困った様子の雨が立っていた。

「砂山さん、少しお時間大丈夫ですか?」

「うん、帰ろうと思っていたところだし。どうかしたの?」

「ああよかった。……いきなりこんなことをお願いするのは大変申し訳ないのですけど、あれを運ぶのを手伝っては頂けませんでしょうか?」

 そう言いながら雨が指差す先には、先ほどの授業で使用した木製の画板が積まれてあった。

「ああ、さっきの授業で使ったものね。でも、こんなの日直にやらせればいいのに」

「それが私もそう申し上げたのですけれど、私に任せると言って帰ってしまわれたもので」

 本来、授業の後で黒板を綺麗にしたり、使用した教材の片付けをするのは日直の仕事である。

「無責任な日直もいたものね。そういえば今日って誰だったっけ――」

 随分ズボラな日直だなと思って黒板を見ると、日直の欄には男子の名とは別に見慣れた『朝霧』という文字が書かれていて、思わず瑞樹は肩を落とした。

「……わかった、手伝わせて。どうも他人事じゃないみたいだし」

「ありがとうございます、助かります」

 自分が悪いわけではないにもかかわらず頭を下げる雨。そうした姿勢だけでも、彼女が生徒会長に選ばれる理由がわかる気がする。

「しかし、結構重いのね、これ」

 一クラス三十五人のを分割して十七枚と十八枚。迷うことなく、瑞樹は多い方を手に取った。前が見えないほどではないがそれなりに高さはあり、また手にもずしりと重みがある。

「一枚一枚はそうでもないのですけどね。塵も積もれば、といった所でしょうか」

 雨はもう片方を軽々と持ち上げて微笑んでみせる。身長以外では瑞樹とさほど変わらない、いやむしろ細く見えるその体格のどこにそんな力があるのかは不思議だった。

「で、これはどこまで?」

「美術準備室までお願いします。……すいません、どなたか扉を開けてもらえますか?」

 雨が声をかけると男子が我先にと扉に群がり、道を作る。開けてくれた彼らに会釈をしている雨に先じて、瑞樹は教室を出る。背後から、持ちましょうかという男子の声とそれを断る雨のやり取りが聞こえた。

 瑞樹の教室は三階で美術室は四階。階段を上るのが辛そうだと思いながら少し速度を落として歩いていると、しばらくして雨が追いついてきた。

「ごめんなさい、瑞樹さん。男子に呼び止められてしまって」

「気にしないで。水無月さんの人気は今に始まったことじゃないから。……でも、どうして私に頼んだの? それこそ男子に頼めばよかったのに」

「砂山さんが憂かない顔をしていたので何か悩み事でもあるのかな、と思いまして」

「そ、そんなことないけど……気のせいじゃない?」

 瑞樹は小さく首を振った。ずばり正解ではあるが、当てられたからと言って話したのでは、何となく瑞樹のプライドが許さなかった。こういうことは自分から言わないと。

「そうですか? それならいいのですけど」

「それよりなんだか水無月さんは楽しそうね」

 額に汗をかき始めた瑞樹とは対照的に、雨は楽しそうに瑞樹の隣を歩いている。

「そう見えます? でも、こうして誰かと話しながら歩くのは久しぶりなので、少し舞い上がっているのかもしれません。普段は皆さん遠慮して、なのか話しかけたりしてはくれないものですから」

(それはそうでしょうね……)

 瑞樹がこうして隣を歩いているだけでも、至る所から嫉妬やら羨望の入り混じった視線が背中に突き刺さるのだ。もし自分が男子で、万が一仲良く腕など組んでいようものならどんなことが起こるのか想像もつかない。もしこれが全く気にならないというのであれば、余程の天然か、神経が図太いかどちらかだろう。

(まあ、陽子ならこういうのは全く気にしなさそうだけどね)

 瑞樹は心臓に毛でも生えていそうな幼馴染が馴れ馴れしく雨に絡む様子を思い浮かべ、そして何故か校舎裏に呼び出される自分の姿がよぎり、あわてて首を振った。

「まあ、きっとみんな、好きだから緊張してしまうのよ。うっかり変な事を言ってしまったりして、嫌われたくないから」

「そういうものですか。……でも確かに、自分がどうだったかと思い返してみると、同じような感覚だったのかもしれませんね」

「へえ、水無月さんにもそういうことがあったのね」

「ええ。私が生徒会に入ったのは、先代の生徒会長に憧れてのことでしたから。とても素敵なお方でしたよ。優しくて、皆からとても慕われていて――」

「わたしにしてみたら、あなたも十分慕われてると思うけど」

「いいえ、私なんてとても姉さまには及びません。それ位凄い人でした」

「へえ……」

 頬を染めて『姉さま』のことを語る雨に、瑞樹は驚くでもなく、ただ感嘆の息を漏らした。

「? どうかしました?」

「いえ、小説みたいな話ってあるんだな、と思って」

 雨のその顔はただ慕っているというよりは、まるで小説や漫画に出てくるような先輩に恋する乙女のそれだった。

「小説? ……もしかして、砂山さんがいつも読んでいる『学園小説』のことですか?」

「ええ、そうだけど――あれ、小説のこと水無月さんに話したっけ?」

 自分がそれを読んでいることは、瑞樹が所属する文学部でも一部の人間しか知らない。というより文学部の大半は耽美系に傾倒しており、それ以外の本には興味がなく、またそれを読む瑞樹は異端者扱いだった。

「失礼かとは思いましたけど、何度か挿絵が目に入りましたので」

「ああ、なるほど」

「私、あの小説大好きで、一巻から初版で持ってるんですよ。砂山さんはどの話が好きなのですか?」

「そうねぇ、私はまだ読み始めたばかりなんだけど――」

 偶然にも同好の仲間であることを知った二人は、小説の話で盛り上がりながら階段を上り、三階の奥にある扉の前までやってきた。

 美術室と書かれたプレートのある部屋の中からは絵の具のものか、微かに独特の匂いが漂っている。

「すいません。どなたか開けてくださいませんか?」

 手の塞がっている雨が扉の向こうに向けて言うと、少しして教室の扉が音を立てて開いた。

「はいはーい……って、部長じゃないですか。どうしたんですか? その画板」

 仲からは快活そうな生徒が姿を見せ、画板を大量に抱えた雨を見て驚きの表情を浮かべる。

「授業で使用したものを戻しに来たんです。これって準備室だったかしら?」

「あ、そうですね。ちょっと待ってて下さい、準備室の方を開けてきますから」

「ええ、ありがとう」

 雨の言葉を聴かないうちに、部員らしき下級生は中に戻っていき――すぐに準備室側の扉から顔を見せた。

「こちらへどうぞ!」

「……水無月さんって、部長だったのね」

「ええ。まあ、最近は生徒会の仕事が忙しくて、ほぼ幽霊部員なんですけど」

 恥ずかしそうに微笑む雨に、後輩はそんなことないですよ、と反論した。

「先輩が幽霊部員なら誰が部員なものですか。大体この前のコンクールで、金賞取ったばかりじゃないですか」

 そう言って後輩が指し示した先には、一枚の水彩画が掛けられていた。カンバスの中には黄昏の仲で寂しげに空を見上げる少女の姿が描かれている。夕日に染まるその表情は物憂げに何かを訴えているようにも感じられる。

「恥ずかしいので、あまり見ないで下さい。……これはここでいいかしら?」

「はい。後は私がやっておきますから」

「そう? それじゃあ、お願いできるかしら」

「はい!」

 まるで尻尾を振る犬のように頷く後輩を見ながら、瑞樹は苦笑した。

「急に笑ったりして、何かありました?」

「いや、水無月さんはやっぱり慕われているな、と思って」

 自分にもそれ位の人望があれば――いや、せめてまともな友達が一人ぐらいいればとは思ったが、陽子がいる限りそれも叶いそうにはないだろうなとは思う。

(ま、陽子も悪いところばかりではないのだけど、ね)

「さて、それでは手伝って頂いたお礼をしなくてはいけませんね」

「え? そんなのいいわよ、別に」

 瑞樹は慌てたように両手を振る。瑞樹にとってはいつものように陽子の尻拭いをしただけのつもりだった。

「いえ、そういう訳にはいきません。私にできそうなことなら、遠慮なく言ってみてください」

「うーん……」

 と言われても、急に何か出てくるはずもなく。……とはいえ、これは鍵のことを話すいい機会かもしれないと、瑞樹はそれを頼んでみることにした。

(これでもしダメなら陽子も諦めもつくでしょうし、ね)

「じゃあ、多分ダメだとは思うけど」

「何でしょう?」

「ちょっと夜の校舎を調査したいって知り合いがいてね。……校舎の鍵って借りられないかしら」

「うーん、それは……」

 雨は腕を組んで考え始める。それを見て、即決できないってことはやはり無理なのだろうと瑞樹は安堵の息を吐く。

(さて、それじゃどうやって陽子を納得させようかしらね……あの調子じゃ、簡単に諦めるとは思えないけど――)

「そうですね、大丈夫だと思いますよ」

「そうよね、やっぱり駄目よね。……えっ?」

 雨から発せられた予想外の言葉を聞き、瑞樹は思わずその肩を掴んだ。

「ですから大丈夫です、と」

「え、本当に? 冗談じゃなく?」

 肩を掴んで揺らす瑞樹に、「落ち着いてください」と雨は笑みを浮かべ、

「この学園のことで生徒会長にできないことはあまりありませんよ」

と言い、続いてそして何かを思い出したように額に皺を寄せた。

 瑞樹は雨が表情を変えた事に気づいたが、それについて尋ようとする前に、「では、ついて来てください」と雨は歩き始めてしまい、それに追いついたときには元の表情に戻っていたので、尋ねる機会を失ってしまった。

「そういえば、どうして夜の校舎を?」

「それがまた話すと長いんだけど――」




    三


 ――会うのは初めてでしたが、どことなく雰囲気でわかりました。ああ、そうなんだって。


    ※


 「では、少し待っていてくださいね」と職員室に入っていく雨を見送り、瑞樹はふうと一息ついた。

 久々に重いものを持ったからか、腕が少しだるい。箸より重いものを持ったことがない、などと言うつもりはないが、文科系の部活に所属する瑞樹にとっては腕を使う機会がないのもまた事実だった。脚なら毎日の通学でそれなりに鍛えられてはいたので自信はあった。かといって、毎朝パワーリストやダンベルを持って通学するわけにもいかないし、そのつもりもない。

 明日は筋肉痛にならないことを心の中で祈りながら、瑞樹は内ポケットに入れていた本を取り出して読み始めた。

 その本は今朝読んでいたものとは違う、文芸部の部員からお勧めだと押し付けられた彼女曰く『お勧め』の耽美系の小説だった。時折混じるきわどい挿絵を挟みながら、美形の男性達がスキンシップにしては過激な触れ合いを繰り返している。挿絵がそんな状態であるから、もちろんブックカバーは装着済みで、その下を大っぴらになど見せることはできない。

 瑞樹は普段この手の小説は買うこともないし読むこともないのだが、今月の文芸部で提出する感想文のテーマがこの手のものに決められてしまった――民主主義の弊害である――ために、仕方なく読んでいる。とはいえ、読んでみればそれなりに面白いもので、一部のえぐい描写を除けばそれなりに読めなくもない。瑞樹も身体と身体の繋がりがわからないほど子供ではなかったし、人並みにではあるが憧れてもいる。本当に好きな人とであれば、とは思っている。

 だが、そのためにクラスメイトがしている『努力』が自分にできるとは思えなかった。彼女のたちのように、一目惚れした彼に何度もアタックしてとか、わざと隙を見せて誘惑して襲わせてとか、そんな恥ずかしいことができるわけがない。

(って、陽子に言ったら本気で笑われたっけ……せめて好きなひとの一人や二人作ってからそんな話をしろって)

 そう言われて簡単に好きな人ができれば苦労はしない。テレビの中の偶像アイドルは恋をするには現実感がなさ過ぎるし、都会ならともかくこんな田舎の学校や、街に出たところで新しい出会いがあるわけでもない。

 とはいえ、瑞樹にも想い人がいないわけではない。その人との出会いはもうだいぶ昔のことだったが、その頃からずっと想い続けている人がいる。子供の頃の錯覚だと否定されるかもしれないが、その人物の存在が未だに瑞樹の心の中へ深い楔となって打ち込まれたままなのは事実だった。

(あの人は今、どうしているのかしら……ん?)

 初恋の人物に想いを馳せようとしたその時、視界の隅を何かが通り過ぎたような気がして瑞樹は顔を上げた。しかし、そこには誰もいない廊下が広がっているだけだった。辺りを見回してみても特に何かあるわけではなく、下駄箱に向かうのであろう生徒がこちらに向かって歩いてくるだけだった。

(単なる見間違い、だといいのだけど)

 念のため、もう一度見回してみたがやはり何も見当たらないので、瑞樹は目頭をマッサージしながら再び本に目を戻す。と、そのとき、今度は確かに見覚えのある姿がこちらに歩いてくるのが視界に入った。

「……誰かと思えば陽子じゃない。どこへ行ってたの?」

「み、瑞樹ちゃん!?」

「――って……呆れた、日直をサボって何をしているかと思えば」

 驚きのあまり素っ頓狂な声を上げた幼馴染の傍には、黒縁の眼鏡を掛けた利発そうに見える男子生徒が立っていた。瑞樹は陽子の挙動や表情からどういうことかを理解し、本日何度目かのため息をついた。

「た、ため息をつくと幸せがにげちゃうよ?」

(その元凶に言われたくないんだけど)

「……まあ、別にあなたの私生活をどうこう言うつもりはないけど、さすがに日直ぐらいはちゃんとやりなさいよ、お陰で私が手伝う羽目になっちゃったじゃない」

「か、彼とはそんなんじゃないったら。この人は新聞部の部長で――」

水澤乾みずさわいぬいです。いつも朝霧さんからお噂はかねがね伺っています」

 そう言って水澤は頭を下げた。瑞樹はそれに合わせて一応会釈を返す、

「陽子さんには、さっきまで資料整理を手伝ってもらっていたんですよ。いや、結構書類がたまっていたので助かりました。それ以外には天地天命に誓って、誓って何もありませんでしたよ」

 乾がはっきり断言したことで、陽子が肩を落としたのを瑞樹は見逃さない。つまり陽子は、水澤に恋をしているのだった。

(急に新聞部の仕事だなんて言うからそんなことだろうとは思っていたのよねぇ……)

 新聞部の活動をサボってまで自分の興味あることばかり追い求めてきた陽子がその話を持ってきた時点で、おかしいような気はしていたので驚きは特にない。だが、それに自分を巻き込んだことについては、呆れていた。

「まあいいわ、強引とはいえ乗りかかった船だし、最後まではつきあってあげる。その代わり、後でケーキを奢りなさいね。二人分」

「二人分? 瑞樹ちゃん、そんなに食べたら太っちゃうよ?」

「わたしが二人分食べるわけないでしょ。ちゃんと別に食べる人はいるわよ」

「それって誰?」

「お待たせしました、砂山さん」

 ちょうどそこに雨が職員室から出てきた。その手にはタグのついた鍵らしきものを持っている。どうやら上手く借りられたようだった。

「あら朝霧さん、ごきげんよう。それとそちらは……確か、水澤さんでしたっけ」

「そうです。こんにちは生徒会長、ご機嫌麗しゅう」

「そんなにかしこまらなくても構いませんよ。そもそも水澤さんのほうが上の学年なんですから」

 にっこりと微笑む雨、そして水澤。表面上は和やかに見える二人だったが、瑞樹はどことなく二人の雰囲気に違和感を覚えた。互いに何かを隠しているような――恋愛感情のような明るいものではない、もっと深い何かが。

「はい、砂山さん。はいこれ、お願いされたものです」

「……あ、うん。ありがとう」

 そう言って渡された鍵を瑞樹はまじまじと見つめる。一般的に複製がしにくいと言われるタイプのキーで、プラスチックのタグにはマスターと記載されている。

「これって、マスターキー? ……いいの?」

「はい。お借りしたいと申し出たら、先生が渡して下さったのがこれでしたから――それに、瑞樹さんなら悪いことには使わないと信じていますから」

「……善処するわ」

 どちらかといえば瑞樹は主にそれを止める役割なのだが、今回は雨にも迷惑がかかることを考えると本気で止めなければならないのか、と思うと少し気が重い。

「さて、それでは皆さん、私は生徒会の仕事がありますのでそろそろ失礼します。瑞樹さん、また機会があればお話しましょうね」

「ええ。じゃ、また明日――えっ?」

 雨はすれ違い様、瑞樹の耳元でそっと一言囁いた。瑞樹が思わず振り返ると、雨は悲しみとも喜びともつかない表情で瑞樹を見つめていた。

「今の私から言えるのはこれだけです。……くれぐれもお気をつけて」

 軽くお辞儀をすると、今度こそ去っていく雨。囁かれた言葉の意味を考えながら、瑞樹はその後ろ姿を呆然と見つめていた。


    ※


「なるほど、そんなことがあったなんて……つまりは、すべてわたしのお陰ね!」

「調子に乗るな!」

 軽快な殴打音が、既に誰もいない校舎に響き渡る。

「あいたたた~」

「まったくもう!」

 たんこぶを押さえてうずくまる陽子を、呆れ顔で瑞樹が見下ろす。

 時刻はすでに十九時を回っていた。未だ昼の方が長いとはいえ、既に太陽は千種ちぐさ市を囲む山の向こうへと沈み、代わりに真円の月が姿を見せている。千種ちぐさ学園は市街地から離れて山の側にあるため、星の輝きがはっきり見える代わりにその闇は深い。

「懐中電灯があって良かったわ。流石に星明りだけじゃ歩き回るのはちょっとね」

 そう言いながら、瑞樹は鞄の中に入れてあった懐中電灯を点ける。暗闇を割くようにして、豆電球の光が一条伸びていく。

「さっすが準備がいいよね、瑞樹ちゃんは」

「……別に今日のこのために持ち歩いていたわけじゃないわよ」

 瑞樹の家は街中から外れた所にあり、また街灯も少ないため少し遅くなると真っ暗になってしまう。周囲には田んぼもあり、明かりがないと危ないということから電池も絶やさないようにしている。……もっとも、それ以外にも理由はあるのだが。

「にしても――あんた、カメラってまだそれを使ってるの?」

 瑞樹はいつも陽子が首から下げているカメラを指差す。それは陽子が祖父から譲り受けた一眼レフカメラで、いまどき珍しいフィルムタイプ。シャッターチャンスを逃さないようにと、それこそいつも持ち歩いている。

「うん。旧式だけど、ちゃんとフラッシュも炊けるしね」

 そう言いながら陽子はカメラを構え、辺りを二、三枚撮ってみせる。シャッターを押すたびに強い閃光が発せられ、思わず瑞樹は目をつぶる。

「どう? ちゃんと光るでしょ?」

「光ればいいってモノじゃないとは思うけど……まあ、ちゃんと撮れなくてもわたしのせいにはしないでよね」

「それはもちろん。大体、瑞樹ちゃんが見えた所を撮ればミスショットなんてありえないよー」

 『見える』という言葉に反応し、瑞樹は強い視線で陽子を見やる。

「……陽子、その事は他人に話してないでしょうね」

「もちろん! この陽子さんは口が堅いので有名なんだよ?」

 自信たっぷりに胸を叩く陽子を見て、瑞樹は眉間に手を当てる。

(それが信用ならないから聞いてるんじゃない)

 瑞樹は昔から人に見えないものを見ることができた。それは霊の類だったり、思念のようなものだったりと様々であり、幼少の頃に比べれば見えるものは減ってしまったが、今でもある程度のものは見ることができる。

 ただし、瑞樹にできるのは見ることだけであり、触れたり、話したり、ましてや退治することなどはできない。もっとも、瑞樹自身そういったものからできるだけ離れるようにしてきたし、向こうから近づいてきたとしても、祖母からもらったお守りで大抵はどうにかなってきた。少なくとも、これまでは。

「で、今日はどこから行くの?」

「えっとね、七不思議が言われている教室を下から順に回っていこうと思っているんだけど」

「……ってことは、家庭科室か、理科室かしら」

 噂の一つがある家庭科室は一階の端にあり、そこから近い場所にある理科室にも別の噂がある。

「理科室の噂って『歩く人間標本』でしょ? ありきたりだし、多分ガセだと思うから、後回しにしよう」

「了解」

 という陽子の鶴の一声で家庭科室へ向かい二人は階段を降り、一階へと向かう。一階は上の階よりも教室が多く窓が少ないため、廊下は三階よりも暗く感じられた。

 数少ない窓から入ってくる月明かりを見て、瑞樹はふと雨に言われた言葉を思い出した。

「月が隠れたら、部屋に飛び込んで明かりをつけること。決して、暗闇の中には入らないように」

 近くの窓から空を見上げると、星々や月が細々と、だが確かな光を放って輝いているのが見えた。若干雲が出ているようだったが、特に空を多い尽くすほどではない。

(ここ一週間は晴れの予報だったはずだし――しばらくは大丈夫よね)

「瑞樹ちゃーん、早く行こうよー」

「ああうん、ちょっと待ってよ」

 瑞樹はもう一度だけ空を振り仰ぐと、せっかちな幼馴染を追って歩き出した。




    四


 ――確かにわたしにはそれを見ました。信じないのであれば、それで構いませんが――


    ※


 人気のない校舎に二つの足音だけが響く。片方は軽快にゴムとリノリウムが擦れる音を発していたが、もう片方はただ足の裏を床に叩きつけるだけの音。

 その鈍重な音を発しながら肩を落としているのは陽子で、それを見て瑞樹は笑みを浮かべていた。

「……まさか、どれもガセだったとはね」

「家庭科室のに至っては宿直の先生が夜食を作っていただけだったしね」

 他の噂も似たようなものだった。美術室の肖像画や理科室の模型もさして不思議な動きはなく、十五階段も女子トイレも見間違いではないかという位、日中と変わりなかった。

「瑞樹ちゃんにも見えないなら本当にいないんだろうね。はぁ、やっぱりどれも作り話なのかなぁ」

「わたしの目も万能じゃないから、信用し過ぎるのは良くないわよ。……で、次が最後だっけ」

「あ、うん、最後は美術室だね。ここの怪談は――」

「呪いのカンバス、だったかしら。誰もいない美術室に一枚だけカンバスが立てかけてあって、それを覗き込むと――ってやつ」

「そうそう。……にしても瑞樹ちゃん詳しいね」

「まあね」

 まさか余計なものに近づかないために仕入れた知識を、逆の目的で使うことになるとは思ってもみなかったが、恐らく陽子の情報だけでは時間をロスしていただろうから、結果オーライといったところだろう。

「あ、ここだね、美術室。……しつれいしまーす」

 陽子が扉を開けると、昼にも嗅いだ絵の具の匂いがふわっと漂ってくる。

「うわ、くさっ!」

「そう? そこまでじゃないと思うけど……」

 鼻を摘んでいる陽子に替わり、瑞樹が先に部屋に入り辺りを見回す。片付けられたのか、昼に見た時よりイーゼルの数は減っていたが、少なからず立てられたままのものもあり、いくつかにはカンバスがそのまま立てかけられていた。

「あの中に呪いのカンバスが――」

「さて、ね」

 カメラを構え、陽子は意気揚々と写真を撮り始める。瑞樹はカンバスを一枚一枚見ていくが、特にどれも変哲もない描きかけの絵が描かれているだけだった。

「あれ、これって……」

「ど、どうかしたの? もしかして」

「いや、呪いのとか霊とかそういうんじゃないんだけど、この絵、どこかで見たような気がして」

 その絵には、一人の少女が描かれていた。描きかけのため風景まではわからないが、寂しそうな瞳でこちらを見つめている。これと同じような絵を、瑞樹はつい最近見たことがあるような気がした。

(確か、準備室で見た絵がこんな感じだったような。もしかしてこれ、水無月さんの――)

 そう思いながら瑞樹は顔を上げ、思わず息をのんだ。そこにはどこから現れたのか少女が立っていた。それが生きている人間でないことはすぐにわかった。その少女はその長い髪の毛先から靴にいたるまでがぼんやりと白ぼけていて、またその顔にも生気の通っている気配が全くない。

 ただその姿は、カンバスに描かれていた少女と似ているような気がした。

「……あなたは、一体――」

 少女は瑞樹の呟きには答えず、代わりに何かを訴えかけるような表情で、瑞樹の背後を指差した。不思議に思いながら振り返った瑞樹が見たものは、今にも陰ろうとしている月と、黒いもやのようなものだった。

 初め、瑞樹はそれが霧だと思った。盆地にある千種市では霧が出ることは珍しくなく、特に学校のある山の側では霧の出る頻度は少なくない。

 ……だが、果たしてそれが室内にまで入り込んでくるだろうか。いや仮に入ってきたとして、まるで光を吸収しているかのように真っ黒で、懐中電灯の光を当てずともなおそこにあるとわかるものが、果たしてただの霧なのだろうか。

「な、なにあれ!」

 最初に叫び声をあげたのは陽子だった。

「陽子にも見えるの?」

「うん。……でも、なにあれ。霧、かな?」

「霧ではないと思うわ。……だって、あんなに黒い霧なんて見たことない」

「確かに――ちょっと懐中電灯を当ててみてよ」

 瑞樹が無言で光を当てると、その霧のようなものは光の当たった部分が消えた。散ったとかではなく、消えた。

「消えた!? 一体どういうことなのさ、瑞樹ちゃん」

 陽子がそれを指差しながら一歩後ずさる。

「わからない。でも、なんとなく嫌な予感がする」

 瑞樹はこれまでに色々なものを『視て』きたが、こんな物を見るのは初めてだった。幸いなことにこちらのことを警戒してるのか、まだ動く気配は見えない。

 ふと、脳裏に祖母の言葉が蘇る。

「よくわからないものに出会ったときには近寄らないことじゃ。こちらが何もしなければ、よっぽどのことがない限り向こうも何もせん。黙ってその場を離れることじゃ」

 実際、目の前のものに立ち向かえるほどの準備があるわけではない。戦っても勝ち目はない。ならば逃げた方がいいに決まっている。

「陽子、とりあえず今のうちに逃げるわよ――」

 そう促そうとした瞬間、眩むような閃光が室内を貫いた。

「ちょ、ちょっと、何してるの陽子!」

「え、だって、せっかくの怪奇現象なんだから撮らないと」

「いや、わかるけど、そんなことしたら――!」

 嫌な予感を感じ、思わず飛び退った瑞樹がいた場所を、急にに伸びた靄の職種が貫いた。そして、他の靄が瑞樹たちに向かってゆっくりと動き、そして集まり始める。

「まったくもう! ほら陽子、とっとと逃げるわよ!」

「え、あ、うん」

 動き出した靄を見てようやく危険を察したのか、瑞樹に続いて陽子も走り出す。

 靄には足音もないし、音もないが、振り返らずとも追ってきているのは良くわかった。瑞樹たちは必死になって逃げるが、やはりいつも走り回っている陽子に比べて瑞樹の足は遅い。陽子との間はあっという間にぐんぐん開いていき、その逆に靄との間はどんどん縮まっていく。

(こんなことなら、もっと体育のときに走る練習しておくんだった――)

 今更反省しても、現実は変わらない。せめて少しはマシだろうと、階段を降りてみてもだめ――それどころか、何階降りても一階に辿り着けない。階の表示は悪い冗談のように四と三と二を繰り返すだけ。

 それがおかしいことに気づいたときには――自分がパニックになっていたことに気づいたときには、すでに靄はすぐ後ろまで迫っていた。瑞樹の背筋にぞくりと冷たいものが走る。瑞樹がとっさに手近な教室に飛び込んだのと、意思を持ったように伸びた靄が瑞樹のいた場所を貫いたのは全くの同時だった。

 それでも完全にはかわしきれず、靄の手が瑞樹の腕を掠める。痛みはなかったが、何か大切なものを奪われたような喪失感が身体を襲う。

 それでも何とか身体を動員して、教室の扉を閉め、鍵をかける。荒い息から肺から吐き出される酸素の代わりに、ヤニやニスを含んだ匂いが、肺へと飛び込んでくる。顔を上げると、そこには無数のカンバスが立ち並んでいた。それは逃げる前とほぼ同じ光景……どうやら、巡り巡って美術室に戻ってきてしまったのようだった。

(――来た!)

 数度の衝撃のあと、軽々と開け放たれた扉から、ゆっくりと真っ黒な靄が入ってくるのが見えた。そのどこに感覚器があるのか――まるで部屋に広がる闇が靄にとっては明かりのようなものなのか、はっきりと瑞樹の位置を把握しているようだった。その証拠に、もう獲物を逃がさぬよう瑞樹を追い詰めるように靄はゆっくりと部屋全体に広がっていく。

 やがて、絶望が瑞樹の思考の大半を占める。

(散々陽子にはつき合わされてきたけど、今度こそだめかしら。そういえば陽子は逃げ切ったのかな……)

 靄が一つだけだったという保障はどこにもなかったが、悪運の強い陽子なら無事に逃げ切ったに違いないと瑞樹は思った。もっとも、彼女が助けを呼んで来てくれる、とは思っていない。そもそも呼ぶとして誰を連れてくればいいのか――警察や消防では確実になく、例えば神主等の宗教家か、あるいは精神科の医者か物理学者。精々そんなところだろう。だが、呼ぶほどの説得力が陽子の口から出せるとは思えなかった。

(私の『眼』がおかしくなっただけならどれだけ良かったことか、とは思うけれど)

 だが実際は瑞樹の目もおかしくなっていないし、靄はそこにいる。おまけに何故か身体がやけにだるい。走った後だからという理由だけではない。確証はなかったが、先ほど靄が掠めたときに何かが起こったのだと推測された。……では、本当に触れられたときには一体どうなるのかは想像に難くない。

 絶望的な状況とはこのことをいうのだろうと思いつつも、瑞樹に諦める気はなかった。せめてもの抵抗にと、瑞樹は立てかけられていたカンバスを適当に取った。こんなものでも扇げば靄を散らすことができるかもしれない、そう思いつつカンバスを振り上げた。

 こんなところでやられる気はなかった。瑞樹には、こんなところでやられるわけにはいかない理由があった。ずっと昔にした大切な人との約束。それを果たすまでは、と、瑞樹は靄に向けてカンバスを振り下ろそうと――

「それを乱暴に扱わないで頂けます?」

 声と共に現れた銀色の閃き。それが眼前に迫った靄を切り裂いた。

「あ、あ、あ」

 振り上げた姿勢のまま、瑞樹は思わずへたり座り込んでしまう。木床のひやりとした感触が臀部に伝わり、これは夢ではないのだということを瑞樹に自覚させる。

 気づくと、瑞樹の前に人影があった。銀色の光を放つそれを構えたまま、こちら顔を向けている。その表情までは見えないが、それは女性のようだった。

「大丈夫ですか? とりあえず、そこを動かないでください。すぐに――」

「危ない!」

 瑞樹が声を上げるのとほぼ同時、まるで初めからわかっていたように、再び銀の閃きが、人影に襲い掛かろうとした靄を掻き散らす。

「……それ、落とさないよう気をつけてくださいね」

 閃きが起こるたびに、黒い靄が切り裂かれ消えていく。靄もまた黙って切られているわけではない。その輝きを覆い隠すように、包み込むように、そして貫くようにと、形を変えながら襲い掛かる。

 だがそれを軽くいなすように避け、時には切り払いながらその輝きは靄を追い払っていく。やがて瑞樹が腕の重みに耐えかねてカンバスを下ろす頃には、靄は部屋から姿を消していた。

「危ないところでしたね、砂山さん。……立てますか?」

「ええ、なんとか――でも、どうして私の名前を?」

「どうしてって――ああ、こう暗くては見えませんよね。ちょっと待っていてください」

 そう言うと人影は部屋の隅へと歩いていき――そして、部屋の明かりが点った。

「これでどうでしょう? 見えますか?」

「あなたは、どうしてここに? ――あ、あれ?」

 安堵のためか、がくり、と崩れ落ちる瑞樹。手放したカンバスが音を立てて床を転がる。

「砂山さん。……砂山さん? どうしたんですか? もしや――」

(ああごめん、あなたの絵を落としちゃって。でも、どうして。力が、はいらな、い)

 昼に会話をしたばかりの少女の声を聞きながら、瑞樹は自分の意識が薄れていくのがわかった。

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