第二話 生徒会の噂


 一


 ――それは、とても懐かしい記憶でした。わたしにとっては、生涯忘れることのない。


 ※


 気づくと、瑞樹は道を歩いていた。

 それは自分のよく知る道に似てはいたが、塀や木々は普段見ているものよりはるかに高く、道幅は両手を伸ばした自分が二人いても余るほど。また、火事で焼失したはずの家がまだ残っていたり、潰れたはずの駄菓子屋が残っていたりと、細かな点でも違いがある。 そもそも自分は学園の中にいたはずだった――と、瑞樹は思わず自分の手を見て、そして気づいた。

(ああ、これは夢だ。わたしが小学生の頃の、夢)

 頭に手をやると、その頃に被っていた帽子の感触があった。当時はこの帽子を至極大事に被っていたものだった。いつから帽子を被らなくなったのかは覚えていないし、その理由も覚えていない。多分きっとくだらないことだったのだろう、と瑞樹は思った。

 下校中なのか、同じ道には同じ背丈の子供が歩いており、中には瑞樹の同級生もいた。だが、その誰もが瑞樹を意図的に避けるように、距離を開けて歩いていた。この時既に陽子とは知り合いでだったが、このときはまだ登下校を同じにするような付き合いではない。この時期の瑞樹はたった一人であり、そうなった理由は瑞樹の『視える』体質のせいだった。

 この時の瑞樹には今よりも多くのモノが見えていた。

 いわゆる『霊』と呼ばれるものに始まり、恥ずかしがり屋の小人のようなものに見える妖精の類、また人の残留思念である青白い炎のようなものに、恨みや妬みの集った小さな黒い靄のようなもの。

 瑞樹には見ることができるというだけで、それらと話したり触れたりすることはできなかった。言いつけでできるだけ避けるようにしていし、また祖母から貰ったお守りのお陰で、向こうからも近づいてくるようなことはなかった。

 それでも、彼らは瑞樹のトモダチだった。おやつを分け合ったり、一緒に絵本を読んだりすることもあった。辛いことがあったときに愚痴を聞いてもらったこともあった。

(あの子達に声が届いていたかは疑問ではあるけれど)

 そのことはあまり他人に話すことはなかったが、ある日担任を覆うような黒い靄を見た瑞樹は、思わずそのことを口走ってしまった。その場は担任もクラスメイトもは疑問符を浮かべるだけだったが、その日の夜、その担任が事故死したことで状況が変わった。

 一夜にして、昨日まで何気なく話していた友達が、自分を避けるようになり、何か得体の知れないものを見るような目で自分を見るようになった。そして、それは徐々に苛めへと変わっていった。物を隠されたり、悪戯書きをされることは日常的に行われた。どうして、と問いかけたことは一度や二度ではない。だが、その問いに答えてくれる『トモダチ』は視界のどこにもいなかった。薄ら笑いを浮かべる同級生たちの瞳には、悩み戸惑う瑞樹の姿が滑稽に映っているのみだった。

 そんな状況になってしまってからも、瑞樹は学校へ通い続けた。それは自分は悪くないという確固たる子供ながらの自尊心からではあったが、瑞樹を取り巻く状況は悪化することはあっても良くなることはなかった。休み時間に彼女へと近づく者はいなくなり、瑞樹はクラスで孤立していった。

 一方、そういった状況になってから、瑞樹は休み時間になると本を読むようになった。初めはただの時間つぶしでだったが、やがて教師に薦められた本、教科書に乗っていた話の続き、果ては父親の書斎からくすねて読むようになった。ブックカバーを使うようになったのもこの頃からで、懐に入れて持ち歩いているとはいえ、借り物の本をできるだけ汚さないようにとの配慮でもあった。

 だが、いくら本を読んでも瑞樹は満たされることはなかった。何となくその理由はわかっていた。そこに書かれているのは偽善と理想を詰め込んだだけなのだと――自分の求める物語は、そこにはないのだと。

 やがて、学校の図書館では物足りなくなった瑞樹は市の図書館へと足を運ぶようになった。

(そう、その最初の日が今見ている今日)

 初めての道を一人で歩くことへの不安はあまりなかった。相変わらず視界の端で先導してくれるトモダチがいたし、そしてそこにこそ自分が求める物語があるのではないかという期待で胸を高鳴らせていたから。

 だが、瑞樹が図書館へ続く道の途中にある公園へ差し掛かったとき、それは唐突に起こった。

 まず、トモダチが輪を散らすように逃げていくのを見た。不思議に思い足を止めた瑞樹に、何かが吼える声と共に巨大な生き物が飛び掛ってきた。瑞樹は突き飛ばされ、塀まで弾き飛ばされて背中をしたたかに打ち据えた。ぶつけた場所が、じくじくと痛む。

 何が起こったのかわからないまま瑞樹が顔を上げると、そこにはこちらを睨みつける犬の顔があった。それは大きくて、体格のいい犬、恐らく土佐犬とかの類だった。このときの瑞樹は知らなかったが、誰にでも吼え、襲い掛かるということで、この辺りでは有名な犬だった。

 そして小学生と比べれば間違いなく大きなそれが、敵意を向けていると言う事実。それは瑞樹が萎縮してしまうには十分だった。

「ひっ」

 怯えながらも、すぐ後ろは塀。周囲の誰かに助けを求めようとも、運悪くちょうど周囲には誰もいなかった。トモダチも助けてくれようとはしているようだったが、精々犬の毛を引っ張る程度。犬は唸り声を上げながら、ゆっくりと近寄ってくる。だがそんな絶望的な状況でも、瑞樹は諦めなかった。

「この! こっちに来るな、この!!」

 といったところで小学生に自分と同じ体格の犬に対抗できる術は少ない。せめてもの抵抗にと持っていた鞄を振り回し、犬を牽制する。振り回した何回かのうち一回が鼻を掠めるが、所詮引けた腰では大したダメージにはならない。驚いたように一旦引き下がったものの、先ほどよりも強い怒りを振りまきながら、犬はゆっくりと瑞樹に向かってくる。

 そして、もうまぐれは続かない。その後は一度も瑞樹の攻撃は当たることはなく、犬にとっては飛び掛れる間合い、瑞樹にとってはもう逃げられない状況になったその時、そこにいきなり凛とした声と共に、白いものが滑り込んできた。

「こら! 小さい子に何をしているの!」

 それは千種学園の制服だった。瑞樹の祖母――と言ってもまだ五〇代になったばかり――がそこの卒業生で、何度か懐かしそうに制服を陰干しにしながら、その頃のことを話してもらったことがあったので、瑞樹はその制服のことをよく知っていた。

「どうせやるなら、わたしを襲いなさい。さあ!」

 瑞樹はその少女を見上げた。背中越しにこちらに向けて大丈夫だよ、と笑いかけるその瞳は真っ直ぐで、綺麗だった。

(友達でさえ誰も自分を避けるだけなのに、見ず知らずのこの人はどうして自分を庇ってくれるのだろう)

 瑞樹には、それが不思議でたまらなかった。

 もしかして彼女は自分が『視える』ことを知らないからだろうか。だったら、知ってしまったら彼女もまた去っていってしまうのだろうか。

 ……そしてそれが、これからもずっと続くのだろうか。

(そんなのイヤ!)

 もう一人ぼっちは十分だった。一人で休み時間を過ごすのは嫌だ。自分もみんなと一緒に遊びたい。そして誰かと――恋をしたい。

 それから十分あまりその少女は犬とにらみ合いを続けた。瑞樹はその光景をただじっと見守っていることしかできず、少女のスカートを皺になるほど握り締めていた。

 決着は唐突に訪れた、やがて少女のしつこさに負けたのか、それとも単に飽きたのか、犬が顔を逸らして去ってしまうと、少女は手を下ろして大きく息を吐く。瑞樹はそれにつられるようにして、その場にぺたりと座り込んだ。

「……ふぅ、何とかわたしにもできました……。あ、あなた、大丈夫ですか?」

「だ、大丈夫、です」

 口ではそう言ったものの、背中はまだずきずきと痛みを放っていた。帰ってから見たところ、青痣になっており、両親に心配をかけたのを覚えている。

「強がらなくてもいいのですよ。よく、頑張りましたね」

 そう言って自分の頭を撫でてくれる『お姉さん』。ほっとしたからか、それとも『お姉さん』の温もりに当てられたのか、自然と涙が溢れ出てきた。そんな瑞樹を見て、『お姉さん』は瑞樹をぎゅっと抱きしめてくれた。

 このとき、瑞樹は初めて誰かに好意というものを抱いた。

(……むしろ、あれは恋だったと思う)

 あの時の自分には理解できなかったが、今ならはっきりと言える。両親や祖母、そして友達や先生に向けられるものとはまた違う、本当の『好き』だったと。

「どう? もう大丈夫かしら?」

 瑞樹の震えが止まるのを感じると、『お姉さん』は瑞樹を身体から離すとにっこりと微笑みを浮かべた。

「あ、ありがとうございます!」

「どういたしまして――と言いましても、わたしはあまり何もしていませんけどね」

 恥ずかしそうに頬を染めながら、彼女が差し出してきた手を握り締める。その手はとても大きくて、そして温かく――

 そこで瑞樹は目を覚ました。

 辺りを見回すと、そこはベッドの上、それも自分の部屋にいた。やはり昨晩の記憶はない。

「確か黒い靄のようなものに襲われて――確か、誰かに助けてもらって、それから」

 記憶はそこで途切れていた。もしかしたらそれすらも夢である可能性もある。だが、それを夢で片付けてしまうとほど平凡な日常を送ってきたわけではなかい。瑞樹は間違いなく、昨日の出来事は真実であると確信していた。そしてもしそうであるならば、一体ここまで運んできてくれたのか。見れば服も着替えさせられていたが、これは母親が可能性が高い。

 時計を見るとまだ五時を回ったばかり。頭はすっかり目覚めていたが、身体にどこか疲労感が残っているような気がした。昨日校舎で走り回ったからか、それともあの黒い靄に触れたからか。

 いずれにせよ、すべては学校に行けばわかることだ。あの時に助けてくれたあの人物が、見間違いでなければ。

 何となく手を見ると、そこには夢の中でまだ掴んだ手の温もりが残っているような気がした。そしてそれは、昨晩差し出された手の感触によく似ていると思った。




 二


 ――淹れることには自信があるんですよ。散々教えられましたから。……それで、何の御用でしたかしら?


 ※


「身体に気をつけろって? うん、わかってる。……じゃ、行ってくる」

 瑞樹は心配する素振りを見せる両親に手を振り、家を出た。

 昨晩のことを両親があまり詮索してこなかったのは助かった。瑞樹を送って来たのが教師であり、「生徒会の仕事を頼んだ」「どうやら車の中で眠ってしまった」という説明があっただけではない。

 瑞樹の『目』のことがわかる前から、両親は瑞樹を信頼してくれていた。例え瑞樹が嘘を言っても、嘘だと白状するまでは信じて疑わない。『見えないものが見える』ということに対して疑うこともせず、その手の話に詳しい祖母の下へ連れて行ってくれたのも両親だった。

 だが瑞樹にはそこまでして自分を信じてくれる理由がわからなかった。一度父親に聞いてみたことがあったが、「親なら当たり前だろう?」という良くわからない答えが返ってくるだけだった。

(わたしにも子供ができれば変わるのかしら?)

 当分予定のない瑞樹には、その気持ちを理解できる日はまだ先のこと。

 学園へと続く道に学生の姿は少ない。瑞樹も普段なら占いを見ている時間帯だったが、今日はどうしてもすることがあった。

 両親は自分を運んできたのは杉浦という教師だったと言っていた。その名前の先生と直接関わりになったことはなかったが、どういう繋がりかは何となく推測がついた。

(それにしても――あれは一体何だったんだろう)

 あのようなモノはこれまでに見たことがなかった。人の悪意が塊になったときに薄い靄のように見えることはあったが、それ自体が意識を持つことはなかったし、何しろ大きさが違う。あれが人の想いなのだとしたら、一体どれだけのものが集まったのか想像もつかない。

 そうこう考えながら歩いているうちに、気づくと学園までの道で唯一の信号までやってきた。ここを渡ってしまえば学園はすぐだった。信号が変わるのを待っているとき、ふと瑞樹の目に携帯電話を操作する学生の姿が目に留まった。

(そういえば……)

 瑞樹は鞄――ご丁寧に教師が持ってきてくれたらしい――の中をまさぐると、目当てのものを取り出す。真っ黒な携帯電話を操作すると、着信履歴が全て陽子からのもので埋まっていた。勿論メールボックスも同様だった。最初の方は「大丈夫? 連絡ちょうだい」など簡素な一文だけだったのに、最後のほうには「瑞樹ちゃん連絡ちょうだい! 嫌われたのなら謝るから……今から三十分以内に連絡くれたらパフェ奢ります」と何故か饒舌な文章になっていた。

(しかしあの子、加減てものを知らないのかしら……)

 心配してくれたのはありがたいがまるでストーカーのようだ。そもそも自宅に電話をしてくれればそれで終わった話なのだが。

 とりあえず適当な文章で返事と、そして苦情を送ったところで、ちょうど信号が青になったので、携帯電話を鞄に戻すと学園へと歩き出した。いつものように下駄箱で靴を履き替え――これも教師が履き替えさせてくれたのか、上履きは下駄箱に入っていた――昨日散々登り降りした階段を使って三階へ。一段登る度にふくらはぎがピリッと痛みを発する。

 普段の倍の時間かけて瑞樹が教室についたとき、珍しいことが二つあった。一つは陽子はまだ教室には来ていないこと。いつも陽子は誰よりも早く教室に来ているが、今日はその姿が全くない。そしてもう一つは、その代わりかどうかはわからないが普段はまだ来ていないはずの人物が、誰もいない教室で一人本を読んでいた、ということ。

 瑞樹が教室に入ると、その人物は本を閉じてこちらを向いた。

「おはようございます、砂山さん」

「おはよう、水無月さん。……今日は早いのね」

 自分の机につくことなく、その前で足を止めた瑞樹に雨はにこりと微笑を浮かべた。

 いなければ生徒会室まで行くつもりではあったが、待っていてくれたのであればちょうどいい。

「ねえ、水無月さん」

「何でしょう?」

「少し時間をもらえるかしら。少々聞きたいことがあるんだけど」

「ええ、もちろん。私も砂山さんに丁度伺いたいことがあったんです」

 少し力の入った視線を向ける瑞樹に、雨は笑みを崩すことなく、二つ返事で頷いた。


 ※


「さ、どうぞ」

(……これはどういうこと?)

 雨に連れられて生徒会室に来た瑞樹だったが、広げられたお茶会の様相にすっかり毒気を抜かれてしまっていた。

「時間が無かったのでティーバックですけど……ティーバックといえど、正しい淹れ方をすればそれなりの味が出るんですよ」

「……そう」

 興味なさげに頷くと、瑞樹は勧められるまま、湯気のまだ立つティーカップを口元に運ぶ。ティーバックで淹れたとは思えない香りを嗅ぎながら、一口。

「うん、なかなか美味しいと思うわ」

 素直に感想を告げると、雨は顔を綻ばせた。

「よかった、お口にあって。生徒会のメンバー以外に振舞うのは初めてでしたから、少し不安だったんです」

「そう? 意外ね、生徒会長なんかやる人だからもっと自分に自信があるのかと思ってた」

「そんなことありませんよ。私が今こうしていられるのは私に色々なことを教えてくれた先輩や、支えてくれる仲間がいるからです」

 不思議と会話が弾むことに瑞樹は戸惑いを感じていた。まるで昔からの知り合いだったような、そんな気分。

 しかしそれに流されてはいけない。瑞樹はちらりと時計を見る。始業のチャイムまであと二十分もない。

「そろそろ本題に入りたいのだけど」

 意を決して瑞樹がそう告げると、「わかっています」というように頷くと、カップをソーサーの上に置いた。

「あなたの聞きたいことは、昨晩のことでしょう?」

 その一言と共に雨の表情から普段の表情が消え、彼女の纏う雰囲気ががらりと変わった。普段のおしとやかな優等生はどこにもおらず、そこには氷のように冷たい視線を向ける彼女がいた。

「ええ。それがわかるってことは、やはり昨日助けてくれたのはあなたなのね」

「はい、そうです。見回りを兼ねてたまたま通りかかった所に、私のカンバスを持って暴れているあなたを見かけたものですから」

「……ふうん」

 深夜の学校を見回り、そしてたまたま通りがかるなど偶然もいいところだ。……だが、それを追求するよりも瑞樹には知りたいことが別にあった。

「どうかしました?」

「いいえ。まあ、疑問はあるけど大切なのはここではないわ。単刀直入に聞くけど、昨日のアレは一体何なの? 人の思念や悪意にしてはやけに濃すぎると思うのだけど」

 その言葉を聞いて、雨は一瞬驚いたように瑞樹を凝視したが、やがて何かを思い出したように小さく首を揺らす。

「……そういえば、あなたには人には見えないものが『視える』のでしたね」

 今度は瑞樹が驚く番だった。高校に入ってから、そのことを誰かに話したことは一度もない。漏らすとすれば陽子だが、彼女が雨とそんな話をするとは考えられない。それでは生徒会の人脈だろうか……千種市の学校を順調に上がってきたから小学校からの縁者は何人かいる。小学校の頃のこととはいえ、覚えている人間が一人や二人いてもおかしくはない。

 渋い顔のまま頭の中で思考を続ける瑞樹をみて、雨はくすりと笑った。

「誰から聞いたわけではありませんよ、安心してください」

「じゃあ、どうして――」

「以前あなたから聞いたのです。……覚えていませんか?」

「わたしから?」

 ここ一年の記憶を手繰り寄せてみるが、瑞樹には全く覚えがなかった。雨とは普段世間話だけで、そこまで深いことを教えるような仲ではない。そもそも千種学園に入ってから、自分の目の話をしたことはない。それを話すことは瑞樹にとっては禁忌のようなものだった。

「ごめんなさい、記憶にないのだけど」

「まあ、覚えていなくても仕方がないでしょうね。なにぶん、少し時間が空いていますから」

 少し寂しそうに微笑を浮かべ、雨は目を閉じた。

「でもそうですね、でも『視える』あなたになら話しても問題ないでしょう。でも、くれぐれも秘密でお願いしますね。皆に変な不安を抱かせたくありませんから」

「話した所で誰も信じないでしょうけどね。夜の学校でへんてこな靄に襲われたなんて」

「まあ、それもそうですね」

 雨が口元を緩める、と同時に瑞樹はほんの僅かながら部屋の空気が緩んだのを感じた。だが、微かに残る気配から本当の意味での警戒心が薄れたわけではない、ということも伝わってきた。

(それにしても……一体、何をそんなに恐れているのかしら)

「それでは話しましょうか、あの黒い靄のことを」




 三


 ――私に話せることは限られています。何せ、私自身どうしたらいいのかわかっていないのですから。


 ※


「……あれはある儀式の副産物なのです」

 少し冷めかけた紅茶を口に含み、わずかに増した苦味に雨は額に皺を寄せた。

「儀式?」

「ええ。よくあるでしょう、恋が叶うとか金運が上昇するとかいったおまじない。あれを大げさにしたものだと思ってください。どんな願いでも叶えることができますが――その代償は人の命。それも、自分を大切に思ってくれる人の、ね」

「人の命……ねぇ」

 思わず瑞樹は唾を呑み込む。おまじないに使うのは精々が爪や髪の毛など肉体の一部。命を使う、しかも儀式と言われても、話が飛躍しすぎて全く実感がわかない。

「でも、古くから儀式としてはよくあったことです。土木工事の人柱とか、ね。ただこの儀式では他のものと異なり、捧げられた人間は決して成仏することなく、この世に留まり続けるのです」

「それがあの黒い靄の正体ってこと?」

「それは正しくもあり、誤りでもありますね。捧げられた者の思念は黒い靄になるというより、他の場所で生じた恨み辛みを呼び寄せます。特異点、とでも言いましょうか」

「なるほど」

 それならば人の悪意のようなものがあれだけ凝縮されているのにも納得がいく。

「でも、あの黒い靄って何なの?」

「詳しいことは私もわかりませんが……古くから『血草影ちぐさのかげ』と呼ばれていた存在のようです」

「ちぐさの……かげ? それ、祖母から聞いたことがあるかもしれない」

 かつて目の『治療』を兼ねて祖母の家にいたとき、「千種には夜になると恐ろしい『影』が出るから、特に月のない夜は気をつけるように」と口癖のように言っていたのを思い出した。ただ、これまで実際に見たことがなかったので瑞樹はよくある子供向けの脅しかとも思っていた。

「おそらく、あなたのおばあさんが仰っていたものと同じものでしょう。『血草影』はその名の通り、植物のように絡み付いて対象のその生気を吸い上げます。それだけではなく、わずかに掠めただけでも、少しずつ吸うことができるようです。昨晩あなたが体験したとおりに、ね」

 瑞樹は無言で頷いた。あの時自分に絡み付いてきた『影』と触れていたのはたった数秒だったはずだが、それでも気を失ってしまうほどのものを吸われたことになる。あの時もし雨が来てくれなかったらどうなっていたか、と想像すると身体が震えた。

「でも、あの時どうやって『影』を追い払ったの?」

「『影』に限定せず、あの手のものを追い払う方法は色々あるのはご存知でしょう?」

「ええ。一般的にはお札や十字架などが有効ね」

「はい。その他にも『影』は光を嫌いますので、たとえば身近なところでは陽光、月の光でも十分有効です。ただ懐中電灯のような弱い光ではひるませることしかできなません。打ち払うにはもっと強烈な光か、専用の武器が必要になります」

 そう言いながら、雨は懐に手を入れ、そして取り出したものを机に置いた。

「昨日私が使っていたものは、これです」

 それは銀色の光を放つ一振りの刃だった。刀身から柄までが金属で作られており、持ち手の部分には紐が巻きつけてある。

「……ナイフ?」

「はい。これはある時の儀式に使われたナイフです。『影』は生前の縁を持ったものでなければ傷つけることはできません。あなたが私のカンバスで仰ぎ散らそうとしていましたが、全く効果がなかったのはそういう訳です」

「あれって、水無月さんのだったの?」

「ええ、昨日は遅くまで残って描いていましたので。お最後に見回りをして帰ろうと思っていたところであなたを見つけたんです。運が良かったですね、本当に」

 運の良さ、だけで片付けてもいいのだろうかと少し疑問には思った。例えば彼女は瑞樹と陽子が深夜の校舎に行くであろうことを知っていたはずで、待ち構えていたとも考えられる。だが、彼女がそれをして何の得をするのかその動機はない。

「影についてはこんなところですね。さて、他に何か聞きたいことはありますか?」

「そうね……」

 瑞樹は腕を組み頭を巡らせる。『影』のことやナイフのことについて、彼女は肝心な所を言っていない印象は受けるが、その証拠はない。かといって他に聞くことといえば――杉浦のこと、ぐらい。多分それについて聞いたところで、生徒会顧問である以外の情報は得られないだろう。

「じゃあ、最後に一つだけ聞かせて?」

「あの時、『影』が出てくる前にあなたによく似た白い少女を見たんだけど――何か知らない?」

 ぴくり、と雨の耳が動いた。

「……もしかして、その子は私達と同じ制服を着ていませんでしたか?」

「ええ、確かに着ていたわ」

 あの時見た少女は、標準的な高校生ぐらいの背丈で、そして自分と同じ千種学園の制服を身につけていた。

「そうですか……やはり、彼女はまだここにいるのですね」

「なにか心当たりがあるの?」

「ええ、あります。……ですが、ごめんなさい、そのことを話すわけにはいかないのです。聞いてしまえば、調べるでしょう?」

「そんなつもりは――」

「あなたには無くても、ドアの向こうで聞き耳を立てている方たちはそうではないでしょうから」

「え? ……もしや」

 瑞樹は入り口の扉へと視線をやる。扉は合わさって閉じているはず――が、よく見ると少し隙間があり、その間から人肌が姿を覗かせていた。こんなことをする知り合いは一人しかいない。瑞樹はため息をつきながら足音を殺して扉へ近づくと、勢いよくそれを蹴り開けた。

「砂山さん、はしたないですよ。もっとスマートに」

「逃げられたら仕方ないでしょう ……さて、どういうことか説明してもらいましょうか」

 開いた扉の向こうから姿を見せたのは、瑞樹にとって見覚えのありすぎる人物――

「あいたー……もう、何するんだよ、瑞樹ちゃん!」

「どの口がそれを言うのかしら?」

 瑞樹は陽子の両頬を掴んで力いっぱい伸ばす。

「いひゃい、いひゃいよ、みじゅきひゃん」

「……ふん」

 盗み聞きをした罰にとしばらく上下左右に弄んだ後、思い切り引っ張ってから手を離してやると、ぱちんといい音がした。

「うう……しばらく後に残ったら責任とってよね、瑞樹ちゃん」

「まだ言うか」

「まあまあ砂山さん、時間もありませんしその辺りで」

 そう言われて時計を見ると、HR開始の時間まで僅かしかなかった。瑞樹は別にサボることに違和感はないが――曲りなりにも生徒会長がそれを肯定するとは思えない。

「まったく、この馬鹿のせいで――」

「だ、だって昨日のことを話そうと思ったら、生徒会長に瑞樹ちゃんが連れて行かれたって聞いて、つい」

「つい、じゃないわよ!」

 瑞樹は拳を陽子の頭に振り下ろし、頭を押さえて転げまわる陽子を見ながら、瑞樹はため息をついた。

「ごめんなさい、水無月さん。そろそろHRが始まりそうだし、今日はこれでお開きにさせてもらえるかしら」

「あなたが謝る必要はありませんよ。……ただ、一つだけ忠告を」

 再び、雨の視線が冷徹なそれへと変わる。

「これ以上踏み込むつもりであれば、それなりの覚悟を。……二度目の助けはないと思ってください」

「……わかった、肝に銘じておくわ」

 瑞樹が頷くのを見て、雨は元の表情に戻る。

「さて、すいませんが、先に戻っていてもらえますか? 私はこれを片付けて、鍵を閉めてから戻りますので」

「ええ。……じゃ、また後で」

「はい」

 瑞樹は未だ頭を押さえたままの陽子を連れ、生徒会室を後にした。扉を閉じる際に隙間から雨の姿が見えた。その表情は、どことなく憂いを帯びているようにも見えた。




 四


 ――チャンスだ、と思いました。いや、結果的にはチャンスでも何でもなかったんですけど。いっつもこうなんだよなぁ。


 ※


 放課後、教室で瑞樹が本を読んでいると、視界の端にこそこそと近寄ってくる人影が写って、瑞樹は小さく息を吐いた。

「ねえ、瑞樹ちゃん」

「……何かしら?」

 口調とは異なり、怒気を帯びた瑞樹の声に思わず陽子は後ずさる。その視線は本だけに注がれ、決して陽子の方を見ようとはしない。

「まだ朝の事怒ってるの?」

「……別にそんなことないわよ。それで、何か用かしら? 昨日ので七不思議は終わったと思ったんだけど」

「それが、そのことを部長に報告したんだけど――」

「したんだけど?」

「なんか、もっと詳しい話を聞きたいって言われて! だからお願い、ちょっと部室まで来てください!」

「あんたねぇ……」

「お願い! 後生だから! 私を助けると思って!」

「……はぁ。まあ、あなたのことは今更だけどね」

 力一杯手を合わせて頭を下げる陽子に、瑞樹は呆れ顔で本を閉じ、陽子の方を見る。

「どうせ、てこでも動かない気でしょ?」

「う、うん。だって、瑞樹ちゃんしか頼れる人がいないんだもん」

 昔から陽子は交友範囲は広いものの、いざというときに頼れる人間はごく少数。もちろんほとんどが瑞樹にお鉢が回ってくる。

(こうやって頼られるのは悪い気はしないけど……ね)

 散々な目に会っているのにそれでも付き合ってしまうのは、自分が甘いのかそれとも陽子の人徳か。後者だけはないな、と思いながら瑞樹は立ち上がった。

「まあ、朝のことといい、それ以外のことといい、言いたいことはいろいろあるけど、一先ず協力してあげる。乗りかかった船だしね」

「あ、ありがとう、瑞樹ちゃん!」

 顔を上げた目と鼻から液体を流しながら瑞樹の手を握り締める。自分の手からは粘つくような不快な感触が伝わる。

「感謝しているのはわかったけど、せめて手と顔を拭きなさい!」


 ※


「やあ、ようこそ新聞部へ。……って、どうしたんだい陽子くん、ボロボロだけど」

「あ、いえ、ちょっとそこで転んだだけですので気にしないで下さい」

 陽子の顔を見て、事件でもあったのかとその男子生徒――水澤乾は興味深そうに眼鏡を押し上げた。陽子の顔は一時的にミミズ腫れのようになっていたが、これは瑞樹が叩いたからではなく、本当にただ転んだだけだった。昔から何もないところで転ぶ癖があり、それもまた瑞樹のトラブルメーク能力に拍車を掛けていた。

「それにしてもよく連れてきてくれたね、陽子くん。ありがとう」

「あ、いえ、部長のためですから!」

「……ふぅ」

 まるで盛りのついた猫のように――というのは言い過ぎかと一瞬思ったが、緩みきった陽子の顔を見て、別に問題はなさそうに思えた。

「何か知っていることがあればと思ったのだけど……」

「残念だね。部員でもない子が僕のところに来るから、てっきり愛の告白でもしてくれるかと思って断りの言葉まで準備していたのに」

「それはどうも」

「やれやれ、つれないね。普段からそんな風に怒っていると、可愛い顔が台無しだよ?」

「……誰にでもそんなことを言ってると、そのうち刺されるわよ?」

「ははは、大丈夫だよ。僕は今のところ特定の彼女はいないからね」

(なおさらだと思うけど……)

 陽子の方をちらりと見ると、彼女はそれを聞いて顔を綻ばせていた。

「……もっとも想い人がいないわけでもないのだけど」

 今度はがくりと肩を落とす。傍から見ている分には面白い。

「その辺の話は興味がある人物もいるみたいだけど、できればまたの機会にしてもらおうかしら。……で、私はなんのために呼ばれたのかしら?」

「そうだね、じゃ、本題に入ろうか。と、その前に君は七不思議の噂とどこまで知っている?」

「そうね――」

 瑞樹が知っているのは噂と、それがどの教室で起こった出来事なのか。それ以上は忌避すべき事象を避けるのに必要ではなかったから、知ろうとはしなかった。

「……なるほど。で、実際に行ってみてどうだったかい。本当に噂の出来事は起こったかい?」

「いいえ。せっかく記事にしようとしているのに残念だけど。……どうやら、あなたに陽子はわたしのことを話しているだろうから言ってしまうけど――」

 ちらりと陽子を見ると、ごめん、とでも言うように手を合わせて頭を下げる。

「そもそも平時からこの校舎で噂の元となるようなものを見たことはないわ」

 瑞樹は一つ嘘をついた。それはあの白い少女の存在だ。彼女は霊の一種ではあるが、少なくとも悪霊の類ではない、とこれまでの経験が告げていた。

「なるほど。でも、実際にその中の一つが起こった話だとすれば?」

「!?」

 瑞樹の反応を見て、水澤は笑みを浮かべた。

「これを見てくれないか」

 水澤は自身の座っている机から一冊のフォルダを取り出し、あるページを開いてこちらに差し出した。それは新聞記事がスクラップされたものが張られていて、主にある女性とが失踪事件についてのものがまとめられていた。

「そこに書かれている少女が最後に目撃されたのは、ここの美術室らしい。……ほら、ここだ」

 これは週間誌かなにかの切抜きだろうか。水澤が指し示した数ページに渡るその記事には、同校生徒の少女へのインタビューが長々と記載されていた。その中に、『最後で見かけたのは美術室』とある。

「実際、美術室には誰かがいた痕跡があったそうだよ。それが誰かは断定できていなかったようだけど」

「なるほど。ところで美術室、ってもしかして」

「そう、七不思議の一つにあった『閉じ込められた少女の絵』はこれが元の話らしい。絵に吸い込まれるようにしてその場から消えた、なんてのは誰かが後から付け足したものだね」

 何か確信があるのか、水澤は断定してみせる。……だが、もし絵に吸い込まれたのでなければ、目撃された少女は一体どこへ消えてしまったというのか。それこそまったく見当がつかない。

「それにしても――どうしてそんな詳しく知っているの、とは聞かない方がいいかしら。あなたにとっては十年前の出来事でしょう?」

「瑞樹ちゃん、それは……」

 普段は他人の秘密には興味津々の陽子が、渋そうな顔で瑞樹の袖を引く。珍しいこともあるものだ、と瑞樹は思った。好きな人のことだからなのか、それとも何か理由があるのか。水澤は困ったように一瞬額に皺を寄せた。

「陽子さん、構わないよ。……実は、その失踪した少女というのが僕の姉でね。それからずっとは彼女のことを追っているのさ。ある意味新聞部に入ったのもそのためといってもいい」

「なるほど。そのスクラップ帳はそのお姉さんの記事を集めたものってことね」

「そうだ。それこそどんな細かなことでもね。もっとも、最近は捜査の規模も縮小されてしまったし、新しい証拠は挙がっていないけどね。……ところでここまで話したのだし、一つお願いしてもいいだろうか」

 初めからそれが狙いだったのだろう、話にようやく入れたからか水澤の目線が少し緩む。

「わたしにできることならね。……あ、ただ、部員になってくれとかはダメよ」

「もちろん、それは心得ているさ。多分、君はこれからも調査を続けるんだろう?」

「いいえ――と言いたい所だけど、どうせあなたはやるんでしょ?」

「もちろん。だってこんなに面白そうなのに調べなかったら損じゃない」

 やる気満々の陽子を見て、瑞樹は諸手を挙げた。

「ま、そういうことだから続けるとは思うわ」

「そうか、それは頼もしい。では、その調査でわかったことを僕にも教えてもらえないだろうか」

「新聞部の報告としてではなく、ということ?」

「そう、あくまで僕個人のお願いになる。もちろん君達が調べたものは、そのまま新聞の原稿に使ってもらって構わない」

 瑞樹はしばし腕を組んで考える。自分が苦労して得た情報を渡すのは癪だが、この調子ならどの道陽子が漏らしてしまうのだろう。それなら初めから情報を渡すことにしておいた方が、瑞樹にもメリットがある。

「どうだい、決まったかい?」

「……いいわ、ギブアンドテイクといきましょう」

「そうか、助かるよ! ……よろしく頼みます」

 そう言って瑞樹の手を握る水澤。その手は男性のものだからか、やけに冷たく、そしてごわごわとしていて、不快だった。

「じゃあ、まず一つ手がかりをあげよう。生徒会室も調べるといい。特に歴代の生徒会長を、ね」

「歴代の? それってどういう――」

「詳しくは自分で見るといいよ。多分その方が早いし、僕のことを信じてもらえると思うからね。……さて、僕はそろそろ打ち合わせの時間だ。今日はても有意義だったよ、ありがとう。……それじゃ、失礼するよ」

 そう言うと水澤は瑞樹に質問する間を与えず、さっさと荷物を持って部室から出て行ってしまった。後には瑞樹と陽子の二人が残される。

「瑞樹ちゃん、協力してくれてありがとう! 瑞樹ちゃんならきっと手伝ってくれるって信じてた」

「手伝おうとしなくても、どうせあなたが巻き込む癖に。……でも陽子、彼には気をつけたほうがいいわ」

「? どうして?」

「彼からは邪念というか妄嫉のようなものが見える。多分、行方不明の姉を探すためには何でもやるわ、きっと」

「え、でも、大切な人がいなくなったらそれぐらいはしないかな?」

「そうじゃなくて――ああもう、まあいいわ。とにかく、あの人に夢中になるのは構わない、時々半歩下がった所から見てみなさいなさいってこと。わかった?」

「う、うん」

 しぶしぶ頷く洋子に、わかってないなと瑞樹は頭を抱えた。

「あ、それより、今日も行くわよ」

「行くってどこへ……え、もしかして、今日も調べに行くの?」

「もちろんよ。ここまで来て引ける訳ないでしょう?」

 初めは嫌々でも、陽子が飽きる頃には自分が乗り気になっている。これは昔からそうだった。

「で、でも靄がまた出たらどうするの?」

「対処法を聞いてきたし――それにこんなこともあろうかと鍵もね、ほら」

 そう言いながら、瑞樹は懐からマスターキーを取り出しウィンクをしてみせる。

「……早く返さないと水無月さんが迷惑するよ?」

「ま、その時はその時よ」

 何となく、雨はこうなることを予想してマスターキーを渡してきたような気がした。ただ、それを言うとややこしくなりそうなので瑞樹は口には出さなかったが。


 ※


「さて、調査開始ね。……と、張り切ってみたのはわかるけど――」

 辺りはすっかり夜の気配に満ちていた。蝉に代わって鳴き始めた鈴虫やコオロギの声が耳に優しい奏でを響かせる。

「――ねえ、陽子」

「何かな?」

「その格好、一体なんなの?」

 陽子は何故か制服ではなく、体操服になっていた。一応はまだ夏の範疇にはいるが、流石に夜ともなればその格好では少し肌寒いはずだった。

「いや、また昨日みたいなことがあったら走りやすい格好の方がいいかな、と思って」

「……大丈夫よ。今日は空も曇ってないし――最悪、対策も教えてもらってきたって言ったでしょ」

 瑞樹は空を見上げる昨日とは異なり、雲ひとつない夜空に星と月の光が満ちていた。今すぐこの光が消える気配は全く感じられない。それに雨の言葉を信じるならば、万が一の時でも明かりさえつければあの靄は消滅させられるはずだ。その場合、宿直の教師に見つかる可能性もあるが、こちらは誤魔化しようはいくらでもある。

「さ、とっとと終わらせて帰りましょう」

「うん、そうだね」

「あそうそう、部長への報告は陽子、あなたに任せるわね」

「ええー。瑞樹ちゃんが請けたんだから、瑞樹ちゃんがやりなよー」

 あからさまに面倒臭そうな顔をする陽子。それを見て、瑞樹はやれやれと両手を挙げる。

「陽子は部長にいいところ見せたいんでしょう?」

「それはそうだけど……っていつわかったの? それ」

「最初からばればれよ、もう」

 そう告げると、陽子はもじもじと両手の指を合わせて俯いた。

「報告をするとするでしょ」

「うん」

「この話は内緒だから人払いをするでしょ」

「……あ、なるほど! つまり二人っきりになれるってことだね」

「そういうこと。あとついでにしっかりした報告ができればあの人の評価も上がるんじゃない?」

「おお! すごい瑞樹ちゃん、頭いいね!」

 実際はそう上手く行くはずは無いと確信を持っていたが、あまりに陽子が嬉しそうなので瑞樹はその言葉を呑み込んだ。

「ま、じゃ、とっとと行きましょう。あなたが報告用の原稿をつくる時間も作らないといけないしね」

「あ、待ってよ瑞樹ちゃん!」

 瑞樹は一人で歩き出し、陽子はその後を追って生徒会室へと向かった。


 ※


「誰もいないようね」

「……みたいだね」

 不思議なことに生徒会室には鍵はかかっていなかった。てっきりマスターキーを使うことになると思っていた瑞樹だったが、使うことなくあっさりと中に入ることができた。

「警備会社とかと契約しないのかな、うちの学校。まあ、そうなったら私たちがこうして忍び込むことなんてできなかったんだけど」

「昔そういう話はあったみたいだけど……夜遅くまで残ったりする生徒がいるから、難しいってことになったみたいよ。あれって一回の出動でいくらとかとられるみたいだから」

 そっと瑞樹は扉を開け、中に誰もいないことを確認する。部屋の中には人の気配は感じられず、また『影』の存在もない。

「さっきまで誰かいたのか、それとも単に鍵の掛け忘れか……」

 几帳面に見える雨がいる以上後者ではないと思ったが、最後に部屋を出たのが彼女と決まったわけではない。

「まあいいわ、とっとと探しましょう。陽子、懐中電灯はある?」

「うん。今日は新聞部の備品から借りてきたから大丈夫」

「OK。じゃあ、私はあっちの棚を見るから、陽子はこっちの棚をお願い」

「わかった」

 二人は手分けをして生徒会室の中を調べ始める。本棚にあるのはたいていが資料やそれをまとめたフォルダ、さらには生徒会が出す会誌のバックナンバーや、他の学校から送られてきた会誌で占められていた。瑞樹はその中から、バックナンバーを中心に調べていく。

(でもこれ、もらった記憶がないんだけど……どうしたんだったかしら)

 そこには昨年度に行われた行事の報告や、生徒会としての活動結果、また各個人や部活の活動結果等が記されている。基本的には資料としての価値はあるが読み物としては事実が書かれているだけで、特に面白みはない会誌だった。特にもらった記憶がないのは、それが理由かもしれない。恐らくはさらりと読んだ後、そのまま本棚かどこかの奥にしまってしまうからなのだろう。

「アルバムあったよ、瑞樹ちゃん」

「どこ?」

 その後も会誌をぱらぱらと眺めていると、反対側の本棚を探していた陽子が瑞樹を呼んだ。

「ここ、ほら」

「どれどれ……ああ、確かにこれみたいね」

 そこには今年度の生徒会結成時と称して、役員全員の集合写真が掲載されていた。もちろんその中心にいるのは生徒会長である雨。

「でねでね、凄いこと見つけちゃった」

「……なにそれ。もったいぶってないだけで教えなさいよ」

「じゃあ、ちょっと一つ前のページを見てよ」

 そう言って陽子が開いたページを見て、瑞樹は驚きの声を上げた。

「これは――どういうこと?」

 そこに張られていたのもまた集合写真ではあったのだが、一点だけ不思議なところがある。それは――雨がまた中央に、つまり生徒会長の位置に立っていること。

 慌てて昨年度の会誌を見てみると、最後のページに記載してあった生徒会役員一覧には確かに『生徒会長 水無月雨』の文字が。

 それから詳しく調べていくと九年前まで『水無月雨』という人物が生徒会長を勤めていて、髪の長さと形を除けば顔立ちも何もかもが今の雨と瓜二つ。ようやく違いが出たのは十年前のことだった。

「十年前にも会長の名前があるけど――」

「この時は書記みたいだね。ほら、中央には別の人がいる。えっと――水沢由希みずさわゆきだって」

「!!」

 瑞樹はその写真を見て、二つの意味で驚いた。一つは雨の姿だった。その姿は、かつて見たことがあり、見間違えるはずのない人物に人物によく似ていた。そしてもう一つ、水沢由希は――

「どうかしたの?」

 見つめていると勘違いした陽子が首を傾げるのを見ながら、瑞樹は陽子の向こう側に浮かぶ白い影に向かって視線を向けた。虚空に浮ぶその少女こそ、手に持つ写真の生徒会長と一致した。

「……一体あなたは誰? 何を伝えたいの?」

「あ、ちょっと、瑞樹ちゃん?」

 少女は寂しそうな目を一瞬瑞樹に向けると、無言のまま視線を窓の外に向けた。瑞樹はそれに合わせて視線を外に向ける――と、そこには見覚えのない古ぼけた校舎の姿が、ぼんやりと浮かび上がって見えた。

「――木造の旧校舎?」

 そう、彼女が言ったような気がした。

「もう、一体どうしちゃったのさ、瑞樹ちゃん。……あ、もしかして何かいたの? どこ? どこ?」

「それならさっきそこに――」

 そう思って指差した所にはもう既に少女の姿はなかった。

「いたけどもういなくなったみたい」

「ええ。見かけたのなら教えてくれても良かったのに~!」

 陽子は悔しそうに地団駄を踏む。

「でも撮ってもそれ、掲載する場所がないわよ? 深夜の学校に忍び込むだけならまだしも、生徒会室に忍び込むなんてのがばれたら大目玉どころじゃすまないだろうし」

「あそっか。……うーん、難しいね」

「ところで陽子、あんなところに校舎なんてあったっけ?」

「校舎? ……あ、ほんとだ。でもあそこって確かグラウンドの一部だったような……あれ、どういうこと? もう頭が一杯だよ」

「……そうね、わたしも少し混乱しているわ」

 ただ、あの校舎についてはここで調べるより図書館やネットを使って調べた方が確実だろうと思った。

「じゃあ、今日はここでお開きにしましょう。……雲も出てきたみたいだし」

 空を見るとあれだけ晴れていた空が今はもう、雲に覆われ始めていて、今すぐにでも曇ってしまいそうだった。

(いくら山間の天気が変わりやすいと言っても、これは――)

 まるで誰かの意思が働いているようにしか思えない。

「わ、確かにあと少しで曇っちゃいそう。早く帰ろうよ、瑞樹ちゃん」

「……ええ。忘れものはないわね?」

「うん」

 取り出した本をできるだけ元に戻すと、完全に曇る前に瑞樹たちは一目散に下駄箱へ向かい、靴を履いて外に出る。

 校門を出るとき、瑞樹は一度だけ校舎の方向を振り返った。そこには確かに二棟の校舎が並び立っているのが見えた。

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