第三話 旧校舎の噂

 一


 ――わたしが求めていたものは、すぐそばにありました。ただ、そこにあったのことに気づかなかっただけで。


 ※


 今日もまた、瑞樹は夢を見た。それは懐かしく、そして楽しかった日々のこと。

 あの人と出会ってから、さよならも言わずに消えてしまうまでの出来事。

 走馬灯とはこういう感じなのだろうかと思ったが、瑞樹には今のところ死にそうな目にあうつもりも予定もなかった。

 そのうちの一つは、今まで一度も忘れたことがない、大切な約束をした日のこと。


 その日、彼女は珍しく落ち込んでいた。

「どうしたの? だれかにいじめられたの?」

「ああ、瑞樹さん、ごきげんよう。……いいえ、そういう訳ではありませんよ。ただ、私の知り合いが落ち込んでいて、ちょっと」

「……それって、由希って人のこと?」

 由希という人物については彼女の口から何度も聞かされていた。それが彼女の想い人であることは直接そうだと言われたわけではなかったが、その人のことを話す雨の表情を見るだけで、どういう存在なのかは子供でも――いや、彼女を好きであるからこそ、理解できてしまった。

「そうです。……瑞樹さんには隠し事はできませんね」

 彼女はそう言うと力なく笑う。瑞樹には彼女のその姿が痛々しくて、見ていることができなかった。

「今の雨、嫌い。もっとちゃんとして?」

「ふふ、確かに普段の私らしくはありませんね。……でも、少しだけ聞いてもらえますか?」

 彼女の懇願に、瑞樹は頷く。

「口で言ってしまうのはおこがましいのですけど、わたしはずいぶん彼女のために尽くしてきたつもりなのです。……でも彼女にとって、わたしはその他大勢と変わらなかった。相談すら、してもらえなかった。それが辛いのです」

「……よくわからないけど、あなたはその人のたった一人でないのが悲しいのね」

 言いながら、瑞樹もまた胸を突かれたような気持ちになる。

「そう……かも、いえ、そうなのでしょうね、きっと。あなたは不思議な子ですね、瑞樹さん。……まるでわたしの心がわかるみたい」

「だって、わたしは――あなたのことが好きだから」

 こうして好きと伝えたのは何度目だろう。その度に彼女は微笑と共に「ありがとう」という言葉で誤魔化してしまう。

(どうして伝わらないのだろう、こんなに想っているのに)

 今にして思えば、彼女もまたきっと同じ気持ちだったのだろう。結局は互いに自分のことしか考えていなかった。

「でもね、瑞樹さん。きっとその気持ちは今一時だけのもの。わたしだって、あの人をずっと好きでいられる自信がない。だって恋はそういうものだから」

「ちがうよ、絶対そんなことない!」

 否定的な言葉に、思わず瑞樹は叫んでいた。

「わたしはわすれないよ、ぜったいに。だって、だってそうじゃなきゃ」

 この気持ちは、そしてこの熱は黒い靄になって無くなってしまうではないか。今の気持ちをそんな風に消してしまうのは、嫌だ。

「……わかったわ」

 いつしか瑞樹は瞳からぽろぽろと涙をこぼしていた。それを見た彼女はそっと抱きとめてくれ、そして泣き止むまで頭を撫でてくれた。

「絶対に忘れない?」

「……もちろん!」

「わかった、それじゃあ賭けをしましょう。もし十年たってもまだ瑞樹が今の気持ちを覚えていてたらつき合ってあげる。でも、もし忘れてたら――」

「たら?」

「あそこの喫茶店でジャンボパフェを奢ってもらう!」

「そんなことしたらおさいふが空になっちゃうよ……」

 その当時のお小遣いではパフェを食べるなど半年に一回がいいところ。ジャンボパフェなど食べたら、一年は買い物を我慢しなければならない。

「そうそう、忘れたら大変よ? ……だから忘れないでね、わたしのことを――」

 そう言って彼女は優しく微笑みを浮かべる。それが彼女の笑顔を見た最後になった。


 目覚まし時計が鳴り、瑞樹は現実に引き戻された。瑞樹は白濁した意識のままそれを止め、大きく伸びをした。

 学校へ行く仕度は昨日のうちに済ませてあった。後は着替えと食事を済ませるだけ。

 朝食は簡単にトーストで済ませると、「行ってきます」と告げ、瑞樹は我が家を飛び出した。


 ※


 今日は放課後になるまで何事もなかった。陽子は部長への報告をしているのか教室にいる姿を見かけることがなく、雨もまたは生徒会の用事があるのか教室を空けがちにしていた。そして瑞樹も、たまたま移動教室が多く、昼休みは調べ物をしていたため、生徒会室を訪れることができずにいた。

 そのチャンスは放課後になってようやくやってきた。瑞樹は待ちに待ったHRの終わりを待たずして教室を飛び出していた。目指すは一路、生徒会室へと向かう。

 生徒会室の扉を叩こうとした時、その向こうから言い争うような声が聞こえてきて、瑞樹は思わずその手を止めた。耳を澄ませると、扉の隙間から漏れてくる声を聞き取ることができた。

「ですから、あなたには何もお話することはありません」

「……だから、これが証拠だと何度言ったら」

 一人の優しく澄んだその声は雨のものだとすぐにわかった。そしてもう一人の声にも聞き覚えがある。

 瑞樹はそっと扉を開けて中の様子を覗く。もう一人は水澤だった。何やら書類のようなものをちらつかせて雨を説得しようとしているようだったが、雨は全く取り合う気配がないように見えた。

「そう思うのでしたら、どこへなりと持って行かれたら良いではありませんか。繰り返しになりますが、あなたにお話する気はありません」

「なぜだ! あいつには言えて、僕には言えない」

 直感的に、あいつとは自分のことだと理解した。しかし、昨日のことは部長に話した覚えはない。もっとも、雨から聞いたことを他人に話す気は元よりなかったが。

「……あいつ、とはわたしのことかしら」

 思わず瑞樹は扉を開けていた。勢いよく開かれた扉に驚いく水澤を一瞥する。雨は困ったような、喜んでいるような複雑な表情でこちらを見つめていた。

「盗み聞きとはスマートじゃないね、砂山くん」

「……あなたに言われたくないわね。昨日いた、もう一人のネズミさん」

 あの時確かに陽子は一人だったが、他に人がいたとしても不思議ではない。それだけの時間はあったし、隠れるドアの隙間もあった。

「はっ、一体何を証拠に――」

「陽子に聞けばわかるわよ? あの子、わたしには素直だから……まあ、そんなことはどうでもいいんだけど」

 瑞樹は水澤を飛び越えて、雨をじっと見つめる。

「私に、何か御用ですか?」

「ええ。できれば二人きりでお話したいのだけど」

「……わかりました。では、今すぐ終わらせます」

 そう言うと、雨は立ち上がると水澤へと向き直った。

「今まで少し曖昧にしていましたが……はっきりと言いましょう。例えどんな証拠を持ってこようとも、あなたに教える真実はありません。お引取り下さい」

「そんな! どんな結果になってもいい。僕は知りたいんだ、彼女のことを――どうか、この通りだ」

 そう言って頭を床につける水澤。だが、雨は普段の彼女が見せることはない、憎しみの篭った瞳で睨みつけ、そして叫んだ。

「一方的な愛情が全てを許容できるなんて思わないでください!」

 怒気を孕んだその声が生徒会室の空気を、そして瑞樹をも震わせた。水澤は顔を挙げ、雨の怒りの理由がわからずに呆然としている。

「誰にだって知られたくないことはあるんです……それこそ墓にまで持っていかねばならないようなことが。それをどうして私が、赤の他人であるあなたに話さなければならないのですか。どうしても聞きたいのなら、本当の当事者にお聞きなさい!」

「だが、俺はそれでも、っ……」

 水澤は何かを言いかけ、そして唇を噛み締めた。

「お帰りください、水澤部長。ここはあなたがいていい場所ではありません。あなたにはあなたの道がある。決してこちら側とまじわってはいけないのです」

「…………」

 雨に促された水澤はゆっくり立ち上がると、ふらふらとおぼつかない足取りで生徒会室から出て行った。すれ違いざまに見えた顔はまるで生気を失ったような存在のようだった。

「……良かったの? あれで」

 瑞樹は生徒会室へと足を踏み入れると、その扉を後ろ手に閉めた。

「ええ。十全ではありませんけど、ね」

 雨は少し悲しそうに、目を伏せた。

「さで、ではご用件をお聞きしましょうか。昨日の話の続きですか?」

 瑞樹はゆっくりと首を振りながら、雨の座る机の前まで歩み寄る。

「いいえ違うわ。それも興味がないといえば嘘にはなるけど――」

「それでは部費の申請? それとも……もしかして愛の告白かしら?」

「あなたそれじゃ思考があの部長と同じよ? まあ、確かに二人きりでなければならないシチュエーションでしょうけど」

「あら、最近は公然と人前で告白をするお話もありますよ。今度、お貸ししましょうか?」

「……あのね」

 呆れる瑞樹を見て雨は小さく肩を震わせた。

「失礼しました。でも、たまにはこんなのもいいでしょう、新鮮で。さてでは改めて……何の御用でしょうか」

 誰かを射竦めるようなあの視線が瑞樹を捕らえる。だが、瑞樹はそれに萎縮することなく、一歩前へ踏み込む。

「色々と聞きたいことはあるのよね。例えんば十年前から生徒会に写り続けている人物のこと、とか」

「……アルバムを見たんですね」

「ええ。あとは旧校舎のこと。記録上、十年前に取り壊されたはずの旧校舎がどうしてそこに見えるのか」

 瑞樹は窓の外を指差す。今は、はっきりと赤い屋根の木造校舎がそこに見ることができる。今朝図書館に行って調べたところ、学校史では確かに十年前に旧校舎を取り壊した胸が記載されていたにも関わらず。

「……いいえ、あの校舎は取り壊されてなどいません。ただ誰にも認識されなくなってしまっているだけ。ある理由によって」

「なるほど。……でもね、そんなことはやっぱりどうでもよくてね」

「え?」

 雨は目を大きく開いて、瑞樹の顔を見た。

「私が知りたいのはただ一つ。あなたが私の知っている人物なのかどうか、ただそれだけ。……ここ二日ね、夢を見たわ。それはとても懐かしくて、私にとっては大切な思い出」

 今でこそ誰もが憧れる黒くて長い髪。だが、十年前の写真に写っていた彼女のそれはせいぜい肩までしかないショート。……そしてそれは、瑞樹の記憶の中にある『あの人』の姿と同じ。

「わたしが知っている人にもあなたと同じ名前の人がいてね――だから教えて。あなたはわたしを助けてくれた『雨』なのか、そうでもないのか」

 瑞樹は真っ直ぐに雨を見据え、雨はその視線から表情を隠すようにして瑞樹に背を向けた。そして、呟くように口を開いた。

「……少し、昔話をしましょうか」


 二


 ――いつも思うんです、私は見る目がないって。それも大体、失ってからその大切さに気がつくんです。


 ※


 昔々、ある所に一人の少女がいました。少女は両親の過不足無い愛情を受け、すくすくと育ちました。

 もちろん少女に不満はありませんでした。ですが、与えられることに慣れすぎて幸せがどういうものかわからなくなっていました。

 やがで彼女は高校生になったとき、ある人に出会いました。その人はとても素敵な人で、与えられるだけでなく、与えることができる人でした。自分もその人のようになれば幸せになるのではないか、そしていつしかその人のようになりたいと思うようになりました。

 彼女はそれから努力しました。困っている人がいれば手を貸し、他人の嫌なことを率先して引き受けるようになりました。時には子供を助けてみたこともありました。ですが、そうしたところで彼女はやはり幸せを得ることはできませんでした。ただ唯一『憧れの人』の笑顔を見たときに、胸の奥がほっこりと温かくなるのを感じるぐらい。それを恋だと気づいたのは、『憧れの人』が暗い顔ばかりするようになってからでした。

 ある日を境に変わってしまった『憧れの人』にどうにか笑顔を取り戻して欲しいと彼女は色々なことをしました。買い物に誘ったり、甘いものを食べに行ったり、時には自分の家に招いてみたり。一通りのことは試してみましたが、『憧れの人』は決まって辛そうな笑みを浮かべて、「ありがとう」と言うだけでした。

 どうすれば彼女のことを救えるのか、彼女にはわかりませんでした。もし『憧れの人』がまたあの笑顔を見せてくれるのなら、どんなことをされてもいい。そう思っていました。

 そうして思い悩む日が続いたある日のこと、『憧れの人』は彼女に言いました。『面白そうなおまじないがあるんだけど、試してみない?』と。


 ※


「それが……儀式?」

「これはあくまで御伽噺おとぎばなし。どう思うかはあなた次第。ですが、あなたが見たとおり、私が十年前からここにいること、それは事実です」

「なるほど、ね」

 瑞樹はゆっくりと頷く。

「それで、あなたはなれたのかしら?」

「なれた、とは?」

「彼女にとっての『たった一人の人』に」

「…………」

 雨はゆっくりと振り返った。

「いいえ。それどころか、あれから一度も会っていません」

「そう。……実は、ここ二日、彼女を見たわ。……彼女はとてもあなたのことを心配していた。そして、今も同じ」

 少し視線をはずすと、生徒会質の隅で由希が雨を見つめているのが見える。

「いるのですか、ここに!? ……どこ、どこに!」

 取り乱す雨を見て瑞樹は複雑な表情を見せた。

「すぐそこに。……今のあなたは、自分の中に閉じこもっているだけよ。本当に彼女はあなたの傍にいるのに、見ようとしていないだけ。彼女が彼女が死んだのだという現実から目を逸らしているだけ」

「そんなことは――」

「わたしもそうだった。誰からも助けてもらえず、また頼ろうともせず、自分の中に閉じこもっていた。そのくせ隙間から見える外の景色には憧れて、それが自分のものにならないと悪態をついていた」

 それが小学一年生のころの自分。そうして現実から逃げ、本に逃避していたあの頃。だが、本当は自分から立ち向かうべきだったのだ。誰かが助けに来てくれる前に、自分の手で、自分を守る場所を勝ち取るべきだった。犬に襲われ、立ち向かったときのように。

「でも、閉じこもっていた私の殻を破ってくれた人がいた。その人にとっては気まぐれだったのかもしれないけど、わたしにとっては大きな出来事だった。わたしに殻の外を教えてくれた。わたしに人との交わりの大切さを教えてくれた。そして人を好きになることを教えてくれた」

「…………」

「あなたのことよ、水無月さん。いえ……雨」

「……思い出したのですか? それとも――」

「わたしは忘れたことなど一度もなかったわ。ただ、あなたが同じ人物だと気づくのに遅れてしまっただけ。髪形も変わって、そしてこんなに綺麗になっているとは思わなかったから。気づいたのはアルバムを見たからよ」

 アルバムに載っていた、十年前の生徒会結成時の記念写真。そこに載っていた水無月雨という人物こそ、瑞樹を殻の中から連れ出してくれたその人だった。

「私は――正直に言えば、忘れていました。あるとき生徒会のメンバーからあなたの噂――見えない物が見える生徒がいるという噂を聞き、それで思い出しました」

「……生徒会にまでそんな話が行ってるなんて一体誰が漏らしたのやら」

 ふぅ、と一つ息を吐く。この分ではかなりの人間が瑞樹であるとは知らないまでも噂を知っているのだろうか。例えそうだとしても、そのことが今更いじめに繋がるとは思えないし、それ自体は特に怖くない。

「――まあでも、あなたに思い出してもらえたのなら怪我の功名かしらね」

「そう、思いますか?」

「ええ。……あなたが綺麗になったように、わたしも強くなったの。少なくともこれぐらいのことは前向きに考えられるようにはね」

 そう言って瑞樹はウィンクをしてみせた。

「……変わっていますね、いえむしろ、変わっていませんね」

「ええ。もちろんいいことだけじゃないわ。相変わらず人付き合いは苦手だし、本は手放せないし……」

「口は悪いし、強引だし――」

「そんな風に思われてたの? わたし」

 腰に手を当て、心外だというように目を細める。

「ふふ、冗談ですよ。……半分ぐらいは」

「もういいわ。でも、それ以上に変わっていないのは――あなたへの気持ち」

 真剣な眼差しで、瑞樹は雨を見つめる。

「ねえ、約束のこと覚えている?」

「――覚えています」

「十年経ってもまだ気持ちを覚えていたら、付き合ってくれるって」

「ええ」

「わたしの気持ちは十年前と変わっていない。証明する方法なんてないけど――わたしは、あなたが」

 心の中を見せられるのならば見せてやりたかった。

「……それで、あなたの気持ちはどうなの?」

「私の――ですか」

「付き合うからには、約束だからとか賭けだからとか、そういう理由じゃ嫌。だから私はあなたが嫌だというなら諦めるわ」

「…………」

「だから選んで、雨。今じゃなくてもいい、わたしと行くか、それとも――」

 雨が言おうとしたそのとき、瑞樹の持っていた携帯電話がけたたましい音を立てた。

「……どうぞ」

 雨に促され、瑞樹は電話に出る。考える時間がほしかったのか、雨は少しほっとしたような顔をしていた。

「もしもし」

「み、瑞樹ちゃん?」

 電話から聞こえてきた陽子のこえはやけに切羽詰った様子だった。

「どうかしたの?」

「な、なんか部長の様子がおかしくて、急に来たと思ったら部室を荒らし始めて――うわっ。部長! 一体どうしちゃったんですか。えっ、や、やめてくださいこっちに来ないで――きゃあぁぁぁぁ」

「ちょっと陽子、何があったの? 陽子……陽子!」

 叫び声は何かの壊れる音と共にぷつりと途絶え、通話が切れたことを示すトーンのみがスピーカから響く。掛けなおしてみたがやはり繋がらず、留守番電話へと変わってしまう。

「……何かあったんですね?」

 瑞樹の様子を見て全てを察したのか、雨が真剣な顔で瑞樹の肩を叩く。

「陽子が襲われたみたいなの。相手は――たぶん、あの水澤って部長」

 そう告げると、瑞樹は雨に背を向ける。

「待ってください。どこへ行こうと思っているのですか」

「どこって――新聞部の部室、だけど」

 雨は首を振る。

「そこに行ってももう無駄でしょう。……彼はもう別の場所に移動しているはずです」

「別の場所? 別の場所ってどこよ、教えて!」

 興奮した瑞樹は雨の襟元を掴み、激しく揺さぶる。

「……行ってどうするのですか? 運動神経が良いわけではない、男子の力に勝てるわけでもない、ただ見えるだけのあなたに何ができるのですか」

 雨の言葉に。思わず瑞樹は揺さぶる腕を止めた。雨の冷たい視線が瑞樹の眼光と交差する。

「たとえ敵わなくても、それでも行くのが友達よ。……お願い、わかっているのなら教えて!」

 懇願する瑞樹を見てしばらく雨は沈黙し、やがて腕を動かし、外の風景を指差した。

「彼が行ったのは旧校舎です。彼はそこで、儀式を行うつもりなのでしょう」

「……どうしてそう断言できるの?」

「七不思議が生まれたのは――そして、そもそもあの儀式が行われたのは、旧校舎だからです。」

「ねえ、瑞樹さん。一つだけお聞きしてもいいかしら?」

「……何かしら?」

「あなたにとって――私は友達? それとも――」

「決まっているじゃない。あなたは十年前からずっと、そして今でもわたしの好きな人よ」

 それを聞いて少し意外そうに、だが満足そうに雨はにっこりと笑った。

「美術室は四階にあります。気をつけて」

「ありがとう」

 瑞樹は頭を下げると、急いで生徒会室を後にした。


 三


 ――それには理由などありませんでした。単なる気紛れに近かったかもしれません。それでも、私は行く必要がありました。


 ※


 旧校舎の入り口に鍵はかかっておらず、あっさりと進入することができた。恐らく水澤が侵入してそのままになっているのだろう。

 その証拠に、廊下に積もる埃には、最近誰かが通ったものと思われる足跡がくっきりと残っていた。

(きっとこれが部長の足跡ね……)

 二人分の重量でくっきりと残ったそれを追って、瑞樹は慎重に廊下を進んでいく。

 七不思議が生まれた場所であることを示すように、そこかしこに強い遺志の塊が見えた。また、その他にもここを住処にしているのだろう精霊の姿が見受けられた。だが今は、それが目的ではない。

(しかし、こんなに視えるなんて――余程のものがここにあるのか、それとも)

 わざわざここで儀式を行うということは、人目につかない意外にも何かしらの理由があるはずだった。霊的に強い場所であるとか、『影』の集まりやすい場所であるとか……。

 いや、きっとどちらも違うと瑞樹は思った。恐らく、ここが彼女が消えた場所だから選ばれたのだろう。であるとするならば彼の目的は『彼女』の召喚、あるいは復活。そんなところだろう。

 いくら人の命をかけた儀式といえど人を呼び寄せたり蘇らせられる力があるとは思えないが、それを信じている人間もいる。例えば、水澤のような。

 幸いなことに、未だ日があるからか『影』の数や大きさはほどんどみえなかった。辛うじて日の光の当たらない日陰に寄り添うように、小さな意識が集まっているのは見ることができた。普段はこうして姿を隠しているのだろうか、そう思うと少しだけ可愛くも見えた。

 足跡は階段の上へ向かっていた。瑞樹が階段に足をかけると、軽く軋みを上げる。二人分の重量で抜けなかったのだから抜けることはなさそうだが、大立ち回りをした場合はどうなるかわからない。瑞樹は慎重に階段を上り、目的の四階へとたどり着いた。

 美術室は階段を出て、廊下の突き当たりにあった。その扉は誰かが開いたのか開け放たれており、足跡はさらにその向こうへと続いていた。

 瑞樹は持ち物を確認する。といっても大した物は持ってきていない。鞄の中に入っていた懐中電灯と理科室からくすねてきたマッチ。そして、同様にくすねてきた一つの小瓶。

(こんなものでどこまでやれるかわからないけど――いえ、やるのよね)

 いざという時に取り出せるよう、小瓶をポケットに突っ込むと、一度だけ軽く頬に手を当て、瑞樹は美術室の中へと足を踏み入れた。


「……やあ、よく来たね」

 そこは美術室とは思えない様相だった。薄らいだその油の匂いは確かに油絵具のそれだったが、その雰囲気は全くの別物だった。カーテンは閉じられ代わりに立てられた蝋燭が部屋の中をうっすらと照らしている。

「陽子はどこ」

「そこだよ」

 水澤は顎で中央の机を示す。そこにはぐったりとした陽子が、両手両足を縛り付けられていた。

「どうして陽子を狙ったの?」

「おや、儀式のことを聞いてないのかい? ……どうでもいいことは話すくせに、肝心なことを秘密にするんだな、彼女は」

「もったいぶってないで教えなさいよ。それとも、そのあなたが嫌う彼女と同じなのかしら、あなたは」

 挑発して時間を稼ぎながら、瑞樹はじりじりと間合い詰める。恐らくチャンスは一度きりしかない。だからこそ、失敗するわけにはいかなかった。

「ふふ、じゃあ親切に教えてあげようか。この儀式に使う生贄はね、自分のことを大切に思ってくれている存在でなければならないんだよ。その点彼女は僕に惚れてくれているようだから、ちょうどいい」

 瑞樹は奥歯を噛み締めた。陽子の想いは、こんな風に利用されるためのものではない。自分を見てもらうためのものであって、ぼろ雑巾のように捨てられるために尽くしてきたのでは断じてない。

「最低ね」

 瑞樹がそう呟くと、水澤は肩をすくめた。

「陽子の気持ちを利用して、あなたは何も思わないの?」

「ああ、まったく思わないね。僕にとって他人というのはただの道具に過ぎないんだよ。……たった一人、彼女を除いてはね」

 瑞樹の怒りなど意に介さず、むしろ愚かだとでもいうように水澤は唇を歪める。

「あんたみたいなのは、自分でも捧げたらどう? きっと、いい生贄になれるわよ」

「お褒めの言葉、ありがとう。けれど、僕にはまだしたいことがあるからね。……さて、もうそろそろ時間だ。稜線に夕日がかるその時に生贄をささげることで『儀式』は完成する。君は大人しくしていてくれればいい。もっとも、動いたところで彼女が死ぬタイミングが速くなるか遅くなるかの差だけだが、ね」

 瑞樹はそっとポケットから小瓶を取り出し、右手でその蓋を開ける。

「……もし、たとえ何をしても未来が変わらなかったとしても――」

「ん?」

「それでも、わたしは諦めない!」

 瑞樹は小瓶の中にマッチを擦って投げ入れると、それを水澤に向けて投げつけた。マッチの火は小瓶の中に入れておいたマッチの頭に燃え移り――そして、部屋の中が閃光に包まれた。

 瑞樹が持ってきたのは、マグネシウムの瓶だった。マグネシウムは燃焼時に激しい光を放つ。遠距離では効果は薄いが、近距離ならばそれなりに有効なはず。とっさの思いつきではあったが、うまく功を奏した。

「くそ、眼が――!」

 水澤は目を押さえ、周囲にナイフを滅茶苦茶に振り回す。水澤に近づくこと自体は危険だが、これで陽子を守る者は誰もいなくなった。

 瑞樹はその隙を見逃さず、ナイフを振り回す水澤の脇を潜り抜け、陽子の下に辿り着いた。

「陽子! 陽子!」

 声をかけ、頬を叩くが目覚める気配はない。ひとまず腕にくくりつけられた紐を解こうと試みる。だが、その結び目はこれまでに見たことも無いものだった。解き方がわからず、また力を込めても解けない。マッチの炎で焼き切るには時間がかかり過ぎる。何か無いだろうか、そう思って立ち上がった瑞樹は違和感を感じた。

(おかしい、水澤の声が聞こえな――)

 突然、瑞樹は頬に強い衝撃を受けて吹き飛ばされた。身体は一瞬浮き上がり、そのまま部屋の隅にまとめてあった机の山に叩きつけられる。一瞬、意識が飛ぶ。後から頬が火で焼かれるように熱を放ち、どこか切れたのか口の中を鉄の匂いが満たした。したたかに打ち付けられた身体はどこも折れてこそいないものの、身体のあちこちが痛み、しばらく動けそうにない。

「まさかそんな手で来るとは少し焦ったけどね、途中で起きられてもいいように、きつく結んであったのが幸いしたようだね」

「く、そっ……」

 瑞樹は思わず唇を噛み締める。

「ま、残念だったね、そこでゆっくり親友が切り裂かれるのを見ているといい。こんな機会、二度とあるかどうかわからないんだからね――はっはっは」

 水澤は勝ち誇ったように高笑いをする。そして、何かに気づいた様子で起き上がることのできない瑞樹にわざと見えるような位置に回りこんだ。恐らく、瑞樹に見せ付けようというのだろう。、瑞樹は

「ふふ、目を逸らしても無駄さ。現実は変わらない。さあ、これで僕は真実を手繰り寄せる――」

「そうですね、真実はいつも一つです。……ですが、それでもやはり、捧げれるのは彼女ではありません」

「何っ!?」

 振り返る間もなく、銀色の輝きがその胸を貫いた。


 四


 ――それは、これまでに見たことがないようなでした。


 ※


 正確にいえば、それは貫通するほどの刃渡りがあるわけではない。しかし、水澤の身体にそれが突き立てられたのは確かな事実だった。

「なん……だと――」

 苦痛に顔を歪めながら、水澤は背後にいる人物を跳ね除けると、後ろを振り向き――そしてその目を、憎しみで満たした。

「お前か、やはりお前なのか、水無月、雨」

「ええ、私です」

 雨は水澤、特にその手に握られたナイフへ鋭い視線を向けながら、一歩後ずさった。その手に持つナイフは、血と脂で鈍い光を放っていた。

「お前は姉さんを殺し、そして僕もまた殺そうというのか」

「いいえ、私には由希さんを殺すことはできませんでした。何故なら、私にとって彼女は一番大切な人でしたから。……あなたにとってのあの人と同じように」

 瑞樹は耳を塞ぎたくなったが、痛みを発する身体は思うように動かなかった。

「ならば、どうして俺を。その理由もないはずだろう」

「いいえ、理由はあります。ですが、例え無かったとしても――友達を助けるのに理由が必要ですか?」

「……くそっ!」

 水澤は最後の力を振り絞り、雨に向かって突進していく。だが、雨はそれを簡単なステップで避けると、その背中に蹴りを叩き込んだ。そしてそこは、雨が刻んだ傷の位置にぴたり一致した。痛みからかくぐもった声と共に水澤は弾き飛ばされ、持っていたナイフが放物線を描いて床に落ちた。

「……水無月、さん?」

「大丈夫ですか、砂山さん。いえ、瑞樹さんと、呼んだ方がいいのかしら?」

「別にどっちでもいいわ。それより手を貸してくれる? ちょっとまだ、身体が痛くて」

「はい」

 差し出された手を取り、何とか瑞樹は立ち上がる。掴んだ手の感触は、かつての『憧れの人』のそれとまったく同じだった。

「つっ……結構派手にやられたわね」

「……顔、ひどい痣になってます。朝霧さんを助けてきます、少しお待ちください」

 雨が瑞樹の手足の紐を解いている間、瑞樹は身体の痛む箇所を一通り確かめてみることにした。身体の痛みは全身から少しずつ痛むだけで、大したことはなさかったし、酷い打撲もないようだった。顔の方は酷く熱を持っているのがよくわかるが、幸いなことに歯は抜けた気配はなかった。

「まったく、女性の顔を殴るなんて男の風上にも置けないやつだったわね」

「……ええ。ですが、それだけ彼も必死だったのでしょう」

「ところで――どうするか、決めたの?」

 雨の手が一瞬動きを止める。どうやら未だに迷っているようだと、瑞樹は判断した。

(脈が無いわけではない、か)

「そのことをお話しする前に、一つ聞いて欲しいことがあります」

「何? いまさら一つや二つ、いくらでも聞くわよ」

「……わかりました。では、お話しましょう。あの時に起こった出来事について」

 瑞樹は頷き、手近な椅子に腰掛けた。


 ※


 あの頃、由希さんは酷く落ち込んでいました。

 何があったかは、教えてもらえませんでした。ただ、彼女の母親が亡くなった時期がその頃だったので、もしかしたらそれが原因かと思っていました。

 ですからその日、由希さんが久しぶりに笑顔を見せたとき、私だけでなく生徒会の皆が安心したのです。自分達では何もしていないにも関わらず、勝手にね。

 そして私はその日のうちに儀式に誘われ――そして、準備が整った時、十年前のあの日、由希さんは私に襲い掛かってきました。このナイフを持って。

 もちろん私は抵抗しました。けど、彼女の瞳を、その瞳に見えた深い絶望を見てしまった瞬間、私は何とも言えなくなって――抵抗を止めました。「姉さまになら――いいですよ」そう言って、私は瞳を閉じました。

 それからしばらく経っても何も起きませんでした。そっと目を開けると、そこにはもうさっきまでの彼女、微笑を浮かべ憑き物が落ちたかのような由希さんがいました。

 由希さんは「ごめんなさい」と頭を下げ、「でも、儀式はもう止められない。だからせめて、あなただけは――」そう言って、あの人はナイフを逆手に構え、自分の胸に突き立てました。


 ※


「そこから先は私も記憶が曖昧でよく覚えていません。ただ、残されたナイフを拾って、自分に襲い掛かる『影』を破壊しただけです」

「なるほどね」

「っと、これで最後の紐ですね。……朝霧さん、大丈夫ですか?」

「う、ううん……あ、あれ、私、どうしてこんな所に?」

 雨が軽くゆすると陽子は目を覚まし、周囲をキョロキョロ見渡す。

「そうだ、部長は?」

 部長、の一言に雨の顔が曇る。

「……その、部長は――」

「ねえ陽子、ちょっと聞きたいんだけど、あなた部長が死ねって言ったら死んだ?」

「え? 流石に死ぬのはやだなぁ。だって、死んだらそこで終わりなんだよ」

「ふうん。じゃあ、あなたが死にそうな時に助けてくる人とそうでない人、どちらが友達?」

「そりゃあ、助けてくれる人でしょ?」

「……なら、そういうことよ。後は自分で察しなさい」

「?」

 陽子は頭の上に疑問符を浮かべていたが――やがて、雨の持っているものを見て、陽子はすべてを理解したようだった。

「そっか。……ありがとう、水無月さん」

「え? あ、……いえ、どういたしまして」

「でも、これで終わりななんだよね?」

「……いいえ、残念ながらそうではありません。朝霧さんが捧げられるという事態は防げましたが――儀式自体は達成されてしまいました」

「どういうこと?」

「考えてもみてください。自分のことを大切に想う存在で一番身近なものとはなんですか?」

「一番身近……そうか」

「え、なになに、どういうこと?」

「儀式に最適な生贄は自分自身、ってことよ。……ほら、あれを見てください」

 部屋の隅に投げ出されていた水澤だったもの、の所に、黒い靄がそこから生命を吸い出すように群がり始めていた。

「……或る意味彼は本望だったのかもしれませんね。彼女と一つになれたのですから。あの中には姉さまの意識も含まれているでしょうからね」

 黒い靄はその密度を徐々に増していった。部屋の入り口から、窓の隙間から、勢いよく入ってくる『影』の勢いで、蝋燭の火が揺らめき、そして消える。慌てて瑞樹は陽光を遮っていたカーテンを開けた、先ほどまで晴れていたはずの天気は、曇天へと変わり始めていた。

「ここにいては危険です。一先ずどこか別の部屋へ行きましょう」

「わかったわ。陽子、あなたは大丈夫?」

「うん。私は薬を嗅がされただけだから……それより、瑞樹ちゃんの方が」

「瑞樹さんは私が背負います。さあ、どうぞ」

「……お言葉に甘えさせてもらうわ」

 瑞樹は背中に体重を預けると、雨はそれを軽々と持ち上げつつ立ち上がる。

「昔も、こんなことがあったような気がするわ。疲れて私が寝てしまったときとか」

「そうですね。でも、流石にあの頃とは体重が――おっと失礼しました」

「それだけ成長したってことよ。……陽子、何してるの、早く行くわよ」

「あ、うん」

 屈み込んで何かをしていた陽子を促し、瑞樹たちは急いで部屋を出た。と同時に、『影』が大きく膨張し、美術室を呑み込んだ。

「間一髪でしたね。さあ、行きましょう。そこの階段を降りて、左手に」

 三人は溢れ出した『影』から逃げるようにして、急いで階段を駆け下りた。

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